泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

警察連隊「ミッテ」
Polizei Regiment “Mitte”

 連隊は1941年3月、来るべきロシアでのバルバロッサ作戦において中央軍集団の後方地域で治安維持活動に従事するため編成が開始され、1941年6月24日付で第307、第316、第322警察大隊の3個大隊により編成されました。
 連隊はワルシャワから中央軍集団の進撃に合わせてポーランド東部~ベラルーシ~中央ロシアへと移動しながら中央軍集団の後方地域で活動しましたが、連隊の各大隊は実際には独立運用されていました。


警察連隊「ミッテ」(1941年6月)

連隊本部
第1大隊(第307警察大隊)
第2大隊(第316警察大隊)
第3大隊(第322警察大隊)


 1941年7月の時点で連隊本部には2個対戦車砲小隊、2個警察装甲車小隊、1個通信中隊及び1個TeNo (Technische Nothilfe=緊急技術援助隊)中隊が配属されていました。このうち一方の警察装甲車小隊は1941年7月の時点ではまだワルシャワに駐屯しており、小隊の装備したスタイヤー装甲車×3両には「メーメルラント」(Memelland)、「ダンチヒ」(Danzig)、「ポンメルン」(Ponmmern)の車両名を記入していました。もう一方の小隊はオランダ製装甲車(M36)×2両を装備していました。
 また対戦車砲小隊と警察装甲車小隊についてはその後「第10(重装備)中隊」として再編成され、「TeNo中隊」は1941年/42年の冬の間に3個TeNo中隊からなる「第2TN大隊(警察)」(TN.-Abt.II(Pol.))へと拡大されました。

 第1大隊(第307警察大隊)は7月3日~13日の間はブレスト・リトフスク(Brest-Litowsk)に在り一時的に第221保安師団に配属されていた他、大隊の1個中隊は第184地域軍政司令官にも配属され、その後大隊は「特別行動隊B」の作戦地域へと移動しました。
 大隊はまずバラナヴィーチ(Branavichi)へと移動し、7月18日~26日の間は第2大隊(第316警察大隊)と共にGantsrvichi地区でのユダヤ人一掃作戦に参加し、その後はスルツク(Slutsk)地区へと移動してスルツク~バブルイスク(Bobruisk)間の自動車道路警備任務に従事しており、Plesia地区の北側ではSS騎兵旅団への援護にも投入されました。その後は陸軍の第162歩兵師団及び第252歩兵師団に一時的に配属されました。
 8月19日にはスルツク東方のスタリエ・ダローギ(Starye Dorogi)へと移動し、8月23日~10月22日の間には第2軍後方地域の第580軍後方地域司令部(Korück580)の管轄地域であるバブルイスク(Bobruisk)及びモギリョフ(Mogilev)に移動しており、10月9日からChechevichi村に駐屯しました。11月4日からは第4軍後方地域の第559後方地域司令部(Korück559)の管轄地域であるスモレンスク(Smolensk)へと移動し、パルチザン掃討作戦に投入されました。

 第2大隊(第316警察大隊)は1941年6月時点で一時的に「特別行動隊B」の第8分遣隊に配属されていましたが、その後はポーランド東部に移動し、7月3日にはオストルフ・マゾビエツカ(Ostrów Mazowiecka)で、7月5日~6日にはビャウィストク(Bialystok)に移動して、道路警備、交通統制、工場警備や軍事施設の警備などに従事しました。7月12日~13日にはビャウィストクのユダヤ人撲滅作戦に第3大隊(第322警察大隊)と共に参加し、その後はベラルーシ西部のバラナヴィーチ(Baranovichi)に移動し、市内に大隊本部が置かれ7月中はバラナヴィーチ地区で活動しました。また8月には第252歩兵師団に配属されてプリピャチ沼沢地(Pripjet)でのパルチザン掃討作戦に投入されることもありました。
 大隊は9月初めにベラルーシ東部のバブルイスク(Bobruisk)、モギリョフ(Mogilov)地区へと移動し、5日からはモギリョフの「高級SS及び警察指導者中央ロシア」の司令部警備任務に就くかたわら、第3大隊(第322警察大隊)と共に市内の警備任務にも従事しました。9月19日には再び「特別行動隊B」の第8分遣隊に動員され、分遣隊と共にモギリョフ周辺でのユダヤ人ゲットー壊滅作戦に参加しました。
 11月中旬から大隊はオルシャ(Orsha)-スモレンスク(Smolensk)間の街道警備につきましたが、月末には消耗した第317警察大隊と交代して第2戦車軍後方のスモレンスク-ヴャジマ(Vjazma)間で後方連絡路の警備任務に従事しました。

 第3大隊(第322警察大隊)は1941年7月2日~3日にポーランド東部のオストルフ・マゾビエツカ(Ostrów Mazowiecka)へと移動し、7月5日~6日の間にはさらにビャウィストク(Bialystok)へと移動して市内警備、交通統制、家宅捜索などの任務に従事しており、第2中隊と第3中隊が交代で警備任務に従事していたほか、ユダヤ人ゲットーでは中隊規模の部隊による限定的な作戦も実施されました。
 7月12日~13日には第2大隊(第316警察大隊)と共にビャウィストクでのユダヤ人撲滅作戦に参加しており、大隊は郊外のピエトラシェの森(Pietraze)での活動(遺体処理?)を担当したようです。その後7月17日~23日の間はビャウィストク、Narewka Mala、Bereza-Kartuska地区で警戒及び主要街道の警備に従事した後、7月23日にはビヤオォビエジャ(Bialowieza)へと移動しました。
 ビヤオォビエジャ地区には広大な森林地帯がありましたが、ゲーリングはこの森林地帯を個人的な狩猟場とするため禁猟区に指定して住民を強制的に移住させることとし、7月25日~31日の間に数千人の住民が他の地域に強制移住させられ、大隊はこの立退き作業に動員されました。8月2日には大隊の第1、第2中隊はバラナヴィーチ(Branavichi)へと移動しました。第3中隊は8月15日までビヤオォビエジャに残り地元のユダヤ人コミュニティーを一掃し、その後は第323警察大隊に引き継いで移動しましたが、一時的に第252歩兵師団に配属されたため、バラナヴィーチに到着したのは8月22日のことでした。
 8月14日~16日の間、ミンスク(Minsk)ではハインリッヒ・ヒムラーによる現地視察が行われており、大隊の第1中隊はミンスクに移動して市内視察の際の警護任務に従事しました。一方、第2大隊はこの時期は南部のポリーシャ(Polesia)地方に移動しており、ピンスク(Pinsk)、アントポリ(Antopol)及びベリョザ(Bereza-Kartuska)で活動しました。8月31日には大隊はミンスクに集結しましたが、これはミンスクのユダヤ人ゲットー排除が目的であり、9月10日までの間に約9,000名のユダヤ人が処刑されました。

 1941年9月7日、第1大隊(第307警察大隊)を除く連隊主力はミンスクからモギリョフ(Mogilev)に移動する高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(HSSPF Ruβland-Mitte)司令部に随伴して移動し、連隊は「中央軍集団占領軍司令部」に配属されました。第3大隊(第322警察大隊)はモギリョフ西方のBelynichi村に駐屯しており、10月2日にモギリョフのゲットーではユダヤ人の一斉検挙が行われ、翌日には555人が銃殺され、378人が電柱に吊るされました。その後市内の警備については第2大隊(第316警察大隊)が担当し、第3大隊は周辺地域での警備を担当してモギリョフ南方のStaryy Bychov地区ではパルチザン掃討作戦に従事しました。また大隊の第1、第2中隊はKrasnopolyでの虐殺事件にも関与したようです。

 1941年10月16日~17日、第3大隊(第322警察大隊)はモギリョフの南東25~35kmのドニエプル川東岸地区に移動してパルチザン掃討作戦に従事しました。10月末になるとスモレンスクに移動し、道路、鉄道、工場、橋、ドニエプル川の水力発電所などの警備に従事しており、特に橋と鉄道の信号所には警備拠点が置かれ、第3中隊が150名の兵力が配置されました。しかし、警察部隊でも冬用衣類、装備、食料の深刻な不足と、森林地帯に阻まれて車両が使用できないことが大隊を苦しめていました。
 10月31日現在の大隊兵力は合計496名で定数をほぼ満たしていたと思われます。


大隊本部:将校4名、下士官16名
  自動車班:将校1名、下士官6名、兵(運転手?)55名
  通信小隊:下士官4名、兵14名
第1中隊:将校3名、下士官25名、兵110名
第2中隊:将校2名、下士官24名、兵114名
第3中隊:将校4名、下士官23名、兵109名


11月15日現在、第3中隊は装備車両10両の内、稼働車両は3両のみであり、さらに第3大隊(第322警察大隊)は5カ月間以上にわたって休みなく活動しており、休養が必要な状態となっていました。

 1941年12月16日、スモレンスク(Smolensk)地区に在った連隊は、折からの冬季攻勢で前線を突破してきたソ連軍に対し防衛戦に投入されました。この時期、第3大隊(第322警察大隊)は後方のモギリョフ地区に駐屯しており、代わりに第403保安師団に配属されていた「第131警察大隊」が増援部隊としてスモレンスクの連隊に配属されました。12月21日~31日の間、第1大隊(第307警察大隊)はカルーガ(Kaluga)の町で旧ユダヤ人街~チニノ村(Tinino)~プチコヴオ(Puchkovo)~Znamenskajaへの街道を結ぶ橋頭堡で市街戦を展開し、カルーガ(Kaluga)~アレクシス(Alexia)~トゥーラ(Tula)街道では第31、第61及び第131歩兵師団の後退を援護し、その後陸軍工兵の援護の下、カルーガから後退しました。
 第131警察大隊も12月21日~30日の間、カルーガ(Kaluga)東方で第98歩兵師団の第290歩兵連隊と共に防衛戦に投入され、戦闘と凍傷で大損害を被りました。第2大隊(第316警察大隊)も前線に投入されましたが、白兵戦のような激しい戦闘に晒されることなく冬季戦を乗り切ったようです。
 一方、第3大隊(第322警察大隊)はモギリョフに在り、第1中隊は12月18日からは高級SS及び警察指導者「中央ロシア」直轄の「警戒中隊」となりましたが、1942年1月4日にはソ連軍の冬季攻勢の戦況を受けてこの任務は中止となり、第3大隊もスモレンスク地区に移動しましたが、鉄道や工場の警備など後方での警備任務に従事しました。

 警察連隊「ミッテ」連隊本部の指揮下には1942年1月1日から第1大隊(第307警察大隊)、第131警察大隊、第308及び第32警察大隊が配属され、警察戦闘団「シーマナ」(Polizei Kampfgruppe “Schimana”)が編成され、第4軍の第98及び第137歩兵師団戦区での防衛戦に投入されました。カルーガ(Kaluga)~ユーフノフ(juchnov)地区での防衛戦投入された各警察大隊は戦闘と厳しい天候により大きな損害を被り、第32警察大隊の大隊長であるVon Braunschweig警察少佐は病気で入院する事態となり、第307警察大隊長のBinz警察少佐が一時的に第32警察大隊の指揮を引き継ぎました。
 1月20日になるとカルーガ戦線の危機は一段落しましたが、今度はベラルーシの後方地域でのパルチザンの活動により治安状況が悪化し、高級SS及び警察指導者「中央ロシア」のフォン・デム・バッハ-ツェレウスキー警察大将は直属のパルチザン掃討作戦の責任者としてクルト・フォン・ゴットベルクSS及び警察少将を任命し、第32警察大隊、第307警察大隊及び第308警察大隊による戦闘団をパルチザン掃討作戦に投入することを決定しました。しかし、第307警察大隊は第308警察大隊とともに損害が激しく、2個大隊の残余を統合する必要があり、そのため「回復大隊」(Genesenden Bataillon)とも呼ばれました。
 実際のところ1942年3月時点で第307警察大隊の兵力は60名にすぎず、それでも大隊は警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Polizei Kampfgruppe “von Gottberg”)に配属されてパルチザン掃討作戦に投入されました。戦闘団は4月2日から5月12日の間、モギリョフからバブルイスクにかけての地域でパルチザン掃討作戦に投入され、作戦終了後に大隊は警察連隊「ミッテ」を離れて総督府へと後退し、6月中旬から8月初めにかけてはユダヤ人排除作戦に従事しました。
 この時期に第307警察大隊は正式に第308警察大隊の残余を吸収して再建され、大隊の本拠地も新しくデュイスブルク(Duisburg)に移転されました。その後警察連隊の増勢に伴い1942年7月9日付けで第23警察連隊に第1大隊として編入されました。

 第2大隊(第316警察大隊)は1942年4月末に前線から後退しましたが、1941年の冬から1942年春の間の冬季戦の状況はわかっていません。5月中旬から月末にかけて、大隊はボットロプ(Bottrop)、ブーアー(Buer)及びゲルゼンキルヘン(Gelsenkirchen)に帰還しましたが、大隊の自動車班(Kraftfahrstaffel)はロシアに残留しました。大隊は短い休養の後、7月中旬にはオーバークライン(Oberkrain)地方へと移動してパルチザン掃討作戦に投入され、その後警察連隊の増勢に伴い第4警察連隊に第1大隊として編入されました。

 第3大隊(第322警察大隊)は戦況が安定すると1942年3月からは警備任務から外され第221保安師団戦区で積極的なパルチザン掃討作戦に動員されました。5月16日までパルチザン掃討作戦に従事し、その後は第6警察大隊と交代してスモレンスクへと後退しました。5月19日現在、大隊は再編成を受け将校20名、下士官・兵442名となりましたが、総督府のカトヴィツェ(Katowice)を経由してスロヴェニアへと移動し、その後警察連隊の増勢に伴い第5警察連隊に第2大隊として編入されました。

 第131警察大隊は第32警察大隊、第307警察大隊及び第308警察大隊と共に警察戦闘団「シーマナ」(Polizei Kampfgruppe “Schimana”)に配属され、第4軍の第98及び第137歩兵師団戦区での防衛戦に投入されました。1942年1月4日から18日にかけて、トロスキノ(Troskino)地区での激しい戦闘により大隊は大損害を被っており、1月下旬には大隊の兵力は定数の約500名から220名にまで減少しました。このため大隊は前線から後退し、しばらく後の4月20にはさらにモギリョフへ移動しました。その後6月にはベーメン・メーレン保護領(チェコ)のブリュン(Brünn/Bruo)へと移動し、6月20日付けで大隊は解隊され大隊の兵員は既存の4個警察連隊(ノルト、ミッテ、ジュート、zbV)に補充要員として分配されました。

 1942年7月から8月にかけて、スモレンスク地区司令官の下に配属されていた警察連隊「ミッテ」の連隊本部は警察連隊の増設に伴い第13警察連隊の連隊本部に改編され、新しい大隊が配属されました。連隊の第1大隊(第307警察大隊)は第23警察連隊の第1大隊として、第2大隊(第316警察大隊)は第4警察連隊の第1大隊として、第3大隊(第322警察大隊)は第5警察連隊の第2大隊としてそれぞれ転属となりました。
 この時期の第10(重装備)中隊は次のような編成となっており、第13警察連隊に戦車中隊「ミッテ」として編入されました。スタイヤー装甲車装備の装甲車小隊については記録がなくはっきりとしませんが、どうやらウィーンに帰還していたようです。


第10(重装備)中隊

装甲車小隊:オランダ製装甲車(M36)×3両
戦車小隊:ポーランド製装軌式装甲車(7TP)×3両
対戦車砲小隊:ロシア製対戦車砲×3門


2002.2.14 新規作成
2008.11.30 改訂版
2019.7.8 追記
2019.9.23 改訂2版
2023.11.24 一部追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/