姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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(第88回定期演奏会)シューマンを読む

姫路交響楽団の第88回定期演奏会を聴いた。ボロディンの歌劇「イーゴリ公」より「ポロヴェツ人の踊り」のあと、永井孝和氏の指揮でプロコフィエフの組曲「ロメオとジュリエット」より抜粋を6曲。まずこの曲の難しさを思えば、はつらつとした演奏で充分楽しませてくれたものと評価したい。プロコフィエフの意味深長な冒頭の不協和音の扱いから終曲に至るまで、各曲の性格分けをダイナミックな動きとエネルギッシュな響きで表現し、若さの魅力を大いに発散させる演奏を聴かせた。管楽器と弦のバランスがしっくりいかず、管が一人歩きするような場面や荒削りな面は残るものの、演奏が面白かったとするのはとても大事なことであり、それでよしとすべきだろう。永井氏が理想を追い求めるあまり窮屈になることを嫌い、のびのびした表現を求めたことが楽しく聴かせる要因になったと考えられます。今後色々試したいこともあるでしょうが、音楽をいかに楽しく聴かせるか、経験を積み重ねてくれればと願っています。

シューマンはロマン派の時代に生きた人であるのに、歌曲集「詩人の恋」にロマンが迸りでると言うほどのロマンが感じられないのを長年不思議に思ってきました。テキストから読みとれるハイネの恋についてのアイロニーがメロディーからは感じられないし、かえって表情豊かなピアノ伴奏により心を惹かれてしまいます。もとよりシューマンの他の歌曲集や作品の全てがこうした趣のものばかりではありません。いくつかのピアノ作品ではショパンが志向したミニマム音楽への傾倒も見られます。「子供の情景」や「クライスレリアーナ」などにはショパンとは思いこそ違え、小品をもってピアノ音楽の豊かな伝統を未来へ継承しようとする強い意欲が伝わってきます。リストの仰々しさとは無縁の小さな曲の集まりにすぎないのにその斬新さは響き、音色から控えめな表現に至るまで、作品が醸しだす魅力には無限の広がりが感じられます。また曲ごとの切りつめ方が適切でミニマム音楽として申し分のない仕上がりを示しています。ところが、当日のメインであるシューマンの交響曲第4番は感性と知性が見事に融合したピアノ作品とは趣を異にした曲で、とても同一人の仕事とは思えぬ出来具合です。

さて、その演奏は序盤の物憂げで移ろいやすい気分が如何にもつかみどころがなく前途多難を思わせます。しかしこの不思議な感覚をオーケストラは上手く捉えて調子づいたようです。一方音楽には力強さがこもり矛盾を孕んでいます。以降展開部からコーダまでこのようなシューマン内面の葛藤を深刻ぶらずに何の衒いもなく、外連のない音楽として聴かせたのは喜ばしい。リズムを明確に刻みながら早めのテンポで終始し、細部にこだわらない小気味のよい演奏はいくぶんドライな感覚を生みだした。これはひとつ間違えば無味乾燥な結末をもたらしますが、内容の濃い音楽をあらわにして、シューマンの思惑よりも曲の本質に迫ろうとする黒田氏の慧眼が勝ったようです。元来テクスチャーの薄い曲であるだけに、如何に表現するか難しいところです。黒田氏は余計な感情を抑えて作品の骨格そのものに迫ったと思われます。

第二楽章は中間部で独奏ヴァイオリンがこの曲随一の美しいメロディーを、変にいじらないで丁寧に奏でたのが強く印象に残っています。勿論これをどう表現するかのさじ加減は指揮者にありますが、さらりとした感覚が新鮮でした。

第三・第四楽章もそれまでの徹底した方針を貫いた結果、ドライな感覚の中に逆説的ながら表現の幅にどうにも魅力的なゆったりした気分が生まれ、思いもかけぬ目新しさに大いなる刺激を受けました。理性だけでは捉えきれない感情の絡を作品から削ぎ落として、旋律線の動きを聴きとり易くしたこともあって音楽は平明で剥きだしになり、ドイツロマンティズムの臭みも抜けてすっきりした本来の、と言うべきかあるべき姿を現したのでしょう。たえず驚きを感じさせる含蓄と示唆に富む演奏だった。万事かくの如しで、薄弱なスコアからここまで曲の魅力を引き出した黒田氏とオーケストラ諸氏の努力、探究心に心からの拍手を送りたい。

アンコールはヨハン・シュトラウスのワルツ「皇帝円舞曲」。今回も名演をと楽しみにしておりましたが、最初の数小節が鳴ったところでウィーン・フィル恒例のニューイヤーコンサートの数々を思い出した。ふくよかで優雅、まさにワルツそのもの。思わず足が拍子をとっていました。とてもいいワルツを聴かせてくれたし、なによりも演奏の質のよさにびっくりしました。オーケストラにいつでもバランスよく演奏する力が付いてきた証でしょう。感謝。(2022年12月12日)

(古典シリーズ第10回演奏会)品格と明晰さ

中断されていた姫路交響楽団の古典シリーズVol.10を聴いた。練習はコロナ禍の第7波が猛威を振るっているただ中で行われていたので、安否を気遣っておりましたが、オーケストラの楽員は健在で、安堵しました。

まずベートーヴェンの「エグモント」序曲は、前回の定期でショスタコーヴィチの組曲を快演した永井孝和氏の指揮だったので期待しましたが、今回は少し様子が違ったようです。全体にアンサンブルがいまひとつで、表情が一本調子だったために作品の悲劇性が稀薄になって、盛り上がりの少ないものになってしまいました。しかし表情が整わなかった分、作品の激しさ、強さは充分に捉えられていたので、表情のメリハリを入念に手入れしておればと惜しまれます。元来、良い演奏だったかどうかは人が勝手に決めること。これからは曲の本質を嗅ぎつけて、想像逞しく音楽を楽しんでくれたらと願います。

モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」は、オーケストラが冒頭から著しい自然さをたたえて仕上がりの良さを感じさせ、フルートとハープが登場するや一気に引き込まれました。第一、第三楽章における両者によるデュエットは、フルートがアリアでも歌う様なはればれしい表情で、モーツァルトのオペラの一節を聴いているような気分にさせ、ハープとの掛け合いではまるで気のおけない者同士の軽妙な会話を思わせ、大いに楽しませてくれました。第二楽章でフルートとハープが切々と歌い上げるメロディーには、奇をてらわず、単純さ、気楽さ、優しさが漂って実に余韻が快い。またハープの繊細な響きを伴ったフルートの音色には一種の楽園の清浄さが感じられて、その美しさが身に染みます。

黒田氏の音楽づくりは、フルートとハープに対するオーケストラの音の出し入れのタイミングが絶妙で、ハープの響きを考慮した音量のコントロールも的確であり、小さなフレーズでの表情もニュアンスに富んでいて、演奏がとても円やかで心地のよいものでした。モーツァルトの作品の中で、強く引かれるものに出会うと、感動や評価はわきに追いやられ、自分の中の聴くという行為だけが引きずり出されるような感覚に浸されて、ひたすら聴くことだけに没頭させられます。この曲にはそうさせる魅力があるということであり、そのことを実感させてくれた至福の演奏として記憶に留めたい。

さてベートーヴェンの「交響曲第7番」は、モーツァルトの気取りのない音楽のあとではその違いは明白です。ただこれら二つの作品はあらゆる偉大な芸術作品と同様、本質的に単調であることにより共通します。それだけに内容は含蓄に富み、モーツァルトの愉悦感、ベートーヴェンのリズムへのあくなき探究心は、第一楽章から終楽章のコーダまで全く綻びが見られません。

オーケストラはこれまでの状態からまたひとつ課題をクリアしたような完成度を示して見事でした。響きが充実していることで、この曲に必要な力強いリズムを刻むことが可能になったからでしょう。黒田氏の語り口は鮮やかです。金管、木管、弦楽器の各セクションに、ひとつひとつのフレーズの響きの違いを記憶させては、何度も練習させることで、各々の響きの感触を確認していったのでしょう。つづめて申せば単純な作業の繰り返しです。こうした手堅い音楽づくりが、ぶれのないきっぱりとした生気あふれる表現をもたらしたのであり、とりわけ金管、木管の響きは曲にふさわしい張りを感じさせたし、弦楽器の手応えも充分でした。コロナ禍に配慮しながらの練習の日々であった事を思えば、その意気たるや賞賛に値します。

音楽は何度も自分の耳で聴いて確かめ、心に叩きこまれたとき、初めて聴いたと言えるのではないか、そう考えると、今回の演奏は正にそのようにして成ったものであると感に堪えません。凜として揺るぎのない演奏会でした。

アンコールはモーツァルトのモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」のオーケストラ版。今回もどんな曲をと毎回のように楽しみにしていましたが、時節柄にぎやかなものは避け、別な楽しみを贈ってくれたようです。穏やかで、単純な音階だけで綴られているような、それでいてどこが良いのかと問われそうな曲ですが、オリジナルの声楽とは一味違う器楽の落ちついた響きが深々として、心の隅々まで洗われるような演奏でした。合掌。

一体モーツァルトの本質とは何だろう。60年以上も付き合ってようやく見えてきたのは、それが驚くべき明晰さであることです。人生でそれに出会ったことがそのまま幸せであるような、穏やかで美しく、澄んだメロディーと透き通るような響きをもち、それでいて単純さを合わせもって人を幸せにする音楽。これだけを評価するなら世に似た音楽はあるでしょう。しかしモーツァルトの音楽にはそれだけで済まないものがあるのです。その音楽には単純な音階の動きの中にさえ無限の美しさが秘められていて楽しみだけでなく、人生や芸術についても考えさせられるヒントが多く感じられるのです。こうしたことを感じ取れるようになって、単純さを生みだし明晰な音楽を導きだした源が、理性であると理解することはそんなに無謀な話ではないはずです。モーツァルトの音楽が心ばかりでなく、頭にまで触れるように響いてくるのは、その辺に理由があると思われてなりません。唯一無二の音楽です。(2022年9月3日)

(第87回定期演奏会)粋なプログラム

ロシアのほろ苦いバカ騒ぎとウィーンの典雅なる宮廷音楽、それにドイツの粘っこい音楽という繋がりの見えない曲を並べたプログラムに少し首を傾げましたが、第87回定期演奏会で姫路交響楽団はそれぞれの顔を明瞭に捉えてみせました。

ショスタコーヴィチの喜歌劇「モスクワ・チェリョムーシキ」組曲はあきれるほど野蛮で面白い曲です。第二曲目のワルツを除いて、オーケストラが弾けるように活発な音楽で全曲を通したのは適切な判断だったでしょう。モスクワ市民の暮らしのスケッチさながらの悲喜劇を、面白おかしく聴かせるショスタコーヴィチの才気をしっかり支えて、勇ましく大胆にふるまうオーケストラの奮闘ぶりは愉快でした。何のてらいもなく、颯爽と棒を振った永井氏の姿はまことに爽快で、とび出す音楽は騒々しいのにちっとも嫌味がない、氏の天性なのでしょう。これからの楽しみが一つ増えました。ワルツは曲の魅力もさることながら、一転して哀感と余韻が残る好演だった。

ソロとオーケストラがこれほど息の合った音楽を聴かせてくれたのは、定期公演では初めてだろう。ヴァンハルの「コントラバス協奏曲」は演奏される機会の少ない曲ですが、惚れ惚れするようなコントラバスの魅力を毅然として聴かせました。いきなり引き込まれたのはコントラバスの朗々たる音色ではなく、繊細で落ち着いた弦の感触でした。ことに頬をやさしく撫でながら消えていく微風のような弱音の美しさは、そのまま宮廷音楽の本質を見据えて一編の抒情詩でした。小編成のオーケストラが18世紀ウィーンのゆったりとした時間の流れをそのまま演奏のリズムに移しかえて、時代の雰囲気をしっかり捉えていたからでしょう。きわめて詩的な音楽であり、それだけに演奏は多くのことを語りかけます。今に生きる音楽作品の生命とその意味について。コントラバスの演奏にはチェロかと見紛うほどの品と芸があり、ただ珍しいというだけではない、あらゆる層に好まれる要素を備えていました。再演を期待したい。

アンコールで初めて聴いたボッテジーニの「エレジィ」第1番は耳ざわりがよいとか、美しいというのではなく、穏やかで味のある大人の音楽でした。好奇心と想像力をかきたてられながら聴き入ったのは、思えば名手の手にかかればこその結果だったでしょう。

ブラームスの交響曲第1番は、ティンパニーの乾いた音がオーケストラを押し出すようにして序奏が始まった。よく響く会場に合わせたようないくぶん抑え気味のオーケストラは確信にみちた表現で、ことに弦楽器の丸みをおびた心地よい響きとゆったりとしたテンポでドラマの幕を開けた。一筋縄ではいかない音楽の凄みがじわりと会場に広がります。親しみやすいメロディーがなく、聴きやすい曲ではないけれど、木管の風味を好むブラームス特有の音楽づくりを楽しむ聴き手ならば、木管の放つ微妙なニュアンスに耳を傾けたことでしょう。とりわけ弦とやり取りをする辺りでは、音楽の感触が肌に触れるような印象の強さを生んで陶然となりました。

この曲のもう一つの楽しみは、終楽章で唐突に現れる開放的な美しいメロディーにあります。ここでこのメロディーを歌わせるブラームスの心境は心憎い配慮と言うべきか、音楽は煉獄から天国的な安らぎの世界に一変し、気分を高揚させます。黒田氏はこのメロディーをごく自然に音楽の流れに任せ、おおらかで幸福感いっぱいの姿として鮮烈に歌わせました。感動を禁じ得ない演奏でした。

いつ頃からか、繊細で重厚な静謐さが醸す響きに魅せられ、ブラームスの音楽に親しんできました。ただ不思議なことに、その音楽にドイツ・オーストリア ロマンティクの作曲家たちとは一人異なり、イタリアの影響が見られない。リズムの刻み方や音の響きに野性的なエネルギーが感じられ、一方語り口は瞑想的で異様な不気味さが漂う。いったいこれは何であるか。なぜブラームスの作品からイタリア文化の匂いがしないのか。さんざん自分の耳で聴いたものが単なる思い込みにすぎなかったのか、どうしてそのように捉えていたのか、ながく疑問でした。これについて考えるヒントを与えてくれたのはやはりと言うべきか、同じドイツのグリム兄弟が集成したドイツの伝承民話による童話集にありました。名作「ヘンゼルとグレーテル」をはじめ数多い物語の背景をなすのはドイツの黒い森で、そこにはいろんな得体の知れない魔ものが潜んでいて人に残酷な悪さをします。物語はいずれも酷い内容でとても童話とは呼べないのですが、グリム兄弟は自分で教訓を掴みとってほしいという能動性を読者に要求しています。そうすることで物語の裏側が見えてきて、一転して滋味豊かな童話へとたどりつける仕掛けが施されています。

ブラームスがこのような伝承民話に啓蒙されて、ドイツの古い文化に関心を寄せ、それを自らの精神的な後ろ盾としたとは考えられないだろうか。少なくともドイツ人としてグリム童話に親しんで、やがて自国の文化に目覚め関与していく最初の契機になったことは否めないでしょう。そう考えると、ブラームスの音楽からイタリアの地中海的な理性の明晰さが抜け落ちていることが不思議ではなくなってきます。手法にもイタリア音楽には見られない繰り返しの執拗さが認められるし、音楽そのものが非常に堅固で粘りのあるものになっています。理性によって割りきれない感情の根のようなものが底に蠢いていて不気味なのです。これをドイツ人の情念、ドイツの伝統文化によるものと捉えるならば、ドイツ文化が如何なるものか、ほんの少しわかった気がしてきます。そしてブラームスの音楽にはグリム兄弟と同じドイツへの熱い思いが脈うっているとしきりに思われてならないのです。

アンコールはお馴染みの「ハンガリー舞曲」第1番。いつもうまいなと思いながら、また楽しませてもらいました。振り返ってみると、この曲は回を重ねる毎に実にうまくなっているのを感じます。ブラームスの匂うようなペーソスが、上等なお茶漬けの味となって最後をきっちり締めて、粋なプログラムが出来上がりました。(2022年5月1日)

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