本稿を大幅に加筆修正したうえで、その後の経過と、今日の状況・心境をまとめた章を付け加えた電子書籍を公刊しました。
『胃がんに出会ったの記ーがんサバイバーとしての序章ー』(2015年6月)をご覧いただければ幸いです。

http://www.amazon.co.jp/dp/B0107FKH82
バナー闘病記
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             胃癌に出会うの記 (2006年11月19日脱稿)

                 京都大学経済研究所教授 坂井昭夫


 

  1.事の始まり
  2.告知を受けて

  3.検査、検査、また検査
  4.入院の哀感
  5.インフォームド・コンセントに思う
  6.「屠所の羊」と玄室の妖気
  7.歩行練習中の昏倒、そして腸閉塞
  8.最悪の1
  9.デジャヴと近未来のシナリオ
   10. 絶飲食からの解放
   11.予期どおりの腸閉塞の再発

   12.退院への流れ
   13.TS1の服用と「闘薬」の思い

   14. 定年を間近に控えて

 





               1.事の始まり 



 大学院ゼミの最中に腹痛と吐き気に耐えられなくなり、いつもゼミに加わってもらっている他大学の教員、関西大学のKjさんと和歌山大学のKwさんに後を託して早退したのが、5月22日の3時ごろだった。乗ってきていた自転車で帰宅したが、普段なら銀閣寺近くの我が家まで10分足らずの道のりなのに、この日はまるで上り坂の斜度や距離が倍増したかのようで、家にたどり着くのに30分近くを要した。青息吐息の苦行を終えて倒れこむ感じで布団に入ってからも体調はいっこうに改善せず、夜になって‘胃が裏返る’とでも表現したいほどの勢いで何度か嘔吐した。
 実は、腹部の差し込みは数年前から時々起きていた。時代劇のなじみの台詞を真似て、少し自嘲的に「持病の癪が」とつぶやくようになったのは、一体いつの頃からだったろう。その癪の頻度が5月に入ってにわかに高まり、ほとんど毎日、何時間か痛みに襲われ、夜中に戻すこともあるという状況になっていた。当然ながら、受診を促す妻や娘たちの声も日増しに強まったが、あいにく私は生来の医者嫌いときており、あれこれ理由をつけて病院に行くのを一日延ばしにしていた。昨日より痛みがましな気がするのでもう少し様子をみようとか、明日は予定が入っていて診察時間に間に合わないとか、引き延ばしの口実には事欠かない。だけど、荒海なら待てば海路の日和も巡ってこようが、こと病気となると待っているだけで自然に癒えるラッキーなど、そうそう期待できはしない。常識的にみて悪化をきたす方が普通であって、私も通例の道をたどって22日の体たらくとあいなった次第である。
 翌23日、家から歩いて十数分のところにあるB病院の内科を訪ねた。新築なったばかりの眺望がきく開放的な外来棟で、何となくそれに似つかわしい観のある、はつらつとした30代半ばとおぼしき女医のM先生が私を診てくれた。と言っても、その時点では問診を経て幾つかの検査の日取りが決められたほか、とりあえずの措置として2種類の内服薬を出してもらうことになっただけだったが。
 処方された薬は、胃酸や胃液に含まれる消化酵素の分泌を抑えるガスターD錠と、胃粘膜の修復に効果のあるドグマチールカプセルで、ともに胃・十二指腸潰瘍の治療を主目的とするものだった。とりたてて期待もせずにそれらを服用しはじめたところ、なんと驚くべき薬効があらわれ、私を悩ませてやまなかった腹痛はみるみる快方に向かった。3日も経つと一日を通してほとんど痛みを感じないですむまでになり、時を同じくしてスタートした一連の検査を時間の無駄だとして打ち切ってもらいたい気分に駆られもした。しかしながら、自覚症状の消滅イコール病気の治癒であるとは限らないのが冷厳な道理というもの。もはや治ったも同然だと家族に気楽げに語りながらも、その実、自分でも我が言辞の虚ろな響きを、希望的観測の危うさをよく承知していた。




          2.告知を受けて


  腹部CTや腹部エコーに続いて、5月29朝に胃内視鏡検査を受けた。第二次大戦終結後わずか5年にして日本人の手で世界初の胃カメラが開発された事実や、最初は患者に耐え難い苦痛を与えた胃カメラが改良に改良を重ねて小型化・高性能化してきた経緯は、吉村昭の『光る壁』やNHKの「プロジェクトX」のおかげで、私の頭にも一応インプットされてはいた。とはいえ、敗戦直後の日本にあって若い情熱を燃やした外科医や技術者たちの意気込みとその世界に先駆けた輝かしい成果に、同じ国に後から生まれた一人として誇らしさを感じながらも、自分自身が胃カメラを呑もうとは一度たりとも考えたためしがなかった。どれほど小型化したと言っても食べ物以外の硬い異物が食道を通って胃に出入りする光景など、想像するだに空恐ろしく、そんな気色の悪い検査など端から願い下げという思いだった。
 事前の丁寧な説明と喉の麻酔、真新しい落ち着いた色調の検査室、これぞ最新鋭といった趣の医療機器、優しい物腰の検査スタッフたち――もとより嫌悪感が消え失せたわけではなかったけれど、緊張を緩めてくれる諸条件に恵まれ、それなりに安心して指示された体勢をとることができた。もっとも、喉元を内視鏡が通過する時には、予想通りにおえーっとなって、「プチ拷問」なんて単語を思い浮かべはしたが。モニターの映像を見てもよいと言われたが、とてもそんな気にはなれず、目を閉じて胃内部の観察・撮影と生検試料の採取がすむのをじっと待った。20分ほどかかったろうか、「これで終わりです」の声とともに直径1センチほどの黒い管がずるずると口から引き抜かれて、やっと自由の身に戻った。「普通の倍くらい時間がかかったのに落ち着いてられましたね」とスタッフに褒められ、苦笑をもって胃カメラ初体験の閉幕となった。
 説明があるのでまだ帰らないようにと言われて別室で待つこと約30分、担当医のM先生が登場した。彼女は、てきぱきとパソコンを操作してモニターに胃カメラで撮った映像を呼び出し、食道はきれい、胃の入り口の噴門周辺も問題なし、とスピーディに解説を進めた。ビデオの画面が胃内部を進んでいくと、突然、それまで鮮やかなピンクをしていた胃壁がどす黒い色に変わった。形状も滑らかな平地からごつごつした隆起に一変した。そうでなくとも不気味だった絵柄が数段グロテスクになったのを指差して、彼女いわく、「この幽門(胃の出口)近くがどうもね」。続く言葉はこうだった。「お立場もおありでしょうからはっきり申し上げますと、病変箇所を一目見ただけで悪性の腫瘍だとわかります。生検の結果が出た段階で診断を確定するという手順になりますが、99%胃癌、それも早期癌ではない進行した胃癌です」。その直後に、彼女は待合室で待機していた私の妻も部屋に招き入れて、同じ話を繰り返した。
 思い起こせば、一昔前には癌の告知については、告知の可否や本人・家族の誰を相手に告げるのかを巡って、喧々諤々の議論が渦巻いていた。私自身、もし医者から私が癌だと聞かされたら残された時間内にできる仕事をやりたいので必ず教えてほしい、と妻に頼んだ記憶がある。ところが、医学の進歩に伴って癌がもはや不治の病とは言えなくなり、他方で告知抜きだと治療に支障をきたすとの認識が広がったためだろう、今では本人への告知が原則視されるようになっている。我が意を得たりの変化が起こり、おかげで私も即座に告知してもらえたのだと感じ入った次第である。
 それにしても、実にあっけらかんとした癌の告知だった。聞いた私の側も、咳が出るので医者に診てもらったら風邪と診断されたケースと変わらないほど、ショックらしいショックは受けず、いたって平静でいられた。いやそれどころか、胃癌なら腸の方は大丈夫だろうとの理由で2日後に予定されていた大腸内視鏡検査の見送りが決まって、ちょっと嬉しくなったくらいだった。
 数日後に妻に薬を取りに行ってもらった時、M先生から私の様子を尋ねられて「淡々としています」と答えたところ、「覚悟されていたのかもしれませんね」と言われたそうだ。思えば私はここ7、8年ずっと、内輪の事情から研究・教育や社会的活動に不十分な関わり方しかできず、鬱屈した気分にとらわれてきた。かの持病と化した癪も、そのストレスによる神経性の腹痛だから根本原因が存在する限り治しようがないと勝手に解釈して、医者に診てもらわず放置し続けた。加えて、私がB病院を選んだのは、家からの近さもさりながら、「イエス・キリストの隣人愛に基づく全人医療」を理念に掲げた同病院のホスピスの評判が高く、かねてから癌で死ぬなら最後はそこに入りたいと口にしていたからだ、ということもある。こうした事情を考えるなら、確かに私の中には「覚悟」らしきものがあったし、それが「淡々」に結びついたと言えるのかもしれない。
 本人に対する癌の告知が当然視されるようになったとはいえ、医者にとっては如何に告知するのかが大きな問題で、国立がんセンターなどは告知マニュアルを用意していると聞く。M先生のあっけらかんとした告知の姿勢も、単に彼女の性格に帰せられるようなものではなくて、私が醸し出す雰囲気ないし死生観を鋭く感知した上で選択された方策だった、とみるべきなのであろうか。




         
3.検査、検査、また検査


 B病院の医師やあれこれ心配してくれる家族・親戚と相談した結果、手術は京大病院で受けようということになった。私自身は、総合病院とはいえ、全体として小振りでアットホームなたたずまいの真新しいBも気に入っていたが、消化管外科と麻酔科のスタッフ数や見舞い客の便宜なども含めた総合的判断によって、京大病院への転院が決まった。B病院での生検結果が出たのが6月5日。翌朝、同病院から手渡された紹介状と資料を携えて京大病院の外科で受診した。
 消化管外科の診察室に呼び入れられると、問診の後、今からすぐ心電図、採血、放射線の検査を順番に受け、さらに入院手続きをすませた上で診察室に戻ってくるように、と指示された。同行した妻が、京大病院の別な科に通っていて院内の配置をよく知っているので、その案内のもとにエレベータで上がったり下がったりしながら、あちこち忙しく駆け回った。2時間ほどでノルマを消化して再び診察室を訪ねると、明日以降の検査日程表がすでに出来上がっていた。また、これを読んで疑問があればいつでも質問するようにとの言葉とともに、医師から「胃がんを理解するために〜胃がん治療ガイドラインに基づいて〜」と題したパンフレットを手渡された。
 急いだ方がよいので思いっきり詰めた予定になっていると説明されたとおり、なかなかの過密スケジュールだった。ちなみに、翌7日の午前中に上部消化管内視鏡検査があり、決して嬉しい記録ではないが、胃カメラの体験回数を初回からわずか9日にして2に増やすことができた。
 8日の午後には下部消化管内視鏡検査が組まれていて、B病院では運よく逃れられた大腸カメラの魔手に結局とらわれる羽目になってしまった。何処かの壁に張ってあった検査手順を説明したポスターに、「多少痛みを感じることもありますが心配ありません」との文言が含まれていた。何が「多少」なものか。大腸の屈折部にカメラが行き当たるたびに、2人のスタッフが力いっぱい腹をいろんな角度から押さえつけて通過させる――少なくとも私にとっては、多大の苦痛以外の何物でもなく、胃カメラのプチ拷問が可愛く思えたほどだった。
 乏しい漢詩の知識によれば、晩唐の詩人、杜牧の「江南春」にある「南朝四百八十寺 多少樓臺煙雨中」は、多数の寺院の楼台が春雨に煙っている様を詠んだもので、そこでの「多少」は「多」を意味した。その語義での多少ならばポスターの文言はぴったりくるけれど、9世紀の中国ならぬ21世紀の日本ではねぇ。心中でそんな愚痴をこぼしつつ、何とか30分ばかりを耐えきった。へとへとになってやっと大腸カメラとお別れしたら、続いて1時間と経たないうちに躯幹部CT。こちらの方はうって変わって被検者に優しく、造影剤の注射による灼熱感がいくらか不快だったものの、テーブルに寝たままチューブに入っていくと強い眠気に襲われた。
 次の9日の午後には、FDG-pet検査があった。ブドウ糖と放射性信号を発する物質から成るFDG薬剤を注射し、1時間の安静の後に30分程度の全身撮影をおこなう。そうすれば、癌細胞には正常細胞よりもブドウ糖を多く吸収する性質があるので、病巣が発光しているように映るというもので、CTやMRIでは発見の難しい小さな癌の発見、それも一度での全身チェックにとても効果的だそうだ。装置の概観も眠気の襲来もCTと似ていたが、放射線防護に種々の配慮がなされている点にCTとの違いを、核医学部門によって実施される検査の不気味さを感じた。被験者がFDG投与による被爆を不安に思うのは無論だが、当の被験者は害を被る側であるだけでなく、加害側にもなりうる。pet検査に従事するスタッフにとっては、FDG投与後の患者は危険な線源にほかならないからだ。患者の近くで作業するたびに累積被爆量が増えざるをえない放射線医療従事者たちは、被検者側の何倍もの不安と恐怖を抱いているに違いない。果たしてその対策は万全なのか、とお節介な感想を抱きもした。
 ここで週末となり、検査は13日に予定されている最後の1つを残して一段落。どの検査にせよ検査台に横たわってから味わう固有の苦痛や不快感があったが、ほかにも困らされた問題があった。検査ごとに事前の絶食や絶飲食が決まっていたために、連続的に検査を受けるとなると、まったく食事をとれない時間が、水さえ飲めない時も含めて長々と続く事態とならざるをえなかった。それだけに、普段はさほど有り難みを実感しない週末の到来が、この週ばかりは非常に待ち遠しかった。
 13日の午前中には、まだ残されていた上部消化管透視の検査を受けた。胃を膨らます発泡剤と造影剤のバリウムを飲んだ患者を透視台に乗せ、台ごと動かして立たせたり仰向けにしたりする、しかも患者に右向け、左向けと次々に指示して体の向きを変えさせ、何度も何度もX線写真を撮る。激しい体位変換がバリウムを胃のあちこちに移動させるためだったと後で知り、人間の方を動かすのではなく、「動くバリウム」を発明してくれたら、と思ったものである。
 ともあれ、ようやく予定の検査がすべて終わったとほっとしたとたんに、診察があり、担当医師から2種類の検査を追加する旨を告げられた。1つは腹部エコーで、医師自らがその場で直ちにやってくれた。もう1つは肝臓への転移の有無を調べるためのMRI検査だったが、こちらの方は外部のルイ・パストゥール診療所まで出向く必要があり、医師が電話で予約を入れてくれた。診療所とのかけ合いを聞いていると、最初は2週間先まで空き時間がないと揉めていたのに、なんと今日の午後ならOKということで決着がついた。狐につままれたみたいだったが、ワープ航法のおかげで同日中に本当に全検査終了に漕ぎ着けられたのは有り難かった。
 医師からは、MRI検査の資料を家に持ち帰り、2日後の15日にそれを持参して診察を受けに来るように言われていた。その時点で、出揃った検査の結果を総合的に判断して病状と治療方針の説明をする、との話だった。ところが、またしてもワープ。14日に病院から電話をもらい、20日に手術を実施できることになった関係で入院日は16日に決まったと聞いて、泡を食った。もちろん私とて、連続的な検査の身体的負担や入院準備のあわただしさに戸惑いながらも、スムーズな進行の望ましさを十分認識していた。京大病院の門を叩いてからわずか10日でのスピード入院は望外の幸せだったと、ご尽力いただいた関係者に深く感謝している。




          
4.入院の哀感


 6月16日の朝、ルイ・パストゥール診療所から預かったMRI資料を携えて、京大病院に入院した。病気とは無縁に近かった私にとっては、生まれて初めての経験である。ただ、妻が過去に幾度かあちこちの病院に入院しており、京大病院で手術を受けたこともあったせいか、もの珍しさはあまり感じなかった。病棟の受付でもらった入院診療計画書には「病名:胃癌、手術日:6月20日、推定される入院期間:約2週間」と記され、主治医のI先生の署名がなされていた。
 まず看護師長が私と妻を連れて、消化管外科のエリアとなっている南病棟3階フロアを一巡案内してくれた。ナースステーション、病室、面会室、洗面所、風呂、トイレ等の配置や、食器の返却の仕方、洗濯機の使い方等を教えてもらったが、十数年前に妻が入った北病棟の場合と大差なかった。いや、それどころか、昔でも古びていた建物が歳月の経過分だけいっそう古色を深めていた。外来棟は近年建てかえられていかにも現代風な造りになっているので、そこを突き抜けて入院病棟に足を踏み入れると、タイムスリップの錯覚に陥るようだった。そう言えば、妻が手術をした当時、我が家はまだ京都に転居していなかった。T市の家を大学卒業前後の2人の娘たちに任せて、自分は京大本部構内にある経済研究所の自室に夜遅くまで、時には夜を通して滞在し、日に何度か自転車で妻の病室を訪ねて話し相手になる、といった生活だった。今回は立場が逆転し、自分が介護される側かと思うと、いささか情けなかった。
 希望していた個室が満杯だったため、私には南に面した総室(312号室)の窓側のベッドが割り当てられた。定員6名とはいえ実際の人数は私を入れて3人だけだったし、眺望も開けていたので、狭苦しさは感じなかった。パジャマに着替えてベッドの上に座ると、病院構内と医学部構内の一部が見えた。放送大学関係の講義をした学舎は視界に入っているのだろうかと、同じ学内ながら馴染みのない景色を見渡してもわからず、一瞬、遠くの見知らぬ街に迷い込んでしまったかのような疎外感に襲われた。そこに看護師さんがやってきて、私の左手首に青いリストバンドを装着。そのプラスチック製の腕輪には、私の姓名がマジックで書かれ、ID番号とバーコードが印字されていた。検査の際の本人確認や点滴薬の照合に用いられるもので、医療上の必要から1年半ほど前に導入されたという。重要性はわからぬでもなかったが、一度着けたら退院時まではずせない決まりになっているリストバンドをはめられたとたんに、ああついに囚われの身になってしまったと、情けなさが上乗せされた。
 せめて外部と自由に連絡がとれるようにしたいと考えて、前日購入して病室に持ち込んだノートパソコンに装着するPHSデータ通信カードのbモバイルを、秘書のNさんに電話で頼んで届けてもらった。何年か前に別のノートパソコンで使ってみて結構役に立ったので今度も、というわけだった。なのに、ソフトをインストールして所定の設定をおこなっても、きちんと動いてくれない。インターネットは使えるし、メールも受信できる、だけどメールの発信はエラーが出てだめ。発信ができないメールなど連絡用には役に立たないも同然なので、あれこれ設定を変えて試してみたが、うまくいかなかった。これまた情けなさの増幅要因となった。
 私のベッドの頭側に、担当医の名前を書き入れた札が貼ってあった。医学部助手で主治医のI先生を筆頭に、同じ医学部助手のKo先生、研修医のKi先生、そしてもう1人の研修医、計4人の氏名が並んでいた。実は、外来で診察してもらっていた折に、すでに外科の科長であるS教授の面識を得ていたし、名札にある先生にも顔見知りの人がいた。それらの方々や執刀予定のSa講師らが次々ベッドまで挨拶にこられて、大いに恐縮した。しかも、私の職業からして仕方がないのかもしれないが、病院内での先生イコール医師が通り相場なのに、そのドクター達から「先生」と呼ばれるのには一患者としてどうにも居心地が悪かった。それはともかく、先生方の励ましは心強い限りだった。以来、退院するまで連日、何人もの先生方が朝な夕なに顔を見せていただくことになったが、いつでも専門家に不調を訴えられる環境ほど有り難いものはなかった。




       
5.インフォームド・コンセントに思う


 入院したその日のうちに、Sa先生に呼ばれて、研究室らしき部屋で妻と一緒に病状の説明を受けた。間違いなく進行胃癌であってステージはUまたはV、今回の手術がうまくいってもそれで万事OKというわけではなく、良い状態の期間をできるだけ長く保てるようにする長期的な見地こそが肝要だ、とのことだった。また、たぶん手術で患部を取りきれるだろうが、開腹してみて予想外に難しい場合にはバイパスを作るだけになる、そのケースだと手術は予定より早くすむ、とも聞かされた。
 翌日の17日に、主治医のI先生からより詳細な説明がなされた。前もって家族にも来てもらうように言われており、私、妻、および娘2人が参加した。講義室にプロジェクターとスクリーンが用意してあり、研修医のKi先生が映す胃カメラやCTの画像を見ながら、病態に関するI先生のわかりやすい解説を聞いた。続いて手術の方法や合併症に関する話があったが、両先生への質問と回答も含めて所要時間なんと80分。聴衆の数と質に不足はあったものの、まさしく入魂の講義だと感心させられた。患者側にしてみれば、インフォームド・コンセントの概念が普及し、治療に先立って治療法の理解と選択に必要な情報を医師から提供してもらえるようになってきているのは、本来そうであるべき好ましい流れだと言える。医師側にとってもインフォームド・コンセントに積極的な意味があるのは素人なりに察しがつくが、他方で時間と労力のやりくりが大変だろうと頭の下がる思いがした。
 患者の権利保護に対する医学界の真剣な取り組みと比べて、私もその一員となっている経済学界はどうなのだろう。はたして、国民の一人ひとりに対して種々の経済政策の遂行がもたらすであろう利害得失についての情報をきちんと知らせ、国民から納得ずくの同意を取り付ける努力をしてきたと胸を張れるのだろうか。「悪平等の社会主義国的な日本を能力本位の効率的な経済社会に改造する」と唱えたエコノミストたちは、その政策路線が格差社会の出現につながることを国民にはっきり告知した上で、「市場原理主義への傾斜」に対するコンセンサスを形成しようとしたのであろうか。そうではなくて、むしろ意図的に国民福祉低下の不可避性を曖昧にしたまま、富者や強者に優しい方向での社会システムの変更を主導する役割を演じてきたのではないのか。期せずしてインフォームド・コンセントを体験したからにほかならないが、経済学にインフォームド・コンセントの魂を植え込む必要に連想が及んだ。
 主治医からの話に戻ると、手渡された「説明文書」に沿って説明が進められた。A4版7ページから成る文書は、まず「あなたの病名は胃癌です」と記し、ついで病変部位の図を載せていた。癌の進行度については、最終診断は切除標本の病理診断後に確定されることになるけれど、現時点ではステージU〜Vbの見込みだとされていた。予測値は癌の深さ(T因子:1〜4)、リンパ節転移(N因子:0〜3)、他臓器転移(M因子:0か1)の3因子を総合してはじき出されるもので、私の場合にはTは3、Nは0〜2、Mは0と判定されていた。なお、手術後の5年生存率は、ステージUなら66%、Vaだと53%、Vbは35%となっていた。
 続きの大筋を追っておく。予定術式は開腹下幽門側胃切除術。胃の出口側2/3を切除するが、十二指腸を閉鎖して残った胃と空腸をつなぐRoux-en Y(ルーワイ)法によって再建をおこなう。縦一文字に開腹するか、富士山型の開き方になるかは、筋肉や脂肪の状態をみて決めるが、手術の効果に違いがあるわけではない。手術時間は、麻酔導入を含めて6〜7時間程度。血栓症のリスクを減らすために、手術の翌日から歩行を開始する。経過が順調なら2週間前後で退院できる。しかし、手術の合併症として、感染、腸閉塞、膵炎等が起きることがあり、そのために入院期間が延びたり、再手術を要する場合もありうる。術後1〜2週間で病理検査の結果が明らかになれば、進行度の最終的な決定がなされる。再発の可能性があるようなら化学療法の必要が出てくる。
 さらに、輸血や血漿分画製剤に関する説明もあった。加えて、麻酔科に呼ばれて麻酔の説明も受けた。そして、「手術・検査・特殊療法承諾書」、「輸血ならびに血漿分画製剤使用の同意書」、「麻酔承諾書」に家族代表の妻ともども署名して、関係先に提出した。もはや引き返せない地点に来てしまったとの感慨はあったが、総じて淡々とした心境だった。と言うより、あまりに事がスピーディに運びすぎて現実感が湧かず、すべてが他人事のような芝居じみた色合いを帯びていた。主治医の話を聞いた後も、病衣の貸し出し、食事の変更、下剤の内服、麻酔科の受診など、手術に向けての準備が急ピッチで進められたので、ためらいや恐れにとらわれる暇さえなかった。




        6.「屠所の羊」と玄室の妖気


 6月20日の午前9時少し前に、家族や親類に見送られて手術室に入った。Sa先生、I先生ら手術チームの面々に囲まれ歩いて入室したので、いわゆる「屠所の羊」、すなわち屠殺所におとなしく引かれていく羊になったような気がした。なぜ羊がおとなしいのかというと、通俗的解釈では自らの運命を悟って抵抗の気力を失っているからであって、私の思いもその意味においてのものだった。もっとも、正しい解釈は俗説とは正反対らしい。自らの運命を知らないからこそ羊はおとなしく引かれ行くのだ、ゆえに屠所の羊とは自分の置かれている状況を知らない者を指す、とされるのである。
 手術台に横たわると、今度はまさしく「俎板の鯉」だと観念した。はたして俎板の鯉にも俗説とは別な正解が存在するのだろうか。と、考えるともなく考えているうちに、私の意識は麻酔によってことんと途切れてしまった。
 手術室からストレッチャーで運び出されたのは、入室から8時間経った午後5時だった。開腹してみて病巣が予想外に広がっていたら短時間で終わるバイパス手術になるとの話だったので、妻は昼過ぎになっても手術室の扉が開かなかったのに安堵したという。妻によれば、麻酔から醒めるとすぐ私は医師や親戚とあれこれ会話を交わしたそうだが、その記憶はまったくない。本当にしっかり意識が戻った頃には、すでに日付が変わっていた。
 手術を終えて運び込まれた部屋は、術後の急性期用に用意された個室(315号室)で、状況に応じて5〜7日間、滞在できることになっていた。保険点数に2,300円/日が加算される重症加算室であり、有り難いことに保険適用対象になっているおかげで個室料はいらなかった。その病室は手術前にいた総室とは逆に北に面していて、窓からは蔦に覆われた研究棟らしき建物が間近に見えた。と言うより、目に入るのは窓が数箇所くり抜かれている蔦の壁だけだった。
 意識がはっきりすると、まるで腹部に丸い壷でも入っているかのような違和感を覚えたが、痛みらしい痛みはなかった。テープが張られた富士山型の縫合部分は優に20センチを超えており、また頻繁にガーゼ交換がおこなわれたにもかかわらず、強い痛みに身をよじらなくても済んだのは、なんとも有り難い誤算だった。現在では通常のやり方になっているそうだが、私の手術に際しても、全身麻酔だけでなく、局所麻酔の一種である硬膜外麻酔が併用された。脊髄を覆っている硬膜の外腔に麻酔薬を注入して神経を一時的に麻痺させる硬膜外麻酔は、直径0.5ミリのカテーテルを留置しておけば、術後にもそれを通して麻酔薬を継続的に入れることができるという優れもので、患者にとって実に頼もしい救いの神だと思えた。
 覚悟していた鋭い痛みはなかったが、ベッドに仰向いて寝ているのにはかつてない恐怖を感じた。何種類かの点滴、酸素吸入器、導尿管、「エコノミー症候群」の危険を避けるために足につけられたマッサージ器など、管と器械でがんじがらめになっている身であっても、平面上のもぞもぞした動きはできる。しかし、半身をもたげるといった三次元的な動線は、自力では描きたくても描けるものじゃない。そうした状態だから、入れ替り立ち替り様子を見にやって来る看護師さん達に真上から覗き込まれてもじっとしている以外になかったが、考えてみればそんな無防備な立場になることなど乳児期以来、絶えてなかった。防備の必要などまったくない場面だとわかってはいても、赤ん坊同然に無防備だという事実それ自体が無性に怖かった。
 怖いと言うより気味が悪くて困ったこともあった。術後、意識が戻るとすぐに、病室の壁一面に経文、和歌、政治的スローガン、数式などが書かれているのに気づいた。天井を見ると、そこにもぎっしり文字が書き込まれていたし、カーテン、枕カバー、毛布もそうだった。病院から借りた寝衣や痰をぬぐう紙にも漢字、仮名、アルファベット、数字、記号が印刷されていた。これはおかしいぞと凝視してみても、視界にある文や数式は消えず、それどころか次々ゆらゆらと空中に漂い出る始末だった。部屋中に黒色や赤色で記された経文や計算式が浮遊している光景は、怪しい妖気に満ち満ちていた。いや、病室内だけではなかった。眠れずに白み行く窓外を眺めていると、向かい側の建物にも蔦の葉でコンクリート壁に書かれた文字が次第にはっきり浮かび上がってきた。
 一度は行ってみたいと思いながら見果てぬ夢に終わりそうだが、エジプトのサッカラ遺跡にあるウナス王のピラミッドは、玄室(埋葬室)の四囲の壁に魔よけの呪文いわゆるピラミッド・テキストがびっしり刻まれていることで、広く世に知られている。4,000年以上も前に唱えられた冥界と故人の復活にかかわる4,000行にも及ぶ長大な呪文、その碑文に囲まれた石棺に静かに横たわるミイラ。なんと面妖な世界だろう。そうそう、平家の亡霊から身を守るために全身に般若心経を書いてもらったが、うっかり書き漏らされた耳をもぎ取られる羽目になってしまった琵琶法師「耳なし芳一」の物語も、不気味さでは負けず劣らずというところだ。
 私が目にしたのはその種の情景だっただけに、自分でもひょっとしたら麻酔の副作用による幻覚ではとの疑いをもった。しかし、もしそうならじきに醒めるだろうし、余計な心配をかけてもいけないと思って、付き添ってくれている妻にもすぐにはそのことを話さなかった。
 以後の経過を記すと、2日ほどしてまだ同じ現象が続いているので妻に尋ねたところ、壁も天井も白一色に塗られていて文字などまったく見当たらないと、けげんな顔をされた。やっぱり幻覚だった。さらに2日ほど経って、部屋中から、また向かいの蔦の壁からも文字や数式は消え去ったが、あのおどろおどろしい妖気の肌にべっとりまとわりつく感触は、いまだに私の中に生々しく残っている。




        7.歩行練習中の昏倒、そして腸閉塞


 手術がおこなわれた翌日の午前中に、最初の歩行練習があった。体を動かせば、血行が良くなり傷の治りが早まる、痰が出やすくなる、腸の動きが活発化する等の効果が得られるそうだ。だから術後1日目から立って屈伸したり歩いたりするリハビリを始める、と手術説明の場で前もって聞かされていた。実を言えば、それを耳にした時点では、派手な生傷があるのに本当に可能なのかと半信半疑だった。けれども、硬膜外麻酔のおかげで痛みがさほどない現実を認識すると、そんな疑念はたちまち吹っ飛び、少しでも早く三次元の動きを取り戻したいという思いに駆り立てられることになった。
 Ki先生と看護師さんに両脇を抱えられて、ゆっくり立ち上がり、足踏みをしてみたが、特に問題はなかった。これなら歩いてみても大丈夫だろうとなって、半円形の歩行器につかまり立ちし、部屋の外に出た。私の目には廊下も呪文で埋め尽くされた異様な空間に映ったが、その濃密な空気を掻き分けて、一歩また一歩と進んだ。体についている各種の管を巻きつけた点滴台を看護師さんに引っ張ってもらい、Ki先生と妻の励ましを受けての行進だった。目標は15メートルほどの距離にあるナースステーションまでの往復で、無事に片道を歩いてUターン。さあ今度は帰りだと思ったところで、そうでなくとも茫洋としていた視界が不意にぐにゃっと歪み、みるみる真っ白になった。
 気づいたら、自分のベッドに寝かされていた。不覚にも起立性低血圧で倒れたのだった。意識回復後もなかなか血圧が上昇しなかったためか、何人もの医師や看護師が慌しく立ち回る騒然とした光景の渦中にありながら、不思議に臨場感はなかった。ひどい寒気に震え、人型にシーツが濡れるほどの冷や汗にまみれながら、まるで中村玉緒主演のTVドラマ「命の現場から」の一場面じゃないかと、いっさいをよそ事のように感じていた。ともあれ、初回の歩行練習は失敗に終わった。そのせいで、以後の練習は慎重に段階を踏んで運ぶべしとの主治医の判断が下され、2週間で退院にこぎつけたいという私なりの思惑は早々に実現不能になってしまった。また、異常な低血圧は局所麻酔薬の持続的な注入と関係しあっているとの理由で、硬膜外麻酔の取りやめも決められた。
 間の悪いことに、倒れた日の夕刻あたりから次第に腹部が膨れ、痛みが強まりだした。どうも合併症の腸閉塞が起きたらしい。診察してくれた医師たちが一様に言うには、腸のある箇所は動いているが、ほとんど動きのない部分もあるとのこと。Sa先生からは、腹が張る原因に「呑気(どんき)」があると教えられた。誰でも食事中に幾らか空気を飲み込むものだが、話をしていて力が入ったときに無意識につばを飲む癖を持っている人もいる。そんな人の場合には、胃に入る空気の量が多く、腹部膨満や胃痛などの症状を呈しやすい、という説明だった。確かに、講義や講演での話し方を自己分析すると、私にはなるほどと思い当たるふしがあった。
 となると、自ら空気をせっせと飲んで、腸閉塞のために排ガスが滞っている自分自身を苦しめているわけで、こんな馬鹿げた話はない。まるでドンキホーテだと苦笑させられた。しかし、無意識の行為である呑気を意識的に抑え込むのは至難の業であって、呑気(のんき)に笑ってばかりもいられない。現に痛みが増大の道をたどりだした状況だったからこそ、硬膜外麻酔の中止は、その強力な鎮痛効果に安心しきっていた私にはがっくりくる大ショックだった。




          8.最悪の1日


 病気、怪我、受験の失敗、失恋、親の死、失業、困窮、孤独、介護…。人の生は時に種々の精神的・肉体的苦痛に見舞われつつ営まれるのが世の常であり、むろん私が年齢を重ねる過程でも辛い出来事が幾つも起きた。だけど、これまでの自分なら、生まれてから一番苦しい思いをした日はいつだったかと尋ねられても、あれこれ思案して即答などできなかったろう。今は違う。腹部の膨満とかなりの痛みのために術後1日目(6月21日)の夜をまんじりともせず明かしたが、続く一昼夜こそが過去最悪の1日だったと迷いなく言い切れる。
 22日の朝から、ゲップが出始め、時間の経過とともにその頻度が増して、昼ごろにはひっきりなしという状態になった。赤ん坊の世話をした経験のある人なら誰でも知っているとおり、授乳した後には飲み込んだ空気を吐き出させなければならないが、そのためにはゲップをしやすい姿勢にしてやる必要がある。大人であっても、それなりの体勢にならないと、胃に溜まった空気はすぐには噴門を押し開けて口から出て行きはしないようだ。私の場合には、右手を体の上を通る形で思い切り伸ばしてベッドの左側の柵をつかみ、力いっぱい半身を持ち上げ気味に捻ると、ゲップがスムーズに出てくれた。しかし、その姿勢をとると膨満感が少しましになる半面、傷がきりきりとうずくので、頻繁なゲップは痛みの常態化に通じていた。
 夕方近くになると、激しいゲップに加えて、時折しゃっくりも出るようになった。しゃっくりはゲップ以上に傷に響くので願い下げだったのに、その頻度と持続時間が増え続け、夜にはゲップに代わってしゃっくりが私いじめの主役に躍り出た。診察してくれた何人かの先生たちの診たては、ほぼ一致していた。腸閉塞のせいで腸内に溜まった胆汁が胃に逆流している、その関係で横隔膜が刺激されて痙攣を起こしている、つまりしゃっくりが起きている、というのだった。では、それに対してどんな対策が考えられるのか。体が水平だと胃内の胆汁の量が少なくても横隔膜を刺激する形になるので、しゃっくりが出れば体を少し起こしてやればよい。そうすると、胆汁が胃の下部に移動し、その水面が横隔膜の位置より低くなるので横隔膜は刺激されなくなる。こう教えられたとおり、しゃっくりが止まらず苦しくなった時に、リモコンで電動ベッドの頭側を持ち上げると、しばらくして激しいひっくひっくは治まり、一息つくことができた。
 けれども、その対応策は、しょせん一時しのぎの域を出なかった。胃内の胆汁量が増せば水面が上がりしゃっくりが出る、そこでベッドを操作して上半身を幾らか起こす――これを何度も繰り返すと、腰から上は水平からだんだん角度がつき、ついには直立状態に行き着いてしまう。そうなってしまえばなす術がないのでは、と時の経過にともに戦々恐々の思いをつのらせた。
 悪い予想が当たって、夜が更ける頃には、上半身をほぼ垂直に保っているのにしゃっくりが止まらなくなり、4、5分おきに少量の胆汁をティッシュペーパーに吐き出すようになった。看護師さんたちが夜中なのに何度も病室に来て、鎮痛剤、腸の動きを活性化する薬、しゃっくりを止める薬などを次々点滴してくれたが、ほとんど楽にはならなかった。妻に背中をさすってもらいつつ、差し出されるティッシュペーパーを深緑色の胆汁で汚すという過程が、まるで単調な、それでいて労苦に満ちた作業工程のように、夜通し延々と続いた。うず高く積もったティッシュの残骸。私はもちろん妻にとっても過酷きわまりない一夜だった。
 ようやく朝になると、I先生を筆頭とする担当医チームがやってきて、慌しく何かの準備を始めた。聞けば、縫合直後の胃を傷つける危険性を考慮して差し控えていたが、この状況ではやむをえないので経鼻胃チューブを使うことにした、という。チューブを鼻から胃の中まで挿入し、胃の内容物を吸引するのだそうだ。I先生が、私の鼻孔に麻酔のゼリーを塗った後、チューブをぐいぐいと挿し込んだ。咽喉反射でゲッとのけぞる私にかまわず、チューブは無遠慮に食道を通過して、胃に到達。その瞬間、胃に滞留していた胆汁が一気にチューブから噴き出し、あらかじめ用意されていた洗面器に大量に流れ込んだ。さらにチューブが進むと、またしても胆汁の噴出。そして、もう一度。バケツに移された胆汁は、3度の嘔吐でなんと3リットルを超えた。
 きゃしゃで柔和な感じのI先生なのに、さすが外科医と感心させられる、断固とした、すばやい荒療治だった。おかげで、あれほど執拗に続いたしゃっくりはぴたっと止まり、ベッドをフラットに戻して眠りに入ることができた。まさしく地獄で仏に会ったようなものだった。ところで、「地獄にいる仏」とはいったい誰なのだろう。まさか地蔵菩薩じゃあるまいな。あまり知られていないが、「広辞苑」に記されているように、地獄の主神である閻魔大王は地蔵尊の化身にほかならない。だとしたら、地獄で地蔵菩薩=閻魔に出会ったとしても、別に不思議ではないし、あまり嬉しい話でもないのではないか。肉体的な苦痛が緩めば精神的な活動の余裕が生まれるのだろうか、どうでもよい連想が私の頭の中を駆け巡った。
 医学的にみれば、おそらく手術の翌日、歩行練習中に意識を失った場面の方が危なかったのだろう。生命の危機をもたらすほど極端に低下した血圧が上昇に転じた瞬間、それが死線を越えた時点だった、と言えるのかもしれない。しかし、私本人としては、ゲップとしゃっくりに徹底的にさいなまれた史上最悪の日にピリオドが打たれたときに、「ああ、なんとかこの世に生還できたな」と実感した。




        
9.デジャヴと近未来のシナリオ


 経鼻胃チューブはテープで鼻の下に固定されていたが、ひどくうっとうしい代物だった。だいいち顔を拭くのに邪魔だったし、話をする時には口をあまり開けず、そっと小声で囁くようにしなればならなかった。チューブが動くと鼻孔と喉に当たって痛かったからだ。それでも、鎮痛剤と睡眠剤の力を借りたら、夜は断続的にでも眠れるようになった。鎮痛剤について言えば、その顕著な効き目は、効果硬膜外麻酔の中止でがっくりきていた私を安堵させる福音ともなった。
 チューブを通じて胃の中から汲み上げられる胆汁は、最初のうちは、それを溜めておくビニール袋にどんどん流れ込んできた。なるほどこれでは3リットル余り吐いたのもうなずけるな、と自分でも得心がいった。だが、腸閉塞の改善と相まって、胃に逆流する胆汁の量は減少軌道に乗り、装着から2日半経った6月25日夕方にはI先生にチューブを抜いてもらえるまでになった。その1日前には導尿管もはずされていたので、ずいぶん身軽になったと感じたものだ。睡眠がとれるようになったのと関係があるのかどうか知らないが、あたり一面にぎっしり書き込まれていた文字や符号も視界から一掃された。頓挫していた歩行訓練も、廊下からの妖気の消失とそれまでより身軽になった体という変化を受けて、順調に進みだした。
 回復への歯車がうまく回転し始めた。自分でもそうとはっきり認識できたが、他方で、喉にささった小骨のように気持ちにひっかかるものがあった。これが世に言う既視感(デジャヴ)なのだろうか。回復局面に入ったある瞬間に、手術後の経過のすべてが過去に体験したことのある出来事だと気づいて、はっとした。ピラミッドの玄室まがいの病室、腸閉塞の発症、Sa先生による呑気の講釈、胆汁の胃への逆流と最悪の1日、I先生がおこなった胃へのチューブの挿入、それを契機とした事態の好転――そのどれもが既に演じられたストーリーを脚本どおりに再演したものだとの思いが、夢の手ごたえのなさとは質的に違った、確固たる皮膚感覚をともなって私に押し寄せてきたのだった。
 しかも、問題の脚本が描いていたのは、過去と現在の情景だけではなく、その射程は近未来にまで及んでいた。具体的には、せっかく良くなっていると喜んだのに腸閉塞が再び起きる、今度は主治医のI先生ではなくKo先生の手で鼻にチューブを挿入される、という筋書きだった。ひどく気落ちして「この先、どうなるんだろう」と力なくつぶやく場面で、頭に浮かぶ台本は終わっていた。
 妻に、私と2人でSa先生から呑気の話を聞いた時より前に先生に会ったことがあるかと聞いてみたら、いやあれが初対面だったという。そうに違いない。おそらく、実際には初めての出来事だったのに、後からそれを過去に体験したことがあるという夢を見て、その夢の内容でそれ以前の記憶を上書きしてしまったのだろう。別な説明もありうるかもしれないし、いかなる条件下でそれが起きるのかも私の知るところではないが、いずれにせよデジャヴはある種の記憶錯誤として説明がつく現象なのだろうと思う。では、近未来の方はどうなのか。それも何らかの錯誤なのか、あるいはミステリアスな第六感か、はたまた合理的推測と言えるのか。妻には腸閉塞再発のシナリオも話したが、どんな反応だったのか、記憶は定かではない。
 思い返せば、私は昔から人によく、「恐ろしいほど勘がいい」とか、「直感が鋭すぎて気味が悪い」とか言われた。私の勘のレベルが人並みと比べてどうなのかは、もとより自分自身にはわからない。しかし、まさか本当になるなんてと自分でも驚いたことが、少なからずあった。そうした過去の経験から、私には腸閉塞の再発も既に確定している規定路線だと思えてならなかった。




          10. 絶飲食からの解放


 鼻のチューブがはずされた次の日(6月26日)、X線検査と超音波検査で胃腸の通過状態の改善が確かめられた後、夕刻になって水を飲むことを許された。1週間ぶりに口にした水は、まさしく干天の慈雨だった。乾燥してひび割れしていた唇が、当日分として認められたわずか200ccの水の摂取によって潤いを取り戻した。これを見て一安心と思ったのだろう、この日の夜、妻は久しぶりに我が家に眠りに帰った。手術した日から6夜を私に付き添って病室で過ごした妻に、やっと自分のねぐらでゆっくり寝られる時がきたのは、あまり丈夫でない妻に無理をさせて内心じくじたるものがあった私にとっても、心待ちにしていた前進だった。
 さりとて、良き事ばかりとはいかぬのが世の習い。主治医から水の許可が出た直後に、Sa先生が生検の結果を教えてくれた。顕微鏡検査でリンパ節に幾つか転移がみつかった。それを踏まえると、癌の進行度の最終診断はステージVaとなる。ステージVaの場合、手術後の5年生存率は50%強となかなか厳しい数字なので、再発を防止して少しでも生存の可能性を高めるために退院後に化学療法を受けるように勧めたい。そういう話だった。1〜2年もの間、抗癌剤の服用ないし点滴を続けなければならないと聞かされると、前途の遼遠さに思わずため息が出た。
 それでも当面の病状の改善は嬉しく、全体としてみれば明るい気分で、27日の朝に病室移動の時を迎えた。術後急性期用の個室315号室から、最初に入った総室312号室の西隣にある個室313号室への移転であった。
 実は前日に看護師長から、315号室の滞在リミットが来たので一般病室に移ってもらわなければならない、ついては差額ベッド代の必要な個室を用意できるがどうしたものか、と意向の打診を受けていた。もともと個室の希望を伝えていたので、渡りに船と手配をお願いした。ただし、南病棟3階には有料の個室は2部屋あるだけで、空いていたのは値段の高い方だった。バス、トイレ、調理台、冷蔵庫、テレビ、電話など、ホテル並みの快適さとはいかないまでも、必要なものは一通り揃っていた。1日6,000円程度の安い方でも分不相応かもしれないのに、その2倍半も払うのにはいささか抵抗感があったが、パソコンの作業や面会の便宜等を考えて、また多少の見栄もあって、えいやと踏み切った。さっそく見舞いにきてくれた和歌山大学のKwさんと話をしてみて、これなら周囲に気兼ねせずに来客を迎えられるのでまんざら無駄づかいとも言えないな、と感じた。
 同日の夕方には、抜糸がおこなわれた。いや、実際には傷口を糸で縫ったのではなくホッチキスと接着剤でとめていたのだから、糸ならぬホッチキスの針を抜くという意味での「抜鋼」が正しい表現らしい。さぞかし痛いだろうと緊張していたのに、ちくちくする程度ですみ、肩透かしを食った気分だった。続いて、胃の通過検査があり、その結果を受けて翌日の昼から食事も開始する旨を主治医に告げられた。プリンかゼリーなら明日を待たずに今すぐ食べてもかまわないと言われたとたん、少しでも早く絶食とおさらばしたい思いが噴き出て、その場に居合わせた長女に売店まで買いに走ってもらった。プリンを一さじ口にした瞬間、忘れていた喉越しの感触が蘇った。
 ようやく絶飲食にピリオドが打たれた。さあ、これで見舞いに来てくれる人とホテルもどきの部屋でお茶と茶菓子をとりながら世間話ができるというものだ。院生の研究指導だって、やる気になればやれるだろう。頭のどこかに腸閉塞再発のシナリオが張り付いてはいたが、それには意識を向けないように自己規制しながら、社会復帰に向けての第一歩を臆せずに踏み出そうと思った。それまでは、私の大学院ゼミを最初に卒業して他大学の教員になったKwさんが、術後の私のあまり芳しくない状態を考えて、ゼミのOBや現役院生が面会にくるのを控えさせてくれていた。有り難い配慮だったが、現金なもので、体が楽になれば人恋しくなる。そこで、28日の午前中に秘書のNさんに電話で連絡をして、ゼミ関係者に面会謝絶の解除を伝えてもらうように頼んだ。その後ほどなく、予定通り、昼食が室内に運ばれてきた。




         11.予期どおりの腸閉塞の再発


 6月28日の昼食には、一分粥、魚の身をほぐしたもの、小芋の煮付けなどが出た。胃の手術を受けた患者用の病院食で、量的には通常食のたかだか半分程度にすぎなかった。I先生から胃の大きさが1/3になったのだから分食の習慣を身につけるようにと言われていたので、さしあたりその半分を目標にして食べ物を口に運んだ。しばらくぶりに食事らしい食事にありついて、最初は意気込むところがあったが、すぐにペースダウン。4割ほど食べると、もう胃にまったく隙間がなくなってしまった。その後ずっと腹が張って苦しく、分食の勧めどおりに補食する気になど、とてもなれなかった。そうこうするうちに夕食が届いたが、今度はほんの一口二口でギブ・アップ。食べられた量を記録する用紙には、少し見栄を張って3%と記した。
 形ばかりの夕食がすむと、Ki先生がちょっとした傷の処置をしてくれた。実は数日前に、右わき腹に埋め込まれていたチューブの除去がおこなわれていた。そのチューブは体内から出てくる浸出液を体外に排出するためのもので、体液の浸出が止まったということで御用済みになったのだった。傷口は自然に閉じるだろうと聞いた。ところが、チューブが引き抜かれた後、開口部から体液が漏れ出しはじめ、漏れる量も次第に多くなった。5mmぐらいの厚さに畳まれたガーゼが、数時間でぐしょぐしょに濡れてしまう。これはいけないとなって、傷口を縫合する措置がとられたのだが、今回はホッチキス止めではなく糸が使われた。縫い終わるとテープが貼られて、一丁あがり。
 意外にも当夜からのシャワーの使用が許可された。糸が体液の対外への滲み出しをブロックし、テープが体内への水の浸入を食い止める。直径2cm程度の小さな空間で絶妙のコラボレーションが演じられているようで、そのことに考えが至ると、にやりと口元がほころんだ。
 プチ手術の方は、シャワーの解禁すなわち全身清拭からの解放につながったので、結果オーライだったと言える。それとは対照的に、摂食の方は苦痛の度が加速度的に増した。前日の夕食は食べないも同然だったのに、29日になっても朝食、昼食ともに2割くらいしか箸が進まなかった。順調に食事がとれる場合には、当然ながら栄養補給のための点滴は必要でなくなる。うまくいけば今夜にでも点滴をはずす方針だと知って一生懸命食べたつもりなのに、2割のラインで胃は満員札止めの始末。夕食となると、食べ物を見るのさえ嫌なほどに拒否反応が強まり、水っぽい粥を一さじ口に入れただけで、思わずスプーンを放り出してしまった。「匙を投げる」とは、医師が薬の調合用の匙を投げ出す、つまり治療を断念するとの意味だが、患者の側が比喩的にではなく直接の行為として、文字どおり匙を投げることだってあるのだぞ。
 その直後、激しいしゃっくりに襲われて、自室のトイレに駆け込み胃の内容物を盛大に吐いた。苦しさから涙目になった視界に、覚えのある深緑色、かの胆汁の色が映った。嘔吐で胃が空っぽになったためにいったん治まったしゃっくりは、それから2時間ほど経った午後8時すぎに再び間歇的に起こるようになり、11時を越えるとほとんど止まらなくなった。1週間前を彷彿させる事態が、それも今回は妻の付き添いがないところで起きたわけで、非常に心細かった。
 まんじりともしないまま30日の朝になったところで、学会出張のI先生に代わって診察に来てくれたKo先生の指示に従って、腹部のレントゲン検査を受けにいった。その写真をみて、Ko先生はやっぱり腸閉塞だと言い、ただちに経鼻胃チューブを私の鼻孔に挿し込んだ。挿管の痛みもさりながら、恐れていた不吉なシナリオそのままに事が進行したことに、なんだこれはと思わず身震いした。家から毎日病室に通ってくる妻も、再び鼻にチューブを入れている私の姿を目にして、ぎょっとしたようだった。
 ところで、私が承知していた脚本は、チューブの再挿入で先行き不安に駆られる場面で終わっていた。では、それに続く展開はどうなのか。思いを巡らしていたところに、S教授がいつもどおり一人で様子伺いに立ち寄ってくれた。彼いわく、「逆戻りして、この先どうなるかご不安でしょう。だけど、決してこのままにはしておきませんから、心配しないでください」。この言葉を耳にしたとたん、霧の向こうに灯りがポッと点った。中断したシナリオが明示的に書き足されるという形ではなく、頭と体がその言葉に瞬時に共鳴したような内からの確信として、これで順調な回復軌道に乗って退院にこぎつけられるだろうと感じた。




         
 12.退院への流れ


 鼻にチューブが入っている限り、もとより飲食はかなわない。絶飲食への回帰で、またしても喉も唇も乾きだしたのに、チューブがすれる刺激のために鼻水は絶え間なく流れ出る。普通にしゃべるとチューブが動いて喉と鼻に痛みが走るので、また渇きからくるしゃべりづらさも重なって、自ずとひそひそ声になってしまう。そんな弊害を意識すればこそ、チューブが除去されるまでは面会に応じたくなかったのだし、また除去とともに面会に応じる旨をアナウンスしたのだった。それなのに、なんと皮肉なことだろう。結局、チューブを再挿入された午後に、職場の同じ部門に属するM教授、秘書のNさん、Hさんに見舞いに来てもらう羽目になってしまった。とくにうら若い女性を前に、ハンカチで鼻を押さえながら小声で愚痴をこぼす姿は、自分で思うだにいとみすぼらしく、今もって痛恨の極みである。
 一夜明けた7月1 日の朝、X線検査後にKo先生から、まだ腸閉塞が治まっていないので絶飲食は続行するしかないが、チューブについてはどうしてほしいかと問われた。ここでチューブを抜き去れば、また腸の内容物が胃に逆流し、三度チューブをつけなければならなくなるかもしれない。その場合には、ほんの短い時間だけど、挿入に伴う強い苦痛を覚悟してもらうしかない。他方、チューブをつけたままだと、鼻や喉が四六時中痛くて不快だろう。さて、どっちをとるか、の選択を求められたのだった。どちらもぞっとしないなと苦笑しつつ、ためらいなくチューブをはずす方を選んだ。おかげで会話が楽になり、その日に来てくれた院生のM、Kの両君とは、世間話にとどまらず、2人の研究内容に踏み込んだ議論を交わすことができた。
 水分も食べ物も口にできない状態にある限り、点滴ははずすべくもない。だけど、体調が良くなれば、じっとしているのは退屈で、行動範囲も広くなる。そこで、リハビリを兼ねて、点滴台を引っ張りながら病院内をうろうろする。最初は入院病棟の廊下どまりだったのに、次には病棟の出入り口まで、さらには外来棟へと射程が伸び、場合によっては病院の外にまで風にあたりに出てみようということにもなる。2日には、外来棟のベンチに座って、妻や次女一家と話をしているときに、愛媛大学のNさんの来訪を受けた。部屋に戻って歓談したが、かなり元気になった姿を見てもらえてよかった。翌日にも、院生のSu、H、M、Siといった面々と会い、久しぶりに研究指導らしき時間を持てた。見舞いに来てくれる親類の居心地も含めて、高くつく個室がそれなりの効果を発揮してくれたと思っている。
 3日の夜には、X線検査により腸の働きの活発化が確認され、3日半ぶりに水を飲めることになった。翌日からは、中断していた食事も再開された。7日には、ついに点滴から解放された。私の場合、血管の関係で点滴がとりにくく、チューブが詰まってしまって、しばしばKi先生に夜間に針を刺し直してもらった。やれやれこれで先生の手を煩わさなくてもすむ、シャワーや入浴にしても看護師さんにチューブをはずしてもらう必要がなくなった、とほっとする思いだった。それより何より、もはや点滴台を引きずらずに何処にでも動けるようになったのが嬉しかった。8日に松山大学のYさんにお会いしたが、翌日には身の自由を楽しんで外来病棟のソファーを転々としながら、彼が持ってきてくれた宮部みゆきの『火車』を読んだ。
 ここまでくれば、しめたもの。食事に出てくる粥は、一分から三分、五分と米の割合が次第に高まっていく。食べられる量も日毎に増えて、通常の3、4割に達する。パソコン作業、読書、散歩に身が入るのと反比例して、ベッドに寝ている時間がどんどん短くなる。腹に異物が入っているような感触は消えないが、足元がしっかりし、歩くスピードも早くなる。売店で補食用のパンや菓子を買ったり、外来棟にテナントとして入っているドトールで軽食をとる頻度も増す。これぞまさしく「日にち薬」というもの。すべてが退院に向かって加速度的に進行し始めた。蛇足ながら、「広辞苑」や他の国語辞典をめくっても、日にち薬は載っていない。実感の積み重ねから生まれた温もりのある言葉で広く流布しているのに、一体なぜなのでしょうか。
 7月13日、晴れて退院となった。起立性貧血や腸閉塞のせいで予定より長引きはしたが、入院から丸4週間経って帰宅の願いがかなった。




         
13.TS1の服用と「闘薬」の思い


 退院後はと言うと、病院食からの食事の変化に胃腸がなかなか適応できず、あまり食が進まなかった。1週間も経たない時点で、夜中に戻す場面もあった。そうしたことでは体重の維持がむずかしく、体に負担のかかる化学療法の開始日は、予定より2週間ずれ込んで8月11日となった。手術前はむしろ高い方だった血圧も、どういうメカニズムが働いたのかわからないが、ぐっと下がって、低血圧が常態になった。最高値が100を割る日もまれではなく、終日けだるくて仕方がなかった。そこに食欲不振も重なったために、距離的にはほど近い職場に行くのさえ大儀で、研究室には必要最小限度の時間しか滞在できない状態が続いた。
 食事量が少し増えて通常の5割近くになったのを見定めて開始された化学療法は、抗癌剤のTS1カプセルを服用するというもの。抗癌剤には体調に及ぼす悪影響がつきものなので、I先生の提案に沿って、‘2週間続けて朝夕にTS1を飲み、次の1週間は休薬’のサイクルでいくことになった。服用するTS1の量は1 日あたり120mgからスタートするが、副作用がひどければ段階的に減らさざるをえない。ただし、1日あたり80mgがミニマム量であり、それ以下だと飲んでも無意味だとされる。服薬記録用の手帳とセットにして手渡された「TS1服用のてびき」には、出方に個人差があるとの注釈つきで、起こりうる副作用がずらっと列挙されている。白血球や血小板の減少、貧血、下痢、口内炎、食欲減退、吐き気、皮膚や指先の色素沈着などで、それぞれの発生率も載っている。多くは2〜3割といったところだ。
 私の場合には、服用開始から数日のうちに味覚が変化し始め、何を口にしても苦くてまずいと感じるようになった。京都育ちらしく薄味好みであるはずなのに、苦味を打ち消すほどの濃い味付けのものしか喉を通らない。しかも、匂いの種類によっては、うっと吐きそうになるので、いっそう食べられる物が限られてしまう。食べた後も吐き気に悩まされ、その状態のまま次の食事時間が来てしまう。
 最初の2週間は何とかしのげたが、2サイクル目になると1週間で我慢の限界に達し、臨時の休薬期間を設けてもらわなければならなくなった。9月下旬にTS1の服用再開となったが、自覚される副作用だけでなく、血液検査によって白血球の減少等も認められたので、再開にあたっては1日の用量を100mgに落とす措置がとられた。だけど、それでもほとんど状況は変わらず、10月中旬に再び用量の削減となった。今度は1日あたり80mg、私の身長と体重から割り出されたミニマム量だった。
 80mgになってからも、食欲不振と吐き気は改善をみていない。いや、むしろ厄介の度合いが強まっている。本来は好物の肉類がほとんど食べられない、もともとあまり好きではなかった魚類もやはり駄目、野菜はサラダと芋類のみOK、主食の米はおにぎりか卵かけごはんにしたら少しは胃が受け付けてくれる、パンだと濃い味の菓子パンか生の食パンにジャムをつけたら一応は可。こんな調子だし、おまけに昨日喉を通ったものが今日は通行止めといった変化も起きるので、妻があれこれ調理法を工夫してくれても、おかずの8割がたはゴミ箱行きになってしまう。外食の場合も、頼んだメニューの大半を残して席を立つことが多かった。事情を知らない店側にしてみれば、さぞかし感じが悪かったろう。食事と並んで難儀なのが低血圧。日中も倦怠感に支配されがちだが、とくに風呂上りがひどい。自宅の血圧計で測ると最高値が80を割る日や、低すぎてエラーが出て測定できない日が多々あり、ただぐったりと横たわって復調を待つしかない。
 楽になるために薬を服用するのが常識なのに、飲むとしんどくなる薬なんて、何とも間尺に合わない。これじゃ闘病と言うより「闘薬」だね、副作用をもたらす薬相手に闘っている気分なんだから、と力なく苦笑する。




          14.定年を間近に控えて


 TS1の用量は1 日あたり80mgに減らされたが、なお副作用には苛烈なものがある。他方、「服用のてびき」に明記されているように、存在する癌を小さくするTS1の効果は検証済みだが、再発防止面の効果はまだ検討の途次にある。だから、副作用によるダメージが耐えがたいケースなら、非常に高い薬価を支払って当てにならない効果に期待するより、きっぱり服用をやめた方が利口だ、と言えそうだ。けれども、一種の慣れなのだろう。吐き気があっても手早く食べ物を胃に押し込んだり、果物やデザート、菓子類で補食する術が身についてきた。味覚が戻る休薬時に栄養のある物を食べれば、体重の維持も可能だとわかった。血圧も、日中に関しては一時より上がって、気だるさのせいで机にも向かえない状況ではなくなってきた。
 私の場合、化学療法をおこなわなければ手術後の5年生存率は5割強だし、TS1を飲んでも数字が7割、8割にはね上がるわけでもない、と聞かされている。生か死か、後者になってもよいように、とくに残される家族の生活基盤を前もってできるだけ整えることに力を傾けたい。もっとも、言うは易く行うは難しで、実際には何ほどのこともなしえないかもしれない。
 もとより、現在の体調と私的環境状況では、来春の定年まで無事たどり着けるかが問題で、その先のプランなど持ちようもない。定年後に関しては、ある程度の余命があり、かつ私の体調や周辺事情がそれなりに改善するのなら、いつの日にか社会に語りかける仕事に携わりたい、と漠然と考えているだけだ。マスコミや書物などを通しての意見表明でなくてもよいし、大学の教壇に立って経済学の講義をするのでなくてもよい。むしろ、市井の人々と本音の交流ができる場に出て行って、あるいはホームページやブログを立ち上げて、自分の生活実感に根ざしたテーマについて虚心坦懐に語りたい。
 率直に言って、私は、日本社会がこれ以上ウィナー・テイク・オール(勝者による総取り)化するのを望んでいない。能力のある者が報われる競争社会こそが本来あるべき姿だとの主張を聞くと、本当に勝者イコール能力のある者なのか、眉に唾をつけたくなる。競争に勝つ能力なるものは、先祖伝来の土地資産だとか親の職業や年収だとか、当人ではどうにもならない諸要因に規定されているのであって、個々人の生来の潜在能力との間に大きなずれがあるのではないか。また、人の能力をどう測るのか、その基準にも疑問がある。たとえば大学だが、退屈な論文をひたすら量産する秀才ばかりをもてはやす評価方式が幅を利かせ、ピカッと閃光が走るような業績を生涯に一度か二度産み出す天才を冷遇する、といった不条理な形になっていはしないか。
 競争社会を賛美する市場原理主義は、福祉社会をアンチテーゼとみて敵視する。セーフティ・ネットとしての国民福祉の必要性を説きはしても、財政再建の最重要項目と位置づけて福祉をミニマム水準に切り下げる点にその狙いを置いているのは、誰の目にも明らかだ。そうでなくとも他の先進諸国に比べて手薄な福祉関連の予算と公務員を削減し、民営化の名の下に福祉の収益事業化を推進する。それがいかに社会的弱者の生活を圧迫しているのかを、そして障害者自立支援法の制定が逆に障害者の自立を妨げる障壁になっているといった類の現実を、しっかり見定めなければなるまい。福祉が財政難を理由に圧縮される一方、手厚い政府支援を受けて不良債権処理を果たし、いまや空前の利益に湧き立っている大手銀行には、今後何年にもわたって税金を免除する特別措置が用意されている。庶民に増税など無慈悲な負担増を強いながら、業績の好調な企業に法人税減税の恩恵を与えようとする動きも表面化している。
 「強者の論理」の貫徹と、それを合理化する経済理論の横行。この現状の改変に微力を捧げる見地から、庶民の一員として社会の一隅を照らす情報の発信ができるようになりたい。やれる条件が整えばの話であって夢物語の域を出ないが、幸い最近受けたCT検査では再発の兆候なしという結果が出た。 


【追記】
TS1の服用開始から1年経った2007年7月下旬のCT検査も異常所見なしだったので、抗癌剤治療は一応終了した。


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