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(第93回定期演奏会)自然体で臨む
姫路交響楽団の第93回定期公演は、サン=サーンスの交響詩「死の舞踏」で始まった。指揮は初登場の若い宮本貴太氏。心が躍る楽しいひと時だった。
作品の舞台を彷彿とさせる場所は、私たちにとってはさしずめお化け屋敷であろうか。何しろ音楽そのものが、おどろおどろしくて人を食ったものである。ドロドロと鳴る太鼓の音に伴われて次々に現れるお化けに、半ば失望しながらも楽しんだ昔を思い出したからである。演奏はうまくいったところ、そうでないところ、いずれの表現も人間死ねば皆同じと云わんばかり、あっけんからんとした息づかいで滑稽さに終始した。そもそも作曲者自らが、骸骨が踊るのに何の遠慮もあるものかと、ラテン的な明晰さをもってうそぶいているような曲である。独奏ヴァイオリンのキャラクターが強烈に踊りを盛り上げて最後に骸骨たちがため息をつきながらしぼんで行く様はまことにユーモラスで、しばし余韻を楽しんだ。
次いでリムスキー=コルサコフの「ロシアの復活祭」を60年ぶりに聴いて、序奏の木管によるユニゾンが始まると、次第に気分が良くなっていくのには驚いた。このロシアの聖歌を素材とした作品に込められた、復活祭を待ち侘びる人々の思いを、指揮の永井氏は宗教とは無縁の軽快で、無機質なメリハリをきかせた感覚で描き出した。しかしその新鮮さはおもしろく感じた。一方聴いて行くほどに高い美意識と粋なセンスを漂わせる音楽であることに気づかされ、長くこの曲に接して来なかった自身の不明を恥じた。演奏は今一つ繊細さを欠いたものの、細部にこだわらない表現もあって然るべきであろう。もう一つ、これは金管の響きが美しい曲である。金管が鳴りすぎて少々耳障りのする響きがしこりとして残ったが、心はずむ思いをさせてもらった。
最後はメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。冒頭からラストのコーダまで、黒田氏はひたすらスコアの中に隠れているメッセージを聴き手の前に広げて見せる。自然に流れるような音楽づくりに誇張はなく、スコアにしるされた豊かな歌を深く爽やかに響かせて余すところがない。オーケストラはもの悲しい序奏を品良く控えめに、第一主題の哀調に満ちた旋律も伸びやかに響く演奏で気負いがない。この曲の陰影の濃い複雑な表情を、木管が憂いをおびた響きで感情をふるわせ、もの静かで簡素な雰囲気をもたらす。メランコリーな世界に希望を見出すかのようで、メンデルスゾーンの心の一端をのぞかせる。根底にはスコットランドへの哀惜の情が色濃く流れていて、これほど人の心を汲んだ音楽はそうはないだろう。
第二楽章は打ってかわり、スコットランド人そのものに集中するような音楽。クラリネットが軽快なリズムに乗って主題を奏でる。そのはしゃぎっぷりが面白い。健やかなこの楽章を象徴するにふさわしい出来映えである。オーケストラもバグパイプの音色やリズム、民謡を思わせるトーンを明朗な明るさをもって響かせて、人々の息吹をもたらした。
後半に入ると再び寂寥感が漂い、この調性が曲全体を一貫して行くことになる。メンデルスゾーンの描く叙情的な主題をオーケストラは情感豊かに歌わせて、ほのかな郷愁が香った。人を一種の陶酔状態におとしいれる反理性的な演奏は、慎み深い情感を鮮やかに描き出して心を打った。終楽章に至り、これまでの陰と陽を繰り返すうっとうしさから離れるように意識のうねりが一転、曲は大きく盛り上がる。晴ればれとした演奏もさすがに感動的だった。コーダは金管が後光のような光彩を放ってまさにパラダイス。喜び、くつろぎにこそ
人間らしさがあるのだと言わんばかりの開放感があふれる。気取りのない自然体で臨んだ演奏によって浮かび上がるのは、スコットランドにそう望む作曲者のメッセージなのであろうか。
アンコールはメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」より結婚行進曲。幸せ一杯ではち切れんばかりの趣は、「スコットランド」のコーダにそのまま継ぎ足したような艶やかさで何の違和感もない。曲の選択がおしゃれである。
(2025年5月7日)
(第94回定期演奏会)ブラームスと紫煙の香り
姫路交響楽団第94回定期公演で、心そそられる演奏に出会った。ブラームスの交響曲第3番である。他にもう二曲、同じブラームスの「悲劇的序曲」とリストの交響詩「レ・プレリュード」。
まず「悲劇的序曲」は、この曲らしいきっぱりとして思いを込めた劇的な力が、思わずベートーヴェンの序曲「コリオラン」を想起させる演奏で面白く聴いた。普段あまり聴くことのない、なじみの薄い曲ですが、まぎれもなくブラームスの残した管弦楽曲の名作です。悲劇的な情感の盛り込まれる様が威厳にみちて、流石にこれはうまく捉えきれていなかったのですが、一方でこの曲には序曲「コリオラン」のような力強さがあります。指揮の永井孝和氏はオーケストラの持ち味を充分に引き出して、こうした作品の一面を思い切りよく捉えた、そのような演奏だった。願わくは、この作品に盛り込まれたかしゃくのない闘争的な激情と悲劇的な情感といった、非常に難しい側面を捉えて欲しかったのだけれど、その対策は氏とオーケストラの楽員たちの間の、今後の課題であるでしょう。
次に交響詩「レ・プレリュード」は宮本貴太氏の指揮で、リストらしい情感豊かな音楽の表情をしっかり捉えた演奏を聴かせた。回を重ねるごとに、宮本氏の指揮ぶりにも落ち着きと柔軟さが見られるようになってきた。人が持っているいろんな感情のオンパレードのようなこの曲に、宮本氏は丁寧な音楽づくりで臨んだが表情をもっと大胆に強調しても良かったのではないかと思われる。それが振幅の大きなロマン派音楽の魅力の一つであってみれば、バカ騒ぎもまた楽しからずやであります。ためらうことはない、やればいいのです。それも若いうちに。
ひとつ欲を言えば、オーケストラにもう少しすっきりした軽やかな響きがほしかった。そうすれば反って劇的な表情がより鮮やかに、あるいは細やかになって、余裕のあるしっくりした演奏になったことだろう。いずれにしろ、若々しい余韻の残る演奏だった。
交響曲第3番が匂わせる、ゆったりとした気分はどこから来るのだろう。ブラームスの懐の深い心の内を黒田氏は敬意を持ってきっちり捉えていく。オーケストラの緻密な演奏はいつものことながら、まず弦楽器と管楽器の融合した天国的な響きで私たちを魅了する。とりわけ第二楽章で人間心理の微妙さを織り込むように、人生の気配をあらわにする木管楽器の扱いが冴えている。音楽の表情を精確に捉えた情のこもった表現にはただただうっとりするのみ。知と情でもって彫琢され尽くしたこの作品に、近代的な意識の変容が見られるのは当然であり、演奏は、と言ってもオーケストラは決して難解な音楽としてではなく、あくまで知的にして清々しさを含んだ作品としての核心を衝いてゆく。第三楽章で演奏の放つ力には心が躍った。その力は黒田氏がオーケストラと共に育んだものであるが、それは演奏された作品が元から持っている力にほかならない。それを黒田氏が引き出して私たちに聴かせてくれたものなのである。黒田氏の作品に寄せる深い愛情がしのばれる演奏だった。
その音楽には足りないものは何もなく、余計なものもない。唯、足るを知る者が作った十全な作品なのである。であればこそ自分をごまかさず、余分なものを持たない健全な生き方の中にこそ、ゆったりとした居心地の良い生活はあるのではないか、という、これは寓意ではあるまいか。人生とは、音楽とは何かと真面目に考える人たちには演奏を通してブラームスからのメッセージは彼らの心にしっかり届いたことだろう。
私は一見地味な作風ながら、ブラームスの音楽が匂わせる粋さが好きだ。わけても四つの交響曲は私にとってかけがえのない作品になっている。それは深い奥行きを持った芸術が大抵そうであるように、いろんな異なる容貌をもつ何かであって、その奥にある素顔を覗いてみたいと長年思い続けてきた。その結果は、さてブラームスの音楽は聴いた後に、紫煙の香りが快い余韻として残ると言えば奇異に思われるであろうか。もちろんこれは自分の耳だけに聴こえる音楽の世界、耳に残る響きの感触によって引き起こされたことであり、実際の音や香りのなせる業ではない。ブラームスの音楽には、その音楽とは異質な感情を刺激して喚起させる何ものかが存在するということである。このような状況は音楽に限らず、日常誰にも起こりうることで、これは実はブラームス自身のフィーリングが成したことに他ありません。言い換えると、私たちは作品を通して彼の心の内を覗いていることになるのです。
以上、ここは私事を書く場ではないのですが、音楽は耳だけで捉えるものにあらずと、どうしても述べておきたかったのです。ご容赦下さい。
お楽しみのアンコールはこれもブラームスで、「ハンガリー舞曲第6番」。オーケストラがたとえ曲は短くとも中身はたっぷりだぞ、と言わんばかりの華やかなよそおいで、この舞曲のエッセンスを鮮やかにすくいとった。テンポ、リズム、デュナーミクの働きがつぼにはまった出来映えで、表情の動き、変化するさまが面白かった。たっぷり仕込んだブラームス好みの風味が絶妙だった。
(2025年12月12日)
姫路交響楽団