姫路交響楽団のマーク姫路交響楽団

Himeji Symphony Orchestra

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目次

    

(第76回定期演奏会)11年目の境地

姫路交響楽団が第76回定期演奏会で、11年ぶりにブラームスの「交響曲第4番」を再演するのを聴きました。他にチャイコフスキーが2曲。まず「スラブ舞曲」は確たるアンサンブルと金管の伸びやかな美しい響きが、作品の魅力をうまく捉えました。スラブの憂愁といくぶん派手な風味が交互に按配された構成には、聴く者を飽きさせぬ作曲者の配慮と面白さがあります。弦楽器と木管楽器も過不足がなく堂に入った音楽づくりで、さながら映画の一場面を見ているようでした。

「ロココの主題による変奏曲」はチェロの朗々とした響きに押されて、オーケストラは対応しづらかったのか工夫が及ばなかったようです。響きにもっと厚みがほしかったし音量も遠慮がちでした。チャイコフスキー特有の派手やかさをもっと強調してもよかったと思われますが、独奏チェロとの協演が初めてとあっては、それは贅沢というものでしょう。

ブラームスの「交響曲第4番」はバイオリンによる第一主題の提示部で、心を動かされずには居られないような魅力ある感性を示して、冒頭から表現に熟慮を感じさせました。オーケストラがバランスよく響きとリズム、音色を融合させてゆったりした流れを形づくると、黒田氏はさまざまな感情が複雑に交わるいくつものフレーズを、ほどよい緊張と穏やかな表情で捉え、音楽の内容を鮮やかに示します。堅実な合奏が基盤となっているので、音の抑揚や緩急のうねりが自然で説得力ある表現になったのでしょう。ティムパニーが繊細な弱音から張りつめた強音まで、的確にコントロールされた音をタイミングよく叩き出して音楽の性格を印象づけ存在感を示しました。

第二楽章ではホルンに少しムラが生じ惜しい気がしました。美しい弱音が要求され非常な緊張感を強いられる楽章なので、つい力が入ったのでしょう。他は全て落ち着いた響きを聴かせたのですから、ここは緊張をほぐすことが肝要だったようです。

スケルツォは賑やかさを含んだ楽章ですが、黒田氏は肩肘を張らずに豊饒な音楽として自制された歓喜を響かせました。騒々しくならず、めりはりの利いた表情を示したのは、感動的な表現を抑えることで感動を誘う氏の洞察力によるものと評価したいです。

第四楽章は変奏曲形式とはいえ不思議な味わいが漂う音楽です。ブラームスが一枚ずつ薄皮を丹念に重ねるように生みだした響きは重厚透明で強靭、仄かに色彩が匂います。オーケストラはそうした情感をすくいあげ、哀しみとも叫びともつかぬ想いを切々と歌いあげていきます。そこにあるブラームスの尋常ならざる想いのたけを伝えた表情づくりは秀逸でした。黒田氏が姫路交響楽団から現在望み得る最高の響きを引き出して、作品の核心に迫ったのは、合奏能力がひときわ向上した楽員達の自主性によるところが大きかったことでしょう。演奏は大きなうねりを伴った流れとなり、ブラームスの想いをありったけ乗せて味わいの深い、余韻さめやらぬ感動を心に記してくれました。新たなる境地の始まりです。

アンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲第6番」。例によってオーケストラは初めの数小節で、ウィーンとブダペストが醸す文化の香りを雅(みやび)に匂わせました。これにはびっくり仰天。ブラームスの息づかいが聴こえてくるような達意の表現でした。このオーケストラはプレッシャーのかからぬアンコールになると、いつも伸びやかな音楽を魅力たっぷりに聴かせてくれます。今回もまた大いなる喜びを堪能させてくれたことに感謝。(2016年 12月3日)

(古典シリーズ第8回演奏会)お喋りはやめられない

姫路交響楽団による第8回古典シリーズで、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番」とシューベルトの「交響曲第8番 ザ・グレート」その他を聴いた。

最初はモーツァルトの歌劇「後宮からの逃走」序曲。この曲は手のこんだ工夫を凝らさずに、抑制された中庸のすっきりしたリズム感といくぶん乾いた感覚で聴かせるのがよろしいようです。うまいもので面白く聴きました。

次に「ピアノ協奏曲第20番」はピアノがみずみずしい音色で登場し、透明感ある響きと軽やかな音運びで音楽の喜びを素直に歌い上げ、最後までオケに寄り添って聴衆をわかせました。この曲にはモーツァルトの木管楽器へ寄せる愛情があふれ、その扱いには魅せられます。音色、響きといった技術のみならず、ライブ感覚を漂わせるピアノとの対話は即興演奏のような面白さを孕んであきさせません。ところが木管の響きが弱く明瞭でなかったためにピアノとの十分な対話がかなわず魅力が半減したのは気になるところです。

3曲目、シューベルトの「交響曲第8番 ザ・グレート」は長大で冗長、饒舌なお喋りだとの批判もあるようですが、随所に小気味のよいメロデイーが按配されているので、全編あきることはありません。黒田氏と姫路交響楽団はそんな杞憂を見事に一掃して、長く記憶にとどまるだろう爽快な音楽を聴かせてくれました。

第1楽章冒頭、ホルンを先導にテーマが悠揚迫らず立ち上がってゆく様は何とも伸びやかで心地よく、これには黒田氏もオーケストラに手応えを感じたことでしょう。この作品の特徴のひとつは同じテーマ或いはメロデイーが何度も繰り返されるところにあって、この楽章でもオーケストラが繰り返しの度に温和で厚みのある和音を響かせて、晴れやかな広がりのある空間を演出すると、波紋が広がるように曲の魅力が増していきます。オーケストラの無理のない語り口が音楽の方向性を見定めたような表現を生んで充足感がありました。

第2楽章はゆっくり弾むようなリズムで始まり、すぐにオーボエがテーマをなぞります。その感触は音符を舐めるように慈しんだ音色で詩情があふれ、曲の深い情感を示して優美でした。このテーマは後にクラリネットが繰り返しますが、オーボエに寄り添った優美さを淡々と響かせて、また違った詩情を醸します。その後も両者は同じテーマを交互に繰り返しますが、これは単なる繰り返しではありません。その度に曲の緩急、リズムやニュアンスが微妙に変化を続けるからであるし、受け取る側のセンスでそれらの変化を補ってやることも一興です。この楽章における木管楽器の透明な響きは艶のある弦楽器の音色と結びついて、曲の情緒をたっぷり引き出したようである。

第3楽章も管楽器が味のある表現で弦に溶け込み決して重くならないリズムとみずみずしい響きで、リアリティーのあるスケルツォを作り上げました。弦の厚い響きの間から木管の抒情的な表情が浮かび上がり、金管との迫力ある合奏の賑やかさにも情緒が醸しだされるあたりのニュアンスの美しさは格別で、黒田氏の息づかいが聞こえてくるようでした。オーケストラはそうした情感をそのまま第4楽章に持ち込んで、あたかも残り香を嗅ぐように繰り返します。フィナーレで繰り返されるテーマの金管に力みがなかったのは如何にも象徴的でした。充実した表現とはこのような演奏をさすのでありましょう。

アンコールはシューベルトの劇音楽「ロザムンデ」より間奏曲 第3番。甘く切ない音楽に洗練された品格をもたらした当夜の演奏にちょいとばかり呆れました。(2016年 7月22日)

(第75回定期演奏会)音が飛び散る

異質な曲を2つ、姫路交響楽団の第75回定期演奏会で聴いた。チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」とベルリオーズの「幻想交響曲」である。ほかにロッシーニの歌劇「どろぼうかささぎ」序曲。

オープニングの序曲はウォーミングアップよろしく、これぞロッシーニというクレッシェンドを味わった。無理のない音の流れを気分よく味わうことが出来るのは幸せというものである。

2曲目のチャイコフスキーは、独奏ヴァイオリンとオーケストラ双方の響きが異質で、対話がうまく噛み合わなかったようである。第1楽章の序奏から第1ヴァイオリンの響きがかたくて音に伸びが足らない。オーケストラの前奏にも透明感がなく、響きにもう少し余裕があれば表情に厚みとふくらみを生んで、独奏ヴァイオリンとのやりとりが華やかになったと思われます。これでは独奏ヴァイオリンは登場しづらかっただろうし、指揮の黒田氏もバランスのとれた音楽づくりに苦心を強いられたことでしょう。この協演で印象に残ったのは独奏ヴァイオリンです。メリハリの利いた明るくみずみずしい音色とけれんのない表現でオーケストラと渡り合い、この曲の華やかな味わいを素直に掴み取ったようです。幾度か響きのバランスが崩れオーケストラに飲み込まれそうになりましたが、堅実なテクニックで過不足なく演奏を盛り上げた協演の達成感は、黒田氏と共に喜ぶべきことであるでしょう。まだヴァイオリンの表情が整いすぎる傾向があって、より奔放さが望まれます。遊びの感覚と言えば過ぎるでしょう。遊び心と言えば足りるだろうか。孤軍奮闘ぶりを堪能させてもらいました。

当日のメインとなった「幻想交響曲」は、ベルリオーズの孤独な妄想が狂気へと変容をとげる過程を楽しむ音楽であると言えるでしょう。そのためにはどのような表現であろうと、ロックを楽しむ若者たちにさえ、こぞって楽しんでもらえるような面白い演奏が求められます。

「幻想交響曲」から標題音楽の看板をはずして演奏すれば、この曲は純粋音楽としての新たな可能性を存分に発揮するだろう。もし世間の常識に逆らってそんなことを言えば、場違いの意見として冷笑されるのがおちである。しかしこれを試みることの大事さを黒田氏が選択したのかどうか、今回の演奏を聴いて考えた。

第1楽章の冒頭で失意が徘徊しているかのようなうっとうしい気分を、黒田氏は序奏を幾分強めに始めることでさっさと振り払った。オーケストラは暗く沈んだリズムを引きずらないでポジティブに管を響かせたので、全体のトーンが上がり強い表現になった。氏が音楽そのものを第一義として捉えた結果だと考えられます。これは第2楽章のワルツも同じです。曲中で唯一詩的な雰囲気を伴ったしなやかなメロディーを、甘さを控え飄々(ひょうひょう)と歌わせたのです。そのためにかえってワルツの存在が印象深くなったようです。

第3楽章のコーダは面白く聴いた。中でも打楽器は、表情豊かな響きを叩き出してきっちり曲を引き締め、第4楽章への繋がりを予感させた。ここでも表面的な物語性より、音楽自体の有機的な継続を重視する表現を聴くことが出来ます。第4楽章のめくるめく輝きを、オーケストラは少々の乱れは気にかけず緩急自在に操って、聴く者の身体に訴えた。このように強く訴えることを意識した演奏は、必ずやインパクトの強い感動を生みだすに違いありません。

終楽章に登場するグレゴリオ聖歌の「怒りの日」が、あたかもベルリオーズの作曲によるものであるかのように錯覚することがあります。「怒りの日」へ導くためのプロセスに、人が生まれながらに背負う孤独な情感が色濃く刻み込まれていて、個々の情感をそこに擦り合わせることで何かを感じ、強いリアリティーのある思いが甦(よみがえ)るからでしょうか。黒田氏の余計なものを持ち込まない音楽づくりは、オーケストラにみなぎる躍動感をもって音が狂喜で飛び散るようなフィナーレを演出した。標題音楽であることとは無縁で、逞(たくま)しく非常に面白い演奏でした。どうやら黒田氏は場違いの意見を選択したようである。これならきっとロックの若者たちも満足することでしょう。

この楽団はアンコールで面白い演奏を聴かせてくれる習わしがあって、今回もベルリオーズの「ファウストの劫罰(ごうばつ)」より「ラコッツィ行進曲」をたっぷりと楽しませてくれた。ベルリオーズの手にかかると行進曲もワルツ同様、余人とは異なり、何だか怨念めいて表情は複雑です。そんな曲を楽しませてくれるのですから、この楽団も相当なものである。(2016年4月17日)

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