姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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M氏の部屋~ある一ファンからのメッセージ~

姫路交響楽団の創立当時から演奏会を聴きにお越しくださる熱心なファンの方がいらっしゃいます。その方(M氏)が2002年の第48回定期演奏会から演奏会をお聴きになった感想を私たちに寄せていただくようになりました。これはあくまでも個人の方の私見ですが、多くの方たちにも是非読んでいただきたく、ご本人の了解の元、ホームページ上で公開する事に致しました。

目次

    

(第85回定期演奏会)レガートの音楽

新型コロナウィルスに翻弄されながら、ようやく開催された姫路交響楽団第85回定期演奏会を聴いた。グリーグの「ペールギュント」組曲第1番とピアノ協奏曲、それにシベリウスの交響詩「フィンランディア」と交響曲第5番の四曲です。今回はことさらに心血を注いだであろうシベリウスの第5番についてのみ記しておきます。

この曲には美しいメロディーや人の気を引く目立った動きがなく装飾的な要素も稀薄で単調、掴みどころがありません。しかし演奏が始まると一転、冒頭の導入部で管楽器が全体像を予感させるような表情を響かせると、瞬時に心をうばわれました。その表情には透明に凝(こご)った静かさがあり、木管がささやくような音色で堅い静まりをほぐしていく過程には爽やかな情感が漂って、短い導入部でこれほどのきっぱりした表現がなされることに驚きを覚えました。黒田氏はオーケストラを徹底して抑制し、楽器個々の単調な響きを束ね辛抱づよく微妙なニュアンスのある表情を導きだし、あっさりしたようでいて手の込んだ繊細な味をだします。そこに作意は感じられず曲の流れが自然で、オーケストラがスコアの要求に堪え得る表現力を身につけていることを示しました。

やがて演奏から少しずつ見えてきた曲の本質は、シベリウスが自らの日常を飾らぬ言葉で綴った自身の心そのものにあるのではないかと思えることです。その言葉は常にささやきでありドラマチックな表情は見られません。シベリウスの意図が何であれ終楽章の演奏からふつふつとあらわれ出たのは、人間賛歌と思しき生きるよろこびの声です。言いたいことを叫ばずに穏やかにささやき続けることで却って強い現実感が生まれ、音楽の姿となって現れた賛歌であると受けとりました。シベリウスの思いを丹念に繕い熟成させた演奏は黒田氏とオーケストラによる見事な合作で、しみじみと胸に迫る優しさがありました。

それにつけてもこの曲はおよそ起伏に欠けていて、微妙なニュアンスがそのまま音楽になってしまい、繊細なニュアンスを聴く者が能動的に受け入れなければ、一切の誇張を避けたかのようなシベリウスのささやきは素直には聴けないでしょう。しかしニュアンスの微妙さ、響きの微妙な繊細さに慣れてしまえばきっと楽しみの多い音楽になるはずです。

余談ながら、この作品には日本人の和歌に親しむ心に似たゆとりが感じられます。和歌は叙景と叙心から成りたち景色あるいは心を歌う詩歌でありますから、吟唱して微妙な人の心を推し測ることは日本人がながく慣れ親しんできた習(ならい)であり、その感覚は明らかにレガートなものです。シベリウスの意図や心もまたこれに近い微妙なニュアンスを含むものであることを考慮するなら、日本人が昔からシベリウスの音楽を好んできた理由の一端が見えてくるようです。それは決して西洋の叙事詩が有するスタッカートな感覚ではありません。

今あらためて当日の演奏を思い返してみますと、音楽を聴くとは演奏の記憶をたぐり寄せながらとりとめのない想いに耽(ふけ)るうちに忘れがたい感動がよみがえり、ああこれがシベリウスだと夢幻の境に遊び浸る、そういうことであろうと考えています。姫路文化センター大ホールでの最後を飾るにふさわしい一聴三嘆の名演奏でした。ただ仲間ほめと思われるのは心外なので一言付け加えておきますと、管楽器の弱音がもう少し美しい響きだったなら、凄みのあるより毅然とした演奏になっただろうと述べておきます。

新しいホールでの再演を待ちたい。(2021年4月30日)

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