姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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目次

    

(第64回定期演奏会)ターニング・ポイント

心から、一人でも多くの人に聴いてもらいたいと思ったのが第64回定期演奏会でした。姫路交響楽団にとって演奏上のターニング・ポイントになるであろう新境地を示してくれたからです。

シューベルトの「交響曲第8番 未完成」、マーラーの「交響曲第1番 巨人」と一見脈絡のないプログラムながら、二曲とも隅々まで想いの行き届いた静かな表現で、とぎれぬ緊張感と集中力によって記憶に残る演奏になったのは大きな成果です。

ゆったりと語られるシューベルトの「未完成」は、息苦しさを感じさせない弦楽合奏の重量感と、管楽器による異質の響きが優しく自然に溶け合い、瞑想と囁きに充ちた深い演奏になりました。これまで、幾たびか「未完成」に挑んで積み上げてきた豊富な経験と知識が個々の奏者に浸透して、望みうる最良の表現法を手中にした賜物でしょう。繊細極まりない夢の世界へ誘ってくれたオーケストラに拍手を送りたい。同一作品を繰り返し演奏することの意義と理由について、これほど深い感動を伴って経験し、納得させられたことはありません。

マーラーの「交響曲第1番 巨人」はオーケストラによる巨大な歌曲と見まがうような、想いのたけを遠慮するでもなく、押しつけるでもなく、それでいて寛いだ感覚にあふれた不思議な音楽です。

さて、どのような作品も心からの共感を持って演奏することが大切ですが、姫路交響楽団はいたずらに感情移入をせず、芯の強い表現に仕上げました。「巨人」のような作品は突き放して演奏することが肝要です。感情を制御することが出来れば、作品が有するメロドラマ性への歯止めとなり、音楽は若返ってカチッと締まります。指揮者はまさにそのように解釈したのです。そうであればこそ、随所に色気さえ匂わせて出色でした。

第1楽章の弦による短い序奏と、それに続く数小節の管楽器の多彩な響き、たったこれだけで一気にマーラーのサウンド世界に聴衆を引きずり込んだ演奏には息を飲みました。第3楽章まで静寂感に充ちた歌の表情を、メランコリーに陥らせずに、叙情たっぷり浮かびあがらせることが出来たのは上々の仕上がりです。特筆すべきはオーケストラの響きが以前より若くなって透明感が出てきたこと。それで表現の巾が増し、弱奏でも響きに強い芯が備わってきたことがあげられます。

終楽章はそれまでの静けさから一転し、音楽の表情はガラリと変わります。素晴らしかったのはオーケストラがテュッティーになっても音のバランスを崩さず、響きに生気があふれていたことでしょう。管、弦楽器と打楽器とも充分に機能し見事でした。(2010年12月2日)

(古典シリーズ第5回演奏会)湿度90パーセントの監獄

梅雨どきの湿気といかに折り合いをつけるべきか、それについて考えさせられたのが古典シリーズ5回目の演奏会でした。

まず、スザートの「ルネサンス舞曲集」は、金管が開始早々から湿気の生贄となり響きにならず、音のかたまりとなって終始したのは今後の課題となるでしょう。

ついで、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第4番」は、魅力あふれるメロディーや独奏楽器による華やかなテクニックで聴衆を魅了する作品ではありません。しかし、若年の作でありながら円熟期の作品に劣るものではなく、内容の充実した気をてらわぬ名作です。今回、姫路交響楽団の若いコンサートマスターがこの曲のソロをひくのを聴いて強く心をひかれました。作品の性格をしっかり把握して深刻ぶらず、艶やかでのびのある音で若いモーツァルトの思いに誠実に迫ろうとしていたからであるし、なによりもオーケストラが一体となってあのように地味な曲を共感をもってサポートできたのは、若い奏者を育てようとする指揮者とオケの並々ならぬ意欲のあらわれであると感動をおぼえたからに他ありません。ソリストが音楽の流れに干渉されない明確なイメージをもってソロをひき、全体の調和を乱さず、望ましい協奏に仕上がったのは当然の成りゆきでありました。ただし、オケの響きが湿気にわざわいされて重くなり、モーツァルトの品のよい軽みを欠いたのは惜しまれます。

おしまいにもう一曲、ベートーヴェンの「交響曲第7番」には「英雄」や「第9合唱」のような或る種の義務から作曲された作品にはない奔放な魅力があって、躍動するリズムや響きの雅を存分に味わいつくして酔い痴れるのは気分の悪いことではありません。誤解を恐れずに言えば響きとリズムによる交響曲を作曲したかったのでありましょう。結果は上々です。そうして、第7番が今なおモダンな感覚を失わずに在ることは驚きです。

さて、毎回端正な音楽を作りあげる指揮の黒田氏も、ホールの湿気には最後まで悩まされたようである。この曲の骨格をしっかりとらえた演奏は、小気味のよいテンポで進められながら、氏の熱い思いが響きとかみ合わないで、印象が大味になったのは否めません。管と弦が重なる度に響きが厚くなりすぎて息苦しくなり、軽快なリズムの流れがそのつどのみ込まれて、細部の表情づけが不明瞭になったせいでしょう。まことに湿気は禍のもとです。しかし、それにもかかわらず風格のある演奏になったのは辺幅を飾らず、この曲特有の遊びの領域に一歩踏み込んだからでしょう。そうであればこそ、相伴にあずかって大いに楽しませてもらったのは、私一人ではなかったはずです。(2010年7月21日)

(第63回定期演奏会)肌着を裏返しで着る

メンデルスゾーンを象徴する作品のひとつ「交響曲第3番 スコットランド」がようやく第63回定期演奏会に登場するので、いささかの期待をもった。他にサン・サーンスの交響詩「死の舞踏」とリムスキー・コルサコフの序曲「ロシアの復活祭」の2曲。

はじめに、「死の舞踏」に多彩かつ斬新なアプローチで新たな光があてられ、ポジティブな表情づけがなされていたのには感嘆しました。封印された作品の魅力を浮き彫りにして、甦った骸骨が蝶ネクタイをしめて踊るさまを彷彿とさせてくれたのは秀逸。

つぎに「ロシアの復活祭」も曲の匂いと時代の雰囲気を生き生きと、棒さばきも鮮やかに描きだして、大いに楽しませてくれました。これら、いずれの演奏も生気にあふれ、作品の隠れた魅力を引きだすのに成功しています。

さて、今回のメインとなったメンデルスゾーンの「交響曲第3番 スコットランド」はアーティキュレイションが非常に難しい作品です。その音楽を聴いて不思議に思うのは他の作曲家のような自己主張や押しつけがましさが認められない点です。もちろん作品には個々の表情があります。しかし、あらかじめ明確なイメージをもって作曲された作品に訴えるものが見いだせないとは信じられないことです。それでいて、彼の音楽には肌着を裏返しで着ているような心地よさと優しさがあります。そこから連想されるものは慎み、均整のとれた古典的な静ひつ感、孤独への意識といった近代人としての自我についてであります。それを憂愁にみちた美しい旋律が包みこんで彩るとなりますと、これは厄介です。一抹の危惧を抱いて聴いた演奏について述べておきます。

まず、弦の合奏ではたえずハーモニーが乱れ、響きが不鮮明になったのは遺憾。ことに弱奏においてそれが著しく、メンデルスゾーンが作品によせる弦の重要性を考慮すれば、より丁寧であるべきでした。しかし、このオーケストラの弦の能力をはるかに凌ぐ表現力を要求する作品であってみれば、やむを得ない結果であるでしょう。

第2楽章はクラリネットが美しい音色とはじけるようなリズムに乗って、忘れ難い印象を刻みました。ここでの弦は管をうまくサポートし、この上なく楽しいスケルツォを演出して爽快。ところが第3楽章に入ると突然それまで保った緊張感が失せ、ニュアンスの乏しい表情になったのはいただけない。それでも後半はたて直して終楽章につなげ、緊張感をもって締め括れたのは精一杯の収穫だろう。

演奏の成否は指揮者が如何に明確なイメージをもって表情づけをおこなうかによります。しかし、どのような名匠も手を焼くこの作品に、確たる演奏の成果を求めるのは酷というものです。結果は不本意でも、作品の魅力は充分伝わってくる演奏でありました。(2010年4月29日)

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