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第六章 ヒラタシデムシ (2)

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2003/09/17 Wed. 15:40

 茨木はベルトから塩化ビニルのパイプを二本引き抜き、一本を門真に無理矢理持たせて前へ押しだした。
「行くでぇ。左足ねらえ」
「卑怯者!寄ってたかってけが人を……」
 僕の叫びにキアの声がかぶさった。
「ごちゃ言うとらんと、さっさと逃げんかい」
「でも……」
 茨木がいらいらと手をふりまわした。
「逃がさへんで、烏丸。お前からいてもたろか」
 キアが僕を手で抑えて一歩前へ出た。
「こいつに手ぇ出すやつは許さん」
「やる気ぃかよ。お前から仕掛けてみい、クソ親父にタレこんだるで。またしばかれてもええんかよぉ」
 茨木の大馬鹿野郎。何てこと言ってくれるんだ。
 キアの目がぎらりと光った。裂けたような笑みを浮かべた口元からとがった犬歯がのぞいた。
「俺が殺られる前にお前らを殺ってもたらぁ」
 僕が止める間もなかった。
 いきなり左足の蹴りが放たれた。泡をくって態勢をくずした門真の顔面を踏みつけて小柄な身体が宙を舞った。つかみかかろうとした茨木の背中を両足で蹴り、着地と同時に振り向いて倒れかけたやつの襟をつかんだ。
 先攻をかけるなんていつものキアじゃない。キレさせた茨木が悪いんだ。
「待っ……」
 声を張り上げようとしたのに、いきなり喉に圧力がかかって息が吐けなくなった。
 節くれだったごつい手につかまれて両足が地面を離れた。鞄を落として首にかかった指をひきはがそうとしたが、うまくいかない。頭の血管ががんがんと脈を打ち、目の前が暗くなってきた。
「こっち見いや、葺合。こいつがどないなっても……」
 淡路の怒鳴り声が途切れて、ふっと息が楽になった。と思ったら、まっすぐに落下してしたたかに尻を打った。
「……痛……」
 なんとか立ち上がろうとしたら、ぐらりと何かが降ってきた。あわてて飛び退いたところへどさりと倒れ込んだのは、淡路の身体だった。
「お前ら他にせんならんことがあるんとちゃうか」
 淡路の後ろに、くたびれたワイシャツと黒いスラックス姿の中年男性が立っていた。
「……多聞……さん」
 門真は泣きそうな顔で鼻の頭についた泥をぬぐい、塩ビパイプを放り出して一目散に逃げ出した。
 茨木は襟をつかんだキアにつきとばされてよろめき、白目をむいた淡路の身体にけつまずいて転びかけた。態勢を立て直そうとしたところを多聞の手刀で打ち据えられ、そのまま仲間の上にどさりと倒れた。
「ったく。ボンにはろくな手下がおらんな」
 多聞は無表情のままひとりごち、折り重なって倒れた二人を迂回して僕に片手をさしのべた。
 助け起こそうとしてくれている。そう思って僕からも手をのばしかけた。 
 キアが猛然と走ってきて、多聞の腕につかみかかった。するりと身をかわした男の懐にそのままとびこんだ。
 多聞は突き上げられたキアの拳に手を添えて軽々とひるがえした。転がされたキアは片手を地面についてはじくように蹴りかえした。攻撃はまたしてもかわされた。ひるまず次の蹴り、そして突きがくりだされた。
 僕は地べたに尻をつけたまま、二人の動きを呆然と見守った。キアのがむしゃらな攻めを多聞はことごとくいなした。防戦一方というより稽古をつけてやっているみたいだ。
 数十秒が経過し、飄々と動いていた多聞の顔色がだんだんどす黒くなってきた。息を吐くたびに苦しそうに顔をゆがめ、終いには身体を屈めてぜいぜいとあえぎだした。
 キアは攻撃をやめ、不機嫌そうに口の端をまげた。
「老けたな。くそ野郎」
 多聞はなんとか苦しそうな息をおさめて顔をあげた。
「ヤニで肺いわした。てめえも気いつけろよ、くそ坊主」
「モクは小五でやめたわ」
「自慢すな、あほ」
 気のせいだろうか。表情は変えなかったが、多聞の声が柔らかくなったように聞こえた。
「リーチが足りんぶん間合いをつめて補う気やろけどな。お前のは入り込み過ぎや。無鉄砲で命落とすで」
「知ったふうぬかすな。俺はお前の弟子やないわ」
 淡路がむくりと身体を起こし、茨木をずり落としてうなり声をあげた。
 多聞は冷ややかに二人を見下ろした。
「じきに売布が来る。面倒やから、お前らはもう去ね」
「あの……助けてもらって……」
「礼なんか言わんでええ!」
 キアはますます不機嫌になり、後ろも見ずに歩き出した。僕は小走りで後を追った。

 僕が横に並んでも、キアはまっすぐ前をみたままずかずかと歩き続けた。足の具合が心配だったが、唇を噛み眉間にしわを寄せた顔を見ると、声をかけるのもためらわれた。
「いつまで出戸に義理立てしとんや。ダボカスが」
 はき捨てるように言ったのが多聞のことだと気がつくのにちょっと時間がかかった。
「あの人とは古いつきあいなの?」
「つきあいなんてもんやない。あのボケ、オカン騙くらかしてソープに売り飛ばそうとしよった」
 思ってもみなかった話を飲み込むのに、さらに時間がかかった。
「……弟子じゃないって言ってたけど……格闘技とか教えてもらってたんじゃないの?」
「ぶっ殺したる気ぃで何遍もつっかかってった。そのたんびにどつき倒されて、しまいに手口を覚えてもただけや」
「キア……そのとき歳いくつだった?」
「小二」
「……」
 頭がくらくらして質問を続ける気も失せてしまった。
 キアは静かになった僕をちらりと見かえした。
「首んとこ。指の跡、残っとうで」
「え?」
「はよ冷やしたほうがええ。親に知られとないんやろ」
 下を向いても自分の首は見えなかったが、触ってみるとたしかに熱を持っている部分があった。
 キアは少し気落ちしたようすでうつむいた。
「俺とおったらろくな目にあわへんな」
 違うよ、キア。僕がいつも外れクジをひいてしまうのも、親とちゃんと話をしないのも、お前と知りあう前からのことなんだ。
 成り行きで小二の頃のいやな思い出がよみがえった。

 小学校にどこかのボランティア団体が押し掛けてきたときのことだ。自称カウンセラーの女の人がクラスの子供たちに真っ白い上質の紙を配って言った。
「地震のときのことを覚えていたら絵に描いてみましょう」
 僕がクレパスを手に取るよりさきに、担任に声をかけられた。
「烏丸君は知らないものね。無理に描かなくてもいいのよ」
 そのあとみんなが絵を描き終わるまで、僕は白い紙を見つめたままじっとすわっていた。

 我に返ると、キアが僕の顔をとまどったようにうかがっていた。
「ちょっと考え事してただけだよ」
 僕はそう言ってカッターの襟をひっぱって立てた。

2003/09/20 Sat.

 僕の家の近所には本屋が少ない。
 マンガや新刊の文庫本なら小さな店でも間に合うけど、自然科学関係の本や何年か前に出版された小説を手に入れるためには明智駅前の大型書店まで出かけなければならない。
 僕が買い物に行くと聞いて、母さんが
「ついでにお願い」
とお使いリストを渡してきた。料理の本や勇のファンシー文具まで買うはめになり、帰りにはデイパックがずしりと重くなった。
 明智駅から乗った快速列車は二人がけのクロスシートだった。窓側に座って荷物を足元におき、フィールドノートを開いた。
 このところムシの観察記録はほとんどつけていない。
 人名を書き残すのをはばかってイニシャルや記号や矢印ばかりに書き換えているが、常盤から仕入れた情報と僕が知りえた事実の整理に使っているのだ。
 住之江が未だに別室登校を続けていることで、教師たちが教頭への反感をつのらせている。余計な仕事が増えたという不平が生徒にも聞こえてくるし、宇多野先生の無策はさらに露骨に非難されている。
 茨木や淡路は売布にねじこまれて校外では身動きとれないらしい。腹いせに気の弱い教師にねらいをつけてこづきまわしている。
 玉出先生がなんとか現場をおさえようと走りまわっているが、壬生先生は仕事を休みがちだし、他に応援しようという教師もいない。
 千林はしつこく僕を見張っている。ちょっとしたことでもねじった解釈をしては、僕とキアの悪口に仕立てて言いふらしている。安土先生は千林に聞いた話をそのまま職員室で垂れ流す。常盤情報では僕とキアが江坂の対抗勢力を組織してるなんてばかばかしい話まであったそうだ。
 高井田はどこにも行くあてがなくなり、仕方なく教室にいる。門真も元気がないので、クラスには番格をきどるやつがいなくなった。それだけのことなのに、キアが二人をしめてのし上がったのだと本気で信じている馬鹿もいる。

「あんがい、女子平セー」
 授業中、課題の討論をするふりをしながら常盤が計算用紙に走り書きした。
「他のクラスより対立ブンレツ少。M子、はみられ」
 大宮がいじめられてないならいい。僕は調査代がわりの宿題ノートを差し出した。
「UTにがしたコトリをさがし中」
 え?あの文鳥か。なんでまた今頃になって。
「外の部カツやエンゲー部のやつにキショがられ」
 僕の目的はキアの汚名を返上することだ。そのために宇多野先生の尻尾をつかまえたいのだが。ちっともかわいがっていなかった小鳥なんかどうして気にするんだろう。

 教室でのやりとりを頭の中で片づけ、ノートに書き足していった。
 校長は学校の内部事情が外に漏れるのを警戒している。児童相談所だか教育委員会だかの人たちはあれっきり姿を見せない。そういえば、あのごつい刑事さんも……。
 背後から列車の通路をどすどすと歩いてくる音がした、と思ったら隣の席にかさだかい男の人がどかっと座った。ぷんと、すえた汗のにおいがした。
「出たぁ……」
「何やて?」
「何でもないです」
 僕はあわててノートを閉じ、デイパックをかかえて立ち上がった。
「まあ、待ちいな」
 堂島さんは前席の背もたれに膝をつけて僕の行く手をふさいだ。
「奇遇やないか。せっかくやから降りるまでつきおうてぇな」
 白々しい。僕がひとりになるのを見計らっていたとしか思えない。
「つけてたんですか?」
 堂島さんは中学生になじられても平然と話し続けた。
「きみとつるんどった、こ憎たらしいガキな。逢坂から越して来たんやろ。あいつが母親んとこにおれんようなったホンマの理由、知りとないか?」
 はめられた。わかっていたが、聞き捨てることはできなかった。
 僕は席に座り直して強面の男の人をにらんだ。
「刑事さんがどうしてそんなことを知ってるんですか」
 堂島さんは品定めするように僕をじろじろ見て、にやりと笑った。
「ちょっと見ん間に面構えが変わったな。多少は根性すわってきたか」
「前置きは結構です。話を続けてください」
「そう、せくな。こっちの用件が先や」
 駅に列車が停まり、数人の乗客が乗り降りした。走行音が再び大きくなるのを待って、堂島さんは話し始めた。
「きみんとこの校区を中心に自転車窃盗バイク窃盗が頻発してるっちゅう話は聞いとるな」
「ずっとそんな細かいことを捜査されてるんですか」
「口のききかたには気ぃつけや。世の中俺みたいに温厚な人間ばかりやないで」
「そうですか。明日から気をつけます」
「まあええわ。明智署でも温厚な盗難担当の連中は、たかがガキのチャリパクやとしか思てへんし、学校や親連中見とっても本気でやめさす気なんかあらへん。そんなんで捜査も適当になってもてるようや。確かに、大概はそのへんの自転車の鍵をこわして適当に乗りまわしてほかしてるだけやねんけどな。なかに時々、超高級車やらカスタムやらプレミアもんやら、桁違いに値の張るやつがまじっとんねん」
「盗るほうに見分けがつかないだけでしょ」
「それが、お高いやつにかぎって乗り捨てがない。気がつけば国外行きの貨物船に乗っとったり、裏ポンバシあたりのジャンク屋でパーツになって売られとったりするんや」
「盗難高級自転車やバイクを組織的に売りさばいてるやつがいるんですか」
「まあ、そういうことや。けど、俺の本命はそこやない」
 堂島さんは咳払いして脚を組み替えた。
「窃盗の時にはそこそこ仕事しくさるガキ共が、たまーに騒ぎを起こして110番通報いれられることがあってな。野良犬のケツに花火つっこんで商店街で放したとか、瓶ビールの栓抜いて二、三ダース坂道に転がしたとか。しょーもないんやけど出動せんわけにいかん。そうこうしてる間に実はもっとやばいヤマが同時進行してた。そないなことが何べんかあったんや。まるで現場の目をそらそうとしたみたいにな」
「陽動ですか。考えすぎじゃないんですか」
「同僚にもそない言われとるよ。西中の不良どもは大人の犯罪者につながってるとこを挙げられたためしがないて。俺に言わしたら、なさすぎて不自然なくらいや」 
「誰かが手綱をひいてるって言いたいんですか」
「へえ、心当たりがあるんかいな」
 僕はシートに身を沈めて唇をひきむすんだ。
 しばらく待っても返事がないと悟って、堂島さんはわざとらしく話題を変えた。
「葺合滋は今年の四月、逢坂府警の取り調べを受けとる。容疑は殺人未遂や」
 そこで言葉を切って僕の顔を見た。
「続けてください」
「……あいつの母親の再婚相手にも連れ子がおってな。三歳の双子やねんけど、そのうちの一人が重身……障害児や。両親の留守中この子が風呂場で溺れた」
「事故ですね」
「自分の脚では立つこともできへん。誰かが湯船に漬けんことには……」
「それだけの理由で疑われたんですか」
「父親が帰宅したときには、服着たまんま湯に沈んだチビコの脚を葺合がつかんどったそうや。現場を見たもんは他におらん」
 話のどこかにひっかかるものがあったが、その時にははっきりしたかたちにならなかった。
「警察がこだわったんは、あいつがその前の年にも神部で傷害騒動を起こしとったからや。中坊十人ほどに混じって夜中の繁華街で大乱闘。他の関係者が全員逃げ出してもたんで、事件化でけへんかったらしいけどな」
「相手がやましいことをしてたんでしょうよ」
「たいした信用やな」
 僕はまっすぐに刑事の目を見つめ返した。
「葺合は無実です。あいつはいつだって弁解をしない。告げ口や言い訳は卑怯だと思ってる。自分が不利になっても大人のご機嫌うかがいなんかするやつじゃない」
「県警や児相の意見はちゃうと思うで。火のないとこに煙は立たんてな。次に何かあったらもう、ただでは済まんやろ」
「脅しですか」
「そうならんように気ぃきかしたってもええんや。きみが協力してくれるんやったらな」
「……」
 列車がまた停まって、すぐに発車した。僕の降りる駅は次だ。さっきから胸を押さえつけられたみたいに息が苦しかった。呼吸がはやくなって、指先がしびれてくるように感じた。
[newpage]
「……僕から何を聞きたいと……?」
「西中のグループとつながってる大人の手がかりが欲しい」
「江坂の実の父親がその筋の人なんでしょ」
「出戸か?あいつは自分の手は汚さへん。そら、尻尾をつかみたいのはヤマヤマやけど、なかなかの狸でな」
 僕は乾いた唇をなめて生唾を飲み込んだ。
「江坂のそばに、多聞っていう男の人がいます」
「……聞かん名前やな」
「本名じゃないかも知れません。それ以上のことは僕にも……」
「ええんや。とっかかりさえもらえれば。感謝するで」
 堂島さんはズボンの尻ポケットから角の折れた名刺を取り出して僕に押しつけた。
「直通番号を書いといた。そっちは名乗らんでええから、また連絡くれや」
 そうして来たときと同じくらい唐突に席を立ち、どすどすと前の車両に歩いていった。
 僕は次の駅で下車したが、足元が雲でも踏んでいるように頼りなくて、もう少しで階段を踏み外すところだった。
 いったいこれで良かったんだろうか。多聞さんが警察に呼ばれたりしたらどうなるのか。キアがこのことを知ったら……。
 自分の言ったことには責任を持てと何度も教えられてきたけれど、責任の取り方のお手本なんて見せてもらった覚えはない。謝るだけで済まない事態になってしまったら、いったい僕はどうすればいいのだろうか。


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