吟道清峰流 

K6

漢詩抄4                                                     1へ戻る 次頁へ


第5章

盛唐の詩人王維作 あまりにも有名な送別の詩ご紹介させて頂きます。

 《送元二使安西     元二の安西に使するを送る

--渭城朝雨潤輕塵      渭城の朝雨 軽塵を潤し
--客舎青青柳色新      客舎青青柳色新たなり
--勧君更盡一杯酒      君に勧む更に盡くせ一杯の酒
--西出陽關無故人      西のかた陽關を出ずれば故人無からん

渭城の朝の雨が軽い砂埃を潤している。
旅館の前の柳の葉色も雨に洗われて瑞々しい。
君にすすめる昨夜は大いに飲み明かしたがここでもう一杯飲んでくれ。
西域地方との境である陽関を出ればもう旧友はいないだろうから。

語 解
◇元二・「元」は姓、「二」は次男であることを表す。
◇安西・安西都護府。西域に対する守護にあたった。現在の新疆ウイグル自治区のトルファンにあったが、玄宗皇帝の時代にもっと西の庫車(クチャ)に移された。
◇渭城は・渭水を挟んで唐の都長安と向かい合う街で現在の陝西省咸陽市。
 咸陽の別名,長安から西方に旅立つ人をここで見送る習慣だった。 
◇朝雨とは・朝方に降る小雨。 ◇軽塵は・微風に舞う砂埃。
◇客舎青青柳色新たなり客舎は旅館。その旅館の前の柳の色が青々としている、印象的な描写は別れを想起させる、昔の中国では送別の時に柳の葉で輪を作って贈る習慣がありには別れが結びつく。 
◇陽関は・敦煌の西南約70キロにある天山南路の関所。一方天山北路の関所は玉門関。いずれも西の最果て。その先はひたすら砂漠となる地の果て。
◇故人古くからの友人の意漢詩には頻出する言葉で死んだ人の意味ではない

解 説
 元二氏が西域地方に対峙する辺境守備隊安西都護府に、書簡をたずさえ使者として旅立って行く話しです。〔官命であるからには(孫悟空の物語の様に)従者を従えて長い旅になると想像できる〕 

 王維はその元二氏を渭水をはさんで長安と向かい合う渭城まで見送ります
 西へ立つ旅人を、ここ渭城まで見送る習慣でした。王維と元ニ氏は旅館で一晩飲み明かし、いろいろな話をして、翌朝いよいよ出発です。

 客舎青青柳色新な旅館の前の、しっとり雨に濡れた柳の青が印象的に描かれています。馬を引いて、朝もやの中出発する元ニ氏。その元ニ氏を見送る王維。はるかな辺境の地、安西都護府に使者として出発する親友の元二を、友人達と渭城の町まで送ってゆき、旅宿で一泊を伴にして、翌朝、別れの盃を交わすところの情景。

  この詩は数多くある中国の離別詩の中でも、最も有名なものでわが国でも古くから愛誦されてきました。この詩はまた陽関三畳」と呼ばれ別離の席では、結句全体または最後の結句だけを三度繰り返し歌うことでいつまでも別れを惜しんだそうです。

  しかし、この詩を今頃の歓送会で、よほど親密な友以外の人に向けて詠うのはどうでしょうか。例えば、遠くの地方に左遷された友に対しては好ましくないでしょう。
その理由は、次の現代語訳を読めば解ります。
「西のかた陽関を出ずれば故人無からん」。(日本語では「故人」にこだわりがある)

  渭城の町の朝、明け方の雨が空中の埃を洗い流し、旅館の前の柳も青々と生気
 を取り戻した。
 元気で!喰い物にはくれぐれも注意してな」、ああ、そっちもな最後にもう一杯いけよおっとおい昨夜あんなに飲んだのに、まだ飲ませるつもりか」、「夜の酒は夜の酒だこれはまた別物だ」 「さあ出発前に旅路の安全祈願にもう一杯だけ飲んでくれまいったなあごくっごくっごくっごくっ ぷは〜」こんな感じでしょうか www
  君よ、さあ もう一杯飲み干し給え陽関を出て西へ向かえばもう呑み交わす旧友達もいないのだからと。送別の宴会で歌うなら転句までは いいですね。結句の故人ではない詩文にすればどうでしょうか。
 浅学の愚生には詩才がないので替え句は浮かびませんが、良い文句はないでしょうか?例えば「旧知無からん」とか。結句でぐっと送る側の情が深まり愛誦される詩になると思います。
  特攻機で戦地に向かう友にむけてこの詩が詠われたかもしれませんね。

 王維は 盛唐の詩人(701〜761)は、李白(701〜762)や杜甫(712〜770)と、同時代の詩人。
 七言絶句『送元二使安西』は、あまりにも有名。
 渭城は長安の西北方、渭水のほとりにある。安西は現在のトルファンの交河故城。ここに唐は安西都護府をおいていた。
 安西都護府に行くには、まず、河西回廊を西にすすんで敦煌に至り、陽関を出て楼蘭(ローラン)経由の西域南路をいくか、玉門関を出て西域北路をいくかだ。
 遥かゴビ砂漠の先となる、西安から敦煌(トンコウ)まで、直線距離で約1,500km。敦煌からトルファンまで、約1,000km。ちなみに、敦煌の街から陽関まで約70km。陽関から先は、まったくの茫洋たるタクマラカン砂漠だ。

 詩は、ずいぶんさらりと言ってのけているが、これから旅をする身になれば、前途の遥かな旅路約3000km(稚内から鹿児島まで約2000km)に茫然となったことと想像出来る。
 したがって、結句の「西出陽関無故人」は、「陽関三畳」と称して、3度繰りかえす慣わしになっている。このリフレインで、はるかな距離が身に沁みてくる。
                                                                              ツァイツェン