泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第10SS警察連隊
SS-Polizei Regiment 10

 連隊は1942年7月、それまでの警察連隊「ジュート」(Polizei Regiment“Süd”)を改称し、配属されていた第45警察大隊、第303警察大隊及び第314警察大隊の3個大隊をそのまま引継いで第10警察連隊として編成されるとともに、第32警察通信中隊も配属されました。
 連隊は1942年中は南方軍集団の後方地域であるウクライナと南部ロシアにおいて高級SS及び警察指導者「南部ロシア及びウクライナ」の指揮下に配属されて治安維持任務に従事していました。1942年夏にはウクライナで収穫期の警備任務、秋にはプリピャチ沼沢地でのパルチザン掃討作戦に従事しており、12月からは第5警察戦車中隊も配属されて一層の戦力強化が図られました。


第10警察連隊
Polizei Regiment 10

第1大隊(第45警察大隊)
第2大隊(第303警察大隊)
第3大隊(第314警察大隊)
第32警察通信中隊
第5警察戦車中隊(1942年12月から)


 1943年1月、ソ連軍の冬季攻勢は弱体なルーマニア軍を敗走させ、第6軍がスターリングラードで包囲されるなど、南方軍集団全体が崩壊の危機に見舞われました。この危機に際して戦線の後方地区では、警察部隊をはじめとしてさまざまな部隊をかき集めて急遽編成された警戒部隊が防衛線の穴埋めとして投入されました。
 この緊急事態に際して、高級SS及び警察指導者「南部ロシア及びウクライナ」であるハンス・プリュッツマン(Hans Pruetmann)SS大将兼警察大将の管轄内でも指揮下の警察連隊によりSS戦闘団「プリュッツマン」(SS Kampfgruppe “Pruetmann”)が急遽編成されて防衛戦に投入されましたが、優勢なソ連軍の前にほとんどの警察連隊は壊滅的な損害を被ることとなりました。その中でも第10警察連隊だけは幸運にも無事にこの冬季戦を無事に切り抜けることができました。

 1943年2月24日からは各警察連隊の名称に「SS」が追加されて一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第10警察連隊も「第10SS警察連隊」と改称されました。
 1943年2月以降、連隊は再び後方地区でのパルチザン掃討作戦に従事して下記のような作戦に参加しており、5月から6月にかけては一時的に第10警察戦車中隊も配属されて戦力が強化されました。

Horung作戦
 1943年2月16日~2月26日、プリピャチ沼沢地のMorocz-Milewicze地区で実施されたパルチザン掃討作戦。この地区では約4,000名のパルチザンが活動していると考えられており、ブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保するため大規模な戦力が招集され、第10警察連隊は戦闘団「ジュート」(Kampfgruppe “Süd”)に配属されて作戦に投入されました。 【補足-1】


戦闘団「ジュート」
Kampfgruppe “Süd”

第10警察連隊の第2大隊及び第3大隊
第11警察連隊第1大隊
第103シューマ大隊
重装備中隊「コールステッド」


Weichsel I作戦
 1943年5月9日~6月10日、プリピャチ(Pripyat)を作戦地域の南西端として東端はドニエプル川まで、北端はマズィル(Mozyr)~ホメリ(Gomel)間の鉄道線路までの地域で実施されたパルチザン掃討作戦。第10SS警察連隊は警察戦闘団「シーマナ」(Polizei Kampfgruppe “Schimana”)に配属されて作戦に参加しました。

Weichsel II作戦
 1943年6月18日~24日、「Weichsel I作戦」に引続き実施されたパルチザン掃討作戦。第10SS警察連隊は引き続き警察戦闘団「シーマナ」(Polizei Kampfgruppe “Schimana”)に配属され、パルチザン掃討作戦に参加しました。

Seyditz作戦
 1943年6月25日~6月30日、ウクライナのオヴルチ(Owrutsch)~マズィル(Mozyr)地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦では作戦地域内の54箇所の村と807箇所のパルチザン拠点を破壊し、パルチザン2,768名と住民2,338名が殺害され、6,817名が強制労働に連行された他、牛12,407頭、馬288頭、羊7,246頭、豚124頭が押収されました。

 1943年12月、ソ連軍第1ウクライナ戦線によるキエフ~ジトミール街道での第4戦車軍戦区への攻撃が開始され、第10SS警察連隊は1944年1月から第11SS警察連隊とともにSS戦闘団「プリュッツマン」(SS Kampfgruppe “Prützmann”)に配属され、ロブノ(Rovno)地区の最前線での防衛戦に投入されましたが、1944年1月までの戦闘でKoenigSS少佐兼警察少佐に率いられた連隊の兵力は1個大隊、約350名にまで消耗しており、連隊に配属されていた第5警察戦車中隊も部隊刷新のため後方に後退しました。


SS戦闘団「プリュッツマン」(1944年1月)
SS Kampfgruppe “Prützmann”

第11SS警察連隊の2個大隊
SS警察連隊「Koenig」(第10SS警察連隊の一部約350名)
第217狙撃兵大隊
第219砲兵連隊の第2大隊
第257予備砲兵連隊の第2大隊


SS戦闘団「プリュッツマン」(1944年1月15日現在)
SS Kampfgruppe “Prützmann”

Koellner部隊(Abteilung “Koellner“)
  第10SS警察連隊本部
  第10SS警察連隊第1大隊(3個中隊)
  第1SS警察騎馬大隊
  第35警察狙撃兵連隊第2大隊
  ハリコフ地方防護警察中隊第2小隊
  第11SS警察連隊の1個戦車猟兵小隊
Gewhr部隊(Abteilung “Gewhr“)
  第11SS警察連隊本部
  第10SS警察連隊第3大隊(3個中隊)
  第11SS警察連隊第2大隊(3個中隊)
  第11SS警察連隊第3大隊
  第35警察狙撃兵連隊の1個中隊


 SS戦闘団「プリュッツマン」はロブノ(Rovno)の北東地区で1944年1月26日から2月1日まで、第454保安師団戦区の北西部、Kustyn及びZylyn地区で防衛戦を展開しました。3月15日から18日にかけて、SS戦闘団「プリュッツマン」はブロディー(Brody)の東、kremiantzの北に在り、第36歩兵師団の一部とともに西方に後退しながらブロディー地区で引き続き防衛戦を展開しました。


SS戦闘団「プリュッツマン」(1944年3月8日現在)
SS Kampfgruppe “Prützmann”

第10SS警察連隊の残余(約1個大隊?)
第11SS警察連隊 第1大隊及び第2大隊
特別編成SS警察連隊(解隊した第33、35、37警察狙撃兵連隊の残余でドイツ人下士官と兵からなる)
第14SS警察連隊の1個中隊(連隊の本隊はセルビアにあり詳細不明)
第268(ラトビア)シューマ大隊
第1、第2SS警察騎馬隊隊の残余


 1944年3月末の時点で第10SS警察連隊は1944年3月から4月にかけて連隊は第33SS警察狙撃兵連隊から兵員の補充を受け、再編成の完了した第5(増強)警察戦車中隊も再び連隊に配属されました。
 その後第10SS警察連隊は4月から5月にかけてはKostopol及びStanislawczik地区で防衛戦を展開しており、5月5日の時点で連隊は第11SS警察連隊とともにKoellner警察大佐の指揮下で第4戦車軍の第361歩兵師団に配属されて、ブロディー地区の前線で防衛戦に投入されました。
 1944年6月21日、第10SS警察連隊はイタリアへの移動命令を受け取り、7月8日には担当戦区を第360保安連隊に引き継いで全部隊がYablonka~Krasny地区へと後退し、その後北部イタリアのゲルツ(Görz) (現ゴリツィア(Gorizia))へと移動しました。この直後、ブロディー地区ではソ連軍の攻撃により第361歩兵師団は第13軍団の部隊と共に包囲されましたので、連隊は間一髪で難を逃れたことになります。

 第10SS警察連隊は7月末に北部イタリアのゲルツ(Görz) (現ゴリツィア(Gorizia))へと移動し、「トリエステ治安警察司令官」に配属されました。連隊の各大隊は3個中隊編成から4個中隊編成に拡大され、第5(増強)警察戦車中隊も引き続き連隊に配属されていました。連隊の各大隊は各地に分散して駐屯しており、大隊ごとに作戦行動に投入されました。


第1大隊=Sonosetsch(トリエステ北東約20㎞)
第2大隊=Zoll(ゲルツ南東約28㎞):現コル(Col)
第3大隊=ゲルツ(Görz) :現ゴリツィア(Gorizia)


Klagenfurt作戦
 1944年9月27日~29日、ウディネ(Udine)北東約20㎞の山岳地帯で、ザパトッコ(Zapatocco)~Calle~720/872高地~タミリス(Tamoris)~マザロリス(Masarolis)~Forchis山~Picat山~Valle~コルタルガ(Costelunga)地区でのパルチザン掃討作戦

Wildläufer作戦
 1944年10月8日~10月22日、ウディネ(Udine)の北北西約40kmの山岳地帯で、トルメッゾ(Tolmezzo)~パルッツァ(Paluzza)~ヴィッラ・サンティーナ(Villa Santina)地区でのパルチザン掃討作戦

 1944年10月末、第10SS警察連隊はスロベニアに移動して高級SS及び警察指導者「アドリア海沿岸」の指揮下に配属され休養と再編成の後、イタリア及びスロベニアでのパルチザン掃討作戦に従事しました。
 1944年11月28日~12月1日にはS.Lucia~Chiapovano~Auzza(現スロベニアのMost na Soči~Čepovan~Avče)地区での作戦行動に参加し、12月には連隊の第3大隊が下記のようなパルチザン掃討作戦に参加しました。

アドラー(Adler)作戦
 1944年12月16日~23日、ゲルツ(Görz)~Sambasso~ヴィパーヴァ(Vipava))地区でのパルチザン掃討作戦で連隊の第3大隊が参加
作戦参加兵力:
第10SS警察連隊第3大隊
第15SS警察連隊第3大隊
第1セルビア義勇軍団
イタリアベルサリエリ大隊「ムッソリーニ」

 1945年1月19日、Tarnova地区でFlotiglia-Mas師団のフルミーネ大隊(Fulmine Battalion)がパルチザン部隊に包囲されてしまう事態が発生し、ゲルツ(Goerz)にあった中隊のT34小隊に救出作戦への出動が命令されました。
 第5(増強)警察戦車中隊のT34戦車小隊に工兵小隊とFlotiglia-Mas師団の歩兵40名を加えた突撃部隊が編成され、Salcano地区から進発してラウニツァ(Raunizza)地区を経由する進撃路で包囲の突破が図られました。当の包囲された部隊の方は、その日の夜の間に吹き始めた吹雪にまぎれて多くは突破に成功したものの、街道を含む広い地域が地雷とパルチサン部隊の機関銃、迫撃砲の火線により制圧されたままになっていました。
 翌1月20日、ラウニツァ(Raunizza)の北と西の丘にあるパルチザン部隊の陣地に対して突撃部隊による攻撃が開始されました。1月21日になると第15SS警察連隊の第3大隊の増強を受けた突撃部隊は、第10SS警察連隊の第3大隊とも協力して再度パルチザン部隊の陣取る丘を攻撃しました。6時間の激戦の後、警察戦車部隊のT34に支援された歩兵部隊によってパルチザン陣地の丘は制圧され、パルチザン側の損害は92名が戦死し兵員の3~4割が負傷したのに対してドイツ側の損害は突撃部隊で合計17名が負傷したのみにとどまりました。

 連隊は1945年1月にはゲルツ北東約40kmのBaccia峡谷での作戦行動に参加し、3月にはゲルツ東方約30㎞のイドリヤ(Idriza)地区での作戦行動を展開しており、3月1日現在で次のような編成でした。


第10SS警察連隊の編成(1945年3月1日現在)

連隊本部
第1大隊(4個中隊)
第2大隊(4個中隊)
第3大隊(4個中隊)
第21警察通信中隊
歩兵砲中隊(歩兵砲4門)
第5(増強)警察戦車中隊
第2戦車猟兵中隊
修理工場小隊


 1945年3月19日から4月7日にかけて、第15SS警察連隊はスロベニア西部の山岳地帯で実施されたドイツ軍最後のそして最大規模のパルチザン掃討作戦に参加しました。この作戦は「春の訪れ(Frühlingsanfang)作戦」(1945年3月19日~3月29日)と「冬の終わり(Winterende)作戦」(1945年3月19日~4月7日)の二段階に分かれており、アドリア海沿岸作戦地域(OZAK=Operationszone Adriatisches Küstenland)内のすべての警察部隊をはじめ、SS第24武装山岳師団、SS下士官学校「リュブリャーナ」、SSセルビア義勇兵団、コサック軍団の一部が動員されました。

春の訪れ(Frühlingsfang)作戦
 1945年3月19日~3月29日、スロベニアで実施されたドイツ軍のパルチザン掃討作戦で第二段階の「冬の終わり(Winterende)作戦」と合わせて最大規模の攻撃作戦となりました。
 この作戦に投入された約15,000名の兵力は大きく2つのグループに分かれており、まず「西部突撃部隊」には第10SS警察連隊の3個大隊、第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊、第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊、SS警察中隊「シュミット」、第1セルビア義勇連隊の第2大隊、第4セルビア義勇連隊の第2大隊、そして支援兵力として第94軍団の砲兵1個中隊が参加しており、イドリヤ(Idrija)~Reka~Grahovo(現Grahovo ob Bači)~Podbrdoの街に布陣していました。
 もう一方の「北部突撃部隊」は、第28SS警察連隊「トート」の3個大隊、第13SS警察大隊の3個大隊及び第17SS警察連隊の3個大隊の3個SS警察連隊からなり、兵力約4,500名でPodbrdo~シュコーフィア・ロカ(Škofja Loka)までの約30㎞の地域に布陣しました。
作戦参加兵力:
「西部突撃部隊」
第10SS警察連隊
第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊
第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊
SS警察中隊「シュミット」
第1セルビア義勇連隊の第2大隊
第4セルビア義勇連隊の第2大隊
第94軍団の砲兵1個中隊

「北部突撃部隊」
第28SS警察連隊「トート」
第13SS警察連隊
第17SS警察連隊

 さらに、SS第14武装擲弾兵師団「ウクライナ第1」も作戦地域の北東に布陣して攻撃作戦に参加しました。しかし、作戦地域は山岳地帯のため、霧や積雪に阻まれて作戦は進展せず、パルチザン部隊は包囲の隙間から脱出してしまいこの作戦は竜頭蛇尾の結果に終わってしまいました。

冬の終わり(Winterende)作戦
 1945年3月19日~4月7日、スロベニア沿岸地域中央部で実施されたパルチザン掃討作戦で、「春の訪れ(Frühlingsfang)作戦」と同時に開始され、作戦の初期段階ではリュブリアナ西方約50kmのトルノフスカ高原・森林地帯(Trnovski Gozd)の広い範囲でパルチザン第9軍団をけん制することに限定されましたが、4月4日には第2セルビア義勇連隊と第3セルビア義勇連隊、さらに兵力約1,500名のチェトニク「リカ軍団」も増援部隊として到着し、最終的には約23,000名の兵力が投入されました。
作戦参加兵力:詳細不明で下記は4月4日からの増援部隊
第2セルビア義勇連隊
第3セルビア義勇連隊
チェトニク「リカ軍団」

 この一連の戦闘でパルチザン部隊は2万名の兵力のうち1,500名~2,000名の損害を受け、中でもパルチザン第9軍団の戦闘可能な兵力は約1,500名にまで減少しました。さらに軍需物資を大量に失ったため、しばらくの間は戦闘不能の状態となりこれによりドイツ軍部隊は民間人とともにトリエステからオソッポやジェモーナを経てオーストリアへと撤退する貴重な時間を稼ぐことができました。

 1945年4月末、連隊はタルビス(Tarvis、現タルヴィジオTarvisio)を経由してオーストリアのフィラハ(Villach)地区へと移動しており、第10軍及び第97軍団の一部もフィラハ地区へと後退しました。
 4月29日、クラーゲンフルトでの作戦会議において4月27日付けでSS第10戦車師団長を罷免されたばかりのハインツ・ハルメルSS少将の指揮下に戦闘団「ハルメル」を編成してイタリア~オーストリア国境のブレッケン峠、ナスフェルト峠、マグラーン峠、スレヴェニア~オーストリア国境のカラヴァンケン峠などの確保し、オーストリア国境において撤退してくるドイツ軍部隊の撤退路を確保することとなりました。


SS戦闘団「ハルメル」(1945年4月29日現在)
SS Kampfgruppe "Harmel"

戦闘団「ヘルマン」(兵力約1,000名の混成部隊)
  アドリア海沿岸の海軍部隊(200~300名)
  警察部隊(200~300名)
  陸軍部隊400~600名)
コサック部隊残余
戦闘団「ベストマン」(Kampfgruppe "Bestmann")
  SS第7教育及び補充大隊
  第10SS警察連隊の残余
  SS第24武装山岳師団(カルストイェーガー)の残余(連隊規模?)


 その後5月初めに連隊は北イタリアのトルメッゾ(Tolmezzo)~ジェモナ(Gemona)地区に派遣されましたが、5月9日には後退してきたSS第24武装山岳師団(カルストイェーガー)のSS第59武装山岳連隊第1大隊とともに北上し、5月7日~8日にかけてブレッケン峠を越えてオーストリアに入ったものと思われ、最後はSS戦闘団「ハルメル」(SS Kampfgruppe “Harmel”)の一部と共に連合軍に降伏しました。


【補足-1】
Hornung作戦
 1943年2月8日~2月26日、プリピャチ沼沢地のMorocz~Milewicze地区でのパルチザン掃討作戦。この地区では約4,000名のパルチザン部隊が活動していると考えられており、パルチザン部隊は機関銃、対戦車砲、戦車や装甲車まで装備する強力な部隊でした。
 ドイツ軍はこの作戦によりブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保することを目的としており、次のような大規模な兵力が招集されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「オスト」】Kampfgruppe "Ost"
第2SS警察連隊
第1SS歩兵旅団/「ボリソフ(Borissow)」大隊
第18SS警察山岳猟兵連隊/警察山岳砲兵大隊
SSドルージナ部隊/「ロジオノフ(Radjanoff)」歩兵大隊

【戦闘団「ノルト」】Kampfgruppe "Nort"
第23警察連隊/第1大隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第57シューマ大隊
第112警察通信中隊
第12警察戦車中隊

【戦闘団「ヴェスト」】Kampfgruppe "West"
第13警察連隊/第1大隊、第2大隊
第18シューマ大隊
第56シューマ砲兵大隊/第1中隊
警察工兵部隊

【戦闘団「ジュート」】Kampfgruppe "Süd"
第10警察連隊/第2大隊、第3大隊
第11警察連隊/第1大隊
第103シューマ大隊
重装備中隊「Kohlstedt」

【戦闘団「ジュートオスト」】Kampfgruppe "Südost"
第101スロヴァキア歩兵連隊
【戻る】


2001.1.29 新規作成
2002.3.13 一部改訂
2002.3.18 一部改訂
2004.10.1 改訂版
2020.8.21 改訂2版
2023.8.22 一部修正
2023.11.16 一部追記

2023.12.7 1945年1月19日の戦闘を追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/