吟道吟道清峰流
K4
第2章
《農を憫む (李紳 作)》 唐の詩人 780年 (奈良時代)
禾鋤日当午---禾(稲)を鋤いて日(陽光)午(正午)に当る
汗滴禾下土---汗は禾下(稲の根元)の土に滴る(滴り落ちる)
誰知盤中飯---誰か知る(ご存じか)、盤中(椀中)のソン
粒粒皆辛苦---粒粒(一粒一粒)皆(全て)辛苦(農民の苦労)の結晶であることを。
(三行目末、夕偏に食と書きソンと読む、貧しい夕飯)。
その心は、我が国では古くから、食事を始める時の「合図」の様に唱えられている手を合わせて「いただきます」の言葉に、コメ粒の大切さと感謝の気持ちが込められています。
購入したコメは自分の物で農民に礼を言う必要はないとの考えもある様に聞こえてくる事もあります。
現在では難しい事ながら、親から子へ大切な心の伝承の流れが途絶えているようで残念に思っています。
この様な詩を吟じる時、詩訳説明の機会を得て、心の伝承が復活して来れば良いなと思います。
※「農を憫む」( ノウヲ アワレム )の追記
この作品は、前半に壮絶な趣があり後半(前記)のみが有名。
春種一粒粟 春に種(ま)く-一粒の粟,
秋成萬顆子 秋に成る-萬顆の子(み:実)
四海無闢c 四海(どちらにも)-闢c(休耕田)無けれど
農夫猶餓死 農夫-猶(な)ほ-餓死するがごとし
春に一粒の種を播くと 秋には万もの実がなる。国中に休耕田はなく農民は皆精励しているのに(農民は高税のために)猶も餓死しようとしている。
第3章
若山牧水と和歌「しらとり」
若山牧水(1885〜1928)は宮崎県の生まれで、医師の子として生まれた。
本名「繁(しげる)」といい、牧水の由来は、母の名(マキ)と生家の周りにある渓や雨からとったものと云われています。
美しく豊かな坪谷で生まれ育った牧水は、学校から帰ってくると山にでかけてはキノコやタケノコを採るなど、大自然を相手に遊んでいた。こうした幼少期の生活が牧水の感性を育み、自然観や歌風にも大きな影響を与えています。
早くから国語教科は得意で、中学の頃には新聞や文芸雑誌などに短歌を投稿しはじめ、その数五百種を超えていました。
早稲田大学文学部に入学後は、同級生の北原白秋・中林蘇水と親交を深め、本格的に文学の道へ進むことを決断します。卒業と同時に第一歌集『海の声』を出版しましたが、当時は期待通りには売れなかったようです。
若山牧水「海の声」のURL頁へ
1910年に出版した第三歌集『別離』で高い評価を得て、歌壇の花形歌人となった。
その後自然文学主義を代表とする歌人に成長した牧水は、旅を愛し生涯にわたって各所で歌を詠み、今でも各地に歌碑が残されています。
また大の酒好きとしても知られ、一日一升程度の酒を飲んでいたといわれていました。そして43歳に死因の大きな影響となった肝硬変にてこの世を去ります。牧水は、短い生涯の中で約9000首もの秀歌を詠みました。
牧水は、明治期から昭和時代前期にかけて活躍し、酒と旅と自然を愛した歌人として知られています。
幾度となく訪れる苦境や孤独に苦しみながら、その生涯を文学にささげ、自然文学主義としての短歌を追及しました。
平易で親しみやすく、人間や自然への溢れる想いを詠った作品は、今なお広く愛誦されています。
・幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
・白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
・白鳥はかなしからずや 空の青海のあをにも染まずただよふ
吟詠
「白鳥は哀しくはないのだろうか。空の青色にも海の碧色にも染まらずに、真っ白な姿のまま漂っている。」 ( 空と海のあおは同じ「青」ではないので「青」とせず「あを」としている )
読みかたについて、「はくちょう」か「しらとり」かで様々な議論がなされてきました。初出雑誌『新声』(明治40年12月号)では「はくてう」とルビがうたれていましたが、
後の『海の声』では「しらとり」に改定されています。
今日では「しらとり」とする説が一般的です。
また、海辺に出会う白い鳥ということを考慮すると、この歌での「白鳥」は「かもめ」とも考えられなくもない。
この歌では「白鳥は哀しくないのであろうか」と歌い上げていますが、白鳥が哀しいのではなく、あくまで語り手が哀しいのであって、染まらずに漂う白鳥に自身の感情を投影していることが読み取れます。
この歌は、若山牧水が早稲田大学在学中、23歳の時に詠まれた歌です。この歌が収録された歌集『海の声』の中には、「かなし」と詠んだ歌がいくつかあり、彼の青春時代を象徴する言葉でもあると解されています。
ツァイツェン