姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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M氏の部屋~ある一ファンからのメッセージ~

姫路交響楽団の創立当時から演奏会を聴きにお越しくださる熱心なファンの方がいらっしゃいます。その方(M氏)が2002年の第48回定期演奏会から演奏会をお聴きになった感想を私たちに寄せていただくようになりました。これはあくまでも個人の方の私見ですが、多くの方たちにも是非読んでいただきたく、ご本人の了解の元、ホームページ上で公開する事に致しました。

(第90回定期演奏会)ショスタコーヴィチの心

姫路交響楽団が第90回目の定期公演を迎えて、創立以来指揮をとってきた黒田洋氏とオーケストラがとびきり味わいの深い演奏を聴かせた。これまで様々な趣向でオーケストラの醸し出す想像の世界に遊ばせてくれた末に、ここに来てこんなにも厳しくて人間の運命について考えさせられる二つの作品を手掛けたことは感嘆するほかありません。そのひとつ、ショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲 第1番」は周知のように彼がソビエト共産党による政治的批判を幾度か受けた身でありながらも作曲を続けたうちの一曲です。批判はあらがうことの許されない国家からの宣告であり、党の掲げる社会主義リアリズムとやらに従わない者は逮捕、抹殺された時代の作品です。彼はその度に批判に応えるべく作品を発表しますが、内心では判りもしないくせに、このヤローと党や独裁者スターリンを罵ったことでしょう。そうしますと批判に応えた数々の作品には党への抵抗の言葉が当然隠されたメッセージとして込められている筈であり、言わば党との命をかけた闘いになります。いつ逮捕されるか知れない圧政の下で彼がやむに止まれず作品に込めたメッセージがどのようなものであるか、それを聞き取ることは彼の心を知ることに繋がり、わたしたちの心を豊かにする事でもあります。音楽を聴くとはそういう事であるだろうと私は考えます。

第一楽章冒頭からチェロがはじけます。まるで刃を突きつけて人に挑むようです。その響きはドライで攻撃的、切れ味鋭く一つ一つのフレーズを克明に刻んで、チェロの表情に憑かれたような力強さが生まれます。これをどう受け止めるかは人によりますが、チェロが挑んでいる相手はきっと社会主義リアリズムでありスターリンの暴政であると思いが至れば、それは評価の一つになるでしょう。中間部でファゴットがボコ、ボコ、ボコ、ボコ、ととぼけた音色でチェロに応ずる場面では緊張がほぐれ、ショスタコーヴィチがこれでどうだと党に腹いせをしている図が浮かびます。音楽の仕立てはメロディーやリズム、ハーモニーが尋常ならざる動きで聴く者を迷宮にさそいこむようで予談を許しません。金管は控えめで木管の意識的な響きを弦楽器がからめて、オーケストラがまとまりの良さを見せるとチェロが際立ち、音楽がエネルギッシュな装いをまとって現れたりします。

第三楽章のチェロはクリアかつこまやかな表情で、揺らぐような抒情を弱音でたっぷり歌わせ、この曲冒頭の趣とは違った音楽の密度を生み出します。穏やかで虚飾のない響きを丹念に紡いで音楽の厳しい個性を浮き上がらせると、あらためて彼が党の批判に晒され続けた作曲家であった事を思い出します。

ショスタコーヴィチの不定型な音楽を、これだけリアルに響かせるのは並大抵ではありません。黒田氏とオーケストラが手を抜かず綿密に、それぞれの言い分を繰り返すことで成り立つ演奏に違いなく、決して聴きよいとは言えない曲に取り組んだ全員に感謝を申し上げたい。ショスタコーヴィチの音楽は自分とどんな関係があるか、しみじみ考えさせられました。

休息をはさんで始まったチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、ショスタコーヴィチとは異なる帝政末期ロシアの悲劇を見る思いがします。黒田氏はある時は歓喜をもって、ある時は怒りをこめて悲しみを歌うように、作品に込められたチャイコフスキーの心情を感情に流されることなく凜として捉えます。それがよく現れたのは第四楽章で、冒頭のヴァイオリンが奏でるメロディーの喪失感を、感覚によってしか捉えられない音楽として、音楽のもつ無限の世界に心を遊ばせるように大らかに表現します。壮絶な表情も、パートの少しのバラツキも、ようやく透明な響きが出はじめた弦楽器の柔らかさも、全てをからめて飲み込む器量を示したのです。黒田氏にはこのように音楽を大きく掴みとろうとする意識を見せる一方で、細部を重視する姿勢も見られます。第一楽章の序奏が終わり木管楽器が第二主題のメロディーを歌いだすあたりの感覚は胸にしみいるような郷愁を誘い秀逸、繊細で深い。

第二楽章もまた古き良き時代への思いがほのかに香り、青春の日々を思い起こさせるワルツの何という格好よさ。オーケストラの扱いもうまいものである。

この曲の心理的な、隙の無い巧緻な演奏に聴き慣らされた者には、こうした演奏はむしろ心地よく、別様の面白さを覚えます。

アンコールに「悲愴」のやりきれなさを拭うように「アンダンテ・カンタービレ」をもってきたのは粋な計らいで、余白をたっぷりとった水彩画のように和やかで瑞々しい演奏はこの上ない贈り物だった。

当日は他にモーツァルトの歌劇「魔笛」序曲を永井孝和氏の指揮で聴いた。手堅い演奏でオーケストラもよく響き、この曲の表情をしっかり捉えます。ただ音楽の表情がきまじめで、少々窮屈であり、のびやかさが足りなかった。大人のおとぎ話なので自分のやりたいことをもう少し主張してもよかったのではと思われます。
(2023年12月8日)

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