泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年~1945年)

第3警察戦車中隊
3.Polizei-Panzer-Kompanie

 第3警察戦車中隊は1942年7月23日付けのSS全国指導者及びドイツ警察長官通達によりウイーン警察自動車学校で編成が開始されました。


第3警察戦車中隊の編成

中隊本部
  指揮班
  修理工場小隊
  補給段列
第1装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両
第2装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両
第3戦車小隊:ルノーR35×5両


 ところが、このうち第2小隊は1942年8月4日付けのSS全国指導者及びドイツ警察長官通達により第2警察戦車中隊に編入されてしまい、その補充として8月18日付けの通達によりウィーン警察自動車学校から3両のスタイヤー装甲車とその他の必要車輌が新たに配属されて、8月27日には中隊の編成が完了しました。

 編成の完了した第3警察戦車中隊は高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の管轄下で第15警察連隊に配属され、1942年12月始めまで連隊の第2大隊と行動を共にしていました。中隊はピンスク(Pinsk)の西方地域での小規模なパルチザン部隊との戦闘を皮切りに、その後ピンスクの西方のスルツク(Sluzk)では約1,000名規模のパルチザン部隊との戦闘に参加するなど、プリピャチ沼沢地を拠点とするパルチザンへの掃討作戦に参加しました。
 1942年12月1日、第15警察連隊と第3警察戦車中隊はピンスクに帰還後すぐに鉄道輸送のため貨車積みされ、列車はゴメリ(Gomel)、Bakmach、コノトプ(Konotop)、ハリコフ(Khrakov)、クビャンスク(Kupyansk)を経由してヴァルイキ(Valuiki)に到着しました。ここで警察戦車中隊を載せた最初の列車が地雷により爆破されてしまい、装甲車×1両が貨車から転落したため復旧にはまる1日を要しました。1週間後には第15警察連隊の本隊も到着し、ヴァルイキからは自動車移動によりアレクセィフカ(Alexeyevka)からタターリノ(Tatarino)を経由してヴォロネジ(Voronesh)に到着し、ここで連隊はハンガリー第2軍の担当地域に配属されました。

 1942年12月17日から18日にかけての夜、第15警察連隊と第3警察戦車中隊に警報が入り、厳寒と積雪のなかでロソシ(Rossosh)をめぐる厳しい防衛戦に巻き込まれることになりました。このとき連隊は第24戦車軍団の戦闘団「フェーゲライン」(Kampfgruppe "Fegelein")に編入されていました。11月19日から開始されたロシア軍の反撃作戦によりスターリングラードの南と北でルーマニア軍とイタリア軍の戦線が大きく突破されており、ハンガリー第2軍の右翼に並ぶイタリア第8軍の戦線も突破されていました。連隊はロソシ(Rossosh)で退却するイタリア軍部隊に始めて遭遇しましたが、連隊はミカロフスカ(Michalovska)では先発していた警戒部隊を収容した後、さらにドン河の屈曲部に向けて移動を続けました。

 12月18日の夕方、連隊はSmagleyevskayaに到着しましたが、ここでは連隊長、大隊長の1人、連隊の車輌部隊指揮官の乗った乗用車2両がロシア軍に捕らえられるという事態が発生しました。連隊の第2大隊はGolayaからBugayevkaを経由してBoguchar渓谷まで移動し、ここで第3警察戦車中隊は偵察と警戒任務につきました。
 日没後、ロシア軍戦車の集団はKaniemirovkaの方向に向けて突破してきました。第2大隊がBugayevkaから移動した直後には、ロシア軍重砲の砲撃がタリ(Taly)の補給拠点に集中しました。

 連隊はここで包囲されたスターリングラードか又はチル河沿いの防衛戦に援軍が到着するまでタリを防衛せよとの命令を受け取りました。1942年12月20日から21日にかけて、ロシア軍の激しい攻撃に対してタリをめぐって激しい防衛戦が展開されましたが、21日の早朝にはついにタリからの撤退が命令されました。この間のロシア軍狙撃兵連隊との戦闘により、第15警察連隊の第1大隊は大損害を被っていました。
 戦闘団はタリを脱出し、2度に渡ってロシア軍を撃退しながらFisencovoからGolayaへ後退しました。1942年12月24日、ゴリ渓谷からのロシア軍の猛攻は撃退したものの、第15警察連隊と第3警察戦車中隊は大損害を被りました。

 第15警察連隊がドン河流域の戦闘で被った損害の詳細は、はっきりとしていません。ただ連隊の第2大隊は1,000名以上の戦死、負傷、行方不明者を出しました。第15警察連隊は1943年1月までのドン河からドネツ河への後退戦闘により、やはり大損害を受けて壊滅状態となった第14警察連隊と同様に壊滅状態となり、第2大隊と行動を共にした第3警察戦車中隊も同様に壊滅的な大損害を受けました。

 第3警察戦車中隊はその後再編成されましたが、編成の詳細ははっきりとしていません。おそらく第2警察戦車中隊と同様に次のような編成になったものと思われます。


第3警察戦車中隊の編成

中隊本部
  修理工場小隊
  補給段列
第1装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両
第2装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両
第3装軌式装甲車小隊:I号装軌式装甲車×5両


 1943年10月5日、再編成された中隊は再び東部戦線に出動し、高級SS及び警察指導者「北部ロシア」(HSSPF. Rusland-Nord)の管轄地区であるノベル(Novel)地区で第16SS警察連隊に配属されました。1943年10月20日付けの第16SS警察連隊からリガのオストラント治安警察司令官への報告によると、第3警察戦車中隊はこの時点で将校4名と下士官・兵117名の兵力で編成されていました。
 第16SS警察連隊は1943年10月25日~11月15日の間はベラルーシ北部~ラトビア国境地帯での「Heinrich作戦」に参加しました。

ハインリッヒ(Heirich)作戦
 1943年10月25日~11月9日、ベラルーシ北部のドレトゥニ(Dretun)及びポロツク(Polotsk)東北~ラトビア国境地帯の森林と湿地帯でのパルチザン掃討作戦。この作戦にはクルト・フォン・ゴットベルクSS中将兼警察中将の戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe “von Gottberg”) や第3戦車軍の後方部隊が動員されたほか、北方軍集団戦区では戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe “Jeckln”)が作戦に参加しました。
 この作戦でパルチザン5,452名が殺害され、住民約8,000名が強制労働に連行され、さらに約8,000名の住民が再定住のために強制移住させられました。
 ハインリッヒ作戦は11月14日まで実施される予定でしたが、10月初めに開始されたソ連軍の冬季攻勢によりネヴェリ(Nevel)地区で防衛線が突破されたため計画より5日早く11月9日までで中止され、戦闘団「フォン・ゴットベルク」と戦闘団「イェッケルン」はそのまま防衛戦に投入されました。
作戦参加兵力:
<中央軍集団>
【SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」】SS Kampfgruppe "von Gottberg"
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第2大隊を除く)
第24SS警察連隊(第3大隊を除く)
第1(増強)警察戦車中隊
第4警察戦車中隊
第9警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊

第23SS警察連隊(第1大隊を除く)

<北方軍集団>
【警察戦闘団「イェッケルン」】Polizei Kampfgruppe "Jeckeln"
第113保安連隊
  第1大隊(第835保安大隊)
  第2大隊(第941保安大隊)
  第3大隊(第972保安大隊)
  第9SS警察連隊第3大隊(第132警察大隊)
第773保安連隊
  第591保安大隊
  第597郷土防衛大隊
  第663保安大隊
  第319ラトビア警察大隊
第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」
  第1大隊(第276シューマ大隊)
  第2大隊(第277シューマ大隊)
  第3大隊(第278シューマ大隊)
    第4大隊(第312シューマ大隊)

第16SS警察連隊
第3警察戦車中隊

 1943年10月6日、北方軍集団/第16軍/第43軍団と中央軍集団/第3戦車軍/第2空軍地上軍団の接合部であるネヴェリ(Nevel)地区でソ連軍の冬季攻勢が開始されると、第43軍団戦区と第2空軍地上軍団戦区で手薄な防衛線が破られ、前線は幅12km、奥行き最大15kmにわかって突破されました。
 この危機的状況に際してハインリッヒ作戦は10月9日に中止され、第16SS警察連隊は戦闘団「イェッケルン」(Kampgruppe "Jeckeln")に配属されて第8軍団戦区での防衛戦に投入されました。
 11月以降も第3警察戦車中隊は北方軍集団/第16軍戦区で戦闘団「イェッケルン」に配属され、第8軍団の第32歩兵師団、第83歩兵師団、第263歩兵師団とともに前線での防衛戦に投入されました。戦闘団「イェッケルン」には第3警察戦車中隊と第8警察戦車中隊も編入されており、合計10両の装甲車と6両のT26戦車を装備していました。1943年11月19日付けの第8軍団の報告によると、戦闘団「イェッケルン」は軽戦車×4両と数両の装甲車を装備していました。

 第132歩兵師団は第18軍戦区から緊急輸送され11月3日~6日にかけて到着しており、1943年11月26日付けの報告では第16警察連隊は第132歩兵師団に配属されており、8両の捕獲戦車を装備していました。
 1943年11月28日付けの第8軍団の報告によると、第132歩兵師団の戦闘団「ワグナー」はSmoshye地区からVassilieva及び176.8高地にかけての制圧地点への攻撃作戦を開始し、戦闘団に配属された第16警察連隊と第9警察連隊の第2大隊は192.7高地を南側から、Tukalovo付近の高地及びPuskiを西側から攻撃しました。この攻撃作戦には2個軽砲兵部隊も支援部隊として参加して激戦が展開され、警察戦車中隊の捕獲戦車も活躍したようです。
 1943年11月29日の午後、第132歩兵師団による「Bekassine Ⅱ」地区への攻撃が実施され、この攻撃には第426擲弾兵連隊の1個軽歩兵大隊、1個工兵大隊及び2個警察大隊が参加し、3個軽砲兵部隊、1個重歩兵砲中隊及び8両の捕獲戦車も支援兵力として投入されました。この作戦はロパトヴァ(Lopatovo)地区から東方に進撃し、ジュトノコヴォ(Shitnikovo)高地を越えてヴォロシュノ(Volosheno)湖とネヴェドロ(Nevedro)湖の間の地峡部に到達し、これによりヤズノ(Jasno)湖までの戦線を確保することを目的としていました。
 
 1943年12月1日付けの戦闘団「イェッケルン」の報告によると、第16警察連隊の警察戦車中隊は8両の戦車を装備しており、1943年12月11日現在の第3警察戦車中隊は編成定数どおりの装甲車×6両と戦車×5両を装備していました。第8軍団や戦闘団「イェッケルン」の報告では、第3警察戦車中隊と第8警察戦車中隊の装甲車輌は区別されておらず、これだけでは第3警察戦車中隊のみの車輌数を区別することは出来ません。
 しかし、戦闘団「イェッケルン」の日々の戦闘車両数の報告では、11月19日から30日までは10両の軽戦車または捕獲戦車が、12月4日から17日までは6両のⅠ号戦車と6両から9両の捕獲軽戦車が報告されています。これらの事から、第3警察戦車中隊は10月にウィーンで再編成されて以降Ⅰ号戦車を装備していことが推定できますが、その推定を行ったRegenberg氏自身もこの点については「未確定」としています。

 1943年12月18日、戦闘団「イェッケルン」の一部は第16軍の後方地区でパルチザン掃討作戦「オットー(Otto)作戦」に投入されました。

オットー(Otto)作戦
 1943年12月12日~12月22日、ロシアのセーベジ(Sebezh)の南東約10kmのルドニャ(Rudnya)村~ベラルーシのポロツク(Polotsk)の北西約30kmのBorkovichiの間の南北約80kmの地域でのパルチザン掃討作戦で、高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」(HSSPF. Ostland und Rußland-Nord)の指揮下で実施されました。
 1943年12月19日付けの高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」(HSSPF. Ostland und Rußland-Nord)から第16軍への報告によると、作戦には下記のような部隊が参加しました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「イェッケルン」の一部】
第16SS警察連隊(2個大隊)
第26SS警察連隊(3個大隊)
警戒大隊×3個半大隊
外国人警察大隊×4個大隊
緊急技術援助隊(TN=Technische Nothilfe)×2個中隊
戦車中隊×1個中隊
装甲車中隊×1個中隊
高射砲部隊×4個部隊
軽高射砲小隊×1個小隊

 この作戦は10日間に渡って行われ、1943年12月21日付けの戦闘団「イェッケルン」の記録によると、第16SS警察連隊の戦車中隊は10両の戦車を装備していました。 その後、1944年の中ごろまでの中隊の記録は残っておらず、中隊の隊員たちの個人的な記録や記憶によると、第3警察戦車中隊は1944年3月にはその装備車輌のすべてを失ってしまったようです。

 1944年6月17日付けの治安警察司令官通達により第16SS警察連隊はリガ治安警察司令官(BdO Riga)の下で緊急再建されることとなりました。この時、第16SS警察連隊の第15中隊が戦車中隊として編成され、この中隊は新しい第3警察戦車中隊となりましたが、編成内容の詳細は不明です。
 1944年6月から9月にかけて、中隊はリトアニアのビリニュス(Vilnius、独名Vilna)及びラトビアのBauske地区で活動しましたが、装備車輌は装甲車×2両のみだったようです。また、第215歩兵師団に配属されたとの記録もあるようですが、こちらも詳細は不明です。

 1944年7月、第16SS警察連隊はリトアニアでビリニュス要塞守備隊に編入されており、兵力約5,000名のビリニュス要塞守備隊は1944年7月9日に包囲されましたが、7月13日に実施された救援作戦に呼応して包囲を突破しての脱出に成功しました。


ビリニュス要塞守備隊(1944年7月7日現在)Stahel少将

・第399擲弾兵連隊
・第1067擲弾兵連隊
・第16SS警察連隊
・第16降下猟兵連隊の一部
・第240砲兵連隊の第2大隊
・第256戦車猟兵大隊
・第296高射砲大隊


 7月末~8月にかけて、第16SS警察連隊は再び第132歩兵師団とともに戦闘団「Werther」(Kampfgruppe Werther)としてDvinsk(独Dünaberg、現ダウガフピルスDaugavpils)地区で前線での防衛戦に投入され、連隊の戦力は大隊規模まで消耗しました。
 その後戦闘団はリガへと後退し、1944年10月20日現在の治安警察部隊の戦力概要によると、第16SS警察連隊は第3警察戦車中隊とともにリバウ(Liebau)に在り、高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」(HSSPF. Ostland und Rusland-Nord)の管轄下でオストラント警察司令官(BdO Ostland)の下に配属されていました。
 第16SS警察連隊はその後クールラント半島で主にパルチザン掃討作戦を行いながら終戦を迎えたようです。

 第3警察戦車中隊は1944年末から1945年始めにかけてウィーン(Vienna)~ザンクト・ペルテン(Sankt Poelten)地区で再び再建されたという未確認の情報もあるようです。


2002.9.19 新規作成
2023.12.7 一部追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/