泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史/中央軍集団の後ろの方<中編・中央軍集団の保安師団>

第403保安師団
Sicherungs Divisionen 403

 第403保安師団は1941年3月15日に第213歩兵師団の1/3にあたる第406歩兵連隊と第213砲兵連隊第3大隊を中心として編成され、第85国土防衛連隊、第131警察大隊、第705警戒大隊が配属されて6月の時点で次のような編成となりました。


第403保安師団(1941年6月)

師団司令部
  司令部中隊
第406(増強)歩兵連隊
  第1大隊
  第2大隊
  第3大隊
  第13(歩兵砲)中隊
  第14(対戦車砲)中隊
  第213砲兵連隊第3大隊(3個中隊)
第85国土防衛連隊本部
  第989国土防衛大隊
  第663国土防衛大隊
  第591国土防衛大隊
第131警察大隊
第705警戒大隊

第446補給大隊
第181衛生中隊第7小隊
第711救急車小隊
第341野戦製パン中隊
第644(自動車化)と殺中隊
第433師団管理隊
(自動車化)野戦郵便局


 「第406(増強)歩兵連隊」の前身は1939年8月26日に第VIII軍管区で設立された第406歩兵連隊であり、第3編成波の第213歩兵師団に配属されました。1940年8月にはフランスの降伏に伴い一旦は動員解除されましたが、1941年3月に再招集の際には3個歩兵大隊を中心に第213砲兵連隊第3大隊により増強され、「第406(増強)歩兵連隊」として再編成されました。

 「第85国土防衛連隊本部」は1940年5月31日に第VIII軍管区で特別編成連隊本部として設立され、当初はオランダでの占領任務に従事しました。その後1941年4月10日から東部へ移動し、第403保安師団に配属されました。1941年10月の時点で、第85国土防衛連隊本部には第705警戒大隊と第131警察大隊が配属されて連隊集団「ロデレン」(Regiment Guruppe Roedern)として運用されたようですが詳細はわかりません。連隊本部はその後師団を離れ第9軍/第18軍団戦区に配属されたようです。

 「第131警察大隊」は1939年10月、レーゲンスブルクで第XIII軍管区警察予備大隊として編成され、訓練完了後の1940年4月に第131警察大隊と命名されました。1940年6月からノルウェー占領軍としてベルゲンに駐屯しましたが、1941年1月には第252警察大隊と後退して本国に帰還し、1941年5月10日にオストプロンセンで第403保安師団に配属されました。
 1941年6月22日、大隊は特別行動隊Bの第9出動分遣隊とともにソ連占領地域に入り、大隊の一部は第9出動分遣隊とともに前進しましたが、これは正式に配属されたわけではなく、近隣部隊として臨時に徴発されていたようです。大隊は7月末にビルニュス~グロドノ間でベラルーシ領内に入り、ミンスク北西のマラジェチナ地区に入りました。
 8月には第3戦車軍戦区のビテブスク~スモレンスク地区でパルチザン掃討作戦に従事し、その後9月には第582軍後方地域司令部(第9軍)戦区に移動し、戦線後方でのパトロール任務に従事しました。11月14日、大隊は師団を離れてスモレンスク地区に移動し12月16日付けで警察連隊「ミッテ」に配属されました。1942年1月に大隊は第290歩兵師団に配属され、カルーガ(Kaluga)地区での防衛戦では中旬までに大隊の兵力は550名から220名までに減少する大損害を被りました。

 師団には1941年10月16日に第826通信大隊が配備されて通信能力が強化され、11月14日付で師団を離れた第131警察大隊の代わりに1942年5月から「第111警察大隊」が配属されました。変わったところでは1942年1月20日には「第403(東部)騎馬大隊」が第454騎馬大隊第1中隊から編成されて師団に配属されました。これは東部民族の義勇兵から編成された部隊ですが、これまた詳細は分かりません。

 1942年2月、第286歩兵師団から「第354(増強)歩兵連隊」が第213砲兵連隊第2大隊とともに師団に編入され、3月15日には第406(増強)歩兵連隊は第213砲兵連隊第3大隊、第446管理部隊とともに第201保安旅団に転属となりました。入れ替わりに第201保安旅団から「第610保安連隊」が師団に編入され、さらに「第37管理部隊」が配属され、その後師団は1942年5月~10月の時点では次のような編成となっていたようです。


第403保安師団

師団司令部
第354(増強)歩兵連隊
  第213砲兵連隊第2大隊
第177保安連隊
  第1大隊(第601保安連隊の第2大隊より)
  第2大隊(第544保安大隊)
第610保安連隊
第403(東部)騎馬大隊
第111警察大隊(第8警察連隊第2大隊)
第826(自動車化)通信大隊

第403製パン(1/2)中隊
第403と殺(1/2)中隊
第403軽補給段列
第403衛生中隊(非自動車化)
第403救急車中隊


 「第354(増強)歩兵連隊」は1939年8月26日、第VIII軍管区で第354歩兵師団として設立され、第3編成波の第213歩兵師団に配属されました。1940年8月、フランスの降伏に伴い一旦は動員解除されましたが、1941年3月に再編成の際には3個歩兵大隊を中心に第213砲兵連隊第2大隊により増強され、「第354(増強)歩兵連隊」と改称され第286保安師団に配属されました。1942年2月に第403保安師団に配属後、10月15日からは第354擲弾兵連隊と改称されました。

 「第177保安連隊」の前身は「第177国土防衛連隊本部」であり、1940年4月10日に第XVII軍管区で特別編成連隊本部として設立されベルギーに派遣されました。1942年9月7日からロシアのドネツ地区に派遣され、10月10日から第403保安師団に配属されると同時に「第177保安連隊」と改称されました。連隊の第1大隊には第601保安連隊の第2大隊が転属し、第2大隊には第544保安大隊が配属されました。

 「第111警察大隊」は1939年9月に第XI軍管区のハノーバーで設立され、12月13日からドイツ占領下のポーランドのキルツェ(Kielce)に移動し警察連隊「ラドム」に配属されました。1940年まで占領任務に従事した後本国に帰還し、経験を積んだ警察官の異動も行われ、その後ハレンドルフ(Hallendolf)のヘルマンゲーリング国家工場(Reichswerke Hermann Göring AG)での工場警備任務に従事しました。1941年10月、警備任務を第123警察大隊と交代し、11月には再び総督府のジェシェフ(Rzeszow)へとしました。総督府に駐屯していた警察部隊は1941年夏からロシアへと移動しており、大隊はジェシェフ(Rzeszow)、タルヌフ(Tarnow)、ノビ・ソンチ(Nowy Sacz)、ヤスウォ(Jaslo)、クロスノ(Krosno)及びデビツァ(Debica)の広い地域を担当しました。1942年5月、バブルイスク地区からジェシェフ(Rzeszow)へと後退してきた第307警察大隊と入れ替わりに東部へと移動し、第403保安師団に配属されました。1942年7月、大隊は第8警察連隊の第2大隊として編入されましたが、引き続き師団に配属されたままで任務を継続しました。


 第403保安師団は1941年8月~1942年6月まで「中央軍集団後方地域」で活動しましたが、1942年7月からB軍集団後方地域に移動しました。1942年11月19日、ドイツB軍集団の伸びきった側面、弱体な同盟軍の戦線を狙ってソ連軍の反撃が開始されました。ドン河の戦線ではルーマニア第3軍とイタリア第4軍の戦線が、スターリングラードの南ではルーマニア第4軍の戦線が突破され、2方面から進撃したソ連軍は11月23日にはカラチで合流しました。このため、スターリングラードの周辺では第6軍と第4戦車軍の一部が包囲され、3個戦車師団、2個自動車化歩兵師団、14個歩兵師団が孤立し、B軍集団だけでなく東部戦線南翼全体が崩壊の危機に見舞われました。この危機に際して戦線の後方地区では、警察部隊をはじめとしてさまざまな部隊をかき集めて急遽編成された警戒部隊が防衛線の穴埋めとして投入されました。

 第403保安師団もこの危機に際して12月からはドン軍集団に、その後は南方軍集団戦区に送られました。1943年1月、管理部隊は第493管理部隊へと改称されるなど小さな変化はありましたが、1943年1月までの冬季の防衛線で壊滅し、1943年5月31日には正式に解隊されました。
 師団残余のうち師団司令部は1943年5月31日にベルゲン演習場(Truppenübungsplatz Bergen)に送られ、第265歩兵師団司令部として転用されました。
 第177保安連隊の残余は1943年4月25日付けで第213保安師団に配属されました。第354(増強)歩兵連隊は1942年10月15日付けで第354擲弾兵連隊へと改称されており、1943年5月4日付けで第62歩兵師団に配属されました。また第403東部騎馬大隊は「第5義勇コサック基幹連隊」に第3大隊として編入されました。


2020.3.24 新規作成

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