泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

中央軍集団の後ろの方<前編>

 1941年6月22日、ドイツ軍は約300万の兵力を集結してソ連への侵攻作戦「バルバロッサ作戦」を開始しました。その中で最大兵力を要したのが東部戦線の中央部を担当した「中央軍集団」であり、ベラルーシからモスクワを目指して進撃しました。1941年9月10日からモスクワ攻略の「タイフーン作戦」が開始され、モスクワをめぐる戦いが最高潮の1941年12月時点で中央軍集団には次のような軍が配属されていました。

・第9軍
・第3戦車集団(第3戦車軍)
・第4軍
・第2戦車軍
・第2軍

 冬の厳冬と12月5日に開始されたソ連軍の反撃により中央軍集団の攻勢はついに頓挫し、一方ソ連軍の反撃も兵力の不足により1月には行き詰まったため、ルジェフには巨大な突出部が残り、モスクワの門前に「目の上のたんこぶ」の様に残ったまま戦線は膠着しました。また、それに対を成すように北方軍集団との境界に近いビテブスク前面にはソ連軍の突出部が形成されていました。

 1942年春になるとソ連軍の「ルジェフの突出部からのモスクワ再攻撃」の予想に反してドイツ軍の主攻勢は南方軍集団戦区で南部ロシアからコーカサス地方へと向けられ、どちらかと言うと副次的な戦線となった中央軍集団戦区は1942年5月時点で次のような兵力となり、1943年3月にルジェフの突出部からの撤退する「水牛作戦」が実施されるまで大きな動きはありませんでした。

・第9軍
・第3戦車軍
・第4軍
・第2戦車軍


<陸軍>

 戦闘地域の後方、軍の後方地域には「軍後方地域司令部」が置かれ、さらに後方の軍集団の後方地域には「軍集団後方地域司令部」が置かれ、国防軍の管轄下に軍政が敷かれました。さらに後方の地域は「東方占領地省」が管轄する民生地域となっており、ベラルーシはバルト三国とともに「オストラント国家行政区」となり、ベラルーシは「ベラルーシ行政区」として統治されました。

1.軍後方地域司令部
Kommandant des rückwärtigen Armeegebiets

 軍の後方地域には「軍後方地域司令部」(Kommandant des rückwärtigen Armeegebiets)(略称Korück=コリュック)が置かれ、軍後方の補給路、連絡路の安全確保と占領地の治安維持を担当しており、師団長クラスの指揮官が指揮しました。  戦闘地域の後方に続く「軍後方地域」は最大50kmの深さを持ち、ソ連侵攻の序盤は戦線の前進とともに徐々に移動しました。戦線が膠着化すると後方地域では長期的な占領行政や治安維持が課題となり、軍後方地域司令部には占領地の管理のために様々な部隊が配属されていました。
 軍後方地域司令部の任務は多岐にわたり、さながら何でも屋の様相を呈して次のような任務を担っていました。

・軍後方地域での軍事作戦及び重要施設の保護と防衛、活発なパルチザン活動への対策
・地域の経済活動の保護
・地域住民への民生サービスの保護と拡大
・部隊の移動管理
・軍用宿泊施設の手配
・道路の維持管理
・地域の秩序維持

 これらの任務を遂行するため、後方地域司令部には、保安師団、国土防衛連隊(保安連隊)、国土防衛大隊(保安大隊)、地域及び地区司令官、野戦憲兵隊、臨時野戦警察、交通規制大隊、自転車中隊、警戒大隊、自動車輸送連隊、帝国労働奉仕団(RAD)、補給大隊及び軍管理部隊、野戦郵便局などの諸部隊が配属され、さらに陸軍捕虜収容所(A.G.S.St.)と最前線捕虜収容所は後方地域司令部の管轄であり、本国の捕虜収容所への捕虜移送にも責任を負いました。
 1941年7月現在、中央軍集団には次のような軍後方地域司令部が配属されていました。

・第582軍後方地域司令部(Korück 582)=第9軍後方地域
・第559軍後方地域司令部(Korück 559)=第4軍後方地域
・第580軍後方地域司令部(Korück 580)=第2軍後方地域

 「第9軍」の後方地域を担当した「第582軍後方地域司令部」の場合、ヴャジマ(Vyazma)周辺の約27,000平方キロメートルの地域を担当しており、地域内には1,500ヶ所以上の村々が点在していました。司令部の指揮下には約1,700名が配属されましたが、そのうち実働部隊は各85名からなる16個中隊の約1,400名程度で、この兵力で捕虜の管理、鉄道警備、司令部や市街地の警備など、あらゆる任務をこなさなければならず、パルチザン掃討作戦に投入できるのはせいぜい300名程度の兵力のみでした。

 1942年初めに第2軍は南方軍集団戦区に移管されましたが、代わりに1942年2月26日には第2戦車軍の後方地域に「第2戦車軍後方地域司令部」が新設され、4月1日以降は「第532軍後方地域司令部」(Korück 532)と改称されました。第2戦車軍には1942年4月頃からハンガリー軍の第102軽師団及び第108軽師団も配属されており、これらの同盟国軍部隊も軍後方地域でのパルチザン掃討作戦にも投入されました。
 1942年1月には軍集団戦区北部のビテブスク地区に「第3戦車軍」と「第590軍後方地域司令部」が新設されました。この地区は湿地帯と森林地帯が入り組むことから大規模な作戦行動は困難で警戒も手薄なことから、ソ連軍とパルチザン部隊を結ぶ補給・連絡路が前線を越えて設けられており、後方地区では激しいパルチザン掃討作戦も展開されました。

・第582軍後方地域司令部(Korück 582)=第9軍後方地域
・第590軍後方地域司令部(Korück 590)=第3戦車軍後方地域
・第559軍後方地域司令部(Korück 559)=第4軍後方地域
・第532軍後方地域司令部(Korück 532)=第2戦車軍後方地域


2.軍集団後方地域司令部
Befehlshaber rückwärtiges Heeresgebiet

 軍後方地域のさらに後方には「軍集団後方地域」が設定され、この地域ではドイツ軍による軍政が施行されて占領地域の統治管理が行われました。東部戦線では3個軍集団の後方地域にそれぞれ「軍集団後方地域司令部」(Befehlshaber rückwärtiges Heeresgebiet) (略称Berück=ベリュック)が設置されて占領地域における後方補給路、連絡路の安全確保と占領地の治安維持を担当しており、この司令部は軍団長クラスの指揮官によって指揮され、陸軍総司令部に直属しました。
 来るべきソ連侵攻作戦の準備が密かに進められていた1941年3月15日、中央軍集団の後方占領地域を管理するため「第102軍集団後方地域司令部」(Befehlshaber rückwärtiges Heeresgebiet 102)が 設立され、マックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorff)が指揮を執りました。1941年7月5日、この司令部は「中央軍集団占領軍司令部」(Befehlshaber Heeresgebiet Mitte)へと改称されました。


中央軍集団占領軍司令部
Befehlshaber Heeresgebiet Mitte

司令部
  司令部スタッフ
  捕虜収容所司令部
  臨時野戦警察本部
  交通統制本部

第213自動車化通信大隊
第2保安連隊
  連隊本部/自動車化通信小隊
  第1大隊(自転車化)
  第2大隊(自転車化)
  第213偵察中隊(自転車化)
  第213対戦車砲大隊第2中隊(自動車化)

司令部管理隊
  第825自動車化輸送段列
  第213自動車化燃料輸送隊第8輸送段列
  第213修理工場小隊
  第213野戦病院
  第708救急車小隊
  第213獣医小隊


 このうち第2保安連隊は司令部直属の護衛部隊であり、自転車によりある程度の機動力を確保していました。「中央軍集団占領軍司令部」の指揮下には第221保安師団、第286保安師団、第403保安師団、第707歩兵師団が配属されていたほか、前線を離れた歩兵師団が一時的に「予備部隊」として配属されることもありました。さらに警察部隊である警察連隊「ミッテ」が配属されていたほか、各保安師団には1個警察大隊が配属されていました。


中央軍集団占領軍司令部の主な配属部隊(1941年6月22日現在)

第221保安師団(第91警察大隊を含む)
第286保安師団(第317警察大隊を含む)
第403保安師団(第131警察大隊を含む)
第707歩兵師団
警察連隊「ミッテ」


 占領軍司令部(Befehlshaber)の主な任務は占領地域の安全と秩序の確立であり、補給基地と前線への補給路の確保、占領地での物資の集積、捕虜の警護と移送など、軍集団の戦力維持に必要なあらゆる後方業務が含まれました。また、経済的側面から占領地の行政機関を再開し、農業や産業を再建することも含まれており、例えば戦争に必要な軍需工場の再開も任務に含まれました。
 開戦当初ドイツ軍はパルチザンの大規模な活動を想定しておらず、バルバロッサ作戦は数カ月で勝利する予定で戦争の長期化は予想外であったため、後方の治安維持用として編成されたのはわずか9個の保安師団で、3個軍集団に各3個師団が派遣されましたが、広大な占領地に対しては圧倒的に不足しており占領軍司令部としても成すすべがありませんでした。このため陸軍の後方部隊、ハンガリー軍を始めとする同盟軍部隊、「高級SS及び警察指導者」(HSSPF)の所管する治安警察やSS保安情報部(SD)もパルチザン掃討作戦に動員されました。
 このような後方治安部隊の増強と占領の長期化に伴う軍政強化の必要性に対応して「中央軍集団占領軍司令部」は1942年3月15日付けで「中央軍集団治安維持軍及び占領軍司令部」(Kommandierender General der Sicherungstruppen und Befehlshaber im Heeresgebiet Mitte)へと改称され、1942年4月1日付けで担当地域(軍集団後方地域)の国防軍と警察への指揮系統に加えて軍政部門の部局が追加され、従来は保安師団の管轄下にあった「軍政司令部」、「捕虜移送キャンプ」、「臨時野戦警察」が「中央軍集団治安維持軍及び占領軍司令部」の指揮下に移管されました。


3.保安師団
Sicherungs Division

 ドイツ軍の保安師団はソ連への侵攻を控えた1941年初めに編成され、一部は第3編成波で編成された国土防衛師団を改編・再編成する形で編成されました。保安師団の任務は後方地域での警備任務であり、1個(増強)歩兵連隊と1個国土防衛連隊を基幹とし、自動車化された1個警察大隊により補強されました。さらに1個警戒大隊も配属されましたが、この大隊はどうやら捕虜移送キャンプ警備用ではないかと思われます。
 戦力的には3流の歩兵師団でしたが、保安師団の任務はむしろ占領地の統治・管理であり、駐屯した都市や地域の占領司令部を兼任する場合もあり、師団の管轄下には必要により占領地の地域軍政司令官や地区軍政司令官の司令部ほか、捕虜移送キャンプや臨時野戦警察が配属されました。「中央軍集団占領軍司令部」に配属された保安師団は時期によって出入りがありますが、概ね3個~4個師団で推移していました。

保安師団の配備状況(1941年6月22日現在)

・第207保安師団:北方軍集団
・第213保安師団:南方軍集団
第221保安師団:中央軍集団
・第281保安師団:北方軍集団
・第285保安師団:北方軍集団
第286保安師団:中央軍集団
第403保安師団:中央軍集団
・第444保安師団:南方軍集団
・第454保安師団:南方軍集団

・<中編>として保安師団について書いた「中央軍集団の後ろの方<中編・中央軍集団の保安師団」はこちら

 後方治安部隊の増強と占領の長期化に伴う軍政強化の必要性に対応して「中央軍集団占領軍司令部」は1942年3月15日付けで「中央軍集団治安維持軍及び占領軍司令部」(Kommandierender General der Sicherungstruppen und Befehlshaber im Heeresgebiet Mitte)へと改称され、1942年4月1日付けで担当地域(軍集団後方地域)の国防軍と警察への指揮系統に加えて軍政部門の部局が追加され、従来は保安師団の管轄下にあった「軍政司令部」、「捕虜移送キャンプ」、「臨時野戦警察」が「中央軍集団治安維持軍及び占領軍司令部」の軍政部局指揮下に移管されました。


4.占領地用歩兵師団
Infanterie Division (Besatzung)

 1941年の第15編成波では占領地での警備任務のために15個の占領地用歩兵師団として編成されました。この歩兵師団は700番台の番号が割り当てられ、フランス、オランダ、ノルウェー、バルカン半島などに送られて占領地での警備任務に従事しましたが、このうちの第707歩兵師団はOKH予備から中央軍集団後方地域司令部に配属されてベラルーシ~中部ロシアの地域に送られており、バルカン半島に送られた4個師団と共に貧乏くじを引いた感が漂います。(笑
 これらの師団は3個大隊編成の歩兵連隊2個を基幹としており、通常の野戦師団の2/3ほどの兵力であるほか、連隊の支援部隊である歩兵砲、対戦車、工兵中隊を欠いていました。さらに砲兵は大隊規模(3個中隊)で砲は馬匹牽引となっているほか、通信中隊の半分、輸送段列の1/3、野戦病院の半分など一部のみが自動車を装備する以外は馬匹牽引が基本となっていました。

・第702歩兵師団:ノルウェー
・第704歩兵師団:バルカン
第707歩兵師団:OKH予備 →ロシア
・第708歩兵師団:フランス
・第709歩兵師団:フランス
・第710歩兵師団:ノルウェー
・第711歩兵師団:フランス
・第712歩兵師団:フランス
・第713歩兵師団:OKH予備 →クレタ
・第714歩兵師団:バルカン
・第715歩兵師団:フランス
・第716歩兵師団:フランス
・第717歩兵師団:バルカン
・第718歩兵師団:バルカン
・第719歩兵師団:オランダ


5.占領地軍政司令部

地域軍政司令官
Feldkommandantur(FK)
地方軍政司令官
Kreiskommandantur(KK)
地区軍政司令官
Ortskommandantur(OK)

 「軍政司令部」はドイツ軍占領地内の民生組織の管理・監督業務のほか駐屯する占領軍の管理・監督を行いました。「地域軍政司令官FK(V)」は県域程度の範囲を管轄しており、旅団又は連隊本部規模の司令部(司令部要員61名+軍属7名)が置かれて担当地域内の「地方軍政司令官」、「地区軍政司令官」及び駐屯する占領軍の管理・監督を行い、司令部要員はドイツ占領軍及び占領地区内の司法権も行使しました。
 「地方軍政司令官(KK)」は大隊本部規模の司令部(司令部要員31名+軍属8名)が置かれ、郡域程度の範囲を管轄し、「地区軍政司令官(OK)」の場合は担当地区の規模により大隊本部規模「OKI(V)」(司令部要員32名+軍属4名)又は中隊本部規模「OKII(V)」(司令部要員19名+軍属2名)の司令部が置かれました。

 軍政司令部の業務は具体的には「停電の管理、敵側宣伝への警戒、新しい宣伝映画の告知、礼拝時間の設定、現地労働者の管理、行方不明者の捜索、損害の報告、民間防空、緊急時医療、公衆浴場の管理、ワクチン接種、清掃婦の管理、軍用施設の移転、軍の演習、射撃場、運動場、狩猟の許可、兵士宿舎の手配、容疑者の追跡、音楽会の開催」などなど、地域内での民生関係の管理の他、軍の駐屯地内での外注業務の管理なども行いました。

 占領地の民生業務の実務については現地の行政機関をそのまま利用していると思われ、軍政司令部は現地民生機関の管理・監督を行うとともに、占領軍が必要とするあらゆる需要の窓口業務を行っていました。占領軍においても現地での食料の調達に始まり、駐屯が長期化するとなれば料理人、清掃婦、洗濯婦、家政婦などなど、現地で外注する業務も多岐にわたり、それらの労働者の募集・採用・運用もまた司令部の重要な業務であったと考えられます。


6.ロコティ村の自警団

 1941年10月、モスクワに迫るドイツ軍を足止めするため、スターリンはパルチザンに対して「ドイツ軍の前線後方40マイル(60km)以内のすべての民家や農家を破壊し、焼き払う」よう命じました。
 中央軍集団占領下のブリャンスク南方の森林地帯にロコティ(Rokot)という小村があり、この村ではイワン・ウォスコボイニクが自警団を設立してパルチザンの破壊に抵抗しました。自警団は最初20名~50名でしたが、この動きは近隣の村にも広がり、自警団の兵力はたちまち100名規模にまで拡大しました。村の周辺にはブリャンスク~ヴィヤジマ包囲戦で残されたソ連軍の兵器・装備類が大量に遺棄されており、武器の調達には困りませんでした。
 ウォスコボイニクは「国家社会主義ロシア党」(NSRP)を設立して勢力を拡大し、自警団の兵力は400名~600名に拡大しましたが、独力でパルチザンに対抗する動きに対してこの頃のドイツ軍はほとんど介入しませんでした。ロコティ地区では自治区が形成され、共産党時代の共同農場は廃止され個人農地の所有が認められるなどの改革が行われましたが、これにより地域の経済活動は活性化し、ドイツ軍への供出ノルマも楽に達成できたといいます。
 1942年1月8日、創設者のウォスコボイニクはパルチザンの待ち伏せにより死亡しましたが、補佐役であったブロニスラフ・カミンスキーが後を引き継ぎ、自治区の経営は混乱なく行われました。

 モスクワ攻略に失敗したドイツ軍は少しでも味方となる勢力を探しており、ロコティの自治区はドイツ軍の注目するところとなりました。第2戦車軍の司令官ルドルフ・シュミット上級大将はカミンスキーと会談し、ロコティの自治を認める一方で自警団による鉄道警備を依頼することとなりました。ロコティ自治区のあるのは第2戦車軍の後方地域にあたり、この地域には1942年2月26日に「第2戦車軍後方地域司令部」が新設され、この司令部は4月1日以降は「第532後方地域司令部」(Korück 532)へと改称されました。この地域は森林地帯であり、それでなくても手薄となりがちな戦区境界線の後方地区に在ってパルチザンに対抗してくれるロコティ自治区の自警団はドイツ軍にとってまたとない援軍でした。

 1942年3月3日~11日の間、自警団はコマリチ(Komaritschi)付近で約2,000名のパルチザン部隊と激戦を展開してこれを撃退し、ドイツ軍の信頼を勝ち取ることとなりました。
 1942年4月中旬、約15,000~20,000名のパルチザン部隊がいると見られるロコティから西側のDesna川までの約30kmの地域でパルチザン掃討作戦が計画されました。このため第532後方地域司令部戦区では第216歩兵師団の師団長、von und zu Gilsa中将指揮下に「フォン・ギルサ集団」(Guruppe "von Gilsa")が編成され、約15,000名の兵力が集められました。第216歩兵師団はスヒーニチ防衛戦で大損害を被ったためロコティ地区に後退してきており、ここで師団残余は第532後方地域司令部に配属されて自警団を始めとする後方部隊とともに臨時戦闘団を編成し、司令部はロコティに開設されました。


フォン・ギルサ集団
Guruppe "von Gilsa"

第216歩兵師団司令部/野戦憲兵分遣隊
第216通信大隊
第216工兵大隊 第3中隊
第348歩兵連隊
第216砲兵連隊 第4大隊
第216対戦車砲大隊
第532軍後方地域司令部
  ハンガリー第102軽歩兵師団
  ハンガリー第108軽歩兵師団
  ロコティ自警団


 1942年5月末、「フォン・ギルサ集団」(Guruppe "von Gilsa")は4個の戦闘団に分かれてブラソヴォ(Brasovo)、ロコティ(Lokot)、ネルッサ(Nerussa)及びNegino地区で攻撃を実施し、6月の間にパルチザン部隊は村の周辺から一掃されました。ロコティ自警団は中隊規模でドイツ軍部隊に配属され、ガイドや通訳を務めたほか戦闘部隊としても活動しました。ブリヤンスク南方の森林地帯での戦闘は6月末まで続きましたが、深い下草や毒虫の住む沼地、そして熟練のパルチザン部隊がドイツ軍部隊を苦しめました。それでも8月初めまでにはパルチザンは合計80ヶ所の村から一掃され、作戦は9月末まで続けられ「フォン・ギルサ集団」(Guruppe "von Gilsa")は次のような戦果を報告しました。

・パルチザン及び容疑者の逮捕:9,000名
・敵の殺害:4,000名
・捕獲した銃:200丁
・捕獲した機関銃:500丁
・大量の爆薬及び印刷工場を摘発

 「フォン・ギルサ集団」(Guruppe "von Gilsa")は9月26日まで第532軍後方地域司令部の管轄下にありましたが、9月27日から10月11日の間に師団司令部はロコティからブリヤンスク北方約70kmのリュジノヴォ(Lyudinovo)地区へと移動するとともに解散しました。
 7月までにカミンスキーはロコティ周辺の6つの郡の行政運営を委託され、自治区の名前も「大ロシア自治区ロコティ」へと改称されました。この地域には反共思想のため、あるいは単に戦禍を逃れて多数のロシア人が集まり、170万人もの住民がいたと言われます。自治区の範囲もミハイロフカ(Mikhailovka)、ナヴリャ(Navlya)、ブラソヴォ(Brasovo)、スゼムカ(Susemka)、Dimitrovsk、Dimitriyev 及びコマリチ(Komaritschi)の地域へと拡大していました。しかし自治区を維持するためにはそれなりの代償も必要で、ドイツ軍の方針に沿う形で自治区内のユダヤ人2,000名が射殺されたと言います。ロコティの自警団も兵力を拡大しており、旅団規模の兵力となるとともに「ロシア人民解放軍(RONA)」と改称されて、カミンスキーはドイツ軍人ではないものの旅団長(准将)に任命されました。


<親衛隊及び警察>

 占領地域の治安維持は親衛隊の管轄であり、ドイツ警察の管轄下で占領地域にも「治安警察本部」と「国家保安本部」の出先機関が開設されて派遣された警察部隊の指揮を執りました。さらに親衛隊国家指導者兼ドイツ警察長官の「ハインリッヒ・ヒムラー」から直接任命された「高級SS及び警察指導者中央ロシア及び白ロシア」として「エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー(Erich von dem Bach-Zelewski)親衛隊大将兼警察大将」もヒムラーの代理人として管轄地域の親衛隊と警察部隊への指揮権を持ちました。【捕捉-1】


7.警察

 警察全体の頂点に立つのは「SS全国指導者兼ドイツ警察長官」(Reichsführer SS und Chef der Deutschen Polizei=RFSSuChdDtPol.)であるハインリッヒ・ヒムラーであり、国家警察の「ドイツ警察長官」としての指揮系統と党組織である親衛隊の「SS全国指導者」としての2系統がありました。
 「ドイツ警察長官」としての指揮系統としては治安警察を統括する「治安警察本部(Hauptamt Ordnungspolizei)」と保安警察を統括する「保安警察本部」(後の「国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt)」)が置かれました。治安警察本部には「治安警察司令官」(Befehlshaber der Ordnungspolizei=B.d.O.)が置かれ、指揮下の「治安警察指揮官」(Kommandeur der Ordnungspolizei=K.d.O.)は管区内の治安警察の指揮・命令権を持ち、現場の警察署や警察連隊などの警察部隊への日常的な命令の伝達や報告事項はこのルートで行われました。
 「国家保安本部」には「保安警察及びSD司令官」(Befehlshaber der Sicherheitspolizei und des SD=B.d.S.)が置かれ、指揮下の「保安警察及びSD指揮官」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD=K.d.S.)が「刑事警察」(Kriminalpolozei=クリポ)と「秘密国家警察」(Geheime Staats-polizei=ゲシュタポ)さらにSS保安情報部(SD)への指揮・命令権を持ちました。

白ロシア行政区の治安警察

〇治安警察司令官「オストラント」(B.d.O. Ostland):ラトビアのリガ(Riga)に司令部が置かれ「オストラント国家行政区」を管轄
・治安警察指揮官「白ロシア」(K.d.O. Weißruthenien):ミンスクに司令部が置かれ「白ロシア行政区」に駐屯する都市防護警察(Schutzpolizei)を管轄
  ・都市防護警察指揮官「ミンスク」(K.d.S. Minsk):ミンスク首都行政区の都市防護警察(Schutzpolizei)を管轄
    ・第I地区都市防護警察:フルィボーカエ(Głębokie)
    ・第II地区都市防護警察:ビレイカ(Vileika)
    ・第III地区都市防護警察:ミンスク及びスウツク(Minsk und Sluzk)
    ・第IV地区都市防護警察:リダ及びナヴァフルダク(Lida und Novogrudok)
    ・第V地区都市防護警察:スロニム(Slonim)
  ・外国人シューマ警察下士官学校「モギリョフ」
  ・SS及び警察駐屯指導者「モギリョフ」

・国家地方警察指揮官「白ロシア」(K.d.G. Weißruthenien):ミンスクに司令部が置かれ「白ロシア行政区」に駐屯する国家地方警察(Gendarmerie)を管轄
  ・国家地方警察「バラナヴィーチ及びガンツェヴィチ」(Baranovichi und Gantsevichi)
  ・国家地方警察「ボリソフ」(Borisov)
  ・国家地方警察「フルィボーカエ」(Glubokoe)
  ・国家地方警察「ヴィレイカ」(Vileika)
  ・国家地方警察「リダ及びナヴァフルダク」(Lida und Novogrodek)
  ・国家地方警察「スロニム」(Slonim)
  ・国家地方警察「バブルイスク」(Brobruisk)
  ・国家地方警察「ミンスク及びスルツク」(Minsk und Slutsk)


8.高級SS及び警察指導者
Höhere SS und Polizeiführer

 「高級SS及び警察指導者」は1937年にSS全国指導者兼警察長官であるヒムラーがSS大管区(ほぼ党の大管区と一致)ごとに直接任命して設立した役職で、ヒムラーの代理として一般SS及び警察組織全体を掌握して権力を振るうはずでした。しかし、1937年の設立当時はドイツ国内の党組織はすでに定着しており、「高級SS及び警察指導者」も既存の「大管区指導者」が兼任する形で任命されたため、大きな混乱や対立も無い代わりに、その権力を誇示するチャンスもありませんでした。

 1939年9月以降、ポーランドの占領により新たなSS大管区が設定され、ようやく党の大管区指導者とは別に「高級SS及び警察指導者」が任命されるようになりましたが、実際には管轄区域内での他の高級幹部との力関係によって、その権限は限られたものだった様です。ソ連侵攻に伴う占領地域の拡大に伴い、バルト三国、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアを担当する3名の「高級SS及び警察指導者」が任命されました。

・高級SS及び警察指導者「北部ロシア」:イェッケルン警察大将
  ⇒高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」へと改称
   エストニア・ラトビア・リトアニア行政区と北部ロシア(北方軍集団戦区)を担当
・高級SS及び警察指導者「中央ロシア」:フォン・デム・バッハ-ツェレウスキー警察大将
  ⇒高級SS及び警察指導者「中央ロシア及び白ロシア」へと改称
   白ロシア行政区及び中央ロシア(中央軍集団戦区)を担当
・高級SS及び警察指導者「南部ロシア」:プリュッツマン警察大将
   ウクライナ国家行政区及び南部ロシア(南方軍集団戦区)を担当

 これにより占領地においては「高級SS及び警察指導者」→「SS及び警察指導者」の指揮系統ができたように見えますが、現実はそう簡単でもありませんでした。現場に出動する治安部隊はあくまでも「治安警察本部」や「国家保安本部」の所属であり、「治安警察本部」 →「治安警察司令官」(B.d.O.) →「治安警察指揮官」(K.d.O.)
あるいは「国家保安本部」 →「保安警察及びSD司令官」(B.d.S.)  →「保安警察及びSD指揮官」(K.d.S.)の指揮系統で指揮命令を受けており、「高級SS及び警察指導者」は直属する部隊を持っているわけではありませんでした。

 意外かもしれませんが国家組織でない「高級SS及び警察指導者」には身分証を発行する権限はなく、あくまでもSS全国指導者兼警察長官の任命した「代理者」としての立場であり、このあたりの権威付けにも苦労があったようです。


高級SS及び警察指導者「中央ロシア」
HSSPF Ruβland-Mitte
高級SS及び警察指導者「中央ロシアおよび白ロシア」
HSSPF Ruβland-Mitte und Weiβruthenien

 高級SS及び警察指導者「中央ロシア」に任命されたのはエーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー(Erich von dem Bach-Zelewski)親衛隊大将兼警察大将であり、中央軍集団戦区の親衛隊(SS)と警察への指揮権を持ちました。司令部は当初はモギリョフ(Mogilow)に開設されましたが、1943年4月以降は白ロシア行政区も管轄として高級SS及び警察指導者「中央ロシアおよび白ロシア」へと改称され、司令部もミンスク(Minsk)に移転しました。
 高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の指揮下には地域の主要都市に次のような「SS及び警察指導者」司令部が開設されました。

・SS及び警察指導者サラトフ(SSPH Saratow):1941年9月14日~11月30日
・SS及び警察指導者ビアリストク(SSPH Bialystok):1942年1月18日~1944年10月22日
・SS及び警察指導者モギリョフ(SSPH Mogilow):1942年8月1日~1944年7月12日
・SS及び警察指導者白ロシア(SSPH Weiβruthenien):1943年4月1日~1944年4月1日
・SS及び警察指導者プリペチ(SSPH Pripet):1943年12月18日~1944年6月6日


9.警察連隊と警察大隊

 1941年6月、ロシアでのバルバロッサ作戦開始に備えて後方地域での治安維持部隊として4個警察連隊が編成され、北方、中央、南方の各軍集団の後方地域に配属されました。

警察連隊「ノルト」Polizei Regiment "Nord":北方軍集団
警察連隊「ミッテ」Polizei Regiment "Mitte":中央軍集団
警察連隊「ジュート」(Polizei Regiment "Süd"):南方軍集団
特別編成警察連隊(Polizei Regiment z.b.V.):南方軍集団

 警察連隊「ミッテ」は1941年3月、来るべきロシアでのバルバロッサ作戦において中央軍集団の後方地域で治安維持活動に従事するため編成が開始され、1941年6月24日付で第307、第316、第322警察大隊の3個大隊により編成されました。1941年7月の時点で連隊本部には2個対戦車砲小隊、2個警察装甲車小隊、1個通信中隊及び1個TeNo (Technische Nothilfe=緊急技術援助隊)中隊が配属されていました。
 連隊はワルシャワから中央軍集団の進撃に合わせてポーランド東部~ベラルーシ~中央ロシアへと移動しながら中央軍集団の後方地域で活動しましたが、連隊の各大隊は実際には独立運用されていました。

警察連隊「ミッテ」

 警察大隊は警察連隊や特別行動隊に配属された以外にも陸軍の保安師団にも配属され、その他にも数個大隊がベラルーシに派遣されていました。警察大隊のうち最初から自動車を配備されたのは(自動車化)通信小隊のみで、大隊本部と3個警察中隊(一部では4個警察中隊)については自動車配備がなかったようですが、東部戦線派遣の際はNSKK (Nationalsozialistisches Kraftfahrkorps)の自動車輸送部隊の配属を受けて完全自動車化を実現していたようです。配属されたNSKKの自動車と隊員(運転手)は大隊の指揮下で活動し、交通統制の現場ではNSKKの隊員も補助警察官としても活動しました。
 中央軍集団戦区及び後方地域には主として次のような警察大隊が派遣されました。

・第3警察大隊:特別行動隊
・第9警察大隊:特別行動隊
・第32警察大隊
・第91警察大隊:第221保安師団
・第131警察大隊:第403保安師団
・第307警察大隊:警察連隊「ミッテ」第1大隊
・第308警察大隊
・第313警察大隊
・第316警察大隊:警察連隊「ミッテ」第2大隊
・第317警察大隊:第286保安師団
・第322警察大隊:警察連隊「ミッテ」第3大隊


10.特別行動隊
Einsatzgruppen

 正式には「保安警察並びにSS保安部の出動隊」(Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des Sicherheitsdienst)と呼ばれ、国家保安本部長官であるラインハルト・ハイドリッヒSS中将直属の特別部隊であり、ナチス体制にとっての敵である教師、聖職者、貴族、将校、ユダヤ人など、ドイツによる占領政策の障害となる人たちの抹殺を任務としました。「特別行動隊」は国家保安本部(RSHA)を主幹部署としながらも、実際には治安警察、武装SSを中心とした混成部隊であり、隊員は所属元の身分のまま「特別行動隊」に臨時に派遣されていました。
 ソ連侵攻に伴い各軍集団の担当地域別に4個の特別行動隊が編成されており、治安警察からは「第9警察大隊」の4個中隊が各特別行動隊に配属されていました。特別行動隊に配属された兵員は全体で約3,000名であり、第9警察大隊だけで約500名の警察官がおり、兵員のうちの約17%を占めていました。

・特別行動隊A:北方軍集団、HSSPF「北部ロシア」地域担当、兵力990名
・特別行動隊B:中央軍集団、HSSPF「中央ロシア」地域担当、兵力665名
・特別行動隊C:南方軍集団、HSSPF「南部ロシア」地域担当、兵力700名
・特別行動隊D:第11軍、HSSPF「南部ロシア」地域担当、兵力600名


特別行動隊B
Einsatzgruppen B

 ベラルーシを含む中央軍集団戦区には「特別行動隊B」が派遣されました。司令部はスモレンスク(Smolensk)に置かれ、ネーベSS少将兼警察少将が指揮を執り、下記のような分遣隊に分かれて活動しました。

第7a特別分遣隊(Sonderkommando 7a)
第7b特別分遣隊(Sonderkommando 7b)
第8出動分遣隊(Einsatzkommando 8)
第9出動分遣隊(Einsatzkommando 9)
モスクワ分遣隊(Vorkommando "Moskau")

 「モスクワ分遣隊」は国家保安本部第7局長であったジックス博士(SS准尉)が初代指揮官に任命されました。ジックス博士は中止となったイギリス上陸作戦の際には「イギリス先遣隊」の指揮官に任命されており、イギリス占領後は国家保安本部イギリス支部長に就任する予定でした。
 「第7a特別分遣隊」はSD、ゲシュタポ、刑事警察(クリポ)からなる約100名の分遣隊で、第9軍に随伴してベラルーシで活動しており、最初はブルーメ博士(SS少佐)が指揮し、1941年9月~12月の間はオイゲン・シュタイムレSS大佐が指揮を引き継ぎました。
 「第9出動分遣隊」は兵力120-150名の分遣隊で、Jur Alfred Filbert博士が初代指揮官として1941年10月20日まで指揮し、SS将校:12-15名、ゲシュタポ、刑事警察(クリポ)、SD:30-40名、補助要員:15-20名、Richred NeubertSS軍曹が指揮する武装SS1個小隊それに第9警察大隊第2中隊第3小隊により構成されました。

 1941年8月15日、ハインリッヒ・ヒムラーは占領下のミンスクを視察しました。この際、特別行動隊Bの司令官であったネーベSS少将兼警察少将はヒムラーの視察に備えて特別なイベントを用意していました。それはユダヤ人処刑の「実演」であり、この時はユダヤ人100名(男98名、女2名)が銃殺されました。
 ヒムラーは好奇心からか銃殺現場に近づきすぎ、銃殺により飛び散った脳髄や肉片がコートにかかり、卒倒しそうになって危うく副官に支えられて事なきをえるという一幕がありました。この後ヒムラーは何事もなかったように演説をぶちましたが、この体験が後のガス室を使用した大量虐殺のような「きれいな」殺害方法開発の一因となったと言われます。

 「特別行動隊B」の兵力は合計665名ですが構成人員の内訳はわかっていません。代わりによく知られている「特別行動隊A」の1941年10月現在の構成人員を次にあげますが、これを見ても様々な実行組織からの寄合所帯であることがわかります。
 「特別行動隊」の活動に必要な装備と食料についてはOKWとの合意により派遣先の軍が補給を担当しており、補給を円滑に行うためには「特別行動隊」の活動計画は逐一関係個所に通報されており、必要であれば作戦地域の封鎖や、殺戮対象者の輸送用トラックの提供などの支援も軍から行われていました。


特別行動隊A(1941年10月現在)

武装SS:340名
輸送(運転手):172名
管理:18名
SD:35名
刑事警察(クリポ):41名
ゲシュタポ:89名
シューマ:87名
治安警察:133名(第9警察大隊第1中隊)
女性軍属:13名
通訳:51名
無線通信手:11名
合計:990名


第9警察大隊

 第9警察大隊は1939年9月、第3警察管区のベルリンで編成されました。1939年はプラハに駐屯し、1940年5月からノルウェーのオスロに移動しましたが、6月にはすぐにポーランドに移動しました。1941年のソ連侵攻の際には「特別行動隊」に編入され、中隊ごとにA~Dの各特別行動隊に分散して配属されました。

第1中隊:特別行動隊A
  中隊本部:特別行動隊A本部
  第1小隊:第2出動分遣隊
  第2小隊:第3出動分遣隊
  第3小隊:特別行動隊A本部
第2中隊:特別行動隊B
  中隊本部:特別行動隊B本部
  第1小隊:第8出動分遣隊
  第2小隊:特別行動隊B本部
  第3小隊:第9出動分遣隊
第3中隊:特別行動隊C
  中隊本部:特別行動隊C本部
  第1小隊:第4a特別分遣隊又は第5出動分遣隊
  第2小隊:第6出動分遣隊
  第3小隊:第5出動分遣隊又は第4a特別分遣隊
第4中隊:特別行動隊D
  中隊本部:特別行動隊D本部
  各中隊は半数ずつが第12出動分遣隊、第10a特別分遣隊、第10b特別分遣隊、第11a特別分遣隊、第11b特別分遣隊、に配属

 第9警察大隊の戦闘日誌によると「特別行動隊」に配属されていた約1年間の間に186,735名以上のユダヤ人、パルチザン容疑者、一般市民を殺害又は収容所送りにしたとされます。大隊は1941年12月1日から10日にかけて順次特別行動隊の任務を離れてベルリンに帰還し、休養と再編成に入りました。
 大隊は1942年7月からは警察連隊の増勢に伴い第27警察連隊に第3大隊として編入され再びオスロに駐屯し、その後はコングスヴィンガー(Kongsvinger)に移動しましたが、そのままノルウェーで終戦を迎えました。戦後、大隊はイギリスの捕虜収容所に送られ、1947年1月17日に大隊の247名がソ連に引き渡され、このうち170名が10年から25年の労働刑に処せられました。


第3警察大隊

 第3警察大隊は1939年9月、第3警察管区のベルリンで編成されました。ポーランド戦後、大隊は一時ノルウェーにも駐屯し、その後はドイツ本土に併合されたオーバークライン地方に駐屯しました。大隊は1941年11月にベルリンに帰還しましたが、休む間もなく第9警察大隊と交代して「特別行動隊」に配属されるためベラルーシへと移動し、1941年12月から1942年1月にかけて順次配属先に到着しました。

第1中隊:特別行動隊B
  中隊本部:特別行動隊B本部
  第1小隊:第8出動分遣隊
  第2小隊:第8出動分遣隊
  第3小隊:第8出動分遣隊
  第4中隊の1個小隊:保安警察及びSD指揮官「ベラルーシ」
第2中隊:特別行動隊C
  中隊本部:特別行動隊C本部
  第1小隊:第6出動分遣隊
  第2小隊:第4b特別分遣隊
  第3小隊:第4a特別分遣隊
第3中隊:特別行動隊D
  中隊本部:特別行動隊D本部
  第1小隊:第10b特別分遣隊
  第2小隊:第11a特別分遣隊
  第3小隊:第11b特別分遣隊
第4(重装備)中隊:特別行動隊A
  中隊本部:特別行動隊A本部
  1個小隊:第2出動分遣隊
  1個小隊:第3出動分遣隊

 1942年7月、第3警察大隊は第1警察連隊第2大隊として編入されましたが、大隊の各中隊は引続き「特別行動隊」に配属されていまいした。第1中隊は夏ごろから保安警察及びSD指揮官「白ロシア」による作戦に参加する機会が増えたようです。
 1942年12月1日、第1中隊の一部は第57(ウクライナ)シューマ大隊の新設にあたり、ドイツ人基幹要員として編入されました。第1中隊に配属されていた第4中隊の1個小隊は1943年5月にドイツ本国に帰還しました。
 第3警察大隊第1中隊は特別行動隊に配属された間に約35,000名を殺害しており、第4中隊の1個小隊は保安警察及びSD指揮官「白ロシア」の指揮下で約20,000名を殺害しました。


11.シューマ大隊

 1941年11月6日、SS全国指導者兼警察長官であるヒムラーは、ソ連各地で親独的な住民からなる治安維持部隊の設立を命じ、これらの部隊はシューマ(補助警察部隊)と呼ばれ、大隊を基本単位として編成されました。シューマ大隊の標準的な編成は大隊本部(指揮官、副官、兵10名合計12名)と4個中隊(1個中隊:3個小銃小隊、1個機関銃小隊、合計124名)からなり、1個大隊の兵力は合計508名となっていました。このうち、大隊本部の12名と各中隊の将校2名と下士官18名はドイツ国籍を持つ事が規定されていました。
 高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の管轄地区であるベラルーシでは次のような17個大隊の編成が確認されていますが、編成時期不明の部隊も多く、いつごろから編成が開始されたかははっきりしていません。またこの他にもモギリョフには「モギリョフ外国人シューマ警察下士官学校」も開設されていました。

・第45(白ロシア)シューマ大隊 1943年9月編成
・第46(白ロシア)シューマ大隊 1942年7月編成
・第47(白ロシア)シューマ大隊 1942年7月編成
・第48(白ロシア)シューマ大隊 1942年7月編成
・第49(白ロシア)シューマ大隊 1942年9月編成
・第52(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第53(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第55(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第56(白ロシア)シューマ砲兵大隊 編成時期不明
・第60(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第61(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第63(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第64(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
・第65(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
・第66(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
・第67(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
・第69(白ロシア)シューマ大隊 1944年3月編成


 中央軍集団の後ろの方<前編>は独ソ開戦から1942年夏ごろまでの戦線後方地域で活動した陸軍部隊と親衛隊・警察部隊について書きました。1942年になるとパルチザン対策として7月には警察連隊の大増勢が行われ、各地でのシューマ部隊の編成も本格化するなど、後方地域でのパルチザン掃討作戦においても一つの転換点となりました。<後編>はドイツ軍によるパルチザン掃討作戦と参加部隊の解説から始めたいと思いますが、予定は未定?

・民政地区として統治された「白ロシア行政区」について書いた「中央軍集団のもっと後ろの方」はこちら

・<中編>として保安師団について書いた「中央軍集団の後ろの方<中編・中央軍集団の保安師団」はこちら


【補足-1】地名の「ベラルーシ」と組織名の「白ロシア」の使い分けについて
 現在「ベラルーシ」と呼ばれる国、地域はかつて「白ロシア」と呼ばれており、ドイツ語でも「Weißruthenien」と表記されています。当サイトではできるだけ当時の表記に近い表記を心がけていることからドイツ側の組織名については「白ロシア」の表記に統一して地名と区別することとします。
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2019.10.1 新規作成
2019.10.11 第3警察大隊を追記
2020.3.6 軍後方地域司令部を修正
2020.4.15 【補足-1】を追加
2022.1.29 白ロシアシューマ大隊を修正・追記
2022.5.28 ロコティ自警団に追記
2023.4.19 軍集団後方地域司令部を修正・追記
2024.1.5 白ロシア行政区の治安警察を一部修正

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/