泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第15SS警察連隊
SS Polizei Regiment 15

 連隊は1942年7月、既存の第305警察大隊、第306警察大隊、第310警察大隊を連隊の第1、第2及び第3大隊として編入して第15警察連隊として編成され、第51警察通信中隊も配属されました。連隊の中心兵力となった300番隊の警察大隊は、いずれも新規に召集された若い警察官から編成された本格的な戦闘部隊であり、連隊には第3警察戦車中隊も配属されて戦力の強化が図られたほか、1943年1月29日には3個砲兵中隊も編入されました。


第15警察連隊
Polizei Regiment 15

第1大隊(第305警察大隊:1942年10月より第16警察連隊の第1大隊へ転属)
第2大隊(第306警察大隊)
第3大隊(第310警察大隊)
第51警察通信中隊
第3警察戦車中隊


 編成の完了した連隊は高級SS及び警察指導者「南部ロシア」の管轄下に配属され、1942年12月始めまでピンスク(Pinsk)の西方地域でプリピャチ沼沢地を拠点とするパルチザンへの掃討作戦などに従事しました。
 パルチザン掃討作戦終了後、ピンスクに帰還した第15警察連隊と第3警察戦車中隊はすぐに鉄道輸送のため貨車積みされ、列車はゴメリ(Gomel)~Bakmach~コノトプ(Konotop)~ハリコフ(Khrakov)~クビャンスク(Kupyansk)を経由してヴァルイキ(Valuiki)に到着しました。
 1週間後には第15警察連隊の本隊も到着し、ヴァルイキからは自動車移動によりアレクセィフカ(Alexeyevka)~タターリノ(Tatarino)を経由してヴォロネジ(Voronesh)に到着し、ここで連隊はハンガリー第2軍戦区に配属され、ヴォロネジ南方のドン河戦線に布陣しました。 

 1942年11月19日、ドイツB軍集団の伸びきった側面、弱体な同盟軍の戦線を狙ってソ連軍の反撃が開始されました。ドン河の戦線ではルーマニア第3軍とイタリア第4軍の戦線が、スターリングラードの南ではルーマニア第4軍の戦線が突破され、2方面から進撃したソ連軍は11月23日にはカラチで合流しました。  このため、スターリングラードの周辺では第6軍と第4戦車軍の一部が包囲され、3個戦車師団、2個自動車化歩兵師団、14個歩兵師団が孤立し、B軍集団だけでなく東部戦線南翼全体が崩壊の危機に見舞われました。  この危機に際して戦線の後方地区では、警察部隊をはじめとしてさまざまな部隊をかき集めて急遽編成された警戒部隊が防衛線の穴埋めとして投入されました。第15警察連隊もこうして前線へ緊急輸送されたのでした。

 1942年12月17日から18日にかけての夜、第24戦車軍団の戦闘団「フェーゲライン」(Kampfgruppe “Fegelein”)に編入されていた第15警察連隊と第3警察戦車中隊に警報が入り、厳寒と積雪のなかでロソシ(Rossosh)をめぐる厳しい防衛戦に巻き込まれることになりました。
 この時にはハンガリー第2軍の右翼に並ぶイタリア第8軍のドン河戦線も突破されつつあり、連隊はロソシ(Rossosh)で退却するイタリア軍部隊に始めて遭遇しましたが、ミカロフスカ(Michalovska)では先発していた警戒部隊を収容した後、さらにドン河の屈曲部に向けて移動を続けました。
 12月18日の夕方、連隊はスマグレィエフスカヤ(Smagleyevskaya)に到着しましたが、ここでは連隊長、大隊長の1人、連隊の車輌部隊指揮官の乗った乗用車2両がソ連軍に捕らえられるという事態が発生しました。連隊の第2大隊はゴラヤ(Golaya)からブガエフカ(Bugayevka)を経由してBoguchar渓谷まで移動し、ここで第3警察戦車中隊は偵察と警戒任務につきました。
 日没後、ソ連軍戦車の集団はカニエリロフカ(Kaniemirovka)の方向に向けて突破し行き、第2大隊がブガエフカから移動した直後にはソ連軍重砲の砲撃がタリ(Taly)の補給拠点に集中しました。

 連隊はここでタリを防衛せよとの命令を受け取り、1942年12月20日から21日にかけて、ソ連軍の激しい攻撃に対してタリをめぐって激しい防衛戦が展開されました。12月21日の早朝にはついにタリからの撤退が命令され、この間のソ連軍狙撃兵連隊との戦闘により第15警察連隊の第1大隊は大損害を被っていました。
 戦闘団はタリ(Taly)を脱出し、2度に渡ってソ連軍を撃退しながらFisencovoからゴラヤ(Golaya)へ後退に成功し、1942年12月24日にはゴリ渓谷からのソ連軍の猛攻は撃退しましたが、第15警察連隊と第3警察戦車中隊はこの戦闘で大損害を被りました。

 1942年12月から1943年1月の間に、第15警察連隊がドン河からドネツ河への後退戦闘で被った損害の詳細は、はっきりとしていません。タリをめぐる防衛戦で大損害を被った第1大隊の残余は連隊の第2大隊に吸収され、その第2大隊も含めて1,000名以上の戦死、負傷、行方不明者を出しており、第2大隊と行動を共にした第3警察戦車中隊も壊滅的な大損害を受けて再編成のために本国へ帰還しました。
 1943年1月の中頃、第15警察連隊の残余はクビヤンスク(Kupyansk)で第14警察連隊及び第6警察連隊の残余と合流し、戦闘団「ヨースト」(Kampfgruppe Josten)が編成されましたが、戦力的には甚だ疑問であり後退してくる部隊残余や兵員を受け入れるたもの一時的な処置であったと思われます。
 その後各警察連隊の残余は前線から引き揚げられ、本格的な休養と再編成のために順次後方に移動してゆくこととなります。

 1943年2月24日、各警察連隊は名称のみが一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第15警察連隊も「第15SS警察連隊」と改称されました。
 1943年2月には連隊の第1大隊として第28警察連隊の第2大隊(第253警察大隊)が編入され、3月29日に連隊はノルウェーに移動して本格的な再建が始まりました。第2大隊(第306警察大隊)にはノルウェーに駐屯していた第27SS警察連隊の第1大隊(第319警察大隊)から兵員が補充され、第1大隊はサルプスボル(Sarpsborg)に、第2大隊はマイセン(Mysen)に、そして第3大隊はベルゲン(Bergen)に駐屯して占領任務にあたりながら休養と再編成が行われました。


第15SS警察連隊
SS Polizei Regiment 15

第1大隊(第253警察大隊):サルプスボル(Sarpsborg)
第2大隊(第306警察大隊):マイセン(Mysen)
第3大隊(第310警察大隊):ベルゲン(Bergen)
第51警察通信中隊


 1943年10月、第15SS警察連隊はノルウェーから北部イタリアに移動し、SS及び警察指導者「北イタリア西部」の管轄下に配属されました。1943年12月24日、連隊本隊はボルツァーノへと移動し、イタリア軍砲兵部隊の駐屯地で6門のイタリア製75mm17/18歩兵砲を接収し、この歩兵砲は連隊の装備に加えられました。
 連隊の第1大隊はトリノ(Torino)に、第2大隊はミラノ(Milano)に駐屯しましたが、第3大隊は1944年以降はSS及び警察指導者「アドリア海沿岸」の管轄下に配属されトリエステ(Triest)に駐屯し、以後は独立大隊として運用されました。このため、連隊の本隊は2個大隊による「縮小編成」の部隊としてパルチザン掃討作戦や保安任務に従事しました。

Sperber作戦
 1944年3月22日~4月21日、トリノ地区でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第15SS警察連隊
イタリアSS大隊「Debica」

Starassbourg作戦
 1944年9月5日~10月5日、Ornovasco東方のVal Grande地区のパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第15SS警察連隊
SS武装擲弾兵旅団(イタリア第1)

Avanti作戦
 1944年10月12日~10月14日、マジョーレ湖(Lago Maggiore)北側のスイス国境沿いのオッソラ(Ossola)渓谷で「オッソラパルチザン解放区」を攻撃したパルチザン掃討作戦。9月にパルチザン部隊が弱体な守備隊を排除してオッソラ渓谷全体を占領し、10月には「解放共和国」の設立を宣言しました。この地域には守備隊としてドイツの国境警備警察(Grenzpolizei)、スロバキア建設旅団、第II/198グルジア大隊及び小規模なRSI郷土防衛部隊などが駐屯していました。【捕捉-1】
 渓谷自体には戦略的価値はありませんがイタリア社会共和国(RSI)政府の威信回復のためにも奪還は必須でした。攻撃は1944年10月12日から開始され、10月14日の第三次攻撃部隊が「共和国」の中心地であるドモロッソラ(Domolossola)に入り組織的な抵抗は終息しました。
作戦参加兵力:
第15SS警察連隊の一部
第20SS警察連隊第1大隊
第80海軍戦隊

 1944年10月から1945年3月までの第15SS警察連隊の活動ははっきりとしていません。1945年3月の時点で連隊には第15警察戦車中隊が配属されており、この中隊はイタリア製捕獲車輌(なんとP40戦車!)を装備していました。なお、トリエステに駐屯した連隊の第3大隊は下記のような編成でした。


第15SS警察連隊第3大隊

大隊本部:トリエステ
第9中隊:トリエステ
第10中隊:オピチナ
第11中隊:オピチナ
第12中隊:トリエステ
戦車小隊(軽戦車×9)
偵察小隊(装甲偵察車×1)
戦車猟兵小隊(軽対戦車砲×3)
軽高射砲小隊(軽高射砲×3)


 1945年3月19日から4月7日にかけて、第15SS警察連隊はスロベニア西部の山岳地帯で実施されたドイツ軍最後のそして最大規模のパルチザン掃討作戦に参加しました。この作戦は「春の訪れ(Frühlingsanfang)作戦」(1945年3月19日~3月29日)と「冬の終わり(Winterende)作戦」(1945年3月19日~4月7日)の二段階に分かれており、アドリア海沿岸作戦地域(OZAK=Operationszone Adriatisches Küstenland)内のすべての警察部隊をはじめ、SS第24武装山岳師団、SS下士官学校「リュブリャーナ」、SSセルビア義勇兵団、コサック軍団の一部が動員されました。

春の訪れ(Frühlingsfang)作戦
 1945年3月19日~3月29日、スロベニアで実施されたドイツ軍のパルチザン掃討作戦で第二段階の「冬の終わり(Winterende)作戦」と合わせて最大規模の攻撃作戦となりました。
 この作戦に投入された約15,000名の兵力は大きく2つのグループに分かれており、まず「西部突撃部隊」には第10SS警察連隊の3個大隊、第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊、第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊、SS警察中隊「シュミット」、第1セルビア義勇連隊の第2大隊、第4セルビア義勇連隊の第2大隊、そして支援兵力として第94軍団の砲兵1個中隊が参加しており、イドリヤ(Idrija)~Reka~Grahovo(現Grahovo ob Bači)~Podbrdoの街に布陣していました。
 もう一方の「北部突撃部隊」は、第28SS警察連隊「トート」の3個大隊、第13SS警察大隊の3個大隊及び第17SS警察連隊の3個大隊の3個SS警察連隊からなり、兵力約4,500名でPodbrdo~シュコーフィア・ロカ(Škofja Loka)までの約30㎞の地域に布陣しました。
作戦参加兵力:
「西部突撃部隊」
第10SS警察連隊
第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊
第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊
SS警察中隊「シュミット」
第1セルビア義勇連隊の第2大隊
第4セルビア義勇連隊の第2大隊
第94軍団の砲兵1個中隊

「北部突撃部隊」
第28SS警察連隊「トート」
第13SS警察連隊
第17SS警察連隊

 さらに、SS第14武装擲弾兵師団「ウクライナ第1」も作戦地域の北東に布陣して攻撃作戦に参加しました。しかし、作戦地域は山岳地帯のため、霧や積雪に阻まれて作戦は進展せず、パルチザン部隊は包囲の隙間から脱出してしまいこの作戦は竜頭蛇尾の結果に終わってしまいました。

冬の終わり(Winterende)作戦
 1945年3月19日~4月7日、スロベニア沿岸地域中央部で実施されたパルチザン掃討作戦で、「春の訪れ(Frühlingsfang)作戦」と同時に開始され、作戦の初期段階ではリュブリアナ西方約50kmのトルノフスカ高原・森林地帯(Trnovski Gozd)の広い範囲でパルチザン第9軍団をけん制することに限定されましたが、4月4日には第2セルビア義勇連隊と第3セルビア義勇連隊、さらに兵力約1,500名のチェトニク「リカ軍団」も増援部隊として到着し、最終的には約23,000名の兵力が投入されました。
作戦参加兵力:詳細不明で下記は4月4日からの増援部隊
第2セルビア義勇連隊
第3セルビア義勇連隊
チェトニク「リカ軍団」

 この一連の戦闘でパルチザン部隊は2万名の兵力のうち1,500名~2,000名の損害を受け、中でもパルチザン第9軍団の戦闘可能な兵力は約1,500名にまで減少しました。さらに軍需物資を大量に失ったため、しばらくの間は戦闘不能の状態となりこれによりドイツ軍部隊は民間人とともにトリエステからオソッポやジェモーナを経てオーストリアへと撤退する貴重な時間を稼ぐことができました。
 第15SS警察連隊は終戦時にはオーストリアまで後退しており、イギリス軍に降伏しました。


【補足-1】
 スロバキア建設旅団
 1943年11月1日~1944年1月12日にかけてラベンナ(Ravenna)~リミニ(Rimini)地区で編成され、2月13日~3月15日にかけてモンテ・サン・ビアージョ(Monte San Biagio)~フォンディ(Fondi)地区で「アドルフ・ヒトラー防衛線」の工事に従事しており、3月20日に時点でスロバキア軍の将校147名、下士官169名、兵士4,176からなっていました。
 1944年6月1日には「スロバキア第2建設師団」と改称され、ドイツ軍の後退にあわせてイタリア北部へと後退し、6月中旬にはボローニャ(Bologna)~サン・マリノ(San Marino)地区で「ゴシック防衛線」の工事に従事し、その後ポー川の橋梁復旧工事に従事しました。8月末の時点で師団の兵員は3,500名に減少しており、本国からの兵士の補充が途絶えたことから帰郷休暇も許可されなくなり、物資の不足と合わせて兵員の士気は落ちる一方でした。
 9月末にはマントバ(Mantova)~ボルゴフォルテ(Borgoforte)~オスティリア(Ostiglia)地区に移動し、10月初めにはミラノ(Milano)南方のピアチェンツァ(Piacenza)~パビア(Pavia)~San Anglo地区にありました。師団は自動車116台と馬匹牽引の荷車を装備しており、補給と整備の不足により約半数は使用不能でしたが、機動力のある建設部隊は最後まで貴重な存在でした。

 第II/198グルジア大隊(Georgisches Feld-Bataillon II./198)
 1942年11月3日にラドム近郊でグルジア兵団の第4訓練大隊から編成され、本来はコーカサスの第198歩兵師団に配属される予定でしたが、1943年5月2日付けで南方軍集団に配属されました。1943年末、大隊はフランスに送られ、1944年にはイタリアのトリノ(Trino)地区に配備され、9月にパルチザン部隊がオッソラ渓谷を占領して「解放共和国」の設立を宣言した際にはこの地域の守備隊としてドイツの国境警備警察(Grenzpolizei)、スロバキア第2建設師団(の一部?)、小規模なRSI郷土防衛部隊などと共に「第II/198グルジア大隊」も駐屯していましたが、その後の状況は不明です。
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2002.3.2 新規作成
2002.9.19 1942年の冬季戦を追加
2004.10.1 改訂版
2023.11.16 改訂2版

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