泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第13SS警察連隊
SS-Polizei Regiment 13

 連隊は1942年7月、警察連隊「ミッテ」の連隊本部に第6警察大隊、第85警察大隊、第301警察大隊をそれぞれ連隊の第1、第2及び第3大隊として編成され、警察連隊「ミッテ」の第10(重装備)中隊も戦車中隊「ミッテ」として編入されました。
 連隊は中央ロシアおよびベラルーシ地域でのパルチザン掃討作戦等に従事しましたが、連隊の各大隊は必要に応じて分割運用されることが多く、1942年12月からは第4警察戦車中隊も連隊に配属されて戦力の強化が図られましたが、作戦行動の詳細はわかっていません。


第13警察連隊
Polizei Regiment 13

連隊本部
第1大隊(第6警察大隊)
第2大隊(第85警察大隊)
第3大隊(第301警察大隊)
戦車中隊「ミッテ」
第4警察戦車中隊(1942年12月より)


Greif作戦
 1942年8月17日~8月29日、ベラルーシのオルシャ(Orsha)~ビテブスク(Vitebsk)地区の街道を確保するためのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊
第14SS警察連隊
特別戦隊「グラウコップ」

Franz作戦
 1943年1月7日~1月14日、ミンスク~バブルイスク中間のCherven地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザン1,143名と容疑者882名を殺害し、住民約10,000名が強制労働に連行され、牛2,000頭が押収されました。この作戦は住民を労働者として大規模に強制連行した初めての作戦となりました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第13警察連隊
第23警察連隊第1大隊
第24警察連隊

収穫祭(Erntefest) I作戦
 1943年1月18日~1月27日、ミンスク(Minsk)~スウツク(Sluzk)鉄道及び道路の東側、Cherven’~アジポヴィーチ(Asipovichy)西方までの地域でのパルチザン掃討作戦。この作戦ではパルチザン805名、容疑者1,165名が殺害、捕虜34名のほか1,308名の住民が強制労働に連行されたほか、馬395頭、牛2,803頭、豚572頭、羊1,560頭、穀物459トンが押収されました。ドイツ側の損害は戦死6名、負傷17名に留まりました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第2警察連隊(戦闘団Griep)
第13警察連隊(戦闘団Worm)
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊)
第12(リトアニア)シューマ大隊
第57(ウクライナ)シューマ大隊
保安警察及びSD部隊×3個

収穫祭(Erntefest) II作戦
 1943年1月28日~2月9日、収穫祭(Erntefest) I作戦に続きミンスク(Minsk)~スウツク(Sluzk)鉄道及び道路の西側でのパルチザン掃討作戦。この作戦では収穫祭(Erntefest) I作戦とほぼ同様の部隊が参加し、パルチザン2,325名を殺害し、住民272名を強制労働に連行しました。
作戦参加兵力:
第2警察連隊(戦闘団「Griep」)
第13警察連隊(戦闘団「Worm」)
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊)
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
Rodjanoff大隊(ドルジーナSS部隊)

Hornung作戦
 1943年2月16日~2月26日、プリピャチ沼沢地のMorocz~Milewicze地区でのパルチザン掃討作戦。この地区では約4,000名のパルチザン部隊が活動していると考えられており、ブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保するため大規模な戦力が招集され、第13SS警察連隊は戦闘団「ヴェスト」(Kampfgruppe "West")に配属されました。【補足-1】


戦闘団「ヴェスト」
Kampfgruppe“West”

第13警察連隊 第1大隊及び第2大隊
第18シューマ大隊
第56シューマ砲兵大隊第1中隊
警察工兵部隊


 1943年2月24日からは各警察連隊の名称に「SS」が追加されて一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第13警察連隊も「第13SS警察連隊」と改称されました。
 1943年3月の時点で第1大隊と第2大隊はSS及び警察指導者「白ロシア」であるヴァルター・シーマナSS少将兼警察少将の指揮下に配属されてポーランド北東部のノヴォグラドク(Nowogrodek)に駐屯しており、一方第3大隊はモギレフ警察司令官であるオスカー・クンツSS大佐の指揮下に配属されてモギレフに駐屯していました。


第13SS警察連隊の駐屯地(1943年3月25日現在)

連隊本部:ストボダ(Sloboda)
第1大隊:プリッサ(Plissa)
第2大隊:スモレヴィチ(Smolevichi)
第3大隊:モギレフ


 このころベラルーシではヴァルター・シーマナSS少将兼警察少将の指揮下にSS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe“Schmana”)が編成されてパルチザン掃討作戦を展開しており、連隊の第1大隊と第2大隊もSS戦闘団「シーマナ」に編入されてパルチザン掃討作戦に従事していました。
 1943年3月26日から4月15日にかけて、SS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe "Schmana")によりボリソフ~ミンスク地区でのパルチザン掃討作戦が実施された際には連隊の第1大隊及び第2大隊のほか、モギレフ地区に駐屯していた第3大隊も増援部隊として派遣されました。


SS戦闘団「シーマナ」(1943年3月31日現在)
SS Kampfgruppe“Schmana”

第2SS警察連隊
第13SS警察連隊の第1大隊及び第2大隊
第23SS警察連隊第1大隊
第4警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊
第57(ウクライナ)シューマ大隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」

【モギレフ警察司令官オスカー・クンツSS大佐指揮下の増援部隊】
第13SS警察連隊第3大隊
第24SS警察連隊の第1大隊及び第2大隊
第9警察戦車中隊


 1943年4月初めから下旬にかけてミンスク周辺地区では下記のような一連のパルチザン掃討作戦が展開されており、SS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe “Schmana”)に配属された第13SS警察連隊はこれらの作戦に投入されました。

南国の春(Lenz-Süd)作戦
 1943年4月1日~4月4日、ボリソフ(Boeisov)~ストボダ(Sloboda)~スモレヴィチ(Smolevichi)地区でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
SSドルジーナ部隊及びSD部隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第202(ポーランド)シューマ大隊
郷土防衛大隊の1個中隊
第12増強警察戦車中隊

北国の春(Lenz-Nord)作戦
 1943年4月8日~4月13日、「南国の春(Lenz-Süd)作戦」に引き続きボリソフ(Boeisov)~スモレヴィチ(Smolevichi)~ラゴイスク(Lahoysk)~Sembin地区でのパルチザン掃討作戦。作戦地域には約2,000名のパルチザン部隊がいると報告されていました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)

魔笛(Zauberflöte)作戦
 1943年4月17日~4月22日、ミンスク市内及び周辺地区での共産主義者とパルチザン掃討作戦。4月17日午前4時から4月18日までミンスク市(人口180,000名)は完全に封鎖され市街の外縁部には検問所が設置されました。市内はI~VIの6区画に分割され、各区画ごとにしらみつぶしの捜索が行われ、76,000名が捜索を受けこのうち約52,000名が強制労働の選別のため集合場所に連行されました。
 この作戦により住民550名が強制労働のためドイツ本国に連行され、700名はミンスクの労働収容所に送られ、39名が逮捕、2名が殺害されました。また鉄道での捜索中に22,000名の無賃乗車が判明し、以後駅での定期的な捜索が実施されることとなりました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
第12警察戦車中隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
SSドルジーナ部隊
ミンスク守備隊
  保安警察及びSD指揮官「白ロシア」の一部(ミンスク駐屯)
  TeNo部隊
  特別編成増強中隊(士官5名、下士官12名、兵108名)
第141予備歩兵師団の一部
第390野戦訓練師団の一部

狼男(Werewolf) I-II作戦
  1943年6月27日~7月11日、総督府のルブリン南東約75kmのザモシチ(Zamość)~ビウゴライ(Biłgoraj)地区(現ポーランド東部)でのパルチザン掃討作戦。この作戦ではKolpak将軍のパルチザン旅団掃討を目的としました。
作戦参加兵力:
第4SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第26SS警察連隊の一部
第32警察狙撃兵連隊第1大隊(第252警察大隊)

Karpaten作戦
 1943年7月30日~8月25日、総督府南部でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊の一部
第4SS警察連隊の一部
第154予備師団の一部
第174予備師団の一部
第1(自動車化)国家地方警察大隊

ヴァイクセル(Weichsel) III作戦
 1943年8月1日~8月10日、ウクライナ西部のブーク川東方地域でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第4SS警察連隊の一部
第12SS警察連隊第2大隊
第13SS警察連隊の一部
第26SS警察連隊の一部
第825(ボルガタタール)歩兵大隊
第102(コッサック)騎兵大隊

Grife作戦
 1943年8月17日~8月29日、ビテブスク(Vitebsk)~オルシャ(Orsha)地区でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊
第14SS警察連隊

ハインリッヒ(Heirich)作戦
 1943年10月25日~11月9日、ベラルーシ北部のドレトゥニ(Dretun)及びポロツク(Polotsk)東北~ラトビア国境地帯の森林と湿地帯でのパルチザン掃討作戦。この作戦にはクルト・フォン・ゴットベルクSS中将兼警察中将の戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe “von Gottberg”) や第3戦車軍の後方部隊が動員されたほか、北方軍集団戦区では戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe “Jeckln”)が作戦に参加しました。
 この作戦ではパルチザン5,452名が殺害され、約8,000名が強制労働に送られ、さらに約8,000名が再定住のために強制移住させられました。
 ハインリッヒ作戦は11月14日まで実施される予定でしたが、10月初めに開始されたソ連軍の冬季攻勢によりネヴェリ(Nevel)地区で防衛線が突破されたため計画より5日早く11月9日までで中止され、戦闘団「フォン・ゴットベルク」と戦闘団「イェッケルン」はそのまま防衛戦に投入されました。
作戦参加兵力:
<中央軍集団>
【SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」】SS Kampfgruppe "von Gottberg"
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第2大隊を除く)
第24SS警察連隊(第3大隊を除く)
第1(増強)警察戦車中隊
第4警察戦車中隊
第9警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊

第23SS警察連隊(第1大隊を除く)

<北方軍集団>
【警察戦闘団「イェッケルン」】Polizei Kampfgruppe "Jeckeln"
第113保安連隊
  第1大隊(第835保安大隊)
  第2大隊(第941保安大隊)
  第3大隊(第972保安大隊)
  第9SS警察連隊第3大隊(第132警察大隊)
第773保安連隊
  第591保安大隊
  第597郷土防衛大隊
  第663保安大隊
  第319ラトビア警察大隊
第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」
  第1大隊(第276シューマ大隊)
  第2大隊(第277シューマ大隊)
  第3大隊(第278シューマ大隊)
  第4大隊(第312シューマ大隊)

 1944年1月10日、ソ連軍の冬季攻勢に対応してポラツク(Polozk)~ヤズノ(Jasno)湖南部地域の前線には北方軍集団の第16軍/第1軍団が移動し、警察部隊を含む地域内の全部隊が指揮下に編入されました。
 中央軍集団戦区の接続部ではクルト・フォン・ゴットベルクSS中将兼警察中将を指揮官とする警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Polizei-Kampfgruppe “von Gottberk”)が同様に防衛戦闘に投入されており、1944年1月から2月にかけて、第13SS警察連隊は引き続き戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe“von Gottberg”)に編入されて防衛戦に投入されましたが、連隊の第3大隊は大損害を被ったために解隊され残余の兵員は他の大隊に編入されて連隊は2個大隊編成になりました。
 1月10日付けの戦闘団「フォン・ゴットベルク」の戦闘報告によると連隊には戦車中隊「ミッテ」が配属されていましたが、この中隊はおそらく元の警察連隊「ミッテ」の第10(重装備)中隊のことで、中隊には戦車小隊が含まれており、戦車(車種不明)×5両、BA10装甲車×3両、7TP戦車×1両を装備していました。
 1944年2月、二次に渡るビテブスクの戦いが集結すると中央軍集団の北部戦線は一応安定し、ソ連軍の攻勢は中央軍集団南部の第9軍~第2軍戦区に移り、戦闘団「フォン・ゴットベルク」は再び戦線後方でのパルチザン掃討作戦に投入され、2月3日の時点で戦闘団「フォン・ゴットベルク」は次のような編成となっていました。


SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年2月3日現在)
SS Kampfgruppe “von Gottberg”

第2SS警察連隊
第13SS警察連隊
第24SS警察連隊
第4警察戦車中隊
第9(増強)警察戦車中隊
第1高射砲大隊RFSS
SS募兵所「バブルィスク」のSS猟兵大隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
シューマ訓練大隊
第112警察通信中隊


 第13SS警察連隊は1944年4月15日までにベラルーシからオーストリアのクラーゲンフルト(Klagenfurt)へと移動し、第18軍管区で高級SS及び警察指導者「アルペンラント」(HSSPF Alpenland)の指揮下へと転属となり、第4警察戦車中隊は1944年3月に一足早く連隊を離れてザルツブルク(Salzburg)に移動していました。
 1944年7月15日現在の治安警察部隊戦力概要によると、連隊はザルツブルク治安警察司令官(BdO. Salzburg)の下でクラーゲンフルト(Klagenfurt)の東約35kmのBleiburg~ソルキャヴァ(Solčava)地区でパルチザン掃討作戦に参加しており、3月にベラルーシから帰還した第4警察戦車中隊もザルツブルクで再び連隊に配属されました。
 10月20日現在の治安警察部隊戦力概要によると第4警察戦車中隊は第13SS警察連隊とともに引き続きザルツブルク警察司令官(BdO. Salzburg)及び高級SS及び警察指導者「アルペンラント」(HSSPF Alpenland)の管轄下に在りましたが、第4警察戦車中隊の1944年10月以降の記録はなく、以後の状況は明らかになっていません。

 1944年10月20日~12月25日の間、第13SS警察連隊はスロベニアのカムニク(Kamnik)~Kamniska Bistrica鉄道沿線でのパルチザン掃討作戦に次のような部隊とともに参加しました。
作戦参加兵力:
教導連隊「ブランデンブルク」
1個コサック部隊
第13SS警察連隊
第25SS警察連隊
第28SS警察連隊「トート」
第18郷土防衛連隊

 第13SS警察連隊は12月中旬以降には第28SS警察連隊及びブランデンブルグ連隊とともにGornja Savinja地区でのパルチザン掃討作戦に参加しました。
 1945年3月の時点で第13SS警察連隊にはさまざまな支援部隊が配属されて次のような編成になっていました。


第13SS警察連隊(1945年3月)

第1大隊
第2大隊
第3大隊
第42SS警察通信中隊
第42SS警察戦車猟兵中隊
第42SS警察ロケット砲中隊
SS警察砲兵中隊(部隊番号不明)
第42SS警察装甲車小隊


 1945年3月19日から4月7日にかけて、第15SS警察連隊はスロベニア西部の山岳地帯で実施されたドイツ軍最後のそして最大規模のパルチザン掃討作戦に参加しました。この作戦は「春の訪れ(Frühlingsanfang)作戦」(1945年3月19日~3月29日)と「冬の終わり(Winterende)作戦」(1945年3月19日~4月7日)の二段階に分かれており、アドリア海沿岸作戦地域(OZAK=Operationszone Adriatisches Küstenland)内のすべての警察部隊をはじめ、SS第24武装山岳師団、SS下士官学校「リュブリャーナ」、SSセルビア義勇兵団、コサック軍団の一部が動員されました。

春の訪れ(Frühlingsfang)作戦
 1945年3月19日~3月29日、スロベニアで実施されたドイツ軍のパルチザン掃討作戦で第二段階の「冬の終わり(Winterende)作戦」と合わせて最大規模の攻撃作戦となりました。
 この作戦に投入された約15,000名の兵力は大きく2つのグループに分かれており、まず「西部突撃部隊」には第10SS警察連隊の3個大隊、第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊、第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊、SS警察中隊「シュミット」、第1セルビア義勇連隊の第2大隊、第4セルビア義勇連隊の第2大隊、そして支援兵力として第94軍団の砲兵1個中隊が参加しており、イドリヤ(Idrija)~Reka~Grahovo(現Grahovo ob Bači)~Podbrdoの街に布陣していました。
 もう一方の「北部突撃部隊」は、第28SS警察連隊「トート」の3個大隊、第13SS警察大隊の3個大隊及び第17SS警察連隊の3個大隊の3個SS警察連隊からなり、兵力約4,500名でPodbrdo~シュコーフィア・ロカ(Škofja Loka)までの約30㎞の地域に布陣しました。
作戦参加兵力:
「西部突撃部隊」
第10SS警察連隊
第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊
第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊
SS警察中隊「シュミット」
第1セルビア義勇連隊の第2大隊
第4セルビア義勇連隊の第2大隊
第94軍団の砲兵1個中隊

「北部突撃部隊」
第13SS警察連隊
第17SS警察連隊
第28SS警察連隊「トート」

 さらに、SS第14武装擲弾兵師団「ウクライナ第一」も作戦地域の北東に布陣して攻撃作戦に参加しました。しかし、作戦地域は山岳地帯のため、霧や積雪に阻まれて作戦は進展せず、パルチザン部隊は包囲の隙間から脱出してしまいこの作戦は竜頭蛇尾の結果に終わってしまいました。

冬の終わり(Winterende)作戦
 1945年3月19日~4月7日、スロベニア沿岸地域中央部で実施されたパルチザン掃討作戦で、「春の訪れ(Frühlingsfang)作戦」と同時に開始され、作戦の初期段階ではリュブリアナ西方約50kmのトルノフスカ高原・森林地帯(Trnovski Gozd)の広い範囲でパルチザン第9軍団をけん制することに限定されましたが、4月4日には第2セルビア義勇連隊と第3セルビア義勇連隊、さらに兵力約1,500名のチェトニク「リカ軍団」も増援部隊として到着し、最終的には約23,000名の兵力が投入されました。
作戦参加兵力:詳細不明で下記は4月4日からの増援部隊
第2セルビア義勇連隊
第3セルビア義勇連隊
チェトニク「リカ軍団」

 この一連の戦闘でパルチザン部隊は2万名の兵力のうち1,500名~2,000名の損害を受け、中でもパルチザン第9軍団の戦闘可能な兵力は約1,500名にまで減少しました。さらに軍需物資を大量に失ったため、しばらくの間は戦闘不能の状態となりこれによりドイツ軍部隊は民間人とともにトリエステからオソッポやジェモーナを経てオーストリアへと撤退する貴重な時間を稼ぐことができました。

 1945年4月初め、連隊はスロベニアのブレッド(Bled)地区で鉄道線路の警備任務に従事し、4月9日からオーストリアのフォラウ(Vorau)~メーニヒヴァルト(Mönichwald)地区で南方軍集団の第6軍/第3戦車軍団に配属されました。連隊は第3戦車軍団戦区の戦線左翼であるラフニッツ(Lafnitz)北西地区の防衛線に国民突撃隊や山岳工兵の封鎖部隊「Motschmann」とともに投入されました。
 4月10日から激しい戦闘が始まり数日間に渡り防衛戦が展開され、『4月15日から16日にかけての夜、強力なロシア軍による攻撃を撃退した』という記録が残されていましたが、連隊のような警戒及び補充部隊では強力なソ連軍の前進を阻止できないことは明らかでした。
 4月末に連隊の第1大隊の一部はオーストリア南部のアイゼンカッペル(Eisenkappel)地区でパルチザン掃討作戦に投入されたようですが詳細は不明です。連隊残余はフィラハ(Villach)で西側連合軍に降伏しました。


【補足-1】
Hornung作戦

 1943年2月8日~2月26日、プリピャチ沼沢地のMorocz~Milewicze地区でのパルチザン掃討作戦。この地区では約4,000名の強力なパルチザン部隊が活動していると考えられており、機関銃、対戦車砲、戦車や装甲車まで装備していました。
 ドイツ軍としてはこの作戦によりブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保することを目的としており、次のような大規模な兵力が招集されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「オスト」】Kampfgruppe "Ost"
第2SS警察連隊
第1SS歩兵旅団/「ボリソフ(Borissow)」大隊
第18SS警察山岳猟兵連隊/警察山岳砲兵大隊
SSドルージナ部隊/「ロジオノフ(Radjanoff)」歩兵大隊

【戦闘団「ノルト」】Kampfgruppe "Nort"
第23警察連隊/第1大隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第57シューマ大隊
第112警察通信中隊
第12警察戦車中隊

【戦闘団「ヴェスト」】Kampfgruppe "West"
第13警察連隊/第1大隊、第2大隊
第18シューマ大隊
第56シューマ砲兵大隊/第1中隊
警察工兵部隊

【戦闘団「ジュート」】Kampfgruppe "Süd"
第10警察連隊/第2大隊、第3大隊
第11警察連隊/第1大隊
第103シューマ大隊
重装備中隊「Kohlstedt」

【戦闘団「ジュートオスト」】Kampfgruppe "Südost"
第101スロヴァキア歩兵連隊
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