泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年〜1945年)

第1増強警察戦車中隊
1.verstarkte Polizei-Panzer-Kompanie

 1942年7月から8月にかけて第2警察戦車中隊が編成されて10月1日には東部戦線に出動し、それに続き第3、第4、第5等の警察戦車中隊が編成されました。これに伴い第18警察戦車大隊は1943年1月に「第1増強警察戦車中隊」と改称されましたが、その編成は大隊のときから変化ありませんでした。
 その後1942年5月15日の時点で150名であった中隊の兵力は、オートバイ狙撃兵小隊と同時におそらく通信小隊も編成に加えられ、修理工場小隊も含めて207名に増強され次のような編成になったと思われます。


第1増強警察戦車中隊(1943年増強後)

中隊指揮班:小型乗用車×1両、サイドカー×2両、オートバイ×2両
  補給段列:小型乗用車×1両、兵員用トラック×1両、中型トラック×9両
  修理工場小隊:中型乗用車×1両、サイドカー×1両、中型トラック×3両、大型トラック×3両
  通信小隊:無線車×1両
第1小隊:シュタイヤー装甲車×3両、
  サイドカー×1両、オートバイ×3両、兵員用トラック×1両、中型トラック×2両
第2小隊:シュタイヤー装甲車×3両(またはオランダ製装甲車L202(h)?×3両)
  サイドカー×1両、オートバイ×3両、兵員用トラック×1両、中型トラック×2両
第3小隊:ルノー装軌式装甲車×5両、
  サイドカー×1両、オートバイ×3両、兵員用トラック×1両、中型トラック×2両
第4小隊:ルノー装軌式装甲車×5両、
  サイドカー×1両、オートバイ×3両、兵員用トラック×1両、中型トラック×2両
オートバイ狙撃兵小隊:乗用車×1両、オートバイ×1両、兵員用トラック×1両、
  中型トラック×1両、サイドカー×12両

中隊指揮班: 

Stkw.4
 
Krad Bwg.
 
Krad
補給段列

Stkw.4

Stkw.14

Wkw

Wkw

Wkw

Wkw

Wkw

Wkw

Wkw

Wkw

Wkw
修理工場小隊

Stkw.8

Wkw

Wkw

Wkw

Krad Bwg.

Wkw

Wkw

Wkw
通信小隊

Stkw.8(Beffukw)
第1小隊

Krad Bwg. Krad

Krad

Stkw.14

Wkw

Wkw

Pzkw.Steyr

Pzkw.Steyr

Pzkw.Steyr
第2小隊

Krad Bwg. Krad

Krad

Stkw.14

Wkw

Wkw

Pzkw.hollandish

Pzkw.hollandish

Pzkw.hollandish
スタイヤー装甲車または
オランダ製装甲車L202(h)?×3両
第3小隊

Krad Bwg. Krad

Krad

Stkw.14

Wkw

Wkw

K-Pzkw. Renault

K-Pzkw. Renault

K-Pzkw. Renault

K-Pzkw. Renault

K-Pzkw. Renault
第4小隊

Krad Bwg. Krad

Krad

Stkw.14

Wkw

Wkw

K-Pzkw. Renault

K-Pzkw. Renault

K-Pzkw. Renault

K-Pzkw. Renault

K-Pzkw. Renault
オートバイ狙撃兵小隊

Stkw.4

Krad

Stkw.8

Wkw
     
 
Krad Bwg.
 
Krad Bwg.
 
Krad Bwg.
 このスケールで縦1m、横5mです。

 中隊は第2SS警察連隊に配属されて高級SS及び警察指導者「中央ロシアおよび白ロシア」の管轄地域でパルチザン掃討作戦に従事し、第2SS警察連隊とともに戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe "von Gottberk")に配属されて1943年1月から11月までの間にミンスクの周辺地区で12回の作戦行動に参加しました。
 この間1943年1月6日から26日の作戦行動では1個小隊がSS特別大隊「デルレヴァンガー」に分遣されています。また5月1日から10日にかけて行われた作戦では、第2警察連隊の指揮下に第118シューマ大隊、SS特別大隊「デルレヴァンガー」、第12警察戦車中隊が編入されていました。

 1944年1月10日、ロシア軍の冬季攻勢に対応してポラツク(Polozk)〜ヤズノ(Jasno)湖南部地域の前線には北方軍集団の第16軍/第1軍団司令部が移動し、地域内の全部隊が指揮下に編入されました。中央軍集団戦区の接続部では警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Polizei-Kampfgruppe “von Gottberk”)が同様に防衛戦闘に投入されており、1月10日付けの戦闘団の報告によると第2SS警察連隊に配属された第1(増強)警察戦車中隊の兵力は重装甲車×6両、装軌式装甲車(戦車)×9両となっていました。
 1944年2月、二次に渡るビテブスクの戦いが終結すると中央軍集団の北部戦線は一応安定し、ソ連軍の攻勢は中央軍集団南部の第9軍〜第2軍戦区に移り、戦闘団「フォン・ゴットベルク」は再び戦線後方でのパルチザン掃討作戦に投入されました。

 1944年5月になると第2SS警察連隊長のギュンター・アンハルトSS大佐を指揮官とするSS警察旅団「アンハルト」(SS-Polizei-Brigade "Anhalt")が編成され、引き続きパルチザン掃討作戦を継続しましたが、1944年6月22日、ソ連軍の「バグラチオン」作戦により中央軍集団の戦線が破られ、ヒトラーが「要塞」と宣言したミンスクにも危機が迫りました。このためSS警察旅団「アンハルト」はそのまま戦闘団「アンハルト」(Kampfgruppe "Anhalt")として戦闘団「フォン・ゴットベルク」とともにボリソフ近郊のベレジナ川の防衛線に投入されました。
 7月4日にはミンスクが陥落し、戦闘団「フォン・ゴットベルク」は付近の警察部隊を参集しながらミンスク西方のナリボキ(Nalibokci)森林地帯を経由して後退し、7月8日までにはリダ(Lida)へと達しました。その後、グロドノ(Grodno)まで後退した戦闘団はグロドノ(Grodno)の防衛戦に投入され、市街北側の防衛線で7月12日まで戦いましたが、グロドノが放棄されて陥落すると、7月14日にはグロドノ(Grodno)の西方約20kmのリプスク地区へと後退していました。
 1944年7月15日、戦闘団「アンハルト」は戦闘団「フォン・ゴットベルク」の部隊を編入してSS警察旅団「アンハルト」と改称され、7月17日から7月26日にかけて、SS警察旅団「アンハルト」は第6軍団に配属され、グロドノ西方のリプスク地区から後退しました。

 第1(増強)警察戦車中隊については7月15日までに治安警察長官命令により第2SS警察連隊から離れ、東部戦線での損害を補充するためウィーンに帰還しました。
 1944年7月15日現在の治安警察部隊の兵力概要によると、中隊はウィーン警察司令官(BdO Wien)の管轄地区にあり、23日と24日にはウィーンの中隊に警察学校から補充要員が到着しました。同様に1944年10月20日の兵力概要によると、中隊はこの時期にはウィーン警察司令官(BdO Wien)および高級SS及び警察指導者「ドナウ」(HSSPF. Donau)の管轄地区にありました。

 第1警察戦車中隊がその後補充や新装備を受け取ったかどうかは不明ですが、1945年2月22日には再びユーゴスラビアへ出動し、終戦はオーバークライン(Oberkrain)地方で迎えました。1945年4月26日の時点で第1警察戦車中隊は第28SS警察連隊「トート」の第1大隊及び第3大隊、第17SS警察連隊、第3(自動車化)SS国家地方警察大隊(SS Gendarm Battalion 3(mot.))、第14警察戦車中隊とともにGoettenitz〜Gottschee〜Gurk地区にかけてのトプラ河沿いの戦線に布陣していました。


2000.8.27 新規登録
2000.9.17 編成表をアップデート
2000.12.20 編成表の誤りを訂正、CG.gifによる編成表を追加。編成表に使用したCG素材はkimkimさんと裕乃妃さんにいただきました。お礼申し上げます。
2023.10.20 改訂版

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/