姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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(第50回定期演奏会)ゆっくり歩こう

姫路交響楽団が50回目の定期を迎えてブルックナ-を取り上げたのはひとつのイベントだったと申してよく、第7、8や9番と並んで世評の高い第4番を選んだのは賢明でした。

人は未知の作品に遭遇すると、それが何処からやって来たのか、そして何ものであるかを探ろうとします。その行為は分野を問わず原則となります。ブルックナ-ではそれが教会のオルガンでありワグナ-の存在であることは自明です。敬虔なカトリック教徒で、大聖堂のオルガニストでもあった彼は単調な祈りの世界の住人です。そこに神の怒りや啓示を加えれば彼の信仰は様式として成立し、それはそのまま彼の交響曲の様式となります。彼の様式は単純です。その音楽はお祈りのように静かに始まりゆったり流れてゆきます。すると、いきなりオ-ケストラは壮麗なユニゾンで響きを爆発させ、それがしばらく続いてやむと、突然ティンパニ-が強打され、その後は静かなお祈りのような音楽が流れて、そうして突然またしても壮麗なユニゾンがあってという具合に同じことの繰り返しが延々と続けられます。彼の音楽は始まってしまえば終りがないかのようです。何故このような様式でなければならないのかを理解するのは困難でも不可能ではないでしょう。突然のユニゾンによるオルガンのような咆哮やティンパニ-の強打は、神による罪深き者達への一喝なのであり、神の高みにまで達しようとする彼の意志の表れであると考えられます。換言すれば水墨画を極彩色の油絵具で描いたようなもので、モノクロ-ムの静かな祈りの空間に壮麗なオ-ケストラのユニゾンが鳴り響くのです。そのように彼の音楽を聴いてゆけば彼の音楽を理解するのにカトリック教徒である必要はないでしょう。結論をいそがず、彼の音楽に耳を傾けながら、ゆっくり共に歩めばよいのです。

当日の演奏はこのような解釈を確認するのに恰好のものでした。管楽器、弦楽器ともにかつてこれほど熱っぽく聴衆を驚かせ楽しませてくれたことがあったでしょうか。ユニゾンで金管の一部の音が割れたり、所々で音程をはずすことがあっても、静かな祈りから壮麗な響きまでを多彩に表現し聴かせてくれたオ-ケストラに多くの聴衆が共感を覚えたことでありましょう。弦の響きにいま少しの豊かさがあれば、祈りの音楽もより静寂感を増したであろうと惜しまれます。このような演奏に接すると、様々なリスクを背負いつつ与えられた条件で最善を尽くそうとする指揮者の苦労がしのばれます。

プログラムは他にシュ-ベルトの交響曲第5番のみでしたが、無駄のない清潔な演奏で、殊に第2楽章の出来がよくて、第9番に通じるような天国的なしなやかさが秀逸でした。こういう演奏でシュ-ベルトの他の交響曲も聴きたいものです。感謝。(2003年12月6日)

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