姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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目次

    

(第86回定期演奏会)情理を兼ね備える

姫路交響楽団の第86回定期演奏会が新しく完成したアクリエひめじ大ホールの披露公演の一環として開催されたことを喜びたい。これまでのホールにくらべ格段に音の通りがよく聴きやすくなったのは何よりよろこばしいことです。

幕開きはブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」で、黒田氏は主題を品よく提示すると何のケレンもなく古典的で調和のとれた変奏曲として聴かせます。なにしろ新しいホールは最弱音でもくっきり聴こえるので、ハーモニーがあたかもモノラルからステレオに変換されたかのように響いて、各変奏の違いがきわだち、要所を押さえた演奏が引き締まり忘れ難いものとなりました。コーダーもよくコントロールされて、弱音の働きがしっかりすれば音楽は雄弁になることを示してオープニングにふさわしい上々の仕上りでした。

続くマーラーの交響曲第一番「巨人」は狂気と寂寥、希望を孕んでさまよう青春の音楽です。ひとつのメロディーに必ずと言ってよいほどこれら三つの要素が同居していますが、これは異常であり、それがマーラーの音楽であると言うのであれば精神医学の領域になります。黒田氏はそのような狂気と希望のからみあいを丁寧にほぐして細部までわかりやすく伝えて鮮烈でした。それを可能にしたのは金管、木管と弦、打楽器の各セクションの響きのバランスの良さと弱音の扱いの繊細さにあって、曲の調和を欠いてテーマがぼやけなかったからでしょう。元来ロマンティスムによる音楽は言葉によってもたらされた、いわば文学にどっぷり浸されて生まれでたものであることを考慮すれば、この曲にもこうした言葉による説明は許されるはずです。このような作品で気をつけなければならないのは解釈のしすぎでしょう。深読みは鑑賞の妨げにしかならないからです。

第三楽章でソロのコントラバスが奏でるメロディーには言いようのないやるせなさ、寂寥感が漂います。葬送行進曲でありますから当然ですが、では誰を弔うのか。それはマーラー自身の狂気と懊悩に他ありません。第一楽章からここまで聴いて思い至るのは音楽の流れの自律性から言ってもそれ以外には考えられないからです。黒田氏はこの楽章をきわめてリアリティー豊かに情理を兼ね備えたものとして表わしたので、狂気との葛藤が生々しく伝わり強い現実感が生まれました。彼のメッセージは明瞭です。青春の悩みはつきないと。

第四楽章の冒頭はこれまでの苦渋の想いを吹きとばすかのように金管楽器の咆哮で始まりますが、響きが曲の中から自然にわきあがるように感じさせて節度があり表情豊か、凱歌のように鳴り響きます。アンサンブルが見事でした。中間部は重ねて心の葛藤を表わし、最後に流れるのは希望の歌であり光です。それがこの曲の救いでありましょう。感情に溺れない音楽づくりが見事でした。

アンコールで演奏されたのはマーラーの「花の章」と題された作品で、交響曲第一番「巨人」の第五楽章として置かれていたものをマーラー自身により除外されたと聞き及んでいます。今回のように第一番の後で聴きますとミサ曲におけるアニュス・デイのように聴こえてなりません。狂気との熾烈な葛藤の後で平安を与え給えと祈るのはごく当たり前のことであるからです。聴いていると自然に心がなごむようなとても美しく穏やかな曲です。演奏がすばらしく、全くこのオーケストラのアンコールはいつも楽しみです。

山本慎一さんを悼んで

山本慎一さんが9月27日コロナ禍で亡くなられたと聞いて息をのみました。姫路交響楽団の厖大な事務仕事に奮闘される姿に長い間接してきた身には感謝の言葉しかありません。かけがえのない人を失った悲しみ、寂しさは言うに及ばずオーケストラにとっても大きな痛手です。

山本さんは見るからに温厚でいつ会っても笑顔で気持ちよく迎えてくれましたが、実際はとても芯が強く考えのはっきりした人でした。知りあって間もなくの頃国産スピーカーでいいのを探しているんだけどと言って我が家を訪れたことがあります。オーディオと言えば欧米製品が主流だった50年近く前の話です。そこでイギリス製で手頃なのがあるよと勧めると国産でよいと言って聞き入れてくれません。ならばと二人で知りあいの店へ行きいくつかスピーカーの試聴をさせてもらった結果、三菱のダイヤトーンがお気に召してそのまま持ち帰ったことがありました。なるほどバランスのよい響きのするスピーカーで感心したのが印象に残っています。

いまごろはきっと天国に迎えられていることでしょう。合掌。(2021年12月5日)

(第85回定期演奏会)レガートの音楽

新型コロナウィルスに翻弄されながら、ようやく開催された姫路交響楽団第85回定期演奏会を聴いた。グリーグの「ペールギュント」組曲第1番とピアノ協奏曲、それにシベリウスの交響詩「フィンランディア」と交響曲第5番の四曲です。今回はことさらに心血を注いだであろうシベリウスの第5番についてのみ記しておきます。

この曲には美しいメロディーや人の気を引く目立った動きがなく装飾的な要素も稀薄で単調、掴みどころがありません。しかし演奏が始まると一転、冒頭の導入部で管楽器が全体像を予感させるような表情を響かせると、瞬時に心をうばわれました。その表情には透明に凝(こご)った静かさがあり、木管がささやくような音色で堅い静まりをほぐしていく過程には爽やかな情感が漂って、短い導入部でこれほどのきっぱりした表現がなされることに驚きを覚えました。黒田氏はオーケストラを徹底して抑制し、楽器個々の単調な響きを束ね辛抱づよく微妙なニュアンスのある表情を導きだし、あっさりしたようでいて手の込んだ繊細な味をだします。そこに作意は感じられず曲の流れが自然で、オーケストラがスコアの要求に堪え得る表現力を身につけていることを示しました。

やがて演奏から少しずつ見えてきた曲の本質は、シベリウスが自らの日常を飾らぬ言葉で綴った自身の心そのものにあるのではないかと思えることです。その言葉は常にささやきでありドラマチックな表情は見られません。シベリウスの意図が何であれ終楽章の演奏からふつふつとあらわれ出たのは、人間賛歌と思しき生きるよろこびの声です。言いたいことを叫ばずに穏やかにささやき続けることで却って強い現実感が生まれ、音楽の姿となって現れた賛歌であると受けとりました。シベリウスの思いを丹念に繕い熟成させた演奏は黒田氏とオーケストラによる見事な合作で、しみじみと胸に迫る優しさがありました。

それにつけてもこの曲はおよそ起伏に欠けていて、微妙なニュアンスがそのまま音楽になってしまい、繊細なニュアンスを聴く者が能動的に受け入れなければ、一切の誇張を避けたかのようなシベリウスのささやきは素直には聴けないでしょう。しかしニュアンスの微妙さ、響きの微妙な繊細さに慣れてしまえばきっと楽しみの多い音楽になるはずです。

余談ながら、この作品には日本人の和歌に親しむ心に似たゆとりが感じられます。和歌は叙景と叙心から成りたち景色あるいは心を歌う詩歌でありますから、吟唱して微妙な人の心を推し測ることは日本人がながく慣れ親しんできた習(ならい)であり、その感覚は明らかにレガートなものです。シベリウスの意図や心もまたこれに近い微妙なニュアンスを含むものであることを考慮するなら、日本人が昔からシベリウスの音楽を好んできた理由の一端が見えてくるようです。それは決して西洋の叙事詩が有するスタッカートな感覚ではありません。

今あらためて当日の演奏を思い返してみますと、音楽を聴くとは演奏の記憶をたぐり寄せながらとりとめのない想いに耽(ふけ)るうちに忘れがたい感動がよみがえり、ああこれがシベリウスだと夢幻の境に遊び浸る、そういうことであろうと考えています。姫路文化センター大ホールでの最後を飾るにふさわしい一聴三嘆の名演奏でした。ただ仲間ほめと思われるのは心外なので一言付け加えておきますと、管楽器の弱音がもう少し美しい響きだったなら、凄みのあるより毅然とした演奏になっただろうと述べておきます。

新しいホールでの再演を待ちたい。(2021年4月30日)

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