泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第24SS警察連隊
SS Polizei Regiment 24

 連隊は1942年7月、警察連隊「ラドム」(Polizei Regiment Radom)の連隊本部を引き継ぎ、ルヴォフに駐屯していた第83警察大隊と第153警察大隊の2個大隊に、1941年から北部スロベニアのオーバークライン地区に駐屯していた第93警察大隊を編入し、ルヴォフ(Lvov)において第24警察連隊として編成されました。


第24警察連隊
Polizei Regiment 24

連隊本部
第1大隊(第83警察大隊)
第2大隊(第133警察大隊)
第3大隊(第93警察大隊):オーバークライン地区に駐屯


 1942年8月21日から9月21日の間にラトビアからベラルーシにかけての広い地域で実施された「マラリア熱」(Sumpffieber)作戦では第24警察連隊の第1大隊は2個リトアニア及びラトビア(シューマ)大隊とともに「Barkholt 戦隊」(Gruppep Barkholt)として作戦に参加しました。

マラリア熱(Sumpffieber)作戦
 1942年8月21日~9月22日、ミンスク地区~バラノヴィッチ地区でのパルチザン掃討作戦。作戦は8月22日~9月7日のミンスク地区と9月7日~9月22日のバラノヴィッチ地区の2段階で実施されました。この作戦により49ヶ所のパルチザンキャンプと陣地が破壊され、389名のパルチザンと1,274名の容疑者が殺害され、ユダヤ人8,350名も処刑され、重機関銃×3丁、軽機関銃×2丁、通信機1台、様々な種類の地雷及び手榴弾、馬62頭が押収されました。
作戦参加兵力:
【「Binz」戦隊】Gruppe “Binz”
第23SS警察連隊第1大隊(第307警察大隊)
第15(ラトビア)シューマ大隊
第18(ラトビア)シューマ大隊
第26(ラトビア)シューマ大隊
第256(エストニア)シューマ大隊

【「Barkholt」戦隊】Gruppe “Barkholt”
第24SS警察連隊第1大隊(第83警察大隊)
リトアニア及びラトビアシューマ大隊

第1SS歩兵旅団(自動車化)
自動車化警察1個小隊

第33警察通信中隊

【戦闘団「Schröder」】Kampfgruppe “Schröder”
第7地方防護警察小隊
第11地方防護警察小隊
第12地方防護警察小隊
第13地方防護警察小隊
第21地方防護警察小隊
第11通信中隊

第24(ラトビア)シューマ大隊
第266(ラトビア)シューマ大隊
Kommando Arajsの1個中隊

 1942年9月、連隊の第1大隊と第2大隊は総督府地域から数千人のユダヤ人をベウジェツ(Belzec)強制収容所に移送する任務に従事し、10月中旬には連隊本部と第1大隊(第83警察大隊)と第2大隊(第133警察大隊)はミンスク北東のラゴイスク(Lahoysk)地区へと移動し、パルチザン掃討作戦に投入されました。
 第24警察連隊はその後もミンスク地区に留まり、1943年1月以降は次のようなパルチザン掃討作戦に参加しました。

Franz作戦
 1943年1月7日~1月14日、ミンスク~バブルイスク中間のCherven地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザン1,143名と容疑者882名を殺害し、住民約10,000名が強制労働に連行され、牛2,000頭が押収されました。この作戦は住民を労働者として大規模に強制連行した初めての作戦となりました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】
第13警察連隊
第23警察連隊第1大隊
第24警察連隊

Albert作戦
1943年2月5日~2月10日、ミンスクの南南西50kmのウスダ(Uzba)地区でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第14警察連隊第2大隊
第24警察連隊
第555保安大隊

 1943年2月24日、各警察連隊は名称のみが一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第24警察連隊も「第24SS警察連隊」と改称されました。
 しかし、実際には連隊の第3大隊(第93警察大隊)は引き続き北スロベニアのクラインブルク(Krainburg=Kraji)地区に駐屯しており、東部戦線での連隊は1943年3月末になるまで相変わらず2個連隊のままでした。
 1943年3月29日、待望の第3大隊として第23警察連隊の第1大隊(第307警察大隊)が編入されましたが、この大隊もある程度独立大隊として運用された模様で、連隊本隊(第1大隊及び第2大隊)の活動と必ずしも一致していません。
 オーバークライン地区に駐屯していた旧第3大隊(第93警察大隊)は総督府に呼び戻され、4月21日付けで新編成の第35警察狙撃兵連隊の第1大隊に編入されました。

 1943年3月、第24SS警察大隊はブリャンスク地区の第2戦車軍戦区での防衛戦にも投入され、その後はウクライナ西部のガリチア地方でパルチザン掃討作戦に参加した後にベラルーシに戻りました。
 このころベラルーシではヴァルター・シーマナSS少将兼警察少将の指揮下にSS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe“Schmana”)が編成されてパルチザン掃討作戦を展開しており、連隊の第1大隊と第2大隊はSS戦闘団「シーマナ」に編入されてパルチザン掃討作戦に従事していました。
 1943年3月26日から4月15日にかけて、SS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe “Schmana”)によりボリソフ~ミンスク地区でのパルチザン掃討作戦が実施された際にはミンスクに駐屯していた連隊の第3大隊(第307警察大隊)のほか、モギレフ地区に駐屯していた第1大隊及び第2大隊も増援部隊として派遣されました。


SS戦闘団「シーマナ」(1943年3月31日現在)
SS Kampfgruppe "Schmana"

第2SS警察連隊
第13SS警察連隊の第1大隊及び第2大隊(第4警察戦車中隊を含む)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
第57(ウクライナ)シューマ大隊
第12(増強)警察戦車中隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」

【モギレフ警察司令官オスカー・クンツSS大佐指揮下の増援部隊】
第13SS警察連隊の第3大隊
第24SS警察連隊の第1大隊及び第2大隊
第9警察戦車中隊


 1944年4月初めから下旬にかけてミンスク周辺地区では下記のような一連のパルチザン掃討作戦が展開されており、SS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe “Schmana”)に配属された第24SS警察連隊はこれらの作戦に投入されました。

南国の春(Lenz-Süd)作戦
1943年4月1日~4月4日、ボリソフ(Boeisov)~ストボダ(Sloboda)~スモレヴィチ(Smolevichi)地区でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
SSドルジーナ部隊及びSD部隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」(第202(ポーランド)シューマ大隊を含む)
郷土防衛大隊の1個中隊
第12増強警察戦車中隊

北国の春(Lenz-Nord)作戦
   1943年4月8日~4月13日、「南国の春(Lenz-Süd)作戦」に引き続きボリソフ(Boeisov)~スモレヴィチ(Smolevichi)~ラゴイスク(Lahoysk)~Sembin地区でのパルチザン掃討作戦。作戦地域には約2,000名のパルチザン部隊がいると報告されていました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)

魔笛(Zauberflöte)作戦
 1943年4月17日~4月22日、ミンスク市内及び周辺地区での共産主義者とパルチザン掃討作戦。4月17日午前4時から4月18日までミンスク市(人口180,000名)は完全に封鎖され市街の外縁部には検問所が設置されました。市内はI~VIの6区画に分割され、各区画ごとにしらみつぶしの捜索が行われ、76,000名が捜索を受けこのうち約52,000名が強制労働の選別のため集合場所に連行されました。
 この作戦により住民550名が強制労働のためドイツ本国に連行され、700名はミンスクの労働収容所に送られ、39名が逮捕、2名が殺害されました。また鉄道での捜索中に22,000名の無賃乗車が判明し、以後駅での定期的な捜索が実施されることとなりました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
第12警察戦車中隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
SSドルジーナ部隊
ミンスク守備隊
  保安警察及びSD指揮官「白ロシア」の一部(ミンスク駐屯)
  TeNo部隊
  特別編成増強中隊(士官5名、下士官12名、兵108名)
第141予備歩兵師団の一部
第390野戦訓練師団の一部

 1943年5月の時点で第24SS警察連隊は引続きモギレフ(Mogiliev)に駐屯しており、高級SS及び警察指導者「中央ロシア」管轄下でベラルーシ東部を担当するSS及び警察指導者「モギレフ」もとに配属され、モギレフ警察司令官であるオスカー・クンツSS大佐の指揮下にありました。
 一方連隊の第3大隊(第307警察大隊)については本隊とは別行動をしており、プリピャチ沼沢地のウクライナ側の地域でパルチザン掃討作戦に投入されていました。

Seydlitz作戦
 1943年6月25日~7月27日、プリピャチ沼沢地の中央部から東部にかけての地区で行われたパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザン2,768名と住民2,338名を殺害し、捕虜603名、パルチザンキャンプ807ヶ所と村落57ヶ所を破壊し、住民6,871が強制労働に連行されたほか、牛12,407頭、馬288頭、羊7,246頭、豚124頭が押収されました。
作戦参加兵力:
第10SS警察連隊
第11SS警察連隊
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
第10警察戦車中隊
第8地方警察中隊
第8SS騎兵師団

 1943年7月、第3大隊(第307警察大隊)はプリピャチ沼沢地東部からウクライナのクレメネツ経由ジトムイルに移動しましたが、9月には再びベラルーシに移動し高級SS及び警察指導者「中央ロシア」に配属されてジスナ(Dsisna)近郊でパルチザン掃討作戦に参加しました。
 一方、ベラルーシのモギレフに駐屯する第24SS警察連隊の第1大隊と第2大隊は、10月下旬からベラルーシ北部でのパルチザン掃討作戦に投入されました。

ハインリッヒ(Heirich)作戦
 1943年10月25日~11月9日、ベラルーシ北部のドレトゥニ(Dretun)及びポロツク(Polotsk)東北~ラトビア国境地帯の森林と湿地帯でのパルチザン掃討作戦。この作戦にはクルト・フォン・ゴットベルクSS中将兼警察中将の戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe “von Gottberg”)の他、戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe “Jeckln”)や第3戦車軍の後方部隊が動員されました。
 この作戦ではパルチザン5,452名が殺害され、住民約8,000名が強制労働に連行され、さらに約8,000名は再定住のために強制移住させられました。
作戦参加兵力:
【SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」】SS Kampfgruppe “von Gottberg”
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第2大隊を除く)
第24SS警察連隊(第3大隊を除く)
第1(増強)、第4、第9、第12(増強)警察戦車中隊

【警察戦闘団「イェッケルン」】Polizei Kampfgruppe “Jeckeln”
第113保安連隊
  第9SS警察連隊第3大隊(第132警察大隊)
第773保安連隊
  第319(ラトビア)警察大隊
  第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」

第23SS警察連隊(第1大隊を除く)

 ハインリッヒ作戦は11月14日までの予定でしたが、ネヴェリ(Nevel)地区でソ連軍が北方軍集団の戦線を突破したため作戦は9日までで中止され、作戦に参加した戦闘団「フォン・ゴットベルク」と戦闘団「イェッケルン」はそのまま防衛戦に投入されました。
 1943年11月9日~1944年3月24日の間、第24SS警察連隊はSS戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されたまま中央軍集団の第4軍及び第3戦車軍戦区でポラツク~レペリの防衛戦に配備されました。

 1944年1月現在、連隊の第1大隊と第2大隊は引き続きモギレフに駐屯しており、在モギレフのSS及び警察指導者「モギレフ」の管轄下にありました。
 1944年4月15日、連隊はクルト・フォン・ゴットベルクSS及び警察大将を指揮官とするSS戦闘団「フォン・ゴットベルク」に編入され、Ushachi地区でのパルチザン掃討錯塩、「にわか雨(Regenschauer)作戦」に参加しました。

にわか雨(Regenschauer)作戦
 1944年4月11日~4月16日、ウシャチ(Ushachi)地区(Polotskの南、Lepelの北)で活動中の11,000~12,000名のパルチザン部隊に対してウシャチ(Ushachi)地区~Lepel~ポラツク(Polotsk)地区で実施されたパルチザン掃討作戦。
 作戦には第3戦車軍の後方部隊を含む20,000名以上の兵力が投入され、ウシャチ(Ushachi)地区の西側から掃討作戦を実施しましたが、これに対してパルチザン旅団(実際の兵力は約15個旅団14,000~18,000名)は戦闘を避けて後退し、ドイツ軍はLepel~オルシャ間の鉄道を回復することに成功しました。
 4月16日からは「にわか雨(Regenschauer)作戦」に連携して「春祭り(Frühlingsfest)作戦」が開始されました。
作戦参加兵力:
戦闘団「Krehan」(第95歩兵師団の戦闘団)
第201保安師団の戦闘団
SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」
第52保安師団の一部


SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年4月15日現在)
SS Kampfgruppe "von Gottberg"

第2SS警察連隊
  第1大隊
  第2大隊
  第3大隊
  第9警察戦車中隊
  第12(増強)警察戦車中隊
  第2警察ロケット砲中隊
SS連隊「ディルレヴァンガー」
第24SS警察連隊(第1大隊及び第2大隊)
第501SS猟兵大隊
第743工兵大隊
  大隊本部中隊
  第1中隊
SD(SS保安情報部)1個中隊
回教徒SS連隊
砲兵大隊「フォン・ゴットベルク」
  第2SS警察連隊の第1砲兵中隊
  第2SS警察連隊の第2砲兵中隊
  砲兵中隊「ディルレヴァンガー」


春祭り(Frühlingsfest)作戦
 1944年4月16日~5月12日、ポラツク(Polotsk)近郊のウシャチ(Ushachi)地区でのパルチザン掃討作戦。「にわか雨(Regenschauer)作戦」作戦の直後に開始され、第16軍の後方部隊がポロツク地区の南と西から第3戦車軍の後方部隊に向かってパルチザン部隊を追い込みました。
 この作戦ではSS戦闘団「フォン・ゴットベルク」を含む「にわか雨(Regenschauer)作戦」参加部隊の他にさらに大兵力が招集され、パルチザン部隊は激しく抵抗しソ連空軍も航空攻撃と大規模な空輸により支援し、ドイツ軍も空軍のシュツーカと多数の警察及び武装SS部隊を投入し、第95歩兵師団がパルチザン部隊の撃破に成功しました。
 パルチザン部隊の損害は戦死、捕虜、負傷者14,000名に上り、3,000名以上がオルシャ地域へと脱出したものの、ポラツク南部地域からはパルチザン部隊が一時的に一掃されました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊
第26SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊第3大隊
第36警察狙撃兵連隊第1大隊
第286保安師団第64保安連隊
第330国土防衛大隊
第350保安大隊
カミンスキー旅団第1連隊
カミンスキー旅団第5連隊
カミンスキー旅団護衛大隊
第56(ウクライナ)シューマ大隊
第62(ウクライナ)シューマ大隊
SS連隊「ディルレヴァンガー」
第5ラトビア国境防衛連隊
第2ラトビア義勇警察連隊
第3ラトビア義勇警察連隊
第201保安師団

 1944年5月になると第2SS警察連隊長のギュンター・アンハルトSS大佐を指揮官とする戦闘団「アンハルト」が編成され、第24SS警察連隊も戦闘団に配属されて引き続きパルチザン掃討作戦を継続しました。
 1944年5月22日から6月20日まで連隊は「コルモラン(Kormoran)」作戦に参加し、ミンスク北方のミンスク~ボリソフ間の鉄道線路沿いの地域でパルチザン掃討作戦が実施されました。


SS警察旅団「アンハルト」(1944年5月)
SS-Polizei-Brigade Anhalt

第2SS警察連隊
第24SS警察連隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第1警察砲兵大隊/第1砲兵中隊及び第3砲兵中隊
第56シューマ砲兵大隊/第1砲兵中隊
第743工兵大隊/大隊本部及び第1中隊
RF-SS司令部の高射砲大隊戦闘団(3.7cm砲×3門、2cm砲×3門)
軍用犬大隊(2個軍用犬中隊)


コルモラン(Kormoran)作戦
 1944年5月22日~6月20日、中央軍集団の第4軍及び第3戦車軍戦区であるミンスク(Minsk)~ボリソフ(Borisov)街道沿いの地域でのパルチザン掃討作戦で、作戦地域には約16,000名のパルチザンが集結していると推定されており、白ロシア国防軍占領司令部(Wehrmachtsbefehlshaber Weißruthenien)及び高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(Höhere SS und Polizeiführer Russland-Mitte)の合同作戦として実施されました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊
第24SS警察連隊
第221保安師団
第391野戦訓練師団

 1944年6月22日、ソ連軍の「バグラチオン」作戦により中央軍集団の戦線が破られ、ヒトラーが「要塞」と宣言したミンスクにも危機が訪れました。このため作戦は中止され、第2SS警察連隊の配属されたSS警察旅団「アンハルト」はそのまま戦闘団「アンハルト」はそのまま戦闘団「アンハルト」(Kampfgruppe anhart)として戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されてボリソフ近郊のベレジナ川の防衛線に投入されました。


警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」
Kampfgruppe “von Gottberg”

戦闘団「アンハルト」(Kampfgruppe “Anhalt”)
戦闘団「フレールケ」(Kampfgruppe “Flörke”)【補足-1】


 ソ連軍は薄いドイツ軍戦線をすり抜けてミンスクに迫っており、7月1日にはボリソフからの後退が決まり、7月2日にはミンスク北西のマラジェチナ(Molodechno)地区の新たな防衛線へと後退しました。
 ソ連軍は南北からミンスク市街に迫り、第2親衛戦車軍団が7月3日の早朝にミンスクの防衛を突破し、夜明けには市街中心部に突入しました。翌7月4日にはミンスクからドイツ軍後衛部隊が撤退し、ソ連軍第65軍と第5親衛戦車軍によって市街地西方で包囲の輪が閉じられ、ミンスクが陥落するとともに第4軍の大部分と第9軍の一部がミンスク東方からベレジナ川の間で包囲される事態となりました。

 第24SS警察連隊は6月21日~7月8日にかけて戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されてオルシャ~ボリソフ~ミンスク~モロデチノ地区での防衛戦に投入され、その後はモロデチノ~リダ(Lida)へと後退しましたが大損害を被り、7月12日付けで第1大隊と第2大隊の残余が第2SS警察連隊に編入されました。第3大隊も後退戦により大損害を被りましたが、7月17日までにヴィスワ川沿いのプウォツク(Płock)まで後退し、大隊残余は再び防衛戦に投入されました。

 1944年11月、第24SS警察連隊の残余は下シレジア地方のカトヴィツェ(Kattowitz)~Hindenburg(現ザブジェZabrze)周辺に再集結し、1個大隊が再建されました。1945年春には第24SS警察連隊の新編成大隊は第23SS警察連隊第1大隊とともに戦闘団「Aug」に配属され、シレジア地方のSchwanowitz(現ズバノビツェZwarowice)~Brieg(現ブジェクErzeg)地区の防衛戦に投入されました。
 この戦闘団「Aug」(Kampfgruppe "Aug.")とはおそらく(Kampfgruppe Augsberger)の略で、フランツ・アウグスベルガー(Franz Augsberger)SS少将指揮の第20SS武装擲弾兵師団(エストニア第1)の師団戦闘団のことではないかと思われます。
 第20SS武装擲弾兵師団(エストニア第1)は3月17日のファルケンベルクでの包囲脱出戦でアウグスベルガーSS少将が戦死するなど大きな損害を被っており、師団残余は3月末から新師団長のベルトホルト・マークSS少将の指揮により4月21日まで防衛線を維持し、その後西方へと撤退を開始しました。
 第24SS警察連隊の1個大隊はいつまで戦闘団「Aug」に配属され、その後どうなったのかなど大隊の最後の状況はわかっていません。一方連隊の第3大隊はチェコのケーニヒスグレッツ(現フラデツ・クラーロヴェ)へと後退し、4月27日に解隊しました。


【補足-1】
 戦闘団「フレールケ」は第14歩兵師団の戦闘団で、師団長の名を冠しているところを見ると師団主力であると思われますが編成の詳細はわかりません。師団の別動隊はミンスク東方で他の第4軍部隊とともに包囲されましたが、脱出に成功して第12戦車師団の戦線に合流できたようで、戦闘団「フレールケ」はその後警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」から分離されて合流してものと思われます。
【戻る】


2004.9.23 新規作成
2023.1.8 マラリア熱作戦を追記
2023.9.21 改訂版
2023.11.21 一部追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/