泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第2SS警察連隊
SS-Polizei Regiment 2

 連隊は1942年7月、既存の第11、第13及び第22警察大隊を連隊の第1、第2及び第3大隊として編入し、ティルジット(Tilsit 現カリーニングラード州ソヴィエック)において第2警察連隊として編成されました。連隊にはこのほか1942年9月2日付けで3個警察砲兵中隊が配属され、9月8日付けでこの3個砲兵中隊により「第1警察砲兵大隊」が編成されました。1942年12月には「警察装甲車大隊」(1943年1月からは「第1(増強)警察戦車中隊」と改称)も支援部隊として配属され、戦力の強化が図られました。
 このうち第3大隊(第22警察大隊)については1942年1月から第16軍戦区の警察連隊「ノルト」の増援として前線での防衛戦に投入され、5月中にラトビアに後退するまでに大損害を被って弱体化しており、大隊の編入は9月にずれ込むとともに抜本的な再編には11月までかかりました。


第2警察連隊の編成
Polizei Regiment 2

連隊本部
第1大隊(第11警察大隊)
第2大隊(第13警察大隊)
第3大隊(第22警察大隊)
第1警察砲兵大隊(3個警察砲兵中隊)
警察装甲車大隊(後に第1(増強)警察戦車中隊と改称)


 1942年7月の編成直後から連隊は東部戦線に送られ、高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の管轄下でポロツク(Polotsk)に駐屯しており、中央軍集団の広大な後方地域で活動しました。1942年から1943年にかけて、連隊は下記のようなパルチザン掃討作戦に参加しました。

Adler作戦
 1942年7月20日~8月7日、モギリョフ(Mogilev)~ベレジノ(Beresino)~バブルイスク(Bobruisk)の三角地帯を結ぶ街道を確保するためのパルチザン掃討作戦。この作戦でのドイツ側の損害は戦死25名、負傷64名、行方不明2名で、パルチザン側は1,381名が死亡し428名が拘束され、迫撃砲13門、高射砲5門、対戦車砲9門が破壊された。
作戦参加兵力:
戦闘団「ブッシュマン」(Kampfgruppe "Buchmann")
  第2警察連隊の第1大隊及び第2大隊
  SD分遣隊(数個中隊規模)第286保安師団
第14警察連隊
特別部隊「ディルレヴァンガー」
戦闘団「Kopf」(第203保安師団の一部)
戦闘団「von Gelden」(第286保安師団の一部)
SS野戦補充部隊「バブルイスク」の第1及び第2補充訓練大隊

Nordpol II作戦
 1942年8月1日~8月5日、スモレンスク南東及び東方地区でのパルチザン掃討作戦。1941年1月のソ連軍冬季攻勢の際に第9軍と第4戦車軍の後方地域であったヴィヤジマ南東~南西地域に降下したソ連軍空挺部隊の孤立した生き残りとパルチザン部隊掃討を目的に実施され、スモレンスク南東と東方で2つのグループが捕捉、排除されました。
作戦参加兵力:
第2警察連隊

 第2警察連隊はこの後11月に実施された「Wisent作戦」(詳細不明)に参加したほか12月以降には下記の作戦に参加しました。

ハンブルグ(Hamburg)作戦
 1942年12月10日~12月20日、スロニム(Slonim)地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦ではスロニムのゲットー撤去作戦も同時に行われ、ゲットー内のユダヤ人500名が殺害されたほか、パルチザン1,676名、パルチザン容疑者1,501名、ユダヤ人2,158名、ジプシー30名の5,865名(資料によっては5,874名)が殺害されました。
 第2警察連隊は戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe "von Gottberg")に配属されて次のような部隊とともに作戦に投入されました。
 この作戦によりパルチザン部隊はスロニム(Slonim)地区から南に脱出したため、12月22日~25日には「アルトナ(Altona)作戦」が実施されました。
作戦参加兵力:
戦闘団「フォン・ゴットベルク」
Kampfgruppe "von Gottberg"

第2警察連隊
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊)
第24警察大隊
第15(リトアニア)シューマ大隊
第115(ウクライナ)シューマ大隊
第271(ラトビア)シューマ大隊

収穫祭(Erntefest) I作戦
 1943年1月18日~1月27日、ミンスク(Minsk)~スウツク(Sluzk)鉄道及び道路の東側、Cherven’~アジポヴィーチ(Asipovichy)西方までの地域でのパルチザン掃討作戦。この作戦ではパルチザン805名、容疑者1,165名が殺害、捕虜34名のほか1,308名の住民が強制労働に連行されたほか、馬395頭、牛2,803頭、豚572頭、羊1,560頭、穀物459トンが押収されました。ドイツ側の損害は戦死6名、負傷17名に留まりました。
作戦参加兵力:
戦闘団「フォン・ゴットベルク」
Kampfgruppe "von Gottberg"

第2警察連隊(戦闘団Griep)
第13警察連隊(戦闘団Worm)
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊:戦闘団Binz)
第12(リトアニア)シューマ大隊
第57(ウクライナ)シューマ大隊
保安警察及びSD部隊×3個

Hornung作戦
 1943年2月16日~2月26日、プリピャチ沼沢地のMorocz-Milewicze地区で実施されたパルチザン掃討作戦。この地区では約4,000名のパルチザンが活動していると考えられており、ブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保するため大規模な戦力が招集され、第2警察連隊は戦闘団「オスト」(Kampfgruppe "Ost")に配属されて作戦に投入されました。 【補足-1】


戦闘団「オスト」
Kampfgruppe "Ost"

第2SS警察連隊
第1SS歩兵旅団の「ボリソフ(Borissow)」大隊
第18SS警察山岳猟兵連隊の警察山岳砲兵大隊
SSドルージナ部隊の「ロジオノフ(Radjanoff)」歩兵大隊


 1943年2月24日からは各警察連隊の名称に「SS」が追加されて一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第2警察連隊も「第2SS警察連隊」と改称されました。
 1943年2月、連隊はヴィテブスク(Vitebsk)地区での「クーゲルブリッツ(Kugelblitz)」作戦に参加しました。

Kugelblitz作戦
 1943年2月23日~3月8日、ヴィテブスク地区で実施されたパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザン3,780名を殺害して武器583挺を押収し、ドイツ側損害は117名でした。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊

 1943年3月から第2SS警察連隊はSS及び警察指導者「白ロシア」(SS und Polizeifuehrer Weissruthenien)であるヴァルター・シーマナSS少将兼警察少将を指揮官とするSS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe "Schmana")に配属されパルチザン掃討作戦に従事していました。
 1943年3月26日から4月15日にかけて、SS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe "Schmana")によりボリソフ~ミンスク地区でのパルチザン掃討作戦が実施された際には第2SS警察連隊のほか、モギレフ地区に駐屯していたオスカー・クンツSS大佐指揮下の警察部隊も増援部隊として派遣されました。


SS戦闘団「シーマナ」(1943年3月31日現在)
SS Kampfgruppe "Schmana"

第2SS警察連隊
第13SS警察連隊の第1大隊及び第2大隊
第23SS警察連隊第1大隊
第4警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊
第57(ウクライナ)シューマ大隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」

【モギレフ警察司令官オスカー・クンツSS大佐指揮下の増援部隊】
第13SS警察連隊第3大隊
第24SS警察連隊の第1大隊及び第2大隊
第9警察戦車中隊


 1943年4月初めから下旬にかけてミンスク周辺地区では下記のような一連のパルチザン掃討作戦が展開されており、SS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe "Schmana")に配属された第2SS警察連隊はこれらの作戦に投入されました。

北国の春(Lenz-Nord)作戦
   1943年4月8日~4月13日、ボリソフ(Boeisov)~スモレヴィチ(Smolevichi)~ラゴイスク(Lahoysk)~Sembin地区でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)

魔笛(Zauberflöte)作戦
 1943年4月17日~4月22日、ミンスク市内及び周辺地区での共産主義者とパルチザン掃討作戦。4月17日午前4時から4月18日までミンスク市(人口180,000名)は完全に封鎖され市街の外縁部には検問所が設置されました。市内はI~VIの6区画に分割され、各区画ごとにしらみつぶしの捜索が行われ、76,000名が捜索を受けこのうち約52,000名が強制労働の選別のため集合場所に連行されました。
 この作戦により住民550名が強制労働のためドイツ本国に連行され、700名はミンスクの労働収容所に送られ、39名が逮捕、2名が殺害されました。また鉄道での捜索中に22,000名の無賃乗車が判明し、以後駅での定期的な捜索が実施されることとなりました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
第12警察戦車中隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
SSドルジーナ部隊
ミンスク守備隊
  保安警察及びSD指揮官「白ロシア」の一部(ミンスク駐屯)
  TeNo部隊
  特別編成増強中隊(士官5名、下士官12名、兵108名)
第141予備歩兵師団の一部
第390野戦訓練師団の一部

Draufgänger I-II作戦
 1943年4月28日~5月10日、I及びIIの一連の作戦はミンスク北側のマラジェチナ(Molodechno)及びManila~ルドニャ森林地帯の広い地域で展開されたパルチザン掃討作戦で、この地域には6,000名~7,000名のパルチザン部隊が活動していると考えられており、全体の作戦指揮はフォン・ゴットベルクSS大将が執りました。前半の「Draufgänger I」作戦は4月28日から4月30日まで、後半の「Draufgänger II」作戦は5月1日から5月10日まで実施されました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第12警察戦車中隊
SSドルージナ部隊
第118シューマ大隊

コトブス(Cottbus)作戦
 1943年5月12日~6月21日、ミンスク北東~レぺリ(Lepel)の広範囲の地域で実施されたパルチザン掃討作戦。この作戦はドイツ軍によるロシア・ベラルーシ地域における最大級のパルチザン掃討作戦であり、作戦には次のような部隊が集められ合計16,662名の兵力が投入されました。
 第2SS警察連隊は戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属され、5月20日~5月30日の間、作戦地域の北部にあたるレペリ(Lepal)~Dokschizy~Pleschtschenizy~Chrostの地域で作戦に投入されました。
 この作戦ではパルチザンとその協力者約5,000名が殺害又は逮捕され、その他に約4,000名が戦闘で死亡したと言われます。またフォン・ゴットベルクSS大将への報告によると、パルチザン6,042名とその他3,709名を殺害し、599名を逮捕しました。


戦闘団「フォン・ゴットベルク」

第2SS警察連隊
第13SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊
  第1大隊(第103警察大隊)
  第2大隊(第12(リトアニア)シューマ大隊)
  第3大隊(第51(ウクライナ)シューマ大隊)
SSドルージナ部隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第286保安師団
第600コサック大隊
第57(ウクライナ)シューマ大隊

その他の作戦参加兵力:
第3警察大隊
国家地方警察小隊(ボリソフに駐屯)
国家地方警察出動隊「Kreikebom」
国家地方警察司令部「Plechtschenicze」
第3(リトアニア)シューマ大隊
第15(リトアニア)シューマ大隊
第54(ウクライナ)シューマ大隊
第102(ウクライナ)シューマ大隊
第115(ウクライナ)シューマ大隊
第118(ウクライナ)シューマ大隊
第271(ラトビア)シューマ大隊


Günter作戦
 1943年6月29日~7月7日、Manila-ドニャ(Rudnya) 森林地帯でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊

Hermann作戦
 1943年7月7日~8月5日、ナリボキ(Nalibocki)森林地帯でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第1(増強)警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊
第1SS歩兵旅団
第21山岳小隊(自動車化)

Skank作戦
 1943年8月13日~8月15日、ミンスク南西約30kmのコイダノヴォ(Koidanov)現ジャルジンスク南東地区で実施されたパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第1(増強)警察戦車中隊

ハインリッヒ(Heirich)作戦
 1943年10月25日~11月9日、ベラルーシ北部のドレトゥニ(Dretun)及びポロツク(Polotsk)東北の湿地帯でのパルチザン掃討作戦。この作戦にはクルト・フォン・ゴットベルクSS中将兼警察中将の戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe "von Gottberg") の他、戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe "Jeckln")、第3戦車軍の後方部隊が動員されました。
 この作戦でパルチザン5,452名が殺害され、住民約8,000名が強制労働に連行され、さらに約8,000名の住民が再定住のために強制移住させられました。
作戦参加兵力:
<中央軍集団>
【SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」】SS Kampfgruppe "von Gottberg"
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第2大隊を除く)
第24SS警察連隊(第3大隊を除く)
第1(増強)警察戦車中隊
第4警察戦車中隊
第9警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊

第23SS警察連隊(第1大隊を除く)

<北方軍集団>
【警察戦闘団「イェッケルン」】Polizei Kampfgruppe "Jeckeln"
第113保安連隊
  第1大隊(第835保安大隊)
  第2大隊(第941保安大隊)
  第3大隊(第972保安大隊)
  第9SS警察連隊第3大隊(第132警察大隊)
第773保安連隊
  第591保安大隊
  第597郷土防衛大隊
  第663保安大隊
  第319ラトビア警察大隊
第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」
  第1大隊(第276シューマ大隊)
  第2大隊(第277シューマ大隊)
  第3大隊(第278シューマ大隊)
  第4大隊(第312シューマ大隊)

第16SS警察連隊
第3警察戦車中隊

 ハインリッヒ作戦は11月14日まで実施される予定でしたが、10月初めに開始されたソ連軍の冬季攻勢によりネヴェリ(Nevel)地区で防衛戦が突破されたため計画より5日早く11月9日までで中止され、戦闘団「フォン・ゴットベルク」と戦闘団「イェッケルン」はそのまま防衛戦に投入されました。
 1943年11月12日現在、第2SS警察連隊はミンスクに駐屯するSS及び警察指導者「白ロシア」のヴァルター・シーマナSS少将兼警察少将の管轄下にあり、次のような部隊が配属されていました。


SS及び警察指導者「白ロシア」

第2SS警察連隊
第26SS警察連隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第12(増強)警察戦車中隊
第1高射砲大隊「SS全国指導者」
第57(ウクライナ)シューマ大隊
国家地方警察特別編成行動戦隊(Gendaemerie Einsatz Kommando z.b.V.)
都市防備警察戦隊「ミンスク」(Kommando Schutzpolizei Minsk)
ミンスク国家地方警察司令官所属の自動車化警察小隊「ミンスク」
都市防備警察大隊「バラノヴィッチ」
ミンスク司令部中隊
第11通信中隊
第3(リトアニア)シューマ大隊
第12(リトアニア)シューマ大隊
第15(リトアニア)シューマ大隊
第47(白ロシア)シューマ大隊
第48(白ロシア)シューマ大隊
第49(白ロシア)シューマ大隊
第56(白ロシア)シューマ大隊
第60(白ロシア)シューマ大隊
第61(ウクライナ)シューマ大隊
第62(ウクライナ)シューマ大隊
第63(ウクライナ)シューマ大隊
第254E(リトアニア)シューマ大隊
第271(ラトビア)シューマ大隊


 1944年1月10日、ソ連軍の冬季攻勢に対応してポラツク(Polozk)~ヤズノ(Jasno)湖南部地域の前線には北方軍集団の第16軍/第1軍団司令部が移動し、警察部隊を含む地域内の全部隊が指揮下に編入されおり、中央軍集団戦区の接続部では警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Polizei-Kampfgruppe "von Gottberk")が同様に防衛戦闘に投入されていました。
 1月10日付けの戦闘団「フォン・ゴットベルク」の報告によると第2SS警察連隊に配属された第1(増強)警察戦車中隊の兵力は8輪重装甲車×6両、装軌式装甲車(戦車)×9両となっており、この時期に戦車×1両を失っているようです。
 1944年2月、ビテブスクをめぐる戦いが終結すると中央軍集団の北部戦線は一応安定し、ソ連軍の攻勢は中央軍集団南部の第9軍~第2軍戦区に移り、戦闘団「フォン・ゴットベルク」は再び戦線後方でのパルチザン掃討作戦に投入され、2月3日の時点で戦闘団「フォン・ゴットベルク」は次のような編成となっていました。


SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年2月3日現在)
SS Kampfgruppe "von Gottberg"

第2SS警察連隊
第13SS警察連隊
第24SS警察連隊
第4警察戦車中隊
第9(増強)警察戦車中隊
第1高射砲大隊RFSS
SS補充連隊「バブルィスク」のSS猟兵大隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
シューマ訓練大隊
第112警察通信中隊


春祭り(Frühlingsfest)作戦
 1944年4月16日~5月12日、ポラツク(Polotsk)近郊のウシャチ(Ushachi)地区でのパルチザン掃討作戦。「にわか雨(Regenschauer)作戦」作戦の直後に開始され、第16軍の後方部隊がポロツク地区の南と西から第3戦車軍の後方部隊に向かってパルチザン部隊を追い込みました。
 この作戦ではSS戦闘団「フォン・ゴットベルク」を含む「にわか雨(Regenschauer)作戦」参加部隊の他にさらに大兵力が招集され、パルチザン部隊は激しく抵抗しソ連空軍も航空攻撃と大規模な空輸により支援し、ドイツ軍も空軍のシュツーカと多数の警察及び武装SS部隊を投入し、第95歩兵師団がパルチザン部隊の撃破に成功しました。
 パルチザン部隊の損害は戦死、捕虜、負傷者14,000名に上り、3,000名以上がオルシャ地域へと脱出したものの、ポラツク南部地域からはパルチザン部隊が一時的に一掃されました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第24SS警察連隊
第26SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊第3大隊
第36警察狙撃兵連隊第1大隊
第286保安師団第64保安連隊
第330国土防衛大隊
第350保安大隊
カミンスキー旅団第1連隊
カミンスキー旅団第5連隊
カミンスキー旅団護衛大隊
第56(ウクライナ)シューマ大隊
第62(ウクライナ)シューマ大隊
SS連隊「ディルレヴァンガー」
第5ラトビア国境防衛連隊
第2ラトビア義勇警察連隊
第3ラトビア義勇警察連隊
第201保安師団

 1944年4月15日現在の戦闘団「フォン・ゴットベルク」の戦闘序列によると、第2SS警察連隊には第9警察戦車中隊、第12(増強)警察戦車中隊、第2警察ロケット砲中隊が配属されて増強されていましたが、代わりに本来配属されていた第1警察砲兵大隊の2個砲兵中隊は、SS連隊「ディルレヴァンガー」所属の唯一の砲兵中隊と併せてSS戦闘団直属の砲兵大隊として抽出されていました。


SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年4月15日現在)
SS Kampfgruppe "von Gottberg"

第2SS警察連隊
  第1大隊
  第2大隊
  第3大隊
  第9警察戦車中隊
  第12(増強)警察戦車中隊
  第2警察ロケット砲中隊
SS連隊「ディルレヴァンガー」
第24SS警察連隊(第1大隊及び第2大隊)
第501SS猟兵大隊
第743工兵大隊
  大隊本部中隊
  第1中隊
SD(SS保安情報部)1個中隊
回教徒SS連隊
砲兵大隊「フォン・ゴットベルク」
  第2SS警察連隊の第1砲兵中隊
  第2SS警察連隊の第2砲兵中隊
  砲兵中隊「ディルレヴァンガー」


 1944年5月になると第2SS警察連隊長のギュンター・アンハルトSS大佐を指揮官とするSS警察旅団「アンハルト」が編成され、引き続きパルチザン掃討作戦を継続しました。
 1944年5月22日から6月20日まで連隊は「コルモラン(Kormoran)」作戦に参加し、ミンスク北方のミンスク~ボリソフ間の鉄道線路沿いの地域でパルチザン掃討作戦が実施されました。


SS警察旅団「アンハルト」(1944年5月)
SS-Polizei-Brigade Anhalt

第2SS警察連隊
第24SS警察連隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第1警察砲兵大隊/第1砲兵中隊及び第3砲兵中隊
第56シューマ砲兵大隊/第1砲兵中隊
第743工兵大隊/大隊本部及び第1中隊
RF-SS司令部の高射砲大隊戦闘団(3.7cm砲×3門、2cm砲×3門)
軍用犬大隊(2個軍用犬中隊)


コルモラン(Kormoran)作戦
 1944年5月22日~6月20日、中央軍集団の第4軍及び第3戦車軍戦区であるミンスク(Minsk)~ボリソフ(Borisov)街道沿いの地域でのパルチザン掃討作戦で、作戦地域には約16,000名のパルチザンが集結していると推定されており、白ロシア国防軍占領司令部(Wehrmachtsbefehlshaber Weißruthenien)及び高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(Höhere SS und Polizeiführer Russland-Mitte)の合同作戦として実施されました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊
第24SS警察連隊
第221保安師団
第391野戦訓練師団

 1944年6月22日、ソ連軍の「バグラチオン」作戦により中央軍集団の戦線が破られ、ヒトラーが「要塞」と宣言したミンスクにも危機が訪れました。このため作戦は中止され、第2SS警察連隊の配属されたSS警察旅団「アンハルト」はそのまま戦闘団「アンハルト」(Kampfgruppe anhart)として戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されてボリソフ近郊のベレジナ川の防衛線に投入されました。


警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」
Kampfgruppe "von Gottberg"

戦闘団「アンハルト」(Kampfgruppe "Anhalt")
戦闘団「フレールケ」(Kampfgruppe "Flörke")【補足-2】


 ソ連軍は薄いドイツ軍戦線をすり抜けてミンスクに迫っており、7月1日にはボリソフからの後退が決まり、7月2日にはミンスク北西のマラジェチナ(Molodechno)地区の新たな防衛線へと後退しました。
 ソ連軍は南北からミンスク市街に迫り、第2親衛戦車軍団が7月3日の早朝にミンスクの防衛を突破し、夜明けには市街中心部に突入しました。翌7月4日にはミンスクからドイツ軍後衛部隊が撤退し、ソ連軍第65軍と第5親衛戦車軍によって市街地西方で包囲の輪が閉じられ、ミンスクが陥落するとともに第4軍の大部分と第9軍の一部がミンスク東方からベレジナ川の間で包囲される事態となりました。


警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年7月8日現在)
Kampfgruppe "von Gottberg"

第17SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊
第36警察狙撃兵連隊


 警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」は付近の警察部隊を参集しながらミンスク西方のナリボキ(Nalibokci)森林地帯を経由して後退し、7月8日までにはリダ(Lida)へと達しました。その後、グロドノ(Grodno)まで後退した戦闘団はグロドノ(Grodno)の防衛戦に投入され、市街北側の防衛線で7月12日まで戦いましたが、グロドノが放棄されて陥落すると、7月14日にはグロドノ(Grodno)の西方約20kmのリプスク地区へと後退していました。
 第2SS警察連隊はリダ(Lida)までの後退戦で大損害を被った第24SS警察連隊の2個大隊の残余を7月12日付けで編入し戦力を回復したものと思われます。


警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年7月14日現在)
Kampfgruppe "von Gottberg"

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊
第17SS警察連隊
第22SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊
第34警察狙撃兵連隊
第36警察狙撃兵連隊
第2警察戦車中隊


 1944年7月15日、戦闘団「アンハルト」は戦闘団「フォン・ゴットベルク」の部隊を編入し、SS警察旅団「アンハルト」と改称されましたが、旅団の実態はパルチザン掃討作戦のために集められた警察戦闘団と変わりはなく苦しい後退戦が続きました。
 7月17日から7月26日にかけて、SS警察旅団「アンハルト」は第6軍団に配属され、グロドノ西方のリプスク地区から後退しました。1944年8月8日から9月21日にかけて、旅団は第4軍/第6軍団に配属され、オストプロイセンの旧国境付近のグロドノ(Grodno)~ビャウィストク(Bialystok)地区で防衛戦に投入されました。
 第2SS警察連隊に配属されていた「第1(増強)警察戦車中隊」は治安警察長官命令により連隊を離れ、7月15日までに部隊再編のためウィーンに帰還しました。


SS警察旅団「アンハルト」(1944年8月)
SS-Polizei-Brigade "Anhalt"

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊第1大隊、第3大隊
第17SS警察連隊
  第1大隊
  第34警察狙撃兵連隊第1大隊
第56シューマ砲兵大隊
第15リトアニア警察大隊
警察砲兵中隊「ガリチア第2」
輸送中隊


 SS警察旅団「アンハルト」は、1944年9月22日から10月6日の間は一時的に警察戦闘団「Danz 」(Polizei-Kampfgruppe "Danz")と改称されましたが、10月7日からは第31警察狙撃兵連隊の連隊長であったハインリッヒ・ハンニバル警察大佐が指揮を引き継ぎ、警察戦闘団「ハンニバル」へと再び改称されました。
 1944年10月13日、警察戦闘団「ハンニバル」はSS警察旅団「ハンニバル」と改称されましたが、旅団の実態は例によって後退戦の間に大損害を被った警察部隊の寄せ集めであり、それでも11月の時点で第4軍/第27軍団に配属されて引き続き防衛戦に投入されました。


SS警察旅団「ハンニバル」(1944年10月)
SS-Polizei-Brigade Hannibal

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊第1大隊、第3大隊
第17SS警察連隊の第1大隊
第31警察狙撃兵連隊


 第2SS警察連隊は1944年10月に再編のためブランデンブルクへと移動し、その後補充を受けて12月には西部戦線に復帰し、オーバーライン地区で第14SS軍団に配属されました。
 1945年1月、連隊はラウジッツ(Lausitz)へと移動し、2月からはSS戦闘団「ベルガー」として第9軍の第40軍団に配属されてオーデル河での防衛戦に投入されました。SS戦闘団「ベルガー」はその後第100特別編成旅団本部を経て第608特別編成師団に編入され、それに伴い第2SS警察連隊も師団に編入されました。
 第2SS警察連隊は1945年3月12日付けで正式に解隊され、兵員は3月16日付けでSS警察旅団「ヴィアート」の第30SS警察連隊へと編入されました。SS警察旅団「ヴィアート」(SS Polizei Brigade "Wirth") は4月6日付けで武装SSに移管され、旅団を母体として「第35SS警察擲弾兵師団」へと拡大され、その際には、第30SS警察連隊は「第90SS警察擲弾兵連隊」へと改称されました。


【補足-1】
Hornung作戦
 1943年2月8日~2月26日、プリピャチ沼沢地のMorocz~Milewicze地区でのパルチザン掃討作戦。この地区では約4,000名のパルチザン部隊が活動していると考えられており、パルチザン部隊は機関銃、対戦車砲、戦車や装甲車まで装備する強力な部隊でした。ドイツ軍はこの作戦によりブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保することを目的としており、次のような大規模な兵力が招集されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「オスト」】Kampfgruppe "Ost"
第2SS警察連隊
第1SS歩兵旅団/「ボリソフ(Borissow)」大隊
第18SS警察山岳猟兵連隊/警察山岳砲兵大隊
SSドルージナ部隊/「ロジオノフ(Radjanoff)」歩兵大隊

【戦闘団「ノルト」】Kampfgruppe "Nort"
第23警察連隊/第1大隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第57シューマ大隊
第112警察通信中隊
第12警察戦車中隊

【戦闘団「ヴェスト」】Kampfgruppe "West"
第13警察連隊/第1大隊、第2大隊
第18シューマ大隊
第56シューマ砲兵大隊/第1中隊
警察工兵部隊

【戦闘団「ジュート」】Kampfgruppe "Süd"
第10警察連隊/第2大隊、第3大隊
第11警察連隊/第1大隊
第103シューマ大隊
重装備中隊「Kohlstedt」

【戦闘団「ジュートオスト」】Kampfgruppe "Südost"
スロヴァキア第101歩兵連隊
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【補足-2】
 戦闘団「フレールケ」(Kampfgruppe "Flörke")は第14歩兵師団の戦闘団で、師団長の名を冠しているところを見ると師団主力であると思われますが編成の詳細はわかりません。師団の別動隊はミンスク東方で他の第4軍部隊とともに包囲されましたが、脱出に成功して第12戦車師団の戦線に合流できたようで、戦闘団「フレールケ」はその後警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」から分離されて合流してものと思われます。
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2001.8.16 新規作成
2002.1.30 一部改定
2002.2.11 一部改定
2004.10.1 改訂版
2008.8.15 改訂2版
2016.4.28 改訂3版
2018.6.24 改訂4版
2020.9.22 改訂5版
2023.10.19 一部修正

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