姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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(第80回定期演奏会)プロコフィエフの余韻

姫路交響楽団の第80回定期演奏会で心踊るような演奏を聴いた。プロコフィエフの交響曲第5番である。この作品には音楽というよりも音響としての物質感を強く感じることがあります。それだけに込められたメッセージを聴き取るのは容易ではありません。言葉を変えれば含みの多い音楽であるという事です。演奏は生易しいものではありませんが、高い技術と簡潔な表現でオーケストラの可能性を示した演奏は、作品同様の存在感がありしかも端正な仕上がりでした。

まず第一楽章冒頭の木管による主題の扱いが尋常ではありません。黒田氏はこの張り詰めたリズム感と響きを一律に固定せず、説明的な音楽づくりを避けて作品とつかず離れずの距離を保ち、いい塩梅の無頓着さで通します。楽員達も肩の力が抜けたかのように自在にメロディーを奏で、競うように遊び心をのぞかせます。これは音楽を楽しまないことには生まれない姿です。ともすれば深刻に陥りがちなこの楽章を楽しんで演奏している様が伝わってきて共感を覚えました。それで曲の核心に迫っているのか否かはさておき、さながらオーケストラそのものが歌っているような感覚を生んで、表現の多様性の一端を示し深い余韻を残したことは特筆したい。

第二楽章に入ると黒田氏は楽員一人一人から活気のある表情を引き出して、オーケストラに血を通わせていきます。演奏が熱を帯びるにつれてオーケストラがあたかも一つの楽器と化したかのように機能し始めると、一段と表現力が深まったのは自然の成り行きであったでしょう。演奏は気迫のこもった形相で曲の主題を抉り出すかのよう。そのプロセスも短いながら刺激的でした。

第三楽章を聴きながら、いったいこの曲の魅力は何だろうと考えた。忘れ難いメロディーや格別な聴かせ所もなく、それでいてこの波瀾万丈の面白さはどこから来るのか。評価すべきは管と弦、それに打楽器による響きのバランスが良かったことや、黒田氏がややこしい曲をわかり易く魅力たっぷりに仕上げたことにあるでしょう。結果はプロコフィエフが本当に書きたかったのはこんな音楽だったのではないかと思わせる出来映えで、身が震えました。厄介な曲を面白く聞かせるこうした演奏はとても難しいことではあるけれど、聴衆と音楽の喜びを共有するうえで大事なことに思われます。そんな中、ヴァイオリンのソロが馥郁たる響きで良き香りを添えたのは、粋な贈り物であったと申すべきか。

終楽章では余計なことは考えずにひたすら聴き入った。夢と自由を奪われた圧政下で作曲、吐露されたプロコフィエフの心の葛藤を、畳みかけるようなリズムとテンポでこれだけエキサイティングに聴かされると、あらためて彼の音楽語法が如何なるものか知りたくなります。凄みのある演奏でそうしたことについて考える機会を与えられたことを感謝したい。いずれにせよ今後もこのような演奏の数々を耳にしてゆけば、多くの人がこのオーケストラに敬意と信頼を寄せるようになるに違いありません。

当日は他にチャイコフスキーの「白鳥の湖」より10曲の抜粋。1曲目の「情景」から幾分甘さを抑えた表現でしたが、舞台を思わせる情景描写が秀逸、作曲者特有のメランコリーが苦手な人も楽しんだことでしょう。

アンコールは同じ「白鳥の湖」より「マズルカ」。チャイコフスキーの演奏もしつこさが気にならなくなり堂に入ってきたようです。(2019年2月8日)

(古典シリーズ第9回演奏会)響きの大切さ

うだるような暑さの中、出かけてみるものである。姫路交響楽団の古典シリーズVol.9の姫路公演を面白く聴かせてもらった。ベートーベンの歌劇「レオノーレ」序曲第3番と交響曲第5番「運命」、モーツァルトのオーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲の3曲である。際立ったのはいずれも弦楽部門の充実ぶりだろう。

まず「レオノーレ」は弦楽器の響きに管の音色がうまく溶け込んで、オーケストラの表情が多彩、引き締まったものになった。音楽は重苦しい序奏から淡々と進んで、劇的な起伏をすっきりと描いて見せた。ドラマの起承転結と演奏のリズムが重なりを見せ、ドラマを彷彿とさせながらも、音楽の流れが自然で押しつけがましさが感じられない。それでいて説得力のあるドラマを示してくれたのは、姫路交響楽団がようやく手にした響きの豊かさと柔軟さにあるだろう。気負いがなくしっくりとくる演奏でした。垢ぬけのした音楽を聴かせてくれた。

モーツァルトの協奏交響曲は、独奏管楽器がオーケストラと対等に渡り合い、合奏協奏曲の趣があった。オーケストラが単なる伴奏ではなく、自己主張を伴った仕掛けを行ったからだろう、弦楽器が響きのいい味を出して、独奏管楽器の色調とオーケストラの絡み合いが面白くなった。オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットがオーケストラと一面的な顔合わせで終わらずに、さまざまな魅力ある表情を協調して引き出したのは、音楽の喜びそのものであると言えるだろう。オーボエとクラリネットがめりはりの利いたリズム感で曲の粋な風味を軽やかに楽しませたし、ファゴット、ホルンも花を添えるような表情で応えた。全曲を通し、ひたむきで親しみの持てる演奏を聴かせたが、独奏管楽器に即興的な自在さがあれば、もう一歩踏み込んで、さらに面白くなっただろうと、少し惜しい気がして......これは余談である。

ベートーベンの交響曲第5番は情報がありすぎて扱いの難しい曲なのに、作品の力と技が織りなす呼吸を捉え、含みのある音楽に仕上がった。黒田氏は第一楽章の二つのフェルマータで、最初の方は二分音符を延ばさずにさっと切り上げ、次に移った。これで、新鮮な感情が一気にはじけて思わせぶりなフェルマータの意味はなくなり、その意図は演奏によって明らかにされていきます。適切な選択であったかどうか、これを独断と言ってしまえば論は停止します。むしろオーケストラ活動をする上で、音楽へのこうした積極性を、必要な実験として評価するのが妥当であるでしょう。第二楽章の変奏曲にはそうした思いがこもったのか、繰り広げられる四つの変奏には堅苦しい無愛想さがなく、良い気分にさせてもらった。第一と第二変奏のヴィオラとチェロ、第三変奏でのフルート、クラリネットなど木管の響き、リズムが伸びやかで爽やかに聴かせたのは驚きである。それを強く感じさせたのは第三楽章のトリオの冒頭で、チェロとコントラバスが軽さを伴った重厚な響きを、なに気なく鮮やかに鳴らしきったことだろう。第四楽章への移行部は響きに粗さが混在して、いささか緊張感を欠いたが、スケルツォから再現部へかけての熱い演奏に、明日への希望が感じられたのは幸いでした。

アンコールはJ.S.バッハの「G線上のアリア」。弦楽合奏の祈るような吐息が静かにもれて、腹の底まで降りてきました。(2018年7月16日)

(付記)

会場の響きが気になり、翌週の赤穂公演にも出かけた。同じ曲目なのに、別の音楽が現れたのには驚いたが予期していたことでもあった。姫路公演とどう違ったのか、少しばかり記しておきたい。

モーツァルトの曲では独奏管楽器の響きが鮮明で音の通りが非常によく、存在感を示した。度々オーボエ四重奏曲を聴くような印象を受けることがあったのは、そのせいだろう。オーケストラは弦楽器の響きの良さを得て独奏管楽器と自在に絡み、協奏交響曲を大きな室内楽のように鳴らした。オーケストラの弱奏はよく通り、管楽器の強い響きも浮き上がらず、バランスよく引き締まった演奏を披露した。このような様式の過渡期にある音楽作品は、こだわりなく自由に楽しむのがよろしいようです。

「運命」はまさに驚きの連続で、ホールの響きはかくも音楽の姿を変えるものであるかと、唖然とさせられました。アンサンブルはこれまで姫路交響楽団から聴いたことがないエネルギッシュなもので、響きの彫が深く音楽が多面的、立体的に聴こえてきた。「運命」が熱っぽい曲であると知りながら、これほどまでと思わなかったのは迂闊でした。逞しさ、高ぶり、まっしぐら、迫力、熱情といろいろ思い浮かびますが、いずれの言葉も熱っぽさの一面を表しています。そしてこれらの感情が演奏に乗せられて代わる代わる押し寄せてきたのです。これには圧倒されました。第四楽章のスケルツォから再現部、コーダへかけての昂揚感と歓喜の爆発は滅多に聴けないほど熱烈。大きな収穫になったことだろう。(2018年7月30日)

(第79回定期演奏会)中庸の道

人は新たな出会いを味わう楽しみがなければ、演奏会場に足を運ぶことはないでしょう。姫路交響楽団第79回定期演奏会で、シューベルトの交響曲第7番「未完成」を聴いてそれを実感させられました。

第一楽章冒頭の序奏から弦楽器の張りつめたような弱奏が美しく、繊細で透明な響きがコーダまで乱れない。音楽の流れも自然で芯が通り表情が次第に明瞭になった。この曲には人の世の悲喜こもごもの感情が執拗に捉えられ、表わされています。聴くにつれて親しみやすいと思えた音楽も、シューベルト自身の哀歓が隠しようもなく現れ、生き物のように絶えず表情を変えていきます。黒田氏はそうした感情の動きを分かりやすく表現するために、シューベルトになりきるのではなく、一歩手前で踏みとどまる中庸の道を選択したようです。何より、それで肩の力が抜け音楽の表情が朴訥になり味わいに凄味が生じた。シューベルトが日常の身辺から音をすくいとり、響きをつづり、ひたすら感情を連ねていく過程には、自分とは無縁の特別な出来事ではなく、日々の生活を淡々と記し並べていくだけで、音楽がただそこにあるものとして表わされていく様が見られます。それで充分足りていたのでしょう。黒田氏はそれを気負わず、大仰にならず、無理のない語り口で何でもない音楽として提示することで、シューベルトの想いは裸にさらされ、深い抒情と優しく誠実な音楽が現れたのです。

第二楽章でも弱奏に崩れはなく、管楽器が音楽に寄り添う様な表情を響かせます。オーケストラ全体の強奏が派手な響きで音楽の妨げになることもなく、ひとつひとつの音を大事にしながら余計な感情は排除、終始緊張感が演奏を支配し、静かな熱情がたぎり、想いのこもった音楽を生み出しました。オーケストラがさわやかな響きでありながらも、ずしりとして存在感を示し、これまでにない味わいの「未完成」を聴かせて成長を感じさせたのは大きな収穫でした。

もう一曲、ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」は大変な熱演ながら、今一つ盛り上がらず焦点が定まらなかった。

まず木管と金管の組み合わせで構想の荘厳さを象徴する壮麗、豪放な響きは魅力的に仕上げられ、輝くような躍動感がありました。一方弦楽器は曲の始まりでの楚々としたトレモロが聴き取りにくいばかりでなく、全曲を通して強さが足りなかった。この演奏を一つの試みとして捉えるなら、管と弦による響きの調和をより工夫すべきだったでしょう。

アンダンテは感受性が強烈な楽章ですが、管楽器と弦楽器のデュナーミクのレベルが安定しなかったせいか響きがぼやけ、つかみどころのない演奏になった。そうした中、黒田氏はホルン、トロンボーンとコントラバスのピチカートによる響きで情趣ある雰囲気を醸し出し、いかにもブルックナーの静謐な一面を捉えて一興を呈しました。

アレグロの神秘的な表情を力強く示した表現と牧歌的な短いスケルツォは同様に忘れがたく、管楽器による壮麗な響きにも華がありました。ブルックナーの音楽は緻密で内には自分の想いを最良の形で伝えようとする気迫がたぎっています。決してオルガンのイミテーションではない木管と金管の響きやハーモニーを、バランスを取りながらゆっくり譜面に記していくような思慮の深さが音楽を魅力あるものにしています。だからこそ、その探求の想いが聴く者へ静かに染み込んでいくのでしょう。多様な音楽を演奏すればするほど音楽に敏感になります。今回の演奏が素晴らしい試みの一つとして記憶されることを望みたい。

アンコールはヨハン・シュトラウスのワルツ「美しき青きドナウ」。ブルックナーで疲れた耳を優しく包み込んでくれるような響きが心地よい演奏でした。シューベルトの「未完成」同様ワルツは肩ひじを張らずにいただくのがよろしいようです。そのためのマナーもだいぶ身についてきました。いや、これはウィーンのスイーツの話でした。それにつけてもこのオーケストラはワルツがうまい。すべて音楽はかく楽しみたいものです。次回も期待したい。(2018年5月4日)

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