吟道吟道清峰流 

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漢詩抄5                                                                                                             1へ戻る 

第5章
《 山 行 》
---遠く寒山に上れば 石径斜めなり
---白雲生ずる処 人家有り     
---車を停めて坐に愛す 楓林の晩 
---霜葉は 二月の花よりも紅なり 

 遠くの寒山に登ろうとすれば石経斜めなり      
 (舗装路など無い時代に「石径」とことわるのは、小石でなく かなり大きな岩石が
  ゴロゴロと並んでいる状況だろうか、「斜めなり」とは急峻であると理解できる)  山のトレッキングコースにあるロックガーデンが空想されます、 如水考
  白雲生ずる処(霞の掛かっている辺り)人家が見える。        
 ( 山水画によく見られる仙人の住まいだろうか )

 この二行で作詞者は「寒山」(仙人の棲みそうな深山幽谷に)に登るのか登らないのか判らない。 科挙(難関試験)に合格して官職に就き赴任した地方役人である 杜牧は車で移動できた。  
寒山の麓まで牛車で来て坐(偶然)に見かけた楓林の紅葉に見とれておそく (暮れに) なってしまった。    
其の紅葉の見事さに この霜葉は二月の花よりも紅なりと感嘆した、と解される。 
 (二月の花とは、古典の通例として、桃の花を指す) 
別解釈 : 杜牧にはかつて結婚を約束した少女がいたが、しばらくぶりに再会すると、すでに二人の子どもの母親になっていたが、その美貌は、十七〜八歳の年頃の女性よりも素晴らしい、という意味だと解されている。

 すなわち、「霜葉」が再会した女性、「二月の花」 が十七〜八頃の女性 の比喩になっている。 
結局 杜牧は、車で詩を作る為の旅(詩歌の題材を求める吟行)で寒山を見上げる麓まで出かけ
この叙景詩を作ったのだろうか。 如水考

建仁寺で活躍した江西龍派(1375-1446)の説には、杜牧はこの詩には「別意図」、すなわち、言葉の表面には現れない、作者の隠された意図、本当に言いたいことが あったのではないか。
 それは、当時の朝廷には自己の利益しか考えない、人格の劣った人々が多くいて、作者の杜牧 は活躍できず さまよっている、と いうことを描いた詩である。と!  
「白雲生処」は朝廷、「山」は皇帝、「霜葉」は小役人共、「二月の花」は君子、すなわち、人々(人民)のことを考える人格高潔な人(作者自身の比喩)と捉えれば、紅葉は霜が降りれば すぐに散ってしまう、はかないものではあるけれども、あまりに美しいために、皇帝も一時目を奪われてしまって、本来 もっと美しい二月の花には注目しない、というわけです。
 つまり、単に風景を描いた詩であるかのように見えながら、その奥に、当時の政治に対する作者 の不満が隠されている、と解釈したもの もある。   
 詩に隠された作者の心の中までを凡庸に空想するなら、    
山峰へ遠々と上ろうとすれば、石高なる悪しき径にて、行き難き処か、人家は白雲の生ずる辺りにみえ頂上にある、石径の難路を凌いで登るのは大儀だなあ〜、と思っている かな〜。 
 未だ登らざる時の詩であるといえるでしょうか。

塩瀬宗和も、単なる山登りの詩であって、別の意味(つまり別意図)はない、と解釈しています。
さらに 建仁寺の僧侶九淵龍深は、「只自然の景なり」と美しい風景を素直に描いた叙景詩である。
と結論づけています。
ツァイツェン