泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

中央軍集団のもっと後ろの方

 中央軍集団の後方地域を管轄する「中央軍集団占領軍司令部」のさらに後方地域は「東方占領地省」(Reichsministerium für die besetzten Ostgebiete)が管轄する民政地域となっており、中央軍集団のさらに後方地域にあたる「ベラルーシ」については「オストラント国家行政区」(Reichskommissariat Ostland)内の「白ロシア行政区」(Gneralkommisariat Weißruthenien)として統治されました。

・独ソ開戦から1942年夏ごろまでを書いた「中央軍集団の後ろの方<前編>」はこちら

1.オストラント国家行政区
 1941年7月25日、「オストラント国家行政区」が北方軍集団後方地域のリトアニアとラトビアの一部地域から設立され、その後オストラント国家行政区の地域は順次拡大され8月1日付けで中央軍集団後方地域からベラルーシの一部が編入されました。
 1941年9月1日付けで西の境界線はドイツ本国のオストプロイセン国境線~旧ポーランドのビャウィストク地域の東の境界線に、南はウクライナ国家行政区との境界線に、東部および北部は中央軍集団後方地域の「Sankewitschi 1」地区(現Siukevichi地区)~スルチ(Slitsch)川沿いのLenin地区~スルチ川~スルズク(Sluzk)川~ルデンスク(Rudensk)~スミロヴィチ(Smilowitschi)地区~ベレジナ川(ボリソフ(Borissow)地区を除く)~ベレジノ(Beresino)地区~ディスナ(Disna)地区~旧ラトビア・ロシア国境線~旧ラトビア・エストニア国境線に設定されました。
 さらに1941年12月5日付けでエストニア地域が北方軍集団後方地域から移管され、オストラント国家行政区は四つの行政区(Generalbezirk)から構成されることとなりました。

・エストニア行政区(Generalbezirk Estland)
・ラトビア行政区(Generalbezirk Lettland)
・リトアニア行政区(Generalbezirk Litauen)
・白ロシア行政区(Generalbezirk Weißruthenien)

2.白ロシア行政区
 「白ロシア行政区」(Generalbezirk Weißruthenien)の管轄地域は概ねミンスク周辺地域から西側であり、東側は「中央軍集団占領地域」として残り最も西側の地域は総督府や他の行政地域に併合され、南部のプリピャチ沼沢地地域以南はウクライナ国家行政区(Reichskommissariat Ukraine)の管轄となったため、元のベラルーシりょど領土の1/4強程度の地域のみが管轄地域となっており、面積は約53,000平方km(現在のベラルーシは約207,560平方km)、総人口はおよそ300万人でした。

 「白ロシア行政区」内はさらにミンスク市を管轄する「首都行政区」(Hauptkommissariat)と、10個の「地方行政区」(Gebietskommissariat)に分割されていました。
・ミンスク首都行政区(Hauptkommissariat Minsk)
・リダ地方行政区(Gebietskommissariat Lida)
・ナヴァフルダク地方行政区(Gebietskommissariat Novogrudok)
・スロニム地方行政区(Gebietskommissariat Slonim)
・ガンツェヴィチ地方行政区(Gebietskommissariat Gantsevichi)
・バラノヴィーチ地方行政区(Gebietskommissariat Baranovichi)
・ヴィレイカ地方行政区(Gebietskommissariat Vileika)
・フルィボーカエ地方行政区(Gebietskommissariat Glubokoe)
・スルツク地方行政区(Gebietskommissariat Slutsk)
・ボリソフ地方行政区(Gebietskommissariat Borisov)
・ミンスク地方行政区(Gebietskommissariat Minsk-Land)

ミンスク市内でGneralkommisar Fur Weissruthenien(白ロシア行政区)の看板を掲げた建物
http://www.militaria-archive.com/AlbumsIII/Ordnungspolizei-Belarus/content/Polizei_Einsatz_000115_large.html

【行政委員】
 1941年7月17日、「白ロシア行政区」の統治者である初代「行政委員」には元ブランデンブルク党大管区指導者及びブランデンブルク県知事であったヴィルヘルム・クーベ(Richard Paul Wilhelm Kube)が任命されました。
 クーベは1936年8月に横領などで全ての公職と党内役職を解任され、親衛隊からも除名されていましたが、古参党員ということで奇跡の復活劇を果たしました。クーベの統治政策は思いのほか柔軟であり、「ベラルーシ国民中央会議」を開設し、1942年6月29日には「ベラルーシ郷土防衛軍」(BKA)の創設を提案しました。これはベラルーシの人心を鼓舞してソ連軍に抵抗する気運を高めたいというクーベの独自政策であり、ドイツの占領地政策の基本原則を覆しかねない政策でした。
 しかし、自治政府の樹立とベラルーシ国軍の設立はベルリンの決定により『将来の課題』として棚上げされ、1943年4月には「ベラルーシ郷土防衛軍」も解体されて要員は警察部隊や鉄道警備隊に分割されました。

 1943年6月には農業の集団化を解除し、農民の土地所有を認める宣言が行われましたが、このような政策は有名無実であり、農村地帯の多くはパルチザン勢力の支配下にあることから集団農業に反対する農民はパルチザンに殺され、一方ではドイツ軍と警察部隊はこのような民政組織の政策とは無関係に「パルチザン掃討作戦」の名目で農場を襲撃して収穫物や家畜を接収し、パルチザン協力者として農民や家族を殺害し、健康な男女の農民は労働者としてドイツ本国に移送しており、土地の所有権などは問題になりませんでした。
 そもそもドイツの占領政策ではベラルーシ農民の存在を認めておらず、占領地にはドイツ人農民が入植することになっており、追放する計画の地元住民の手を借りてソ連の攻撃に対抗しようという矛盾を露呈していました。

【クーベ爆殺事件】
 1943年9月22日にクーベが現地採用のメイドとして働いていたイェレナ・マザニク (Jelena Masanik)により自宅の寝室で爆殺される事件が発生し、クーベの後任には高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(代理)のクルト・フォン・ゴットベルクSS中将が任命され、ベラルーシをめぐる状況は転換しました。

 マザニクはパルチザンの手引きでミンスクを脱出してモスクワに向かい、尋問のあと10月29日に功績が認められ叙勲を受けるとともにソビエト連邦英雄として認定されました。クーベ爆殺に対するドイツ側の報復も苛烈を極め、ミンスクでは約1,000名の市民が殺害されました。


3.オストラント国防軍占領司令官の軍政司令部
 1941年7月25日、「オストラント国家行政区」が設立されましたが、同じ日付で「オストラント国防軍占領司令官」が設立され、軍集団後方地域のさらに後方の民政移行地域を管轄下としました。
 1942年5月には「オストラント国防軍占領司令官」の管轄下にはラトビア、リトアニア及びベラルーシを管轄する3箇所の「上級地域軍政司令部」(Oberfeldkommandantur)が開設されました。
・第392上級地域軍政司令部(Oberfeldkommandantur 392):ミンスク
・第394上級地域軍政司令部(Oberfeldkommandantur 394):カウナス
・第396上級地域軍政司令部(Oberfeldkommandantur 396):リガ

第392上級地域軍政司令部
 1942年5月に「オストラント国防軍占領司令部」の管轄下でベラルーシ地域を管轄する軍政司令部としてミンスク(Minsk)に開設されました。
 1942年に「白ロシア保安地域司令官」(Kommandant des Sicherungs-Gebietes Weißruthenien)と改称され、1943年には中央軍集団後方地域の「白ロシア占領軍及び保安部隊司令官」(Kommandierender General und Befehlshaber der Sicherungstruppen Weißruthenien)の管轄下に移管されました。
 1943年11月20日付けで司令部は「ミンスク国防軍地区軍政司令官」(Wehrmachts-Ortskommandantur Minsk)と改称しましたが、1944年にソ連軍の進撃により解隊されました。

【司令官】
・エックハルト・フォン・チャマー・ウント・オステン(Eckhart von Tschammer und Osten)少将(1942年5月10日~12月1日)
・ヘルマン・ハートマン(Hermann Harttmann)少将(1943年8月24日~11月8日)
・ヴィルヘルム・フォン・アルトロック(Wilhelm von Altrock)中将(1943年11月8日~1944年1月31日)

 ベラルーシは1941年8月1日付けで「白ロシア行政区」(Generalbezirk Weißruthenien)として民政に移管されましたが、1942年5月15日に制定された法律により7月1日付けでエストニア、ラトビア、リトアニアでは自治政府が設立されましたが、ベラルーシについては「棚上げ」となり、「ベラルーシ国民中央会議」も解散しました。

 ラトビアとリトアニアについてもリガに第396上級地域軍政司令部とカウナスには第394上級地域軍政司令部が開設されており、「オストとの関係性やラント国家行政区」や各自治政府との関係性が気になります。
 一方で軍政司令部が開設されなかったエストニアについては、リガの第396上級地域軍政司令部が管轄したのか?、又は北方軍集団後方地域の軍政司令部が管轄したのか?、あるいは自治政府樹立により完全に民政に移管していたのか?疑問点は多いのですが決定的な資料が見当たりません。


4.ベラルーシ国民中央会議/ベラルーシ中央評議会
 「ベラルーシ国民中央会議」は1941年にクーベの命令によりベラルーシの代表として設立されましたが、1942年5月に制定された法律によりバルト三国では自治政府が樹立されましたが、ベラルーシにおける自治政府樹立は『将来の課題』として棚上げされ「ベラルーシ国民中央会議」は解散しました。

 1943年9月にクーベ暗殺事件が起こり12月21日にクーベの後任として「白ロシア行政区行政委員」としてフォン・ゴットベルクSS中将が就任すると事態は自治政府樹立にむけて好転し、「ベラルーシ中央評議会」が設立され、評議会議長にはラドスラフ・オストロフスキーが選出されました。
 戦況の悪化により少しでも兵力の欲しいフォン・ゴットベルクSS中将は「自治政府樹立」を餌に「国民軍」設立に奔走し、まずは1944年2月23日には「ベラルーシ国民軍」(Bielaruskaja krajovaja abarona=BKA)の前身となる「ベラルーシ郷土防衛大隊」が再建されました。
 1944年6月27日、「ベラルーシ中央評議会」に1,039名の地方代表を集めて全体会議が開催され、「自治政府樹立」と「国軍設立」の方向性が承認され、これは占領地域において画期的な出来事となりました。ソ連軍の攻撃により7月3日に首都ミンスクが陥落し、「ベラルーシ中央評議会」はポーゼン(Posen)へと退避して「(亡命)ベラルーシ中央評議会」となり、その後ベルリンへと移動しました。
 1944年末、「ベラルーシ中央評議会」は「ベラルーシ共和国」へと格上げされ、オストロフスキーは共和国大統領に就任しましたが、もはや国土はなく有名無実の存在でした。


ラドスラフ・オストロフスキー
 ラドスラフ・オストロフスキー(Radasłaŭ Astroŭski)は1887年10月25日にスウツク(Slutsk)のサポリジャ(Zapolle)に生まれ、大学教授となり31歳の若さで「ベラルーシ人民共和国」の教育大臣に就任しました。第一次世界大戦中の1917年3月に帝政ロシアが瓦解すると、ドイツ軍の進撃を好機として1918年3月9日に「ベラルーシ人民共和国」の独立が宣言されました。ドイツ側の支援を期待しての独立でしたがドイツ側はこれを黙殺し、戦況の変化とドイツ国内での情勢変化によりドイツ軍は1919年1月までにベラルーシとウクライナから全面撤退し、実権はソビエト赤軍の手に渡りました。
 「ベラルーシ人民共和国」には憲法も軍隊もなく、1920年11月~12月に最後の抵抗(スウツク反乱)が試みられましたが赤軍に鎮圧され、政府はポーランドに脱出し亡命政府となり、オストロフスキーもポーランド領となった西ベラルーシに移住して政治活動を継続しました。1920年代後半には共産主義に転向しましたが、1928年から再び転向してポーランド当局に協力し、1939年からはドイツ側に協力しました。1941年にドイツ占領下のミンスクに帰還すると、ベラルーシ側代表としてブリャンスク(Bryansk)、スモレンスク(Smolensk)、マヒリョウ(Mahilyow )の各都市で市長を務めました。

 オストロフスキーはドイツ敗戦時に幸運にも西側への脱出に成功し、戦後は西ドイツで暮らしましたが、1956年にアメリカに移り、「亡命ベラルーシ人民共和国」政府の主要メンバーとして活動を続け、1976年10月17日に波乱の人生を閉じました。
 早くからベラルーシ独立運動に参加し、ポーランド亡命中は一時共産主義に転向するなどいろいろ苦労もしたようで、平時であれば案外優秀な実務派大統領になったのかもしれません。
wikipedia(英語)へのリンク


5.ベラルーシ郷土防衛軍/ベラルーシ国民軍
 1942年春、ベラルーシ民族主義者の代表は東方占領地省のアルフレート・ローゼンベルクに覚書を送り、「ベラルーシ国軍」の設立を訴えました。この書簡の影響かはわかりませんが、1942年6月29日に白ロシア行政区行政委員のヴィルヘルム・クーベはベラルーシでの民兵組織の結成を許可し、7月1日には「ベラルーシ国民自助協会」のイヴァン・イルマチェンカ(Iwan Jermatschenka)は「ベラルーシ郷土防衛軍」(Weißruthenisches Selbstschutzkorps)の兵員募集を命令し、SS及び警察指導者「白ロシア」のカール・ツェナー(Carl Zenner)SS少将の承認により3個師団から成る軍団規模の部隊設立が開始されました。
 「ベラルーシ郷土防衛軍」の存在は玉虫色で、ドイツ側からすると便利使いできる後方の治安維持部隊であり、「ベラルーシ中央会議」側にとっては将来の自治政府樹立後の国軍設立の中核となる軍団と考えられました。
 3個師団はミンスク、ヴィレイカ、バラナヴィチの三都市に駐屯し、バラナヴィチの師団はナヴァフルダク地方行政区とスロニム地方行政区の地域も管轄しました。武器弾薬の補給と作戦指揮はSSが担当し、各地区で編成された大隊は兵士を募集した「ベラルーシ国民自助協会」(WSW)の管轄下にありました。

 1942年7月、SS及び警察指導者「白ロシア」がカール・ツェナーSS少将からヴァルター・シーマナ(Walter Schimana)SS上級大佐に交代すると、「ベラルーシ郷土防衛軍」の指揮権は治安警察に移管されました。
 「ベラルーシ郷土防衛軍」は兵力約15,000名となり20個大隊が編成されましたが、SSと治安警察内部では現地人武装組織の存在を懸念しており、国防軍も武器の供給を拒否したため制服をはじめ装備・武器の調達は困難であり、旧ポーランド軍の制服やソ連製兵器を装備していればよいほうで大半は私服に雑多な捕獲兵器を装備するのがやっとであり、大半の兵士は非武装の状態という有様が現実でした。
 このため「ベラルーシ郷土防衛軍」の隊員のほとんどが脱走し、森に隠れたりパルチザン側に走ったりしたため、1943年4月までに解散し残った兵員は警察部隊や鉄道警備部隊に再配備されました。それでもバラナヴィチなどの一部の地域ではその後1年間存続し、1944年3月には新しく「ベラルーシ国民軍」が設立された際に吸収されました。

 1943年9月、ヴィルヘルム・クーベが爆殺され、後任としてフォン・ゴットベルクSS中将が任命されるとベラルーシをめぐる状況は転換しました。
 ゴットベルクSS中将は現在の戦況をよく理解しており、12月21日に「ベラルーシ中央評議会」を設立すると「自治政府」樹立を餌に「国民軍」設立に奔走し、「白ロシア行政委員」と高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(代理)の権力を活用して、1944年2月23日に「ベラルーシ国民軍」(Bielaruskaja krajovaja abarona=BKA 独:Weißruthenische Heimwehr)の前身となる「ベラルーシ郷土防衛大隊」が再建されました。

 1944年3月6日には「白ロシア行政区」内で1918年~24年生まれ(20歳~26歳)の男子への一般動員が始まり、これにより約4万名が7つの都市に設置された求人局に申告しました。この中から28,000名が選抜されて3月26日にミンスクで宣誓式が行われ、司令官にはイヴァン・イルマチェンカが就任しました。
 1944年3月31日、郷土防衛大隊の45個大隊の訓練が開始されましたが、パルチザンの潜入を警戒して武器の使用は訓練時のみに限定されるなどの制限が加えられました。また部隊の編成にあたってもすでに武装SSから基幹要員を派遣する余裕はなく、ベラルーシ警察から将校と下士官が編入されました。
 それでも4月までには21,629名により34個大隊の編成が完了し、さらに白ロシア警察大隊5個と工兵大隊6個も追加編成されました。残りの兵員は陣地建設作業に動員され一部は東方労働者としてドイツ本国に送られ、さらに数千人は脱走してパルチザン側に逃亡しました。

 1944年2月~3月に第64~67及び第69(白ロシア)シューマ大隊が編成されており、この5個大隊は「ベラルーシ郷土防衛軍」の要員から編成された5個の「白ロシア警察大隊」と同一の可能性もありますが、確定的な資料がなく断定はできません。


ベラルーシ郷土防衛大隊
・第1ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第2ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第3ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第4ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第5ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第6ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第7ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第8ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第9ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第10ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第11ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第12ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第13ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第14ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第15ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第16ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第17ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第18ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第19ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第20ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第21ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第22ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第23ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第24ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第25ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第26ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第27ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第28ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第29ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第30ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第31ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第32ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第33ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第34ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明

・第64(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
・第65(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
・第66(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
・第67(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第69(白ロシア)シューマ大隊 1944年3月編成


ベラルーシ郷土防衛工兵大隊
 1944年5月~7月にかけて、中央軍集団戦区では「ベラルーシ郷土防衛軍工兵大隊」(Weißruthenische Heimwehr-Pionier-Bataillone)が各3個中隊により編成されました。
・第1ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年5月編成
・第2ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年5月編成
・第3ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成
・第4ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成
・第5ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成
・第6ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成
・第7ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成
・第8ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成
・第9ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成
・第10ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成
・第11ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成
・第12ベラルーシ郷土防衛工兵大隊 1944年7月編成


 「ベラルーシ郷土防衛大隊」はドイツ軍との連携や調整の不足、将校と兵士は訓練不足にもかかわらず、シューマ大隊とともに主としてパルチザン掃討作戦に投入され、その後は防衛戦にも投入されて多くは壊滅し、一部のみが西方に撤退してシューマ旅団「ジークリング」に編入されました。
 「ベラルーシ郷土防衛工兵大隊」は実際に編成されたか怪しい大隊も多く、それでも第9ベラルーシ郷土防衛工兵大隊は1944年/45年に東プロイセンで第4軍に配属されており、第11ベラルーシ郷土防衛工兵大隊も戦争末期に東プロイセンで北方軍集団に配属された記録が残されています。

 1944年6月27日には「ベラルーシ中央評議会」に1,039名の地方代表を集めて全体会議が少数され、「自治政府樹立」と「国軍設立」の方向性が承認され、占領地域において画期的な出来事となりました。しかし、1944年6月22日にソ連軍の「バグラチオ作戦」が開始されると状況は一気に暗転しました。ソ連軍の攻撃により7月3日に首都ミンスクが陥落し、「ベラルーシ中央評議会」はポーゼン(Posen)へと退避して「(亡命)ベラルーシ中央評議会」となり、その後ベルリンへと移動しました。

 一方「ベラルーシ国民軍」設立に向けて6月中旬にはミンスクに「B.K.A士官学校」が開設され、7月にはバリス・ラフリャ少佐が指揮官に任命されました。「B.K.A士官学校」はソ連軍の進撃によりケーニヒスベルクに退避し、9月にはグラーフェンヴェーア練兵場に移転して「ベラルーシ国民軍 (BKA) 士官学校第1大隊」へと再編されましたが1944年11月にはベルリンに移動し、その後「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」の予備大隊として編入されたとされますが、その実態はわかっていません。


6.ベラルーシ青年同盟
 ベラルーシ青年同盟(Sayuz Balaruskay Moladzi=S.B.M. 独Weissruthenische Jugendwerk=W.J.W.)はヴィルヘルム・クーベの命令により1943年6月22日に14歳~18歳の男女を対象にヒトラーユーゲントをモデルとして設立されました。1943年末までに40,000名の参加が計画されましたが、実際には1944年4月までに12,633名まで拡大されたにとどまりました。

 ベラルーシ青年同盟はドイツ軍の補助任務に動員され、ミンスクの空軍修理工場に約300名が動員された他、トート機関によりミンスクで訓練生が募集され、ドイツ本国の航空機工場に約4,500名が送られ、高射砲補助員として2.354名が採用されました。
 1944年6月、ソ連軍の攻撃が始まると同盟員はたちまち4,000名に激減し、そのうち3,000名は女子という体たらくで、準軍事組織として本格的に動員することはできませんでした。


7.白ロシア行政区のドイツ治安警察
 「ドイツ警察長官」のハインリヒ・ヒムラーをトップとする指揮系統には治安警察を統括する「治安警察本部」(Hauptamt Ordnungspolizei)と保安警察を統括する「保安警察本部」(後の「国家保安本部」(Reichssicherheitshauptamt))が置かれました。治安警察本部には「治安警察司令官」(Befehlshaber der Ordnungspolizei=B.d.O.)が置かれ、指揮下の「治安警察指揮官」(Kommandeur der Ordnungspolizei=K.d.O.)は管区内の治安警察の指揮・命令権を持ち、現場の警察署や警察連隊などの警察部隊への日常的な命令の伝達や報告事項はこのルートで行われました。
・治安警察本部(Hauptamt Ordnungspolizei)
・治安警察司令官(Befehlshaber der Ordnungspolizei=B.d.O.)
・治安警察指揮官(Kommandeur der Ordnungspolizei=K.d.O.)
  ・都市防護警察指揮官(Kommandeur der Schutzpolizei=K.d.S.)
  ・国家地方警察指揮官(Kommandeur der Gendarmerie=K.d.G.)

・治安警察司令官「オストラント」(B.d.O. Ostland):ラトビアのリガ(Riga)に司令部が置かれ「オストラント国家行政区」を管轄し、その指揮下にはエストニア、ラトビア、リトアニアの各「治安警察指揮官」と治安警察指揮官「白ロシア」が置かれました。

 ベラルーシに駐屯した治安警察についてもドイツ本国の警察組織に準拠して設置されており、次のような治安警察組織が開設されました。
・治安警察指揮官「白ロシア」(K.d.O. Weißruthenien):ミンスクに司令部が置かれ「白ロシア行政区」に駐屯する都市防護警察(Schutzpolizei)を管轄
  ・都市防護警察指揮官「ミンスク」(K.d.S. Minsk):ミンスク首都行政区の都市防護警察(Schutzpolizei)を管轄
  ・第I地区都市防護警察:フルィボーカエ(Głębokie)
  ・第II地区都市防護警察:ビレイカ(Vileika)
  ・第III地区都市防護警察:ミンスク及びスウツク(Minsk und Sluzk)
  ・第IV地区都市防護警察:リダ及びナヴァフルダク(Lida und Novogrudok)
    ・第V地区都市防護警察:スロニム(Slonim)
・外国人シューマ警察下士官学校「モギリョフ」
・SS及び警察駐屯指導者「モギリョフ」

・国家地方警察指揮官「白ロシア」(K.d.G. Weißruthenien):ミンスクに司令部が置かれ「白ロシア行政区」に駐屯する国家地方警察(Gendarmerie)を管轄
  ・国家地方警察「バラナヴィーチ及びガンツェヴィチ」(Baranovichi und Gantsevichi)
  ・国家地方警察「ボリソフ」(Borisov)
  ・国家地方警察「フルィボーカエ」(Glubokoe)
  ・国家地方警察「ヴィレイカ」(Vileika)
  ・国家地方警察「リダ及びナヴァフルダク」(Lida und Novogrodek)
  ・国家地方警察「スロニム」(Slonim)
  ・国家地方警察「バブルイスク」(Brobruisk)
  ・国家地方警察「ミンスク及びスルツク」(Minsk und Slutsk)

【警察部隊の実態】
 1942年の年次報告書によると、「オストラント国家行政区」と「ウクライナ国家行政区」に配属された警察官は都市防護警察(Schutzpolizei)5,860名、国家地方警察(Gendarmerie)9,093名の合計約15,000名となっていました。また1942年10月~11月の時点で東部地域に派遣された治安警察官は約14,000名で、その内「ウクライナ国家行政区」に9,463名、「オストラント国家行政区」には4,428名が駐屯しました。
 「オストラント国家行政区」の治安警察指揮官「ミンスク」(K.d.O. Minsk)の場合、管轄下には1,394名の警察官が配属されており、都市防護警察の約300名はミンスクとバラナヴィーチの都市部に駐屯し、国家地方警察の約1,000名強が広大な農村地域に分散配置されていました。

 バラノヴィーチ地方行政区(Gebietskommissariat Baranovichi)の場合、1942年11月の時点で面積5,695平方km、人口は341,522名で、農村部には国家地方警察(Gendarmerie)の73名が、バラノヴィーチ市内には都市防備警察(Schutzpolizei)の27名が駐屯しました。市内にはこのほか国家地方警察の自動車化された第7警察小隊の37名と中隊本部及び地方司令部の要員のほか、SSと駐屯部隊の司令部要員も駐屯しました。バラノヴィーチ地方行政区管内に配備された警察部隊145名のうちのおよそ半数は農村部に配置されていたことになります。


8.シューマ(補助警察)大隊
 「オストラント国家行政区」と「ウクライナ国家行政区」に派遣された警察部隊は広大な地域での「特別任務」の他に日常の警察業務も遂行する必要があり、ドイツ人警察官の人数は常に不足していました。ソ連侵攻の1カ月前、ヒムラーは「警察とSS要員のみでは東部占領地での任務を遂行できない」と予想しており、占領地での治安回復のために早期に「親ドイツ協力者」による補助警察部隊の設立に言及していました。
 1941年7月25日、正式に「Schutzmannschaft」(補助警察部隊)の設立が命令され、1941年11月6日の通達によりそれまで公式・非公式の承認の下で地域の治安維持や警戒任務に就いていた占領地の住民による「武装自警団」などの雑多な部隊も「Schutzmannschaft」(補助警察部隊)の呼称に統一されることとなりました。これは直訳すると「警官隊」または「警備隊」となるのですが普通はただ「シューマ(Schuma)」と呼ばれることが一般的です。

 「シューマ」の任務はドイツ警察部隊に協力しての治安維持、施設警備、パルチザン対策、共産主義者、知識人、ユダヤ人等の危険人物捜索などなどであり、任務の内容からはまさに「補助警察部隊」と呼べるものでした。シューマ大隊はパルチザン掃討作戦、パルチザン容疑者やユダヤ人の処刑などドイツ人が嫌がる汚れ仕事を引き受ける一方で、一旦前線が突破された際には他の警察部隊と同様に貧弱な装備と訓練のまま最前線での防衛線にも投入されました。

 1942年7月1日の時点で「シューマ」は急速に拡大され、165,128名に達し、1943年初頭には約30万名に達して以後横ばいとなりました。「シューマ」には都市部に駐屯する都市防備警察(Schutzpolizei)と農村部の国家地方警察(Gendarmerie)の隙間を埋める役目もあり、1943年~44年の間も拡大を続けており、不足するドイツ人警察官の穴を埋めるにはまだ不十分とはいえ、十分に役に立っていました。
 1942年11月の時点でバラノヴィーチ地方行政区管内には都市防備警察27名、国家地方警察73名のドイツ人警察官が配備されており、これに対してそれぞれ300名と816名、合計1,116名のシューマが配属されました。治安警察指揮官「白ロシア」(K.d.O. Weißruthenien)管内ではおよそ8,000名のシューマが7つの都市と55ヶ所の国家地方警察拠点及び72ヶ所のシューマ駐屯地の合計134ヶ所の基地に駐屯しました。

【シューマ大隊の編成】
 シューマ大隊の標準的な編成は大隊本部(指揮官、副官、兵10名合計12名)と4個中隊(1個中隊:3個小銃小隊、1個機関銃小隊、合計124名)からなり、1個大隊の兵力は合計508名となっていました。このうち、大隊本部の12名と各中隊の将校2名と下士官18名はドイツ国籍を持つ事が規定されていました。
 高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の管轄地区であるベラルーシでは次のような17個大隊の編成が確認されていますが、編成時期不明の部隊も多く、いつごろから編成が開始されたかははっきりしていません。またこの他にもモギリョフには外国人シューマ警察下士官学校「モギリョフ」も開設され、現地人義勇兵への下士官教育も行われました。
 また、1944年2月~3月に編成された第64~第68(白ロシア)シューマ大隊については「ベラルーシ郷土防衛軍」の要員から編成された「白ロシア警察大隊」と同一の可能性もありますが、確定的な資料がなく断定はできません。

・第45(白ロシア)シューマ大隊 1943年9月編成
・第46(白ロシア)シューマ大隊 1942年7月編成
・第47(白ロシア)シューマ大隊 1942年7月編成
・第48(白ロシア)シューマ大隊 1942年7月編成
・第49(白ロシア)シューマ大隊 1942年9月編成
・第52(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第53(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第55(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第56(白ロシア)シューマ砲兵大隊 編成時期不明
・第60(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第61(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第63(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第64(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
・第65(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
・第66(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
・第67(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第69(白ロシア)シューマ大隊 1944年3月編成


9.シューマ旅団「ジークリング」
 1944年7月11日、フォン・ゴットベルクSS中将は6月の中央軍集団戦線の崩壊を生き残ったシューマ大隊を統合して1個シューマ旅団の編成を命じ、指揮官にはSS及び警察指導者「プリピャチ」であったジークリングSS中佐兼警察少佐が任命されたことからこの旅団はシューマ旅団「ジークリング」と命名されました。
 旅団には「(白ロシア)シューマ大隊」と「ベラルーシ郷土防衛大隊」のほか、次のようなウクライナ、コサックシューマ大隊や高級SS及び警察指導者「中央ロシア」管轄下の様々な警察関係部隊が編入されました。


シューマ旅団「ジークリング」編入の主な部隊

・第47(ウクライナ)シューマ大隊の残余
・第56(白ロシア)シューマ砲兵大隊
・第57(ウクライナ)シューマ大隊
・第60(白ロシア)シューマ大隊
・第61(白ロシア)シューマ大隊
・第62(ウクライナ)シューマ大隊
・第63(ウクライナ)シューマ大隊
・第64(白ロシア)シューマ大隊
・第65(白ロシア)シューマ大隊
・第66(白ロシア)シューマ大隊
・第67(白ロシア)シューマ大隊
・第68(コサック)シューマ騎馬大隊
・第101(ウクライナ)シューマ予備大隊
・シューマ教育大隊「Uretschje」

・第23ベラルーシ郷土防衛大隊
・第24ベラルーシ郷土防衛大隊
・第34ベラルーシ郷土防衛大隊

・ミンスク地区警察部隊
・グレボギー地区警察部隊
・レダ地区警察部隊
・スルツク、バラノヴィーチ、ヴィレイカ警察部隊
・スモレンスク、モギリョフ地区治安警察部隊
・スロニム地区警察部隊
・SS及び警察指導者「プリピャチ」司令部
・SS及び警察指導者「プリピャチ」砲兵大隊
・第23SD警戒大隊
・白ロシア国家地方警察臨時戦隊(Gendarmen Einsatz Kommandos Weißruthenien):700名


シューマ旅団「ジークリング」
Schutzmannschafts Brigade “Siegling”
SS30武装擲弾兵師団(ロシア第2)
30.Waffen Grenadier Division der SS (russische Nr.2)

 シューマ旅団「ジークリング」は訓練の一環としてパルチザン掃討作戦に投入されたところ、意外な戦闘力を発揮したことから1944年8月1日、旅団は警察から武装SSに移管され、8月18日付けで「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」への拡大・再編成が下令されました。
 師団は編成命令が出された時点でフランスへの移送が決定していましたが、ベラルーシ義勇兵にとっては祖国奪回こそが使命であり、縁もゆかりもないフランスでレジスタンス相手に戦えと言うのは土台無理な注文で、この時点で早くも脱走兵が相次ぐ事態となりました。また、ベルリンの「BKA士官学校」は「ベラルーシ郷土防衛軍(BKA)国民第1大隊」へと再編成されて師団の予備大隊として編入されたと言われますが、実態はよくわかっていません。
 その後脱走、兵士の選別、再編成を繰り返しましたが、自由フランス軍などとの戦闘で大損害を被って戦線から引き上げられ、11月29日に至り「戦闘不能」と判断され師団は解隊されました。兵士のうち約1,000名はウラソフ将軍の第600歩兵師団「ロシア」の補充要員となり、その他はSS第25武装擲弾兵師団「フンニャディ」などに編入されました。

SS武装擲弾兵旅団(白ロシア第1)

 SS武装擲弾兵旅団(白ロシア第1)(Waffen Grenadier Brigade der SS (Weißruthenische Nr.1))は「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」の解体後に残ったドイツ人部隊とベラルーシ義勇兵により編成されました。兵力は約1,800名であり、「ベラルーシ中央評議会」から「ベラルーシ共和国政府」に格上げとなった亡命政府への政治的配慮の意味合いが強く、ついに「白ロシア」の名前を冠した戦闘部隊が誕生したものの戦力的には当てになりませんでした。


SS武装擲弾兵旅団(白ロシア第1)
Waffen Grenadier Brigade der SS (Weißruthenische Nr.1)

旅団本部
SS第75武装擲弾兵連隊(白ロシア第1):3個大隊
SS乗馬中隊
SS戦車猟兵中隊
SS砲兵大隊
SS野戦補充大隊


 ベラルーシ共和国大統領となったオストロフスキーは「ベラルーシ独立」の独自路線を選択しており、旅団がウラソフ将軍の「ロシア解放軍」と合流することはありませんでした。1945年3月9日には旅団は名称だけ「SS第30武装擲弾兵師団(白ロシア第1)」と改称され、唯一の連隊はSS第75武装擲弾兵連隊「白ロシア第1」となりました。しかし、4月になると師団は解隊され、大部分はグラーフェンヴェール演習場でアメリカ軍に降伏しました。
 一部戦闘可能な残存兵力から警察大隊「ジークリング」が編成され、第38SS擲弾兵師団「ニーベルンゲン」とともにドナウ河での防衛戦に投入されましたが、この大隊にベラルーシ義勇兵が含まれたかどうかはわかりません。大隊はケールハイムで4月21日から4月26日まで戦闘を行った後に撤退し、5月にヘレン・キムゼー付近でアメリカ軍に降伏しました。


10.中央軍集団の崩壊/ベラルーシの終焉
 1944年6月22日、ソ連軍の「バグラチオン」作戦により中央軍集団の戦線が破られ、ミンスクに危機が訪れました。第3戦車軍戦区では第53軍団は壊滅、第6軍団は粉砕され、第9軍団は西を目指して後退中で戦線は崩壊しており、南翼の第9軍戦区でも手ひどく叩かれ、包囲・突破されて戦線を維持できなくなっていました。
 第4軍戦区でも3個軍団がソ連軍の突進により南北から挟撃されようとしていましたが、ヒトラー総統はミンスクを「要塞」と宣言し、あらゆる犠牲をはらっても死守するよう第4軍に命じました。
 1944年6月29日、「Freischütz(魔弾の射手) III作戦」が開始されましたが、第4軍中央部の第12軍団、第27軍団、第39戦車軍団の各部隊は大損害を被って7月2日までにはベレジノ地区のベレジナ川防衛線へと後退しました。

 1944年6月27日には「ベラルーシ中央評議会」に1,039名の地方代表を集めて全体会議が開催され、「自治政府樹立」と「国軍設立」の方向性が承認され、ドイツ占領地域においては画期的な出来事となりました。
 しかしソ連軍の攻撃により7月3日に首都ミンスクが陥落し、「ベラルーシ中央評議会」はポーゼン(Posen)へと退避して「(亡命)ベラルーシ中央評議会」となり、その後ベルリンへと移動しました。
 1944年末、「(亡命)ベラルーシ中央評議会」は「ベラルーシ共和国」へと格上げされ、オストロフスキーは共和国大統領に就任しましたが、もはや国土はなく有名無実の存在でした。
 ドイツ敗戦時にオストロフスキーは幸運にも西側への脱出に成功し、戦後は西ドイツで暮らしましたが、1956年にアメリカに移り、「亡命ベラルーシ人民共和国」政府の主要メンバーとして活動を続け、1976年10月17日に波乱の人生を閉じました。


・独ソ開戦から1942年夏ごろまでを書いた「中央軍集団の後ろの方<前編>」はこちら

・<中編>として保安師団について書いた「中央軍集団の後ろの方<中編・中央軍集団の保安師団>」はこちら


2020.4.30 新規作成
2021.8.27 追加・修正
2022.1.29 一部修正・追記
2024.1.1 地方防護警察→国家地方警察に訂正
2025.8.26 一部修正・追記 2025.9.11 たくさん追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/