姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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M氏の部屋~ある一ファンからのメッセージ~

姫路交響楽団の創立当時から演奏会を聴きにお越しくださる熱心なファンの方がいらっしゃいます。その方(M氏)が2002年の第48回定期演奏会から演奏会をお聴きになった感想を私たちに寄せていただくようになりました。これはあくまでも個人の方の私見ですが、多くの方たちにも是非読んでいただきたく、ご本人の了解の元、ホームページ上で公開する事に致しました。

(第94回定期演奏会)ブラームスと紫煙の香り

 姫路交響楽団第94回定期公演で、心そそられる演奏に出会った。ブラームスの交響曲第3番である。他にもう二曲、同じブラームスの「悲劇的序曲」とリストの交響詩「レ・プレリュード」。

 まず「悲劇的序曲」は、この曲らしいきっぱりとして思いを込めた劇的な力が、思わずベートーヴェンの序曲「コリオラン」を想起させる演奏で面白く聴いた。普段あまり聴くことのない、なじみの薄い曲ですが、まぎれもなくブラームスの残した管弦楽曲の名作です。悲劇的な情感の盛り込まれる様が威厳にみちて、流石にこれはうまく捉えきれていなかったのですが、一方でこの曲には序曲「コリオラン」のような力強さがあります。指揮の永井孝和氏はオーケストラの持ち味を充分に引き出して、こうした作品の一面を思い切りよく捉えた、そのような演奏だった。願わくは、この作品に盛り込まれたかしゃくのない闘争的な激情と悲劇的な情感といった、非常に難しい側面を捉えて欲しかったのだけれど、その対策は氏とオーケストラの楽員たちの間の、今後の課題であるでしょう。

 次に交響詩「レ・プレリュード」は宮本貴太氏の指揮で、リストらしい情感豊かな音楽の表情をしっかり捉えた演奏を聴かせた。回を重ねるごとに、宮本氏の指揮ぶりにも落ち着きと柔軟さが見られるようになってきた。人が持っているいろんな感情のオンパレードのようなこの曲に、宮本氏は丁寧な音楽づくりで臨んだが表情をもっと大胆に強調しても良かったのではないかと思われる。それが振幅の大きなロマン派音楽の魅力の一つであってみれば、バカ騒ぎもまた楽しからずやであります。ためらうことはない、やればいいのです。それも若いうちに。

 ひとつ欲を言えば、オーケストラにもう少しすっきりした軽やかな響きがほしかった。そうすれば反って劇的な表情がより鮮やかに、あるいは細やかになって、余裕のあるしっくりした演奏になったことだろう。いずれにしろ、若々しい余韻の残る演奏だった。

 交響曲第3番が匂わせる、ゆったりとした気分はどこから来るのだろう。ブラームスの懐の深い心の内を黒田氏は敬意を持ってきっちり捉えていく。オーケストラの緻密な演奏はいつものことながら、まず弦楽器と管楽器の融合した天国的な響きで私たちを魅了する。とりわけ第二楽章で人間心理の微妙さを織り込むように、人生の気配をあらわにする木管楽器の扱いが冴えている。音楽の表情を精確に捉えた情のこもった表現にはただただうっとりするのみ。知と情でもって彫琢され尽くしたこの作品に、近代的な意識の変容が見られるのは当然であり、演奏は、と言ってもオーケストラは決して難解な音楽としてではなく、あくまで知的にして清々しさを含んだ作品としての核心を衝いてゆく。第三楽章で演奏の放つ力には心が躍った。その力は黒田氏がオーケストラと共に育んだものであるが、それは演奏された作品が元から持っている力にほかならない。それを黒田氏が引き出して私たちに聴かせてくれたものなのである。黒田氏の作品に寄せる深い愛情がしのばれる演奏だった。

 その音楽には足りないものは何もなく、余計なものもない。唯、足るを知る者が作った十全な作品なのである。であればこそ自分をごまかさず、余分なものを持たない健全な生き方の中にこそ、ゆったりとした居心地の良い生活はあるのではないか、という、これは寓意ではあるまいか。人生とは、音楽とは何かと真面目に考える人たちには演奏を通してブラームスからのメッセージは彼らの心にしっかり届いたことだろう。

 私は一見地味な作風ながら、ブラームスの音楽が匂わせる粋さが好きだ。わけても四つの交響曲は私にとってかけがえのない作品になっている。それは深い奥行きを持った芸術が大抵そうであるように、いろんな異なる容貌をもつ何かであって、その奥にある素顔を覗いてみたいと長年思い続けてきた。その結果は、さてブラームスの音楽は聴いた後に、紫煙の香りが快い余韻として残ると言えば奇異に思われるであろうか。もちろんこれは自分の耳だけに聴こえる音楽の世界、耳に残る響きの感触によって引き起こされたことであり、実際の音や香りのなせる業ではない。ブラームスの音楽には、その音楽とは異質な感情を刺激して喚起させる何ものかが存在するということである。このような状況は音楽に限らず、日常誰にも起こりうることで、これは実はブラームス自身のフィーリングが成したことに他ありません。言い換えると、私たちは作品を通して彼の心の内を覗いていることになるのです。

 以上、ここは私事を書く場ではないのですが、音楽は耳だけで捉えるものにあらずと、どうしても述べておきたかったのです。ご容赦下さい。

 お楽しみのアンコールはこれもブラームスで、「ハンガリー舞曲第6番」。オーケストラがたとえ曲は短くとも中身はたっぷりだぞ、と言わんばかりの華やかなよそおいで、この舞曲のエッセンスを鮮やかにすくいとった。テンポ、リズム、デュナーミクの働きがつぼにはまった出来映えで、表情の動き、変化するさまが面白かった。たっぷり仕込んだブラームス好みの風味が絶妙だった。
(2025年12月12日)

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