姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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(第70回定期演奏会)新境地の到来

ここ数年、奏者の世代交代が進んで弦が充実してきたのに伴い、次々と完成度の高い演奏を発表し続けている、姫路交響楽団の第70回定期演奏会を聴いた。

最初に演奏されたニコライの歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲は、ようやく若い指揮者とオーケストラとのコミュニケーションが、うまく図られるようになりつつあることを思わせる演奏で、音楽の流れが伸びやかになった。これまでよりも落ちついた指揮ぶりでオーケストラに寄り添う指揮者を、奏者がもり立てようとする姿勢が随所で見られ好感。ただ、音楽の表情を無理にまとめようとせず、大まかであっても感情表現にもっとメリハリを付け加えておれば、より説得力のある楽しい音楽に仕上がったことでしょう。

当日のプログラムは続いてドビュッシーの「小組曲」とショスタコーヴィチの「交響曲第5番」。さて、およそ音楽の言語体系が異なるこの両者の作品を並べると如何なる結果になるか、期待と不安の入り交じる異例の演奏会となりました。

まず、ドビュッシーの「小組曲」が湛える不思議なくつろぎの魅力を、どうすればうまく伝えられるのだろう。この作品はごく自然に音楽が登場し、気がつけば終わっている、行き先の決められていない旅に身を預けているような、絶妙な心地よさを孕んでいます。指揮の黒田氏は一音一音を紡いではそっと置いてゆくような、慎みのある音の扱いに徹して感情の高ぶりは厳しく抑制し、こけおどしや深刻ぶったてらいのない、明晰で静謐な音を紡ぎつつ、控えめな音を繋いでゆきます。このようにして氏は後味のよい詩的なゆったり感をもたらしたのです。まことに理に適った手際と言うべきで見事でした。こうした音楽はただ黙って演奏に身を委ねればよいのでありましょう。やがて旅はディミヌエンドしながら退場してゆくのですから。確かな手応えを感じとれる真摯な演奏でした。

いやしくも芸術家がその作品について国家体制から政治的批判を受けると、どのように対処するのか、ショスタコーヴィチの「交響曲 第5番」にはそのプロセスがぎっちり詰まっています。悲劇的な冒頭から厳しい緊張感が全楽章を支配し、聴く者を捕えて激しく揺さぶる。そして変えようとする。まさに第5番は力であります。

第1楽章は出だしでバランスを少し崩したようでしたが、弦楽合奏の迫力は相当なものです。弦が高く低く交互に激しく奏でる鋭角的な主題の提示部は、パワーと水準の高さでオーケストラの成長ぶりを示しました。クールで金属的な緊張感をとぎれずに持続させたのは弦と金管、木管による精度の高いアンサンブルによるでしょう。コーダでのフルートのソロにのって再現された第2主題がクラリネット、オーボエ、ファゴットの間で受けわたされるあたりの木管の美しさはとりわけ秀逸。この楽章はたとえドラマチックな動きと内容が込められているにしろ、本質は抒情でしょう。表面の激しさに惑わされず、しっとりした普遍のメッセージを黒田氏は示してくれました。

第2楽章は音楽を作りあげる喜びにあふれた演奏で、何より弦の表現が多彩。リズムを重く刻むコントラバスの存在感、それに呼応するかのようなバイオリン独奏のユーモラスでとぼけた味わい、そして張りのあるピチカートの表情づけは明快で、感覚的な遊びを感じました。これには一瞬違和感を覚えたのですが、この楽章が舞曲形式で書かれているとは言え、非常にシリアスな内容であることを思えば、自然な成り行きであったと申すべきか。しかし、次の楽章へのつなぎとして捉えると、第1楽章からの流れに添う演奏であることは明らかで、氏のゆるぎない解釈に納得。第3楽章のラルゴには、ショスタコーヴィチが第5番でどうしても書きたかった思いのたけが込められています。指揮者とオーケストラは、この深く厳しい音楽に正面から向き合って、様々なメッセージをすくいあげ印象深く聴かせました。そのひとつ、フルートは無理のない美しい音色で音楽に安定感を与え、ハープとのデュエットで奏でたメランコリックな旋律は、柔らかな音色で感動を呼んだことでしょう。クラリネットが深い味わいを聴かせてオーケストラに厚みを加え、オーボエとファゴットの水準も上がり、深々とした演奏に欠かせない安定した要素が礎となり固まってきたように思われます。

第4楽章が始まるや否や、巨大な固まりがググッと動き出した。これまでになく重量感と厚みを増したオーケストラの響きが底から浚うように音楽をつき動かしたせいでしょう。こうした表現はこれまで、このオーケストラには無かったことなので驚いた。弦楽器の充実ぶりは申すに及ばず、木管の自在な表情、殊にクラリネットの豊かな表情には快感すらおぼえたものです。金管がバランスのよい響きで、クライマックスごとにムラのない表現で聴かせたのも印象的。そうした中にあって、くさびのように打ちこまれるシロホンの響きに緊張感はあるものの、力感が不足していたのは使用した楽器によるものであったのでしょうか。シロホンがこの曲における響きのキーストーンであるならば、もっと強調してもよかったと思われます。

豊かな響きと精度の高いアンサンブルでもって、表現の多様性を示して見せた今回の定期は、新境地へ一歩踏み込んだことを実感させて、忘れがたいものとなりました。

アンコールはプロコフィエフのバレエ「ロミオとジュリエット」より“モンタギュー家とキャピュレット家”。本来なら、これを聴かずにショスタコーヴィチの感動を胸に会場を後にしたかったのですが、やはり聴いてよかったと思う演奏でした。(2013年12月7日)

(第69回定期演奏会)きげんのいい男のひとり言

第69回定期演奏会を聴いた。グリーグの組曲「ペール・ギュント」を挟んで、シベリウスの交響詩「フィンランディア」と「交響曲第2番」の3曲。

最近の充実ぶりから予想はしていたが、思わず襟を正したのが「フィンランディア」で、冒頭での管楽器がわずかに不揃いだったのを除けば、黒田氏は無理のない棒さばきで管をたっぷり歌わせます。それを弦楽器がしっかりサポートするので、作品のダイナミックな味わいを損なうことがありません。細部をいじらず大まかなようでありながら、紡ぎだす響きは若々しく表情が豊かです。音がそこかしこから自然にわき出てくるような大らかな音楽づくりには三嘆。こんなことが出来るのは楽団員の技量の向上と、黒田氏の彼らへのゆるぎない信頼があってのことで、指揮者がいちいち指示したから出来ると言うものではないでしょう。美しい弦と重厚な管が「フィンランディア」の芯を素直に示してくれた演奏でした。

ハーモニー、リズム、テンポや表現が信じられぬほど複雑になってゆく時代にあって、シベリウスの交響曲には単純なメロディーや控え目なハーモニーを用いて、作品の表情を厳格に絞り込むようなところがあります。いたずらに管楽器を咆哮させず、展開部を大げさに発展させることもないので、曲の表情は自ずと静謐です。その作品が精妙なトーンと大胆な省筆によって、弦楽器と管楽器が交響し合い、そこにある音だけで充分に足りている感覚、それがシベリウスの本質であり、魅力となっています。

「交響曲第2番」への黒田氏の意図は明瞭で、間のびすることがありません。第1楽章から幾度も繰り返される単調なモチーフを、テンポとリズムに微妙な変化を施しつつ精緻に音量を調整し、ゆったりと表情に味付けをしてゆきます。安易にポイントを作らず、進行が性急になることがありません。細やかなクレッシェンド、ディミヌエンドは丁寧にほぐし、雑に扱わないので、何故そこにクレッシェンドが置かれているのか、自ずと意味がわかるような演奏です。フレージングをきっちり決めて、次のフレーズへの移行がスムーズになっているからに他ありません。音楽を変にいじらず、純粋無垢な響きを追い求めると、それ以上でも以下でもないギリギリのバランスが生じ、かくも味のある演奏となるのでありましょう。

第3楽章におけるオーボエのトリオは、背景の弦楽器との音色の対比が鮮烈で、オーボエの響きがことさら美しく、孤独で透きとおるような作品の表情を引き出し、音楽の底を見る思いがしました。

終楽章でも端正な音づくりは変わらず、余計な感情は削除し、効果的な盛り上げのための作為性がありません。音楽の表情はあくまで静謐。弦楽器は終始美しい響きと重厚さで管楽器を支え、オーケストラは圧倒的な充足感を示します。コーダに入って金管と打楽器の咆哮が始まると、弦楽器は力強く応じてバランスよく音を響かせます。ここで管の炸裂に違和感がなかったのは、悠然とした表情の音楽づくりに徹した黒田氏の感性のなせる業でしょう。スケールの大きな演奏で緊張感があふれ、腹に染み入る壮麗な名演奏となりました。

当日2番目に演奏された「ペール・ギュント」は、若い指揮者には向かなかったようです。第1曲の“イングリッドの嘆き”から最後の“ソルヴェイグの歌”まで、音楽の骨格をしっかりつかみながら、表題の示す情景に音楽の表情が届かなかったのは遺憾。未だオーケストラとのコミュニケーション不足を伺わせています。オーケストラとの共同作業は聲高に主張することは必要ですが、曖昧な指示を与えることで含みが生じ、ものごとが好転することもあるのです。頑なに正しい答えばかり追わず、多様性を求めて鷹揚に経験を積むのが世の常なれば、しくじりも糧となりましょう。今回の棒さばきは前回に比べ、とても良くなっているので、今後はより音楽を楽しんでもらいたいと願う次第です。

アンコールは思いもかけずシベリウスの組曲「カレリア」より“行進曲”。姫路交響楽団の厚みのある響きはニュアンスに富み、跳ねるような管のリズムは躍動感にあふれ、生きる歓びを気持ちよくのびのびと歌い上げて洒脱そのもの。同じ作者の異なる曲に、異なる演奏。深々とした交響曲のあとに、このような選曲をしたオーケストラの慧眼に乾杯。(2013年4月25日)

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