泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

中央軍集団の後ろの方<中編・中央軍集団の保安師団>

 中央軍集団の後ろの方<前編>では独ソ開戦から1942年夏ごろまでの戦線後方地域で活動した陸軍部隊と親衛隊・警察部隊について書きましたが、今回は<中編>として中央軍集団の保安師団についてできるだけ詳しく書こうと思います。

・独ソ開戦から1942年夏ごろまでを書いた「中央軍集団の後ろの方<前編>」はこちら

 保安師団の編成や作戦行動についての記録や資料は非常に限られており、今回は「The German Order of Battle Infantry in World War II」やLeo Niehorster氏の「German World War II Organizational Series」を中心にネットの「Lexikon der Wehrmacht」で「保安師団」と配下の「増強歩兵連隊」や「国土防衛連隊(保安連隊)」の情報を収集し、作戦行動については警察部隊のパルチザン掃討作戦参加部隊の断片的な情報を集めています。しかし、ネットの情報の元ネタは多くの場合同一のようで、同じ矛盾点や疑問点をはらんでおり、決め手とならない場合もまた多くあります。このため、保安師団の編成や作戦行動については推定の域を出ない場合も少なくない事を予めご理解のうえご覧ください。

1.保安師団の設立

 ドイツ軍の保安師団はソ連への侵攻を控えた1941年3月に編成され、一部は第3編成波で編成された国土防衛師団を改編・再編成する形で編成されました。

・第207保安師団:北方軍集団
・第213保安師団:南方軍集団
・第221保安師団:中央軍集団
・第281保安師団:北方軍集団
・第285保安師団:北方軍集団
・第286保安師団:中央軍集団
・第403保安師団:北方軍集団
・第444保安師団:南方軍集団
・第454保安師団:南方軍集団

保安師団の任務は後方地域での占領・警備任務であり、1個(増強)歩兵連隊と1個国土防衛連隊を基幹とし、自動車化された1個警察大隊により補強されました。


保安師団の標準編成
Sicherungs Division

師団司令部
  オートバイ伝令小隊
  (自動車化)通信小隊
  野戦通信司令部
臨時野戦警察分遣隊

(増強)歩兵連隊(verstärktes Infanterie Regiment)
  3個歩兵大隊
  砲兵大隊:3個砲兵中隊
  歩兵砲中隊
  (自動車化)対戦車砲中隊

国土防衛連隊(Landesschützen Regiment)本部
  3~4個国土防衛大隊
警察大隊(Polizei Bataillon)
警戒大隊(Wachbataillon)

2~3個地域軍政司令部(Feldkommandantur):野戦憲兵隊を含む
6~7個地区軍政司令部(Ortskommandantur):野戦憲兵隊を含む
2~3個捕虜移送キャンプ(Durchgangslager)

補給大隊
  修理工場中隊
  2個重輸送段列
  2個自動車化輸送段列
衛生中隊
救急車小隊
2個自動車化輸送段列
野戦製パン中隊
と殺小隊又は中隊
野戦郵便局


□(増強)歩兵連隊(verstärktes Infanterie Regiment)は保安師団の中心戦力であり、通常の3個歩兵大隊を中心に1個砲兵大隊で増強されて「即応部隊」(Eingreifgruppe)と呼ばれました。(増強)歩兵連隊はパルチザン掃討作戦や前線が突破された場合の予備部隊として戦闘に投入されました。

□国土防衛連隊(Landesschützen Regiment)本部には3個~4個の「国土防衛大隊」が必要により交代制で配属されました。「国土防衛大隊」は中年の予備役兵(35才~45才)や回復期の負傷兵で構成されており、訓練も装備も貧弱で兵器はフランス、ベルギー、オランダー、チェコスロバキア製などの捕獲兵器を装備することも珍しくありませんでした。 「国土防衛大隊」の編成中隊数も様々で、通常は3個中隊から5個中隊までの他に、捕虜収容所警備大隊は6個中隊、鉄道警備大隊は8個中隊の例もありました。
 「国土防衛連隊」は1942年6月以降「保安連隊」(Sicherungs Regiment)へと改編され、同時に配属される「国土防衛大隊」も「保安大隊」へと改称されて配属大隊は固定化されるようになりました。

□警察大隊(Polizei Bataillon)は保安師団の中で唯一の完全自動車化部隊であり、通常の警察業務の他に師団の機動戦力の中心として、分割されて通信・交通路のパトロールに使用されたほか、歩兵連隊とともにパルチザン掃討作戦や前線が突破された場合の予備部隊として戦闘に投入されました。
 といっても、警察大隊の中で従来から自動車化されていたのは大隊本部の(自動車化)通信小隊のみで、大隊は独自の車両を保有していませんでした。このため東部戦線派遣の際にはNSKK (Nationalsozialistisches Kraftfahrkorps)の自動車輸送部隊が配属され、配属されたNSKKの自動車と隊員(運転手)により「自動車化」を実現していました。また交通統制の現場では配属されたNSKKの隊員も補助警察官としても活動しました。

□警戒大隊(Wachbataillon)も中年の予備役兵から編成されていましたが、保安師団の場合は師団司令部や占領地軍政司令部、捕虜移送キャンプなどの警備を主任務としたのではないかと思われます。


 開戦当初ドイツ軍はパルチザンの大規模な活動を想定しておらず、バルバロッサ作戦は数カ月で勝利する予定で戦争の長期化は予想外であったため、後方の治安維持用として編成されたのはわずか9個の保安師団で、3個軍集団に各3個師団が派遣されましたが、広大な占領地に対しては圧倒的に不足しており「中央軍集団占領軍司令部」(Befehlshaber Heeresgebiet Mitte)に配属された3個師団では成すすべがありませんでした。
 戦力的には3流の歩兵師団でしたが、師団の管轄下には必要により占領地の「地域軍政司令部」や「地区軍政司令部」の司令部ほか、「捕虜移送キャンプ」や「臨時野戦警察」が配属されました。このことからも保安師団の任務はむしろ占領地の統治・管理であり、主要な都市に駐屯し地域の占領司令部を兼任しながら後方の治安維持任務をこなす程度の任務を期待されたものと思われます。
 このため保安師団全体でも警察大隊以外は自動車を装備することは稀で、パトロール用に自転車を装備する場合もありましたが、基本的に駐屯地を中心とした補給基地や兵舎の警備、通信設備や交通路の警備などのために中隊~小隊単位に分割して運用されていました。


2.中央軍集団占領軍司令部の配属部隊

 1941年6月22日の時点で「中央軍集団占領軍司令部」には次のような部隊が配属されていました。

第221保安師団(第91警察大隊を含む)
第286保安師団(第317警察大隊を含む)
第403保安師団(第131警察大隊を含む)

第707歩兵師団
警察連隊「ミッテ」

 1941年~42年の冬季戦では保安師団も前線での防衛戦に投入され、大きな損害を被りました。このため保安師団の増強が計画された模様で、1941年末~42年の初め2個予備旅団司令部をもとに保安旅団が新編成され、「中央軍集団占領軍司令部」の地域に派遣されました。

第201保安旅団
第203保安旅団

 第201保安旅団は1942年2月5日に総督府に駐屯していた「第201予備旅団司令部」をもとにベラルーシで編成され、第601保安連隊本部と第610保安連隊本部を基幹としました。1942年3月10日の時点で8個国土防衛大隊が配属されていましたが、それまでの保安師団のような警察大隊、警戒大隊や軍政司令部は配属されていなかったようです。
 1942年3月15日、第403保安師団の第406(増強)歩兵連隊が第213砲兵連隊第3大隊とともに旅団に配属され、入れ替わりに第610保安連隊が第403保安師団に転属となりました。また同時に第403保安師団からは第466補給大隊も転属して師団管理部隊の基幹となったようで、1942年6月1日に「第201保安師団」へと改編・改称されました。

 第203保安旅団は1941年12月24日に「第203予備旅団司令部」からベラルーシで編成され、第603、第608、第613予備歩兵連隊本部と第34、第27国土防衛連隊本部の合計5個連隊を配属されていました。これらの歩兵連隊には順次国土防衛大隊が配属されましたが、実際の配属状況ははっきりとしません。また第203保安旅団もそれまでの保安師団のような警察大隊、警戒大隊や軍政司令部は配属されていなかったようです。
 旅団は1942年6月1日付で「第608保安連隊」、「第613保安連隊」の2個保安連隊と「第507砲兵大隊」を基幹とする「第203保安師団」へと改編・改称されました。

 1942年春になるとドイツ軍の主攻勢は南方軍集団戦区で南部ロシアからコーカサス地方へと向けられ、どちらかと言うと副次的な戦線となった中央軍集団戦区は1942年7月頃の時点では配属部隊は次のように変化していました。

第286保安師団
第201保安師団
第203保安師団

第707歩兵師団
第13警察連隊


3.占領地軍政司令部

 保安師団の管轄下には占領地の軍政を行うための「地域軍政司令部」や「地区軍政司令部」のほか、必要により「捕虜移送キャンプ」や「臨時野戦警察」が配属されました。
 「地域軍政司令部 FK(V)」(Feldkommandantur)は広範囲の行政地域を管轄するため、旅団又は連隊本部規模の司令部(司令部要員61名+軍属7名)が置かれて担当地域内の「地方軍政司令部」または「地区軍政司令部」及び管轄地域内に駐屯する占領軍の管理・監督を行い、司令部要員はドイツ占領軍及び占領地区内における司法権も行使しました。
 「地区軍政司令部OK」(Ortskommandantur)の場合は担当地区の規模により大中規模の町では大隊本部規模の「地区軍政司令部 I」「OKI(V)」(司令部要員32名+軍属4名)が、小規模の町村では中隊本部規模の「地区軍政司令部 II」「OKII(V)」(司令部要員19名+軍属2名)が置かれました。

 軍政司令部の業務は具体的には「停電の管理、敵側宣伝への警戒、新しい宣伝映画の告知、礼拝時間の設定、現地労働者の管理、行方不明者の捜索、損害の報告、民間防空、緊急時医療、公衆浴場の管理、ワクチン接種、清掃婦の管理、軍用施設の移転、軍の演習、射撃場、運動場、狩猟の許可、兵士宿舎の手配、容疑者の追跡、音楽会の開催」などなど、地域内での民生関係の管理の他、軍の駐屯地内での外注業務の管理なども行いました。

 占領地の民生業務の実務については司令部要員の人数から見ても現地の行政機関をそのまま利用していると思われ、軍政司令部はその現地民生機関の管理・監督を行うとともに、占領軍が必要とするあらゆる需要の窓口業務を行っていました。占領軍においても現地での食料の調達に始まり、駐屯が長期化するとなれば料理人、清掃婦、洗濯婦、家政婦などなど、現地で外注する業務も多岐にわたり、それらの労働者の募集・採用・運用もまた司令部の重要な業務であったと考えられます。


第221保安師団
「地域軍政司令部」(Feldkommandantur)
・第528地域軍政司令部
・第551地域軍政司令部
・第581地域軍政司令部

「地区軍政司令部」(Ortskommandantur)
大隊本部規模「OKI(V)」
・第653地区軍政司令部
・第685地区軍政司令部
・第824地区軍政司令部
・第826地区軍政司令部
・第827地区軍政司令部
・第828地区軍政司令部

中隊本部規模「OKII(V)」
・第333地区軍政司令部
・第340地区軍政司令部
・第353地区軍政司令部
・第363地区軍政司令部


第286保安師団
「地域軍政司令部」(Feldkommandantur)
・第191地域軍政司令部
・第683地域軍政司令部
・第813地域軍政司令部

「地区軍政司令部」(Ortskommandantur)
大隊本部規模「OKI(V)」
・第841地区軍政司令部
・第842地区軍政司令部
・第843地区軍政司令部
・第844地区軍政司令部
・第845地区軍政司令部

中隊本部規模「OKII(V)」
・第354地区軍政司令部
・第344地区軍政司令部
・第364地区軍政司令部
・第650地区軍政司令部
・第936地区軍政司令部


第403保安師団
「地域軍政司令部」(Feldkommandantur)
・第749地域軍政司令部
・第814地域軍政司令部
・第815地域軍政司令部

「地区軍政司令部」(Ortskommandantur)
大隊本部規模「OKI(V)」
・第508地区軍政司令部
・第763地区軍政司令部
・第848地区軍政司令部
・第849地区軍政司令部
・第850地区軍政司令部
・第851地区軍政司令部

中隊本部規模「OKII(V)」
・第334地区軍政司令部
・第335地区軍政司令部
・第345地区軍政司令部
・第352地区軍政司令部
・第355地区軍政司令部
・第370地区軍政司令部


4.捕虜移送キャンプ(Dulag.)

 1940年7月以降、戦線の拡大に合わせて「前線捕虜収容所」(Frontstammlager)が開設され、前線の後背地で捕虜の仕分け、分類、尋問が行われてその後本国の捕虜収容所へと送られていました。その後前線とドイツ本国の捕虜収容所の距離が離れるにつれて「前線捕虜収容所」は1941年3月から順次保安師団の管轄下に置かれた「捕虜移送キャンプ」(Durchgangslager)へと改編されました。
 ドイツ本国に送られた捕虜は軍管区司令部の管轄下で「将校収容所」(Oflag)と「下士官・兵用収容所」(Stalog)へと分けられました。しかし、ナチスの政治信条では
a) 共産主義者、ユダヤ人、犯罪者及びその他の国家の敵
b) 占領地で有用な人物
をドイツ本国に連行しないことを要求しました。そのため

a)のグループは「捕虜移送キャンプ」(Durchgangslager)で分類され、ここから強制収容所に移送されそこで大量に殺害されました。
b)のグループは「捕虜移送キャンプ」(Durchgangslager)で留め置かれ、ソ連軍捕虜が増えるにつれてその規模は継続的に拡大されましたが、ここでも多くの捕虜が死亡しました。

 前線近くの「捕虜収容所」(Kriegsgefangenen-Auffanglager= Aufag)と「軍捕虜収容所」(Armee-Kriegsgefangensammelstellen=A.G.S.St)は「軍後方地域司令部」の管轄下にあり、その後捕虜はさらに後方の「軍集団後方地域司令部」の管轄下にあって保安師団の管理下で運営される「捕虜移送キャンプ」を経由してドイツ本国に送られましたが、前記のようにその規模は継続的に拡大されており、このキャンプは捕虜からの義勇兵募集の拠点ともなっていました。
 「捕虜移送キャンプ」はドイツ本国外であることを示すためにアラビア数字の番号が付けられ、ドイツ国内の「将校収容所」(Oflag)と「下士官・兵用収容所」(Stalog)では軍管区ごとのローマ数字が付けられました。

第403保安師団
・第112捕虜移送キャンプ
・第125捕虜移送キャンプ
・第155捕虜移送キャンプ


5.臨時野戦警察分遣隊(gruppe Geheime Feldpolizei)

 「Geheime Feldpolizei」は「秘密野戦警察」と翻訳される場合が多いのですが、あえて「臨時野戦警察」としています。臨時野戦警察は前線のすぐ後方の地域において占領地の速やかな治安回復を任務としており、現地の警察組織が再建されれば任務は通常の警察部隊に引き継がれます。

第221保安師団
・第707臨時野戦警察分遣隊
・第718臨時野戦警察分遣隊
・第729臨時野戦警察分遣隊


第286保安師団
・第709臨時野戦警察分遣隊
・第716臨時野戦警察分遣隊
・第723臨時野戦警察分遣隊


第403保安師団
・第706臨時野戦警察分遣隊
・第710臨時野戦警察分遣隊
・第717臨時野戦警察分遣隊
・第724臨時野戦警察分遣隊


6.軍政部門の移管
 「中央軍集団占領軍司令部」(Befehlshaber Heeresgebiet Mitte)は1942年3月15日、付けで「中央軍集団治安維持軍及び占領軍司令部」(Kommandierender General der Sicherungstruppen und Befehlshaber im Heeresgebiet Mitte)へと改称され、1942年4月1日付けで担当地域(軍集団後方地域)の国防軍と警察への指揮系統に加えて軍政部門の部局が追加され、従来は保安師団の管轄下にあった「軍政司令部」、「捕虜移送キャンプ」、「臨時野戦警察」が「中央軍集団治安維持軍及び占領軍司令部」の指揮下に移管されました。

 1941~42年の冬季の間に編成された「保安旅団」には最初から「占領地軍政司令部」や「捕虜移送キャンプ」などの後方管理組織が配属されていなかったようです。「保安旅団」の編成はこれらの管理組織の管轄が1942年4月からは「中央軍集団治安維持軍及び占領軍司令部」の管轄に移管されることを前提として保安師団の補充・増設のための一時的な措置であったようで、「保安旅団」は1942年6月までには通常の保安師団に近い編成に改編・改称されました。


・独ソ開戦から1942年夏ごろまでを書いた「中央軍集団の後ろの方<前編>」はこちら

・民政地区として統治された「白ロシア行政区」について書いた「中央軍集団のもっと後ろの方」はこちら


2020.3.3 新規作成
2021.8.29 追記
2023.4.19 軍政部門の移管を追加

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/