ごあいさつ

                            2018年8月中旬
 

          世は「異例の夏」、私は…

 

<「異例の夏」、京都にあっても>

どなたもが多かれ少なかれ「異例の夏」を体感されていることでしょう。私も想定外の出来事が次々起こるのに驚きあきれ、大した災厄なしに済んできた自らの幸運に感謝しつつも、もうこのあたりで打ち止めにしてほしいと祈る思いでいます。

 618日の大阪北部地震では、京都市左京区の自宅も震度4の揺れに見舞われましたが、スマホの緊急地震速報が鳴ったのはぐらっときた後でした。大阪府高槻市が政府資料に基づいて作成した「ゆれやすさマップ」では、有馬-高槻断層帯で30年以内に地震が起こる確率は0.02%以下とされていたのに、その東端近くが震源だったとのことで、何かと考えさせられますね。

 6月28日から7月8日にかけては、200人以上もの犠牲を出した西日本豪雨。わが家も土砂災害警戒地域に入っているだけに、京都市発令の「避難準備」が「避難勧告」を経て「避難指示」に強化されるのにつれて、いやでも不安をかき立てられました。ただ、浮き足立ちはしても、ハザードマップで確かめた指定緊急避難場所の遠さときたら。家人を車椅子に乗せて雨中の坂道を押して上がるなんて、後期高齢者入り間近の老人にとても出来る業じゃありませんな。打てる手は自宅内での2階への移動のみだし、今後も同じだろうと悟りもした次第です。

 豪雨の終焉は、そのまま過去に例のない酷暑の幕開けでした。もともと夏の暑苦しさで知られる京都市も、714日に38度超えし、19 日には観測史上タイの最高気温(39.8度)を記録、翌20日には38度超の連続日数記録を7日に伸ばしました。日本一暑い町の競争に堂々と参戦、悪名さらに轟くといったところです。一住民の私も、「危険な暑さ」、「災害級の猛暑」、「殺人熱波」等のおどろおどろしいマスコミ用語に違和感を抱くどころか、熱中症多発のニュースに促されながら、日ごとに共感を深めました。

なお、異例の極めつきが台風12号で、通常のルートとは逆に三重県上陸後、西日本を東から西へと突っ切りました。29日未明から暴風雨になった京都市の最大瞬間風速は25.4メートル。これほどの強風なら台風一過のさわやかな朝を迎えるのが通り相場なのに、観測史上初の逆走台風の余波もまた常識破りでした。少しだけ気温は下がったけれど、湿気ムンムンの不安定な天候となり、熱中症リスクもかえって高まったくらいなのだから、何をか言わんやです。

8月に入っても、体温を超える危険な暑さが長々と続きました。お盆過ぎになって妙に涼しい日も出てきましたが、それすら異変の兆候ではと疑わずにはいられません。来年以降も異例が通例に化す嫌な予感もします。

一連の異変には、山地荒廃、都市の人工排熱等々、間違いなく人間の所業が複雑に関わっています。そうである以上、異例の夏を「自然の慟哭」ないし「自然の逆襲」と受けとめて、国家、自治体、企業、家庭などが抑止と軽減のための多様な措置を検討し実施するべきなのは、あえて言うまでもありません。と同時に、顕在化した変化から身を守り、時にはうまく順応するための知恵を絞り出して実行に移す努力も、切実に求められています。むろん、私とて身の回りで為しうることを為すのにやぶさかではありません。

 

4年前の私はこうだった>

異例の夏の苛烈さを人並みに味わいながらも、実は時を同じくして私の中で、修羅場をやっとくぐり抜けたという安堵の気分が次第に広がってきもしました。またしてもサイト更新の間があいてしまったので、近況報告かたがた、自分史のページを書き足して現在の心境を客観化する意図をも込めて、私的な事情をざっと記させていただきます。と言っても、しょせんは下手な言い訳の続編にすぎませんが。

続編と申したのは、以前に載せた「ごあいさつ」(20156月)がその種の代物だったからにほかなりません。ちなみに、「言い訳の極意??」と改題して「折々の独り言」欄に収録しした同稿では、以下のいきさつを述べました。

(1)長く療養状態にあった長女の歩行困難が悪化をきたしたことや、ゆえあって孫育てに深くタッチする立場になったことなどで、2012年頃から私たち老夫婦が協力して家庭内でこなすべき仕事が目立って増えだした。

(2)私の肩にかかるヘルパー的労働も質量ともに厳しさを増し、そのあおりを受けて書斎で細々ながら続けてきた「趣味の学習」が滞りがちになった。

(3)他面で、年齢不相応の労働が基礎体力を向上させてくれたのか、孫娘の塾通い送迎や長女の通院介助に伴う待ち時間を独習や書き物にあててもバテない自信が生まれ、やがて立地の良い京大付属図書館の利用を思いつくところとなった。

(4)図書館通いの甲斐あって2015年春には、某大学院のワークショップで久しぶりに教壇に立ち、消費税問題を扱う学術講演をおこなうことができた。その翌月には、独学でどうにか身につけた電子書籍作製の技法を用いて、かねてから構想していた胃がん闘病記の刊行に漕ぎ着けた。

 

2017年春には「ちょっとした充実期」が>

さて、その後ですが、孫娘の中学受験に伴う塾送迎の増減、妻の持病の悪化などがありはしたものの、全体として生活ペースに著しい変化が起こらない状態で時が流れました。いま改めて自らの来し方を時期区分すれば、2014年の秋口あたりから相対的安定期に入り、それがうまく持続してくれたといった感じです。

家庭内ヘルパー稼業に比重が傾いてはいても、多少は研究者ふうの時間もひねり出せる日常は結構ありがたかったですね。ちまちまペースながら息長く積み上げ続けた独習が生きて、2017年の春にはバージョンアップした消費税の講演録を携えて演壇に上がることができました。講演準備にあたっては、この機会を利用して消費税にかかわる問題領域全般について理解を深めたいとの思いから、実際に時間内に話せる範囲に限らずに幅広く目配りする姿勢で臨んだつもりです。

また、米国オバマ政権の経済政策を総合的に考察した専門書の書評を引き受け、その任を果たしもしました。ここでも原稿執筆の準備にさいしては、限られた紙数に盛り込める中身はどの程度かなんてケチな算段は抜きに、思い浮かぶ関連事項のできるだけ多くをサーベイするように心がけました。私が主たる専門分野としてきた国際政治経済研究にかかわる知識のブラッシュアップを図りたかったからです。当人としては原稿の枠外での見えざる効果もある程度上がったと密かに自負しているのですが、たんなる自己満足かもしれません。

17年春は、来客も次々迎えられる条件に恵まれ、自宅に縛られた閉鎖的な生活が常態となっていた私には、居ながらにして研究交流ができた珍しい期間でもありました。相対的安定の行く先に「ちょっとした充実期」が待っていてくれたのは、大げさでなく望外の幸せでした。何かと気を良くして、5月下旬に参加した京大経済学部卒業50周年記念同窓会では、幹事から申し付けられた乾杯の音頭取り役としてマイクに向かったさいに、こんな胸中を明かしたものです。

「ここに集う100名余の同期生諸氏は、各人各様の半世紀を顧みて、今どんな感慨を抱いておられるのだろうか。私の場合は、研究歴50年、介護歴20年、胃がん手術後の抗がん剤治療にふらつく身で退職をしてから10年。あれこれあった人生だけれど、このまま平穏に来春の金婚式を迎えられれば良しとしたい」。

 

<もろかった充実期、右目不調の衝撃も>

好事魔多しとは言い得て妙ですよね。同窓会から1ヵ月も経たないのに、長女の体調が不安定化し、はやくも不吉な雲行きになったのですから。

介護事情のシビア化に加えて、中高一貫校に入った孫娘の学業を手助けする課題も浮上しました。少人数の英語教育に重点を置く中学だとは聞いていたけれど、まさか数学や理科の授業までもが英語で進められるとは!英語には無縁だった子だけに、並大抵でない苦労が待ち構えていたし、さらに夏休みの山のような宿題ときたら…。私の書斎で二人して朝から深夜までひたすら問題集の消化に精を出した日だけでも、指折り数えれば2桁に届いたのでは。小学3年生になったもう一人の孫についても、おじいちゃんの出番がひっきりなしでした。

これだけでも図書館通いのハードルが相当上がってしまったのですが、場所のいかんにかかわらず独習全般の妨げとなる深刻な問題も出てきました。以前に眼科専門のBクリニックで白内障手術を受けて以降、両眼とも視力に不足を感じなくなっていたのに、右の目が急速に見えにくくなったことがそれです。

6月のある日、鴨川の河原に立ち右目だけ開けて上空を舞う鳶を追っていると、突然その姿が消え、すぐにまた出現したのには、ぞっとする衝撃を受けました。繰り返し確かめても、やっぱり同じ。あわててBクリニックに駆け込み、何回かにわたる検査の後、8月上旬に後発性白内障のレーザー治療をしてもらったけれど、まったく改善はみられず。それからも別種の検査がなされ、右目の真ん中あたりに見えていない箇所があることが判明し、担当医から原因は視神経にあるらしいと告げられるに至りました。

視界に常に黒い影がたゆたう状態は、とりわけ文字の読み書きのさいに気になるものです。時間が経つほどに右目だけでなく左目も疲れてボーッとかすみやすくなることも、身をもって知りました。孫の面倒見は嬉しさもあったので別として、読書やPCを使っての資料収集作業、執筆などは自ずと敬遠しがちになり、図書館利用の頻度もぐっと落ちる羽目に。やっと巡ってきた充実期のもろさたるや、まさに幻滅ものでした。

 

<内なる葛藤>

充実期から一転しての不調期。不本意きわまりないその中にあって非常にありがたかったのが、たまさかの来客との歓談です。格好の気晴らしになった上に、外部から流れ込む研究の香りに好奇心をくすぐられもしました。

9月下旬には、かつて大学院坂井ゼミのメンバーだった研究者たちが開催した国際政治経済学研究会に参加させてもらいました。学術書の出版や国内外の調査活動など、社会科学研究の最前線で活躍中の脂ののった世代による報告・討論、さらに懇親会でのやり取りでは、多様な知識・情報が目まぐるしく飛び交い、私も快い知的刺激にひたることができました。

しかし、他面で、ろくすっぽ準備もせずに場に臨むことへのためらいを自覚したのも、まぎれもない事実です。研究教育上の悩みを語る来客に有益なアドバイスなどできやしないのに、わが身の愚痴ならいくらでもこぼせるなんて、てんで締まらない。ましてや研究会の席上で、無責任な思いつきの放言しかできずに議論の深まりを妨げるようだと、老害のそしりを免れないだろう。当然ながら、私としても心外だ。さりとて「枯れ木も山の賑わい」と戦力外を自ら吹聴するほど悟りもできず。さてどうしたものか。

もやもやを鎮めるのに最適な場所は京大図書館だったので、隔週に一度ぐらいは無理にでも時間をあけて席につくようにしました。静謐な空気の中に身を置くと、みるみる自分が蘇るような気がするのは、職業的にすり込まれた習い性なのでしょうか。ただし、目の具合の関係で、やれたのは短時間の軽い読書だけでしたが。

 

<多難を予感させた2018年の年明け>

 充実期はつかの間の夢と消え去ったのに、その後に始まった不調期は年をまたいでも終息の兆しなし。せめて正月ぐらいは勘弁してほしいのに、今年の年明け早々、右耳が急に聞こえにくくなるトラブルにも見舞われました。診断はストレスに起因する突発性難聴。発症後48時間以内の受診が望ましいとされる病気だそうで、幸いその条件を満たしたおかげか、ステロイド投与だけで数日中に症状が改善に向かい、ほっと一安心。それにしても、2018年もまた多難の年になることを予感させるに十分な出来事でした。

1月末には4か月ぶりに開かれた国際政治経済学研究会に出席しました。ガス欠状態の自分を不甲斐なく感じたのは、前回と同じ、いや前回以上でした。せめて右目の調子が良くなってくれればと願いはしても、長く机に向かえば眼精疲労になるし、頭痛まで起きる始末。でもって、3月半ばには神経眼科のあるK大学病院に転院し、より専門的な診断を仰ぐところとなったのですが…。

 ここで暗から明への局面転換となってほしかったですね。しかし、現実は見事なまでに容赦のないものでした。いったい誰がこんな筋書きを用意したのかと怨みはしても、怨みの向け先がわからないのがもどかしさに拍車をかける、ストレス満載のなりゆきでした。

 

<妻の骨折、おまけにインフルエンザ渦も>

3月下旬の土曜日、泣きっ面に蜂の事態が発生しました。娘たちが金婚記念の内輪の食事会をセッティングしてくれたので、半世紀前に結婚式を挙げたホテルのロビーに参集したのですが、会場にエレベーターで移動する直前に妻が足を滑らせて転倒。タクシーで駆けつけたB病院は時間外診療の担当が内科医なので診てもらえず、あちこち電話で探してOKをもらったS病院に行くと、右脚の膝蓋骨の骨折とわかりました。

 通院治療となった妻の介護には、当初、福祉関係の仕事をしている次女が身についたスキルを発揮してくれ、私としては大助かりでした。従来、私の家事分担リストに入っていなかった食事の用意も、次女の手を借りました。だけど、ウィークデーになると、次女も多忙な職場をそうそう離れるわけにはいかず、よって家庭事情からして前面に出るのは私以外にありえないということになります。

 しかも、事故の翌々日には、私も体が熱っぽく、妻の受診中に内科で診察してもらうとインフルエンザに罹患しているとのこと。夜には体温が39度を超えました。次の日には長女が、さらにその翌日には孫たち2人も、相次いでインフルエンザで寝込み、病気でないのは次女だけという野戦病院状態に。次女の勤務中は私が動けない傷病者の世話や家事の遂行にあたったものの、自分自身が39度ラインを上下する高熱に浮かされていた45日の記憶は、完全に蒸発しきって今は何一つ残っていません。空中浮揚をしていたような感触だけは、体の奥深くにかすかに仕舞い込まれている気もするのですが。

 

<窮地脱出へ、目の不調は無視するべし>

 妻のギブス(途中でニーブレースに)がとれてリハビリ段階に移るまでにほぼ1か月。その間に私のヘルパーとしての力量は間違いなく格段の進化を遂げました。次女のやり方に倣って妻の動きを介助できるようになったし、簡単な食事なら材料を取り揃えてさっさと作れるようにもなりました。ほかの用事の大半は以前からこなしてきた類いのものだから、万能ヘルパーに向かってまっしぐらってところですな。実際、朝の6時前から深夜2時近くまで、よくもこれだけの仕事があるものだと感心させられるほどに、追い立てられるようにして家の内外をかけずり回った日々でした。

 妻のリハビリ通院は6月上旬まで続きました。私の眼には、松葉杖を支えにキッチンで立ち仕事ができるようになっていく妻の姿が、当人だけでなく一家としてもやっと窮地を脱出しつつある証として、頼もしく映ったものです。妻の現役復帰が進むにつれ、私の方にも少しは時間のゆとりが生まれ始め、5月半ばには京大図書館に顔を出せるまでになりました。手帳で確かめると、2ヶ月半の長きにわたるご無沙汰でした。右目の件もあって、ほんの1時間たらずお邪魔しただけですが、静寂の安らぎ効果をしっかり再認識できました。

 視力状態については、妻の骨折事故をはさんで数回にわたり、転院先のK病院で改めて各種の検査がおこなわれました。指定のクリニックに行って眼窩領域のMRI撮影もすませ、最終的な診断結果を聞いたのが4月中旬。右目の中央部に見えていない領域がかなりの広さで存在する、網膜に異常はないので視神経の問題だろうが原因となる腫瘍は認められない、よって視神経の網膜との接合部に不具合があると考えられる、とのことでした。

なるほどと理解しましたが、尋ねるまでもなく治療のすべなしともわかりましたね。事実、後は隔月ペースで経過観察の検査を受けるようにと指示されただけで、目薬の処方すらなしに帰宅。

悪化しないのがベストだなんて切ない話だけど、何分にも空前の多忙の最中だったので、うじうじ思い悩む暇などあるわけはなし。ただ、以前にBクリニックの医師から、「黒い影など見えていても無視し続ければ無いのと同じだから、気にしないで生活するのが一番だ」と言われたことを、鮮やかに思い出しました。だとすれば、研究・独習についてもその方式を試してみるしかないのでは。自己分析すれば、そんな覚悟が一月がかりで固まったことが図書館通いの再開に結びついたのでしょう。

 

<「異例の夏」を横目に前進を>

 大阪北部地震が起きたのは、妻のリハビリ通院が終了してから2週間経った時点でした。それを皮切りとした「異例の夏」に、むろん私も大いに悩まされました。

歩行障害の長女を車椅子に乗せ、バスを利用して病院や美容院まで送り迎えする役目は、炎天下では重労働並みに老体に応えます。スーパーやホームセンターでの買い物も、ほぼ毎日となると、異常高温や豪雨の負の影響をいやでも被らざるをえません。また、かなりの頻度で頼まれる孫たちの塾や学童への送迎が、なぜか悪天候にぶつかりがちだったりして。自宅内にいても、災害・気象情報や熱中症予防に絶えず気を配らなければならず、洗濯物の出し入れ、ゴミ出しや廃品回収の準備、炊事の段取り、食品・日用品のストック管理、エアコン清掃など、どれも例年以上に手がかかりました。

それでも私個人としては、妻の怪我が良くなるにつれ家庭内労働に占める私のシェアが下降線をたどっていたために、むしろ急場を脱した安堵の思いの方を強く感じていたと言えます。気温が39度を上回る中で車椅子押しをした後ですら、「インフルエンザで高熱を出しながらも立ち働いた時よりはずっとマシだ。もし自分が変温動物なら、きっとあの時並みの空中浮遊状態だろうに、恒温動物だったおかげで助かった」と、変な感想を周囲に洩らしたほどです。

孫たちが夏休みに入ってからも、前年までと違って今年は宿題の助っ人要請がほとんど寄せられず、いささか拍子抜け。それやこれやで自分の自由になる時間を捻出しやすくなれば、常に煽り立てられているような焦燥感も薄れるということで、私にとっては願ってもない展開でしたね。

もっとも、せっかくのゆとりタイムながら、実態は私が日常的に担うヘルパー的労働ノルマの合間合間に存在する形なので、ひとまとめにして遠方で余暇を楽しむというわけにはいきません。心情的にも趣味の学習に充てたいのが本音だし、結局いくらかまとまった時間があれば図書館や喫茶店に行き、そうでなければ書斎で過ごすパターンになってしまいます。

そこで心の支えになってくれたのが、かの某眼科医のご託宣です。繰り返すと、視界に浮かぶ黒い影など、気にしないのに慣れてしまえば存在しないのと同じことだとか。ほかに策などあるわけじゃなし、その言を信じて進むしかないと思い定めれば実践あるのみ。こまめにPC閲覧や軽い読書を繰り返すうちに、確かにディスプレイや紙のページ上に漂う影を意識しない時間が生まれて増えだしました。

今は、あまり先行きを悲観しないで、とりあえず酷使しすぎによる眼精疲労だけは避けながら、歩み始めた道を着実に前進しようと思っています。そうすれば自然に研究の領域に足を踏み入れる可能性だって出てくるかもしれない、と淡い期待すら抱いているのですが。経験上、錆びついた頭の回転を良くするには思考を客観化する執筆作業がことのほか有効なので、長々とこの文章を綴ったのも独習力アップの深慮遠謀にもとづくものだとご理解いただければ幸いです。

8月末には国際政治経済学研究会がありますが、私の役どころはやはり「山を賑わせる枯れ木」でしかなさそうです。でも、ひょっとしたら枯れ木から芽が出るかもしれない。そんな気配を参加メンバー達に感じてもらえれば嬉しいし、そうなるだけのポジティブさを維持し続けたいとも思っています。研究会後には、過去にそれなりに独習を積み上げてきた消費税問題に照準を合わせ、おさらいと補充的な考察をおこなうつもりです。そして、私なりに集約し、何らかの形での公表にまで行き着きければ、と取らぬ狸の皮算用までしています。この件については、今から私の心づもりを記す別稿を用意し、「虚々実々の消費増税」と題する消費税コーナーを作って、そこに載せる予定です。



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