第28SS警察連隊「トート」
SS Polizei Regiment 28 "Todt"
連隊は1942年7月、ノルウェーに駐屯していた警察連隊「ノルウェー」の第252警察大隊と第253警察大隊及びドイツ本国のWismarに在った第313警察大隊により第28警察連隊(28. Polizei Regiment)として編成されました。
第28警察連隊
Polizei Regiment 28
第1大隊(第252警察大隊)
第2大隊(第253警察大隊)
第3大隊(第313警察大隊)
しかし連隊の第3大隊(第313警察大隊)は1942年11月に第14警察連隊の第3大隊として編入されたほか、第1大隊(第252警察大隊)は1943年から第32警察狙撃兵連隊の第1大隊としてロシアに送られ、第2大隊(第253警察大隊)も1943年2月から第15警察連隊の第1大隊として編入されました。
1942年11月、連隊は再度編成されることとなり、第62警察大隊と第69警察大隊を中心に、トート機関(Organisation
Todt)の要員を編入して第28SS警察連隊「トート」(SS
Polizei Regiment 28 "Todt")として編成され、トート機関から編入された要員はトート機関の袖章を左袖に着用していました。
1943年3月29日の時点で連隊の各大隊は次のようにヨーロッパ各地に分散配置されていました。
第1大隊(第62警察大隊):ブレスト/フランス
第2大隊(第69警察大隊):リガ/ラトビア
1943年3月、第28SS警察連隊「トート」の各部隊はオランダのアルンヘムに移動し、第1大隊(第62警察大隊)の要員から連隊本部も新編成され、第3大隊は第1大隊(第62警察大隊)と第2大隊(第69警察大隊)から抽出した基幹要員に警察訓練大隊「オラニエンブルク」からの兵員を編入して新編成されました。
第28SS警察連隊「トート」
SS Polizei Regiment 28 “Todt“
第1大隊(第62警察大隊)
第2大隊(第69警察大隊)
第3大隊(新編成)
1943年8月、連隊の3個大隊は南フランスのマルセイユに集結しましたが、その後10月にはディジョンからリヨンにかけての地区に移動し、11月14日時点ではビシー~ディジョン~リヨン地区に駐屯していました。
1944年2月、連隊は北スロベニアのオーバークライン地区に移動し、高級SS及び警察指導者「アルペンラント」の管轄下に配属されました。1945年3月現在のOKWの戦闘序列によると、連隊の3個大隊は引き続きオーバークライン地区に駐屯していました。1944年4月11日~4月28日の間、連隊はスロベニアのカムニク(Kamnik)東方地区で第84郷土防衛連隊とともにパルチザン掃討作戦に従事し、8月15日にはライバッハ(Laibach)地区で教導連隊「ブランデンブルク」とともにパルチザン掃討作戦に従事しました。
1944年10月20日~12月25日、第28SS警察連隊「トート」はカムニク(Kamnik)~Kamniska Bistrica鉄道沿線でのパルチザン掃討作戦に次のような部隊とともに参加しました。
作戦参加兵力:
教導連隊「ブランデンブルク」
1個コサック部隊
第13SS警察連隊
第25SS警察連隊
第28SS警察連隊「トート」
第18郷土防衛連隊
第28SS警察連隊「トート」はその後12月中旬以降には第13SS警察連隊及び教導連隊「ブランデンブルク」とともにGornja Savinja地区でのパルチザン掃討作戦にも参加しました。
1945年3月19日から4月7日にかけて、第28SS警察連隊「トート」はスロベニア西部の山岳地帯で実施されたドイツ軍最後のそして最大規模のパルチザン掃討作戦に参加しました。この作戦は「春の訪れ(Frühlingsanfang)作戦」(1945年3月19日~3月29日)と「冬の終わり(Winterende)作戦」(1945年3月19日~4月7日)の二段階に分かれており、アドリア海沿岸作戦地域(OZAK=Operationszone Adriatisches Küstenland)内のすべての警察部隊をはじめ、SS第24武装山岳師団、SS下士官学校「リュブリャーナ」、SSセルビア義勇兵団、コサック軍団の一部が動員されました。
春の訪れ(Frühlingsfang)作戦
1945年3月19日~3月29日、スロベニアで実施されたドイツ軍のパルチザン掃討作戦で第二段階の「冬の終わり(Winterende)作戦」と合わせて最大規模の攻撃作戦となりました。
この作戦に投入された約15,000名の兵力は大きく2つのグループに分かれており、まず「西部突撃部隊」には第10SS警察連隊の3個大隊、第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊、第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊、SS警察中隊「シュミット」、第1セルビア義勇連隊の第2大隊、第4セルビア義勇連隊の第2大隊、そして支援兵力として第94軍団の砲兵1個中隊が参加しており、イドリヤ(Idrija)~Reka~Grahovo(現Grahovo ob Bači)~Podbrdoの街に布陣していました。
もう一方の「北部突撃部隊」は、第28SS警察連隊「トート」の3個大隊、第13SS警察大隊の3個大隊及び第17SS警察連隊の3個大隊の3個SS警察連隊からなり、兵力約4,500名でPodbrdo~シュコーフィア・ロカ(Škofja Loka)までの約30㎞の地域に布陣しました。
作戦参加兵力:
「西部突撃部隊」
第10SS警察連隊
第15SS警察連隊の第1大隊と第2大隊
第21SS武装山岳師団「スカンダーベク」のSS第21偵察大隊
SS警察中隊「シュミット」
第1セルビア義勇連隊の第2大隊
第4セルビア義勇連隊の第2大隊
第94軍団の砲兵1個中隊
「北部突撃部隊」
第28SS警察連隊「トート」
第13SS警察連隊
第17SS警察連隊
さらに、SS第14武装擲弾兵師団「ウクライナ第一」も作戦地域の北東に布陣して攻撃作戦に参加しました。しかし、作戦地域は山岳地帯のため、霧や積雪に阻まれて作戦は進展せず、パルチザン部隊は包囲の隙間から脱出してしまいました。
冬の終わり(Winterende)作戦
1945年3月19日~4月7日、スロベニア沿岸地域中央部で実施されたパルチザン掃討作戦で、「春の訪れ(Frühlingsfang)作戦」と同時に開始され、作戦の初期段階ではリュブリアナ西方約50kmのトルノフスカ高原・森林地帯(Trnovski Gozd)の広い範囲でパルチザン第9軍団をけん制することに限定されましたが、4月4日には第2セルビア義勇連隊と第3セルビア義勇連隊、さらに兵力約1,500名のチェトニク「リカ軍団」も増援部隊として到着し、最終的には約23,000名の兵力が投入されました。
作戦参加兵力:詳細不明で下記は4月4日からの増援部隊
第2セルビア義勇連隊
第3セルビア義勇連隊
チェトニク「リカ軍団」
この一連の戦闘でパルチザン部隊は2万名の兵力のうち1,500名~2,000名の損害を受け、中でもパルチザン第9軍団の戦闘可能な兵力は約1,500名にまで減少しました。さらに軍需物資を大量に失ったため、しばらくの間は戦闘不能の状態となりこれによりドイツ軍部隊は民間人とともにトリエステからオソッポやジェモーナを経てオーストリアへと撤退する貴重な時間を稼ぐことができました。
この作戦は第28SS警察連隊「トート」が参加した最後の大規模なパルチザン掃討作戦となりました。連隊はその後北スロベニアのオーバークライン地区に駐屯しており、E軍集団後方地区でのパルチザン掃討作戦に従事していました。
1945年4月26日の時点で第28SS警察連隊「トート」の第1大隊及び第3大隊は、第17SS警察連隊、第3SS国家地方警察大隊(SS Gendarm
Battalion 3)、第1警察戦車中隊、第14警察戦車中隊とともにGoettenitz、GottscheeからGurkにかけてのTopla河沿いの戦線に布陣していました。
その後連隊は第17SS警察連隊及び第19SS警察連隊とともに戦闘団「von Seeler」(Kampfgruppe "von Seeler")に配属され、最後はローイブル峠を越えてオーストリアに入りドラバ川を越えて5月9日にフェルラッハ(Forlach)の北でイギリス軍に降伏しました。
2002.8.22 新規作成
2004.10.1 改訂版
2016.4.24 改訂2版
2023.9.9 一部修正
2023.11.16 追記・修正