泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史/中央軍集団の後ろの方<中編・中央軍集団の保安師団>
第221保安師団
Sicherungs Divisionen 221
第221保安師団の前身は1939年8月26日に第3編成波の歩兵師団として編成された第221歩兵師団であり、1941年3月15日に第221保安師団に改編・改称されました。第221歩兵師団からは師団の1/3にあたる第350歩兵連隊と第221砲兵連隊第1大隊の他、師団管理部隊が引き継がれました。
第221保安師団(1941年6月22日現在)
師団司令部
第350(増強)歩兵連隊
第1大隊
第2大隊
第3大隊
第15(工兵)中隊:第221工兵大隊第2中隊より
第221砲兵連隊第1大隊
第45国土防衛連隊本部
第230国土防衛大隊
第302国土防衛大隊
第636国土防衛大隊
第352国土防衛大隊
第309警察大隊
第701警戒大隊
第350師団補給本部
第221衛生中隊
第221(自動車化)救急車中隊第1小隊
第221野戦製パン中隊
第221(自動車化)と殺中隊
第221師団管理隊
第221(自動車化)野戦郵便局
「第350(増強)歩兵連隊」の前身は1939年8月26日に第VIII軍管区で設立された第350歩兵連隊であり、第3編成波の第221歩兵師団に配属されてポーランドでの占領任務に従事しました。フランス戦の間はフライブルク地区に移動しており、1940年6月15日にはマジノ線への攻撃にも参加しました。1940年8月にはフランスの降伏に伴い一旦は動員解除されましたが、1941年3月に再招集の際には3個歩兵大隊を中心に第221砲兵連隊第1大隊が配属されて「第350(増強)歩兵連隊」として再編成されました。
「第45国土防衛連隊本部」は1940年9月17日に第IV軍管区で特別編成連隊本部として設立され、当初はフランスでの占領任務に従事しました。連隊は1941年6月の時点で4個大隊の国土防衛大隊が配属されましたが、10月15日になると「第636国土防衛大隊」が抜けて3個大隊編成となりました。1942年6月1日、連隊は「第45保安連隊」と改称され、この時点で第1大隊は「第302保安大隊」、第2大隊は「第352保安大隊」、第3大隊は「第230保安大隊」が配属されていました。
「第309警察大隊」は1940年9月にケルン(Cologne)で設立され、9月末にポーランドに移動して警察連隊「ラドム」(Polizei Regiment
"Radom")に配属され、大隊はラドムに駐屯したため警察大隊「ラドム」とも呼ばれました。1941年1月、大隊はラドム近郊のプロンキ(Pionki)にありましたが、5月にはワルシャワ北方約100kmのオストロウェンカ(Ostrolenka)で第221保安師団に配属されました。
バルバロッサ作戦開始後の1941年6月27日、大隊はビャウィストク(Bialystok)に進出しユダヤ人の銃殺、収容所への移送、周辺の警備任務に従事しました。旧ベラルーシ国境を越えた大隊は翌日にスロニム(Slonim)に到着し、7月24日にスウツク(Slutsk)、その後ベラルーシ東部のバブルイスク(Bobruisk)に進出し、8月12日から30日まではスモレンスク(Smolensk)の包囲陣から脱出したパルチザンとの戦闘が続きました。8月30日、大隊はバブルイスクの第221保安師団に呼び戻され、師団の移動に伴いジロビン(Shlobin)を経由してベラルーシ南部のホメリ(Gomel)へと移動しました。
師団は1941年6月の時点で中央軍集団の第4軍に配属されており、7月3日~13日の間は一時的に「第307警察大隊」も配属されました。9月1日からは第580軍後方地域司令部(第2軍後方地域)に配属となり、ベラルーシ南部へと移動しました。
第221保安師団(1942年始め)
師団司令部
第350(増強)歩兵連隊
第1大隊
第2大隊
第3大隊
第15(工兵)中隊
第221砲兵大隊第1大隊
第45国土防衛連隊本部
第230国土防衛大隊
第302国土防衛大隊
第352国土防衛大隊
第91警察大隊(第8警察連隊第1大隊)
第701警戒大隊
第221警察騎馬中隊(2個小隊)
第824通信大隊
第221補給部隊(第350師団補給本部)
保安師団の管轄下には通常の戦闘部隊以外に占領地の軍政を行うための「地域軍政司令部」や「地区軍政司令部」のほか、必要により「捕虜移送キャンプ」や「臨時野戦警察」などの管理組織が配属されました。
・占領地軍政司令部
「地域軍政司令部 FK(V)」(Feldkommandantur)は広範囲の行政地域を管轄するため、旅団又は連隊本部規模の司令部(司令部要員61名+軍属7名)が置かれて担当地域内の「地方軍政司令部」または「地区軍政司令部」及び管轄地域内に駐屯する占領軍の管理・監督を行い、司令部要員はドイツ占領軍及び占領地区内における司法権も行使しました。
「地区軍政司令部OK」(Ortskommandantur)の場合は担当地区の規模により大中規模の町では大隊本部規模の「地区軍政司令部 I」「OKI(V)」(司令部要員32名+軍属4名)が、小規模の町村では中隊本部規模の「地区軍政司令部 II」「OKII(V)」(司令部要員19名+軍属2名)が置かれました。
地域軍政司令部(Feldkommandantur)
・第528地域軍政司令部
・第551地域軍政司令部
・第581地域軍政司令部
地区軍政司令部(Ortskommandantur)
大隊本部規模 OKI(V)
・第653地区軍政司令部
・第685地区軍政司令部
・第824地区軍政司令部
・第826地区軍政司令部
・第827地区軍政司令部
・第828地区軍政司令部
中隊本部規模 OKII(V)
・第333地区軍政司令部
・第340地区軍政司令部
・第353地区軍政司令部
・第363地区軍政司令部
・捕虜移送キャンプ(Dulag.)
1940年7月以降、戦線の拡大に合わせて「前線捕虜収容所」(Frontstammlager)が開設され、前線の後背地で捕虜の仕分け、分類、尋問が行われてその後本国の捕虜収容所へと送られていました。その後前線とドイツ本国の捕虜収容所の距離が離れるにつれて「前線捕虜収容所」は1941年3月から順次保安師団の管轄下に置かれた「捕虜移送キャンプ」(Durchgangslager)へと改編されました。
・第130捕虜移送キャンプ
・第131捕虜移送キャンプ
・第185捕虜移送キャンプ
・臨時野戦警察分遣隊(gruppe Geheime Feldpolizei)
「Geheime Feldpolizei」は「秘密野戦警察」と翻訳される場合が多いのですが、あえて「臨時野戦警察」としています。臨時野戦警察は前線のすぐ後方の地域において占領地の速やかな治安回復を任務としており、現地の警察組織が再建されれば任務は通常の警察部隊に引き継がれます。
・第707臨時野戦警察分遣隊
・第718臨時野戦警察分遣隊
・第729臨時野戦警察分遣隊
1942年1月時点で師団は中央軍集団の第2軍に配属されており、3月には第2軍の南方軍集団への移転と共に師団も管轄地域はそのままに一時的に南方軍集団の所属となりましたが、4月以降は師団の管轄地域は中央軍集団後方地域に復帰となりました。
1942年4月、それまで各保安師団の指揮下に配属されていた「軍政司令部」、「捕虜移送キャンプ」、「臨時野戦警察」の後方地域の管理組織が「中央軍集団治安部隊及び占領軍司令部」の指揮下に移管されました。
1942年5月末、「第309警察大隊」はドイツ本国のケルンへと帰還し、6月18日からは交代部隊として「第91警察大隊」が配属されました。師団は1942年7月に一時的に第2戦車軍戦区に配属されましたが、8月以降は中央軍集団後方地域に復帰しました。
「第91警察大隊」は1939年9月末に「第IV/6警察大隊」から編成され、警察連隊「ワルシャワ」に配属されてポーランドに派遣されました。1940年春にノルウェーに移動し、ナルビクに駐屯してスウェーデンとの国境警備任務に従事しましたが、1940年10月下旬、第312警察大隊と交代して本国に帰還しました。
1941年10月、大隊は東部へ移動しビャウィストク(Białystok)で第13警察大隊を増強して中隊~小隊ごとに分散配置されました。大隊は治安警察指揮官「ビャウィストク」(K.d.o.Białystok)及び治安警察司令官「ケーニヒスベルク」(B.d.o. Königsberg)の管轄下にあり、1942年春からはSS及び警察指導者「ビャウィストク」(SSPF Białystok)のパルチザン掃討作戦司令部(Bandenbekampfungsstab)の下で運用されました。
1941年11月~42年5月上旬までの間、大隊はグロドノ(Grodno)でユダヤ人ゲットーの監視任務に従事し、中でも第1中隊はユダヤ人虐殺や捕虜・囚人の銃殺任務にも従事しており、さらにいくつかの小隊は第13警察大隊と協力して「猟兵小隊」として警備任務とパルチザン掃討作戦に従事しました。大隊は1942年5月上旬からは第203保安旅団に配属され、ベラルーシのバブルイスク(Bobruisk)に駐屯してパルチザン掃討作戦に従事し、その後ブリャンスク(Bryansk)に移動して第580軍後方地域司令部戦区で第309警察大隊の後任として6月12日から第221保安師団に配属されました。
大隊は第2戦車軍への後方補給路確保のための後方連絡路の警備、鉄道警備任務に従事し、1942年7月移行は「第8警察連隊」に第1大隊として編入されました。
1942年6月22日から第27保安連隊が、8月からは第44保安連隊の2個連隊が師団に配属されており、8月の時点で両連隊には次のような大隊が配属されていました。
・第27保安連隊
第325保安大隊
第706保安大隊
第862保安大隊
・第44保安連隊
第573保安大隊
第701保安大隊
第638(フランス)歩兵連隊の第3大隊
第638(フランス)歩兵連隊は1941年7月8日に反共フランス義勇軍団(Légion des volontaires français contre
le Bolchévisme=LVF)から2個大隊により設立され、訓練も装備も不十分のまま1941年11月~12月のモスクワ近郊の戦闘に投入されて大損害を被りました。1942年の夏に連隊本部と第2大隊が解隊され、第1大隊と新編成の第3大隊は独立大隊として別々の保安師団に配属されました。
第44保安連隊には1942年5月から第3大隊が配属されてパルチザン掃討作戦に投入されましたが、兵士の士気も練度も低く戦闘ではほとんど戦力となりませんでした。第1大隊は1942年7月から第286保安師団の第2(自動車化)保安連隊に配属されましたが、こちらも同様でほとんど戦力となりませんでした。
1942年10月15日の時点で師団には「第350(増強)歩兵連隊」と「第45保安連隊」が以前のまま配属されたとする記述もあり、この時期の編成実態ははっきりしません。「第350(増強)歩兵連隊」は1942年~43年の冬季戦では第2戦車軍戦区に派遣されており、師団の所属であってもこの時期にはすでに分遣されていて実際には師団から離れていたのかもしれません。
「第27保安連隊」は1943年1月に解隊し、兵員は「第712要塞歩兵師団」に編入されました。「第44保安連隊」も師団を離れているようで、この2個連隊の代わりに第286保安師団に配属されていた「第36保安連隊」と「第183保安連隊」が編入されました。
また1942年~43年の冬には「第221警察騎馬中隊」、「第1、第2東部警察騎馬中隊」も配属されましたが、のちに東部大隊へと拡大されたらしいこと以外、部隊の詳細はわかっていません。1943年2月の時点で、師団には次のような部隊が配属されていました。
・第930擲弾兵連隊
・第36保安連隊
・第183保安連隊
・第604東部大隊
「第930擲弾兵連隊」の前身は1941年12月24日にデンマークで編成された「第441歩兵連隊」であり、連隊は「ワルキューレ部隊」として予備役の応召兵から編成され、第443歩兵連隊と共に第416歩兵師団に配属されてユトランド半島に駐屯していました。1942年3月1日に「第930国土防衛連隊」、6月13日に「第930歩兵連隊」、10月15日には「第930擲弾兵連隊」へと改称されました。
1943年1月から「第416歩兵師団」とともに中央軍集団戦区に移動し、この時期から第221保安師団に配属されたものと思われます。1943年夏には「第930保安連隊」へと改称され、9月の時点で連隊には3個東部中隊も配属されていたようです。
「第36保安連隊」は1942年3月25日に「第36特別編成国土防衛連隊本部」として編成され、6月1日から「第36保安連隊本部」へと改称され中央軍集団戦区に配属され、6月10日からは第1大隊として第642保安大隊、第2大隊として第555保安大隊、第3大隊として第794保安大隊が配属されました。
連隊は8月から第286保安師団に配属され、その後1943年2月から第221保安師団に転属となりました。1944年6月、連隊はミンスク(Minsk)からビリニュス(Wilna)にかけての地域で壊滅し、連隊残余は第61歩兵師団の「第151擲弾兵連隊」に編入されました。
1944年7月、連隊は再建されましたが当初は第1大隊のみで、その後第3大隊が編成され2個大隊体制となりました。1944年8月、連隊は再び第286保安連隊に配属され、第813地域軍政司令部の指揮下となりました。1944年12月20日、連隊の大隊は第541国民擲弾兵師団の第1074擲弾兵連隊に吸収されました。
第221保安師団(1943年9月)
師団司令部
第350(増強)歩兵連隊
第221砲兵連隊第1大隊
第601歩兵連隊
第8警察連隊第1大隊(第91警察大隊)
第221東部大隊第1中隊
第221東部騎馬中隊第1小隊
第350補給本部
第350師団管理隊
第350製パン中隊
第350と殺中隊
第350衛生中隊
第350救急車中隊
第350(自動車化)野戦郵便局
1943年10月、第221保安師団は中央軍集団の第2軍に配属されていましたが、11月以降は後方に下がり、ミンスクの陸軍占領地司令部「ベラルーシ」(Wermachtbefehlshaber Weiβruthenien)に、1944年1月にはビルニュスの陸軍占領地司令部「オストラント」(Wermachtbefehlshaber Ostland)に配属されていました。1944年2月の時点で師団は再びベラルーシにあり、次のような部隊が配属されていました。
第75保安連隊
第939リトアニア大隊
第598リトアニア大隊
第5リトアニア大隊
第34保安連隊
第546要塞大隊
第468要塞大隊
第659要塞大隊
第446保安大隊
第791保安大隊
Kormoran作戦
1944年5月22日~6月20日、中央軍集団の第4軍及び第3戦車軍戦区であるミンスク(Minsk)~ボリソフ(Borisov)街道沿いの地域でのパルチザン掃討作戦で、作戦地域には約16,000名のパルチザンが集結していると推定されており、白ロシア国防軍占領司令部(Wehrmachtsbefehlshaber Weißruthenien)及び高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(Höhere SS und Polizeiführer Russland-Mitte)の合同作戦として実施されました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第24SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊第3大隊
第221保安師団
第391野戦訓練師団
第221保安師団は1944年6月の時点で中央軍集団の予備部隊となっていましたが、6月22日に開始されたソ連軍の「バグラチオ作戦」による中央軍集団の戦線崩壊に巻き込まれて7月28日に壊滅し、11月10日に正式に解隊されました。
「第350(増強)歩兵連隊」は1944年初めから再び師団を離れて第3戦車軍戦区に派遣されており、6月の「バグラチオ作戦」の戦いの時点で師団本隊に帰還していたか定かではありませんが、やはりこの戦闘で壊滅し7月28日に解隊されました。連隊の残余は第75保安連隊第3大隊に編入され、第221砲兵連隊第1大隊の残余は第391砲兵中隊の一部となりました。
「第75保安連隊」は第221保安師団壊滅後に第350(増強)歩兵連隊の残余も編入され、9月に第367歩兵師団に編入されました。「第34保安連隊」は2月に第391保安師団に転属となりましたが、第221保安師団と同様に6月にミンスク地区で壊滅し、残余は第45保安連隊第1大隊に編入されました。
2020.3.3 新規作成
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