姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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目次

    

(第74回定期演奏会)生きるよろこび

ロシア音楽を3曲、姫路交響楽団の第74回定期演奏会で聴いた。

1曲目、ムソルグスキーの交響詩「禿山の一夜」は、不気味にうねるような情景が弦の動きでしっかり描写され、跳梁する魑魅魍魎たちの支離滅裂なうめきが魅力ある騒ぎとなって押し寄せたっぷりと楽しませてくれました。ただ、弦にしなやかさがあり表現にもっと荒々しさが加われば、繰り返される弦のうねりが一様な表情にならず、音色やリズムにも変化が生まれ作品のグロテスクな味わいがより明瞭になったと思われます。

次はチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ 作品48」。ひたすら生真面目で、大仰に感情を吐露するようなこの作品に必要なのは、緻密なアンサンブルによる透明なハーモニー、それに弦の艶やかさであるだろう。第1楽章から精力的なアンサンブルを聴かせたが、ハーモニーがこの曲特有のユニゾンの塊になりきらず少しばらつきがあった。大人数による演奏で響きが濁り、音質の焦点がぼやけハーモニーに透明感を欠いたせいである。本来兼ね備わっている楽器ごとの音色、響きの質感の違いを考慮するなら少人数での演奏が望まれます。第3楽章でいくぶん余裕を感じましたが、弦に艶やかで美しい響きがあったなら、第4楽章の重厚な合奏にカラリとした透明感が生まれたことでしょう。

最後は当日随一の成果を示した、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)。ラヴェルの音楽には、意表をつく技で人を魅了するパリの見世物小屋や、サーカスが提供する悦楽に影響されたであろう生きるよろこびがあふれています。たとえば彼の作曲する不協和音には、役者が花道で見得を切っているような粋な遊びがあります。彼は無くてもいいと思える不協和音を登場させては持前の名人芸でこれを処理する、と言うのがその流儀です。その過程はごく短いのですが、人に驚きとたのしみを瞬時にもたらす魅力があります。
 また、ムソルグスキーの音楽でも同じように、びっくりさせられることが少なくありません。「展覧会の絵」も例外ではなく、この作品にはきっとラヴェルの美意識に通ずるものがあったのでしょう。その編曲には曲ごとに管楽器、打楽器の意表をついた起用があって思いもかけぬ驚きで人を楽しませる仕掛けになっています。彼が原曲のピアノ曲を最新のパリ・モードへと装いを変えるにあたり、冒頭のプロムナードにトランペットを起用したのは妥当な選択でしょう。彼はあらゆる展覧会がお祭りを意味することをよく知っていたのです。お祭りの開幕を告げるのにこれほど華やかでふさわしい楽器はありません。

黒田氏はお祭りらしく朗々としたトランペットの輝きをもってプロムナードを始め、第1曲「こびと」の異様な雰囲気にみちた表情をうまく捉え上々のスタートを切った。第2曲「古城」でサクソフォンが響かせた音色は、この世と冥界の間を浮遊するかのようなあらぬ趣をたたえて音楽の懐が深くなった。ファゴット、クラリネットも感傷に流されずサクソフォンと自然にかみ合って品格を醸し、この曲の感性をあらためて示したのは見事でした。第3曲「チュイルリーの庭」から第9曲「バーバ・ヤーガ」までは、七つの異なる出し物が順々に演じられてゆく趣向になっています。黒田氏の音楽づくりはいずれの曲でも表情が出しゃばらず落ち着いた表現だったので、曲ごとにポイントになっている管の音色、響きとリズムが逆に際立つこととなり、音楽にラヴェルの意図した驚きと楽しさがあふれる熱演となりました。管を支えるオーケストラの反応がよかった結果であるでしょう。第10曲「キエフの大門」でオーケストラは凄まじい響きの洪水を、整然と彩り豊かに聴かせて表現に柔軟性を感じさせました。結びの凱歌から嬉々とした生きるよろこびが湧きあがってきたのは、これはもうラヴェルの意図に立派に応えた楽しさいっぱいの演奏であったと申すべきでありましょう。ラヴェルの仕掛けを随所で垣間見るような名演でした。

アンコールはハチャトゥリアンの組曲「仮面舞踏会」より第1曲目のワルツ。オーケストラが水面を軽快に滑るアメンボよろしく舞って、ワインならぬワルツで少し酔わせてくれました。うまいものです。

今回の定期は「展覧会の絵」の多彩な表現に尽きるでしょう。また一つ、一里塚を刻んだようです。(2015年12月28日)

(第73回定期演奏会)漂う風格

進境著しい姫路交響楽団が、第73回定期演奏会で珍しくフランス音楽を2曲、他にメインとしてドボルザークの「交響曲 第8番」を12年ぶりにとりあげた。

そのひとつ、骸骨の踊りをモチーフにしたサン=サーンスの「交響詩 死の舞踏」は一聴三嘆、容貌怪異でとらえどころのない作品です。指揮の黒田氏は冒頭の静けさの中から登場する骸骨が踊りあかして退場するまでを、めりはりの利いた合理的で緊張感のある情景作りに徹し、巧みな語り口で頗る(すこぶる)美味な音楽に仕上げました。オーケストラも自在で臨機応変、きりっとした対応で説得力のあるサウンドを聴かせ、ヴァイオリンが多彩な響きで木管や金管と交わす対話、受け渡しをくり返すごとに滑稽なおどろおどろしい場面が現れ、幕末の浮世絵師国吉の描く妖怪画さながらの世界を表情豊かに示して感動的、呆気にとられました。サン=サーンスのラテン民族らしいカラッとした幽霊の踊りに、姫路交響楽団は飄々と(ひょうひょうと)応じた感があります。

もうひとつ、フォーレの「レクイエム」は、演奏が作品の簡素で洗練された叙情の域には、最後まで届かなかったようです。女声合唱をオルガンとオーケストラが懸命に支えましたが、合唱がオーケストラの陰にかくれて控えめな状況に陥り、合唱の存在感が薄くなったこと、オーケストラが合唱とのバランスをとるための配慮が足りなかったことなどが要因と考えられます。それでも合唱が主体のパートでは、疑いもなくきれいなハーモニーを届けてくれたのですから、結果をポジティブにとらえて、今後も正確な発声を心がけ励んでほしいものです。団員不足もさることながら、オーケストラとのリハーサル不足が今回の結果を生んだ最大の要因と考えられるので、現状でこれを乗りきるためには、何よりオーケストラとの音量バランスをはかることが肝要に思われます。音楽への愛情と歌うことへの喜びをもって、再度この作品に挑戦されることを願ってやみません。

当日の最後を飾ったドボルザークの「交響曲 第8番」は、生まれ育った土地へのあふれる思いを楽章ごとに、形を変えながら歌いあげたボヘミアへの賛歌と言えるでしょう。ボヘミアの野と森、自然とそこに生きる生きものたちを語って、驚くほど人間味を感じさせてくれる作品です。いわば人間の優しさについて、ドボルザークが社会になげかける啓示であります。

まず、第8番の総譜に書きしるされたスラヴの美意識や作曲家の思いを取り出して、さり気なく示す黒田氏の姿勢には気負いがありません。ふんわりとやわらかな第1楽章のチェロによる序奏を心地よい優しさで包みこんだのは、この作品に迫るアプローチとして、まことに理にかなったものであります。フルートをはじめ、この楽章における木管は表情に安定感があり、優美な弦とうまく調和して演奏に余裕を感じさせました。金管は節度を保って充分に歌いながら、的確に表情を性格づけます。

第2楽章での弦もまた、まろやかで伸びのある響きでフルートとオーボエをサポート、さわやかに調和を演出しました。

さて、曲中で最も知られた第3楽章冒頭のメランコリックなメロディーを、ともすれば熱演しようとするオーケストラを抑え、品格のあるものとして示したのは見事でした。何とも美しい弦の響きにのって、切々と思いを語る作曲家の息吹が伝わってきたのは、作品が見せる自然な表情を重視した音楽づくりに徹したからでしょう。

終楽章は誇張された表現を排し、作曲家個人を超えた人間賛歌としての普遍性を作品に見出したような、底の深い音楽を提示して圧倒されました。黒田氏の率直な人柄と楽員たちの強い自発性が作曲家の思いをたぐり寄せ、人間味あふれる演奏に昇華させたのは自然な成り行きであったでしょう。

対象への思いを緻密な作業で丹念にほぐして再構成し、奇をてらわず誠実に語りつくす。このような手法は一見単純に思えて、実際はやり遂げるのがとても難しいことなのです。ボヘミアの香りまでが思いに乗って漂って来たような、優しさと調和に充ちた芯の強い演奏を聴かせてくれました。

また、オーケストラも氏に寄り添いながら、のびやかで美しい弦の響きと、躍動する管の生気が相まって、これまでになく完成度の高い、堂々として風格のある音楽を作り上げ、第8番の本質をしっかり掴み取ったと思われます。

アンコールも同じドボルザークの「スラブ舞曲 第8番」。「交響曲 第8番」の終楽章を受け継いだ趣のある曲で、オーケストラはスラヴの風を思いのままに気持ちよく吹き付けておりました。まるで、「交響曲 第8番」の残り香を吐き出すように、楽しく、いい演奏でした。 (2015年4月23日)

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