泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年〜1945年)
第12(増強)警察戦車中隊
12.verstarkte Polizei-Panzer-Kompanie
第12警察戦車中隊は1942年10月頃ウィーン警察自動車学校の要員から編成され、1942年12月22日、中隊は高級SS及び警察指導者「中央ロシア」に配属されて、ドニェプル河沿いの町モギレフ(Mogilew=Mahilev)に駐屯しました。その後中隊はロシア製鹵獲車両により戦力の増強を受け、1943年1月には「増強」戦車中隊として次のような編成になりました。
第12(増強)警察戦車中隊
中隊本部
指揮班
修理工場小隊
補給段列
第1小隊:ロシア製装甲車×3両
第2小隊:ロシア製装甲車×3両
第3小隊:ロシア製装軌式装甲車及びV号戦車×5両
第4小隊:ロシア製装軌式装甲車×5両
中隊がモギレフで受領した装甲車両は、BA10装甲偵察車、T60戦車、T70戦車、T26戦車などのロシア製捕獲車両が写真で確認できるほか、T34の評価報告書が残されていますが、実際に中隊が装備したかどうかは不明です。その他に少数ながらV号戦車も装備されていました。
中隊は1942年12月22日、中隊は高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の管轄下に配属されてモギレフに駐屯しましたが、1943年の後半になってから東部戦線中央戦区のSmoleviceに移動するまで同地に駐屯して対ゲリラ作戦に従事しました。
1943年3月30日から4月7日にかけて、中隊はSS大隊「デルレヴァンガー」とともにBorissow-Sloboda-Smolewitsche地区での対ゲリラ掃討作戦「南レンツ作戦」(Lenz
Sud)に参加しましたが、この作戦には増援兵力として第13警察連隊、第23警察連隊の第1大隊、第57シューマ大隊、第202シューマ大隊も参加しました。1943年5月1日から10日にかけてManily及びRudniaの森林地帯で実施された「Draufganger
U作戦」では、第12増強警察戦車中隊は第1増強戦車中隊とともに第2警察連隊に配属されました。
1943年4月1日現在の高級SS及び警察指導者「中央ロシア及び白ロシア」の戦力概要によると、第12増強戦車中隊は序列的にはSS警察指導者「白ロシア」の指揮下にあり、戦術上は戦闘団「シーマナ」(Kampfgruppe
"Schimana")に配属されていました。
1943年7月には中隊は戦闘団「フォン・ゴットベルグ」(Kampfgruppe "Von Gottberg")に配属されて「ヘルマン作戦」に参加しました。この作戦はSluzk〜Baranowitsche〜Nowogrodek地区でのゲリラ掃討を目的に実施され、作戦には第12増強警察戦車中隊のほかに第1SS歩兵旅団、第2SS警察連隊、第21山岳小隊(自動車化)の各部隊が参加しました。第12増強警察戦車中隊は作戦終了後の8月も引き続き戦闘団「フォン・ゴットベルグ」に配属されて対ゲリラ作戦に出動しており、1943年8月11日には中隊は第13SS警察連隊とともに「Sauberflote作戦」に参加しました。
また、高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」の1943年8月14日付けの日常命令によると、第12増強警察戦車中隊に対して4個の2級鉄十字章が授与されており、この時期には中隊の一部が北部ロシア地区に派遣されていた可能性があります。
1943年10月25日から戦闘団「フォン・ゴットベルグ」は対ゲリラ戦部隊総司令官の指揮下でPolozk〜Krassnopolje〜Pusstoschka〜Idriza〜Ssebesh地区でのゲリラ組織の掃討を目的にした「ハインリッヒ作戦」に出動しました。この作戦には第2SS警察連隊(第1増強戦車中隊を含む)、第13SS警察連隊(第4戦車中隊を含む)、第24SS警察連隊、第9警察戦車中隊および第12増強戦車中隊の各部隊が参加しました。
1944年1月10日、ロシア軍の冬季攻勢により東部戦線は各地で危険な状況になり、PolozkからJasno湖南端にかけての戦区ではすべての警察部隊が第1軍団に編入されてロシア軍に対する防衛戦に投入され、戦闘団「フォン・ゴットベルグ」も「ハインリッヒ作戦」に参加した部隊がそっくり編入されました。1944年1月10日現在の戦闘団「フォン・ゴットベルグ」の戦闘序列によると、中隊の戦力は将校及び兵29名、給与支給人員は将校及び兵43名と報告されており、おそらく中隊の戦力は装甲偵察車(装輪)、装甲偵察車(装軌)及び装甲戦闘車両からなる小隊規模に減少していたと思われます。1944年3月1日現在、第12増強警察戦車中隊は戦闘団「フォン・ゴットベルグ」の第1及び第9警察戦車中隊とともに陸軍の第32歩兵師団に配属されていましたが、中隊ないしはその装甲車小隊は1月と3月には戦闘団予備の扱いとなっていました。
当時の中隊員の証言によると、中隊は1943年から1944年にかけての冬はSmoleviceに駐屯してWitebskの前線で戦い、1944年の春から夏にかけては高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の管轄内の各地を転戦しました。1944年7月15日現在の治安警察部隊の戦力概要によると、中隊はその後単独で高級SS及び警察指導者「中央ロシア及び白ロシア」の本部があるオストプロイセンのスロータースブルクに後退しています。中隊は東部戦線からオストプロイセンに後退後、さらにフランクフルト・デア・オーデルを経由して1944年7月末から8月はじめにかけてウイーン警察自動車学校の予備戦車大隊に帰還し、1944年8月13日には移動と集結を完了しました。
第12増強警察戦車中隊は1944年9月からウイーン警察自動車学校の予備戦車大隊において再編成が行われ、一部はイタリアのベロナ(Verora)近郊のロギノ(Logino)で陸軍の南部予備戦車大隊(Panzer-Ersatz-Abteilung-Sud)からイタリア製戦車を受領することになりました。ベロナ警察司令官(Bdo.
Verona)の記録によると、1944年11月9日現在で中隊の兵力は74名と記録されています。
再編成後の中隊は「増強」が外れて「第12警察戦車中隊」となり、陸軍戦力定数指標(K.St.N)1149号B項(14両編成の突撃砲大隊)にもとづいて編成されましたが、師団修理工場中隊の回収班の配属は除外されていました。また、装備車輌は突撃砲だけではなくて、イタリア製M15戦車を装備したことは写真により判明しています。その後、第12警察戦車中隊は第15警察戦車中隊向けとして準備された装備をそっくり引き継いで、急速に編成を完了したものと思われ、将校4名、下士官・兵111名で下記のような編成になりました。
第12警察戦車中隊(1944年9月)
中隊本部
指揮班:M15装軌式装甲車×1両、M42突撃砲×1両
補給段列
整備班(第20修理工場小隊)
予備班
第1小隊:M15装軌式装甲車×4両
第2小隊:M42突撃砲×4両
第3小隊:M42突撃砲×4両
第12警察戦車中隊(1944年9月)
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再編成の完了した中隊は、1944年9月27日付け治安警察長官命令によりウイーン警察自動車学校(警察予備戦車大隊)からベルグラード警察司令官の指揮下で第5SS警察連隊に配属されることになりましたが、10月21日付けの治安警察長官命令では高級SS及び警察指導者「ハンガリー」の指揮下に入るよう変更されています。
1944年10月20日現在の治安警察部隊の戦力概要によると、第12警察戦車中隊は高級SS及び警察指導者「ハンガリー」のブダペスト警察司令官の指揮下にあり、第1SS警察連隊に配属されていました。第12警察戦車中隊はその後のブダペストをめぐる戦闘により1944年末から1945年の始めにはブダペストで壊滅しました。
1945年3月27日付けの治安警察長官の通達により第12警察戦車中隊は正式に解散され、兵員の残余は警察自動車学校の警察予備戦車大隊に戻されました。車両と機材はウイーン警察自動車学校へ、第20修理工場小隊の車両と機材についてはイグラウ警察自動車学校の予備修理工場大隊へそれぞれ編入されましたが、これは多分書類上の手続きのみであったと思われます。
2001.5.5 新規作成