泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史/中央軍集団の後ろの方<中編・中央軍集団の保安師団>

第201保安師団
Sicherungs Divisionen 201

 第201保安師団の前身は1942年2月5日に編成された「第201保安旅団」であり、旅団は総督府に駐屯していた「第201予備旅団司令部」をもとにベラルーシで設立され、「中央軍集団占領軍司令部」に配属されました。第201保安旅団には「第601保安連隊本部」と「第610保安連隊本部」が配属されており、2月12日には第633、第824国土防衛大隊が、3月12日には第336国土防衛大隊、第481、第483、第839、第989特別編成国土防衛大隊が順次配属されました。また3月10日には「第724臨時野戦警察分遣隊」も旅団に配属されましたが、通常の保安師団のような警察大隊、警戒大隊や軍政司令部は配属されていなかったようです。


第201保安旅団

第201予備旅団司令部
  第724臨時野戦警察分遣隊
第601保安連隊本部
第610保安連隊本部


 旅団に配属された「第481特別編成国土防衛大隊」と「第483特別編成国土防衛大隊」はウェリキエ・ルーキに派遣されており、1942年末の包囲戦に巻き込まれた可能性もあります。また「第989特別編成国土防衛大隊」についてはビテブスク(Vitebsk)地区に駐屯していたことがわかっています。
 1942年3月15日から第403保安師団の「第406(増強)歩兵連隊」が第213砲兵連隊第3大隊とともに旅団に配属され、入れ替わりに「第610保安連隊」が第403保安師団に転属となりました。また同時に第403保安師団からは「第466補給大隊」も転属して師団管理部隊の基幹となったようで、1942年6月1日に旅団は「第201保安師団」へと改編・改称されました。


第201保安師団

師団司令部
第406(増強)歩兵連隊(3個歩兵大隊)
  第213砲兵連隊第3大隊(3個中隊):各中隊は105mmleFH/18×4門
第601保安連隊(3個大隊)
第201(ロシア)騎兵中隊
第201(自動車化)通信中隊

第466製パン中隊
第466と殺中隊
第201師団管理(1/4)中隊
第466軽輸送段列
第466軽輸送中隊
第466衛生中隊
第466救急車中隊
第466(自動車化)野戦郵便局


 師団は1942年7月から中央軍集団後方地域のポロツク(Polozk)地区に駐屯しており、1943年4月には第3戦車軍予備となってネベリ(Nevel)地区に移動しました。8月からは中央軍集団予備となった後、11月からは再び第3戦車軍予備となりビテブスク(Vitebsk)地区へと移動しました。


第201保安師団(1943年9月現在)

師団司令部
第406保安連隊(3個大隊)
第601保安連隊(3個大隊)
第213砲兵連隊第3大隊(3個中隊):各中隊は105mmleFH/18×4門
第201(東部)騎兵中隊
第201(自動車化)通信中隊

第466補給部隊
第201師団管理部隊
第201製パン中隊
第201と殺中隊
第466衛生中隊
第466救急車小隊
第466(自動車化)野戦郵便局


 1943年11月17日の時点になると次のような部隊が配属されていました。保安連隊が増備されたほか、珍しいことに鉄道警備のための装甲列車や鉄道警備列車も指揮下に配属されていました。

第601保安連隊(3個大隊)
第64特別編成保安連隊本部
  第579保安大隊
  第989保安大隊
  第795保安大隊(2個中隊)
  第797保安大隊
第609保安連隊本部
  第860保安大隊(4個中隊)
  第231保安大隊(6個中隊)
  第330保安大隊(3個中隊)
  第750保安大隊(3個中隊)
第213砲兵連隊第3大隊(3個中隊)
第201(東部)騎兵中隊
第201(自動車化)通信中隊
第7野戦憲兵中隊
第27野戦憲兵中隊

第61装甲列車
第67装甲列車
鉄道警備列車「Blücher」
鉄道警備列車「Werner」
第83鉄道警備列車


 1944年2月には北方軍集団戦区に組み込まれたネベリ(Nevel)地区で一時的に第16軍/第1軍団に配属されていましたが、4月にはミンスク(Minsk)まで後退して中央軍集団の第3戦車軍予備となりました。
 1944年4月16日~5月21日にポロツク(Polotsk)近郊のウシャチ(Ushachi)地区で実施された「Frühlingsfest(春の饗宴)作戦」では、師団の一部がパルチザン掃討作戦に参加していました。
 1944年6月22日、ソ連軍の「バグラチオン」作戦により中央軍集団の戦線が破られ、7月の時点で第201保安師団は第3戦車軍とともにミンスク地区で包囲されて大損害を被りました。
 7月に第213砲兵連隊の第3大隊は第81歩兵師団の第181砲兵連隊第2大隊として編入され、8月1日時点で第201保安師団の残余は機甲擲弾兵旅団「フォン・ヴェルテルン」(Panzergrenadier-Brigade “von Werthern”)とともにカウナス(Kaunas)西方の防衛線で防衛戦を展開しました。【補足-1】

 その後師団司令部と補給部隊がメーメル(Memel)地区まで後退して第3戦車軍/第26軍団に配属されましたが師団は壊滅状態となっており、師団残余は1945年2月からクールラント包囲陣の北西部で第16軍/第43軍団に配属されて終戦を迎えました。


【補足-1】(2025.8.28)
機甲擲弾兵旅団「フォン・ヴェルテルン」

Panzergrenadier-Brigade “von Werthern”
 1944年7月初め、当時連隊から旅団への拡大途上であった「総統護衛旅団」から機甲擲弾兵中隊×2個中隊、擲弾兵中隊、戦車中隊が抽出され、さらに総統高射砲大隊の8.8cm高射砲中隊が加わり、兵力約1,000名の機甲擲弾兵旅団が臨時編成されました。
 旅団は1944年7月6日からリトアニアに派遣され、第3戦車軍/第9軍団戦区のビルニュス(Vilnius)地区で戦闘に投入されました。
 8月1日時点で旅団はカウナス(Kaunas)西方の防衛線にあり、第201保安師団の一部とともに防衛戦を展開し、9月1日時点では約50km西方のシャケイ(Šakiai)地区にあり、軍団大隊「D」(Korps Abteilung D)、第549擲弾兵師団第1連隊とともに防衛戦を展開しました。
 旅団はその後9月16日までに隣接の第4軍/第26軍団戦区に移動し、その後「総統護衛旅団」本隊に帰還しました。

機甲擲弾兵旅団「フォン・ヴェルテルン」
指揮官:ティロ・フライヘル・フォン・ヴェルテルン(Thilo Freiherr von Werthern)大尉
旅団司令部
機甲擲弾兵中隊×2個中隊
擲弾兵中隊
戦車中隊
高射砲中隊:8.8cm高射砲
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2020.9.20 新規作成
2025.8.20 一部追記
2025.8.28 【補足-1】機甲擲弾兵旅団「フォン・ヴェルテルン」を追記

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