泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第17SS警察連隊
17. SS Polizei Regiment

 連隊は1942年7月、既存の第42警察大隊、第74警察大隊、第69警察大隊を連隊の第1、第2及び第3大隊として編入して第17警察連隊として編成され、第12警察通信中隊も配属されて下記のような編成となりました。


第17警察連隊
Polizei Regiment 17

連隊本部
第1大隊(第42警察大隊)
第2大隊(第74警察大隊)
第3大隊(第69警察大隊)
第12警察通信中隊


 1942年11月、第3大隊(第69警察大隊)は第28警察連隊第1大隊(第252警察大隊)と交代し、第69警察大隊は入れ替わる形で第28警察連隊第2大隊へと配属されました。連隊は高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」(HSSPF. Ostland und Rußland-Nord)の管轄下に配属され、戦線後方地区での治安維持任務に従事しました。

 1943年2月24日からは各警察連隊の名称に「SS」が追加されて一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第17警察連隊も「第17SS警察連隊」と改称されました。
 1943年9月22日、第3大隊(第252警察大隊)はMilowitzに送られて第32警察狙撃兵連隊の第1大隊として編入されました。1943年の夏、連隊はポーランドに移動し、1943年10月27日から29日にかけてはスタラホビツェ(Starachowice)地区でのパルチザン掃討作戦「メーメル作戦」に参加しました。

メーメル(Memel)作戦
 1943年10月27日~10月29日、スタラホビツェ(Starachowice)地区でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第17SS警察連隊
第1国家地方警察大隊(自動車化)
第3警察警戒大隊

 1944年1月16日から5月7日まで、第17SS警察連隊は、戦闘団「フォン・デム・バッハ」(Kampfguruppe "von dem Bach")に配属されてウクライナのコーベリ(Kovel)地区で活動し、その後一旦ワルシャワに帰還後、6月から7月にかけて警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe "von Gottberg")に配属されてミンスク西方のナリボキ(Nalibocki)森林地帯でのパルチザン掃討作戦に従事しました。

 1944年6月22日、ソ連軍の「バグラチオン作戦」により中央軍集団の戦線が破られ、ミンスクに危機が訪れました。このため第17SS警察連隊の配属された警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」は1944年6月29日から反撃作戦「魔弾の射手III作戦」が開始されると第5戦車師団の戦闘団「フォン・ザウケン」ともにボリソフ近郊のベレジナ川の防衛線に布陣しました。しかしソ連軍は薄いドイツ軍戦線をすり抜けてミンスクに迫っており、7月1日にはボリソフからの後退が決まり、7月2日にはミンスク北西のマラジェチナ(Molodechno)地区の新たな防衛線へと後退しました。

 7月2日から12日までの間、連隊は警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Polizei Kampfgruppe "von Gottberg")に配属されグロドノ(Grodno)の防衛戦に投入され、市街北側の防衛線で7月12日まで戦いましたが、その後グロドノは放棄され陥落しました。


警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年7月14日現在)
Polizei Kampfgruppe "von Gottberg"

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊(第2警察戦車中隊を含む)
第17SS警察連隊
第22SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊
第34警察狙撃兵連隊
第36警察狙撃兵連隊


 1944年7月25日~8月7日の間、連隊はグルドノ(Grodno)の南約20kmのグジニツァ(Kuznica)練兵場で再編成が行われ、第34警察狙撃兵連隊の第1大隊により増強されました。8月8日~9月21日の間、第17SS警察連隊は第2SS警察連隊及び第4SS警察連隊とともに警察旅団「アンハルト」に配属され、第4軍/第6軍団戦区のグルドノ(Grodno)~ビャウィストク(Białystok)~東プロイセン国境地帯での防衛戦に投入されました。


SS警察旅団「アンハルト」(1944年8月)
SS-Polizei-Brigade "Anhalt"

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊第1大隊、第3大隊
第17SS警察連隊
  第1大隊
  第34警察狙撃兵連隊第1大隊
第56シューマ砲兵大隊
第15リトアニア警察大隊
警察砲兵中隊「ガリチア第2」
輸送中隊

 第17SS警察連隊はこの後ワルシャワへと後退し、1944年8月のポーランド国内軍によるワルシャワ蜂起の際には鎮圧部隊として投入され、9月22日~10月6日の間は第4軍/第6軍団の警察戦闘団「Oderst Danz」(Polizei Kampfguruppe "Oderst Danz")に配属されてワルシャワの防衛部隊として防衛戦に投入されたと思われます。また、この間の9月には第1大隊(第42警察大隊)は第73歩兵師団に一時的に配属されました。
 1944年10月7日~10月12日の間、第17SS警察連隊は警察戦闘団「ハンニバル」(Polizei Kampfgruppa "Hannibal")に配属されて引き続き防衛戦に投入され、10月13日から戦闘団はSS警察旅団「ハンニバル」と改称されましたが、例によって旅団の実態は後退戦の間に大損害を被った警察部隊の寄せ集めで変りありませんでした。


SS警察旅団「ハンニバル」(1944年10月)
SS-Polizei-Brigade Hannibal

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊第1大隊、第3大隊
第17SS警察連隊の第1大隊
第31警察狙撃兵連隊


 1944年11月、連隊はワルシャワからスロベニアへと移動し、以後はスロベニアでのパルチザン掃討作戦に従事しました。
 1945年3月19日から4月7日にかけて、第17SS警察連隊はスロベニア西部の山岳地帯で実施されたドイツ軍最後のそして最大規模のパルチザン掃討作戦に参加しました。この作戦は「春の訪れ(Frühlingsanfang)作戦」(1945年3月19日~3月29日)と「冬の終わり(Winterende)作戦」(1945年3月19日~4月7日)の二段階に分かれており、アドリア海沿岸作戦地域(OZAK=Operationszone Adriatisches Küstenland)内のすべての警察部隊をはじめ、SS第24武装山岳師団、SS下士官学校「リュブリャーナ」、SSセルビア義勇兵団、コサック軍団の一部が動員されました。

春の訪れ(Frühlingsfang)作戦
 1945年3月19日~3月29日、スロベニアで実施されたドイツ軍のパルチザン掃討作戦で第二段階の「冬の終わり(Winterende)作戦」と合わせて最大規模の攻撃作戦となりました。この作戦に投入された約15,000名の兵力は大きく2つのグループに分かれており、まず「西部突撃部隊」には第10SS警察連隊の3個大隊、第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊、第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊、SS警察中隊「シュミット」、第1セルビア義勇連隊の第2大隊、第4セルビア義勇連隊の第2大隊、そして支援兵力として第94軍団の砲兵1個中隊が参加しており、イドリヤ(Idrija)~Reka~Grahovo(現Grahovo ob Bači)~Podbrdoの街に布陣していました。
 もう一方の「北部突撃部隊」は、第28SS警察連隊「トート」の3個大隊、第13SS警察大隊の3個大隊及び第17SS警察連隊の3個大隊の3個SS警察連隊からなり、兵力約4,500名でPodbrdo~シュコーフィア・ロカ(Škofja Loka)までの約30㎞の地域に布陣しました。
作戦参加兵力:
「西部突撃部隊」
第10SS警察連隊
第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊
第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊
SS警察中隊「シュミット」
第1セルビア義勇連隊の第2大隊
第4セルビア義勇連隊の第2大隊
第94軍団の砲兵1個中隊

「北部突撃部隊」
第28SS警察連隊「トート」
第13SS警察連隊
第17SS警察連隊

 さらに、SS第14武装擲弾兵師団「ウクライナ第1」も作戦地域の北東に布陣して攻撃作戦に参加しました。しかし、作戦地域は山岳地帯のため、霧や積雪に阻まれて作戦は進展せず、パルチザン部隊は包囲の隙間から脱出してしまいこの作戦は竜頭蛇尾の結果に終わってしまいました。

冬の終わり(Winterende)作戦
 1945年3月19日~4月7日、スロベニア沿岸地域中央部で実施されたパルチザン掃討作戦で、「春の訪れ(Frühlingsfang)作戦」と同時に開始され、作戦の初期段階ではリュブリアナ西方約50kmのトルノフスカ高原・森林地帯(Trnovski Gozd)の広い範囲でパルチザン第9軍団をけん制することに限定されましたが、4月4日には第2セルビア義勇連隊と第3セルビア義勇連隊、さらに兵力約1,500名のチェトニク「リカ軍団」も増援部隊として到着し、最終的には約23,000名の兵力が投入されました。
作戦参加兵力:詳細不明で下記は4月4日からの増援部隊
第2セルビア義勇連隊
第3セルビア義勇連隊
チェトニク「リカ軍団」

 この一連の戦闘でパルチザン部隊は2万名の兵力のうち1,500名~2,000名の損害を受け、中でもパルチザン第9軍団の戦闘可能な兵力は約1,500名にまで減少しました。さらに軍需物資を大量に失ったため、しばらくの間は戦闘不能の状態となりこれによりドイツ軍部隊は民間人とともにトリエステからオソッポやジェモーナを経てオーストリアへと撤退する貴重な時間を稼ぐことができました。

 1945年3月30日~5月9日の間、第17SS警察連隊はKrainburg(現Kranj)地区へと移動し戦闘団「von seeler」(Kampfgruppe von Seeler)に配属され、第19SS警察連隊及び第28SS警察連隊「トート」とともに北上してローイブル峠(Loibl Pass)でオーストリア国境を越えました。その後さらにドラバ川方面へと北上し、5月9日にフェルラッハ(Ferlach)の北でイギリス軍に降伏しました。


2002.8.22 新規作成
2002.11.20 一部修正
2003.6.13 一部改訂
2004.10.1 改訂版
2007.10.26 改訂2版
2018.5.7 改訂3版
2023.11.16 改訂4版

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