第23SS警察連隊
SS Polizei Regiment 23
連隊は1942年7月、クラクフ(Cracow)で警察連隊「クラクフ」(Polizei Regiment Cracow) の連隊本部要員を引き継ぎ、第23警察連隊(Polizei
Regiment 23)として編成されました。連隊の第1大隊は以前の警察連隊「ワルシャワ」の第3大隊であった第307警察大隊が編入され、第2大隊と第3大隊はCzestochwa、クラクフ(Cracow)、Reichshof、ルヴォフ(Lvov)、ラドム(Radom)及びKielceの総督府管内の各都市に駐屯していた警察中隊を編入して編成されました。
しかし新編成の第2大隊と第3大隊については編成が遅れ、各大隊の編成は1943年1月23日になってやっと完了しました。
第23警察連隊
Polizei Regiment 23
連隊本部
第1大隊(第307警察大隊)
第2大隊(新編成)
第3大隊(新編成)
1942年8月21日から9月21日の間にラトビアからベラルーシにかけての広い地域で実施された「マラリア熱(Sumpffieber)作戦」では第23警察連隊の第1大隊はラトビア及びエストニアシューマ大隊とともに「Binz」戦隊(Gruppep
"Binz")として作戦に参加しました。
「Binz」戦隊(Gruppep "Binz")という部隊名は第1大隊(第307警察大隊)の指揮官であるSiegfried
Binz警察大尉の名前から取られたもので、大尉は1942年9月12日付けで警察少佐に昇進しました。
マラリア熱(Sumpffieber)作戦
1942年8月21日~9月22日、ミンスク地区~バラノヴィッチ地区でのパルチザン掃討作戦。作戦は8月22日~9月7日のミンスク地区と9月7日~9月22日のバラノヴィッチ地区の2段階で実施されました。この作戦により49ヶ所のパルチザンキャンプと陣地が破壊され、389名のパルチザンと1,274名の容疑者が殺害され、ユダヤ人8,350名も処刑され、重機関銃×3丁、軽機関銃×2丁、通信機1台、様々な種類の地雷及び手榴弾、馬62頭が押収されました。
作戦参加兵力:
【「Binz」戦隊】Gruppe "Binz"
第23SS警察連隊第1大隊(第307警察大隊)
第15(ラトビア)シューマ大隊
第18(ラトビア)シューマ大隊
第26(ラトビア)シューマ大隊
第256(エストニア)シューマ大隊
【「Barkholt」戦隊】Gruppe "Barkholt"
第24SS警察連隊第1大隊(第83警察大隊)
リトアニア及びラトビアシューマ大隊
第1SS歩兵旅団(自動車化)
自動車化警察1個小隊
第33警察通信中隊
【戦闘団「Schröder」】Kampfgruppe "Schröder"
第7地方防護警察小隊
第11地方防護警察小隊
第12地方防護警察小隊
第13地方防護警察小隊
第21地方防護警察小隊
第11通信中隊
第24(ラトビア)シューマ大隊
第266(ラトビア)シューマ大隊
Kommando Arajsの1個中隊
第23警察連隊は1942年11月に「Tannenbaum作戦」に参加し、11月22日~11月26日の間は戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されて「Nürunberg作戦」に、続いて12月にはベラルーシ西部での「Hamburg作戦」、「Altona作戦」、プリピャチ沼沢地での「Riston作戦」と連続して作戦に投入されました。
Nürunberg作戦
1942年11月22日~11月26日、ミンスク北方のPlesze Zenice(現Pleshchenitsy)~Glebokie(現フィルボーカエHlybokaye)~ドルキノヴォ(Dolhinow)地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザン789名、容疑者357名、ユダヤ人1,826名、ジプシー7名の合計2,979名が殺害されました。
同時にDounilowitschi(現ドウニロヴィチDunilavičy)、Postawy(現パスターヴィPostavy)及びHermanowitsch(現ゲルマノヴィッチHermanowicze)ではゲットー撤去作戦が実施され、ユダヤ人3,800名以上が殺害されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第14警察連隊(第2大隊を除く)
第23警察連隊第1大隊
第1SS歩兵旅団(自動車化)
地方防護警察戦隊「Kern」(Gendarmerie Trupp "Kern")
2個シューマ大隊
保安警察及びSD指揮官「ヴィレイカ」(Kommandeurs der Sichenheitspolizei und SD "Wilejka")
ハンブルグ(Hamburg)作戦
1942年12月10日~12月20日、スロニム(Slonim)地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦ではスロニムのゲットー撤去作戦も同時に行われ、ゲットー内のユダヤ人500名が殺害されたほか、パルチザン1,676名、パルチザン容疑者1,501名、ユダヤ人2,158名、ジプシー30名の5,865名(資料によっては5,874名)が殺害されました。
第2警察連隊は戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe von Gottberg)に配属されて次のような部隊とともに作戦に投入されました。また、この作戦によりパルチザン部隊はスロニム(Slonim)地区から南に脱出したため、12月22日~25日には「アルトナ(Altona)作戦」が実施されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第2警察連隊
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊)
第24警察大隊
第15(リトアニア)シューマ大隊
第115(ウクライナ)シューマ大隊
第271(ラトビア)シューマ大隊
アルトナ(Altona)作戦
1942年12月22日~12月25日スロニム(Slonim)南方地区でのパルチザン掃討作戦。「ハンブルグ(Hamburg)作戦」でパルチザン部隊はスロニム(Slonim)地区から南に脱出したため、追撃作戦として実施されました。この作戦によりパルチザン97名、パルチザン容疑者785名、ユダヤ人126名、ジプシー24名が殺害されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
※状況的に「ハンブルグ(Hamburg)作戦」に続き戦闘団「フォン・ゴットベルク」の部隊がそのまま投入されと思われますが、詳細な情報がありません。
Riston作戦
1942年12月24日、プリピャチ沼沢地中央部のピンスク湿地帯でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第23警察連隊
1943年1月、連隊の第1大隊はミンスク~バブルイスク中間のCherven地区で戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されてパルチザン掃討作戦に参加しました。
Frenz作戦
1943年1月7日~1月14日、ミンスク~バブルイスク中間のCherven地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザン1,143名と容疑者882名を殺害し、住民約10,000名が強制労働に連行され、牛2,000頭が押収されました。この作戦は住民を労働者として大規模に強制連行した初めての作戦となりました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第13警察連隊
第23警察連隊第1大隊
第24警察連隊
収穫祭(Erntefest) I作戦
1943年1月18日~1月27日、ミンスク(Minsk)~スウツク(Sluzk)鉄道及び道路の東側、Cherven’~アジポヴィーチ(Asipovichy)西方までの地域でのパルチザン掃討作戦。この作戦ではパルチザン805名、容疑者1,165名が殺害、捕虜34名のほか1,308名の住民が強制労働に連行されたほか、馬395頭、牛2,803頭、豚572頭、羊1,560頭、穀物459トンが押収されました。ドイツ側の損害は戦死6名、負傷17名に留まりました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第2警察連隊(戦闘団Griep)
第13警察連隊(戦闘団Worm)
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊:戦闘団Binz)
第12(リトアニア)シューマ大隊
第57(ウクライナ)シューマ大隊
保安警察及びSD部隊×3個
収穫祭(Erntefest) II作戦
1943年1月28日~2月9日、収穫祭(Erntefest) I作戦に続きミンスク(Minsk)~スウツク(Sluzk)鉄道及び道路の西側でのパルチザン掃討作戦。この作戦では収穫祭(Erntefest) I作戦とほぼ同様の部隊が参加し、パルチザン2,325名を殺害し、住民272名を強制労働に連行しました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第2警察連隊(戦闘団「Griep」)
第13警察連隊(戦闘団「Worm」)
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊:戦闘団Binz)
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
Rodjanoff大隊(ドルジーナSS部隊)
Hornung作戦
1943年2月16日~2月26日、プリピャチ沼沢地のMorocz-Milewicze地区で実施されたパルチザン掃討作戦。この地区では約4,000名のパルチザンが活動していると考えられており、ブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保するため大規模な戦力が招集され、警察連隊第1大隊(第307警察大隊)は戦闘団「ノルト」(Kampfgruppe
"Nort")に配属されて作戦に投入されました。 【補足-1】
戦闘団「ノルト」
Kampfgruppe "Nort"
第23警察連隊/第1大隊(第307警察大隊)
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第57シューマ大隊
第112警察通信中隊
第12警察戦車中隊
1943年2月24日からは各警察連隊の名称に「SS」が追加されて一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第23警察連隊も「第23SS警察連隊」と改称されました。
1943年3月26日現在の戦闘序列によると、第23SS警察連隊の第1大隊はSS及び警察指導者「白ルテニエン」であるヴァルター・シーマナSS少将兼警察少将が指揮するSS戦闘団「シーマナ」(SS Kampfgruppe "Schmana")に配属されており、ボリソフ(Borisov)およびミンスク(Minsk)地区でパルチザン掃討作戦を展開しました。1943年3月時点でのSS戦闘団「シーマナ」の編成は次のようになっていました。
SS戦闘団「シーマナ」(1943年3月31日現在)
SS Kampfgruppe "Schmana"
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊の第1大隊及び第2大隊(第4警察戦車中隊を含む)
第23SS警察連隊第1大隊
第57シューマ大隊(第1SS警察連隊の第5中隊を含む)
第12(増強)警察戦車中隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第23SS警察連隊の第1大隊(第307警察大隊)は1943年3月29日付けで第24警察SS連隊第3大隊として転属し、これにより第23SS警察連隊は2個大隊編成となりました。連隊の第2大隊は1943年4月以降もクラクフ(Cracow)に駐屯し、第3大隊は最初はワルシャワ(Warsaw)に駐屯し、その後1943年末にはポズナニ(Poznan)に移動しながら総統府地域でのパルチザン掃討作戦に投入されました。
南国の春(Lenz-Süd)作戦
1943年4月1日~4月4日、ボリソフ(Boeisov)~ストボダ(Sloboda)~スモレヴィチ(Smolevichi)地区でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
SSドルジーナ部隊及びSD部隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」(第202(ポーランド)シューマ大隊を含む)
郷土防衛大隊の1個中隊
第12増強警察戦車中隊
北国の春(Lenz-Nord)作戦
1943年4月8日~4月13日、「南国の春(Lenz-Süd)作戦」に引き続きボリソフ(Boeisov)~スモレヴィチ(Smolevichi)~ラゴイスク(Lahoysk)~Sembin地区でのパルチザン掃討作戦。作戦地域には約2,000名のパルチザン部隊がいると報告されていました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
Seydlitz作戦
1943年6月25日~7月27日、プリピャチ沼沢地の中央部から東部にかけての地区で行われたパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザン2,768名と住民2,338名を殺害し、捕虜603名、パルチザンキャンプ807ヶ所と村落57ヶ所を破壊し、住民6,871が強制労働に連行されたほか、牛12,407頭、馬288頭、羊7,246頭、豚124頭が押収されました。
作戦参加兵力:
第10SS警察連隊
第11SS警察連隊
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊
第10警察戦車中隊
第8地方警察中隊
第8SS騎兵師団
このあと1943年10月末まで第23SS警察連隊の行動記録は途絶えており、10月末から再びパルチザン掃討作戦に投入され、次のような作戦行動に参加しました。
ハインリッヒ(Heirich)作戦
1943年10月25日~11月9日、ベラルーシ北部のドレトゥニ(Dretun)及びポロツク(Polotsk)東北~ラトビア国境地帯の森林と湿地帯でのパルチザン掃討作戦。この作戦にはクルト・フォン・ゴットベルクSS中将兼警察中将の戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe
"von Gottberg")の他、戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe "Jeckln")や第3戦車軍の後方部隊が動員されました。
この作戦ではパルチザン5,452名が殺害され、住民約8,000名が強制労働に連行され、さらに約8,000名は再定住のために強制移住させられました。
ハインリッヒ作戦は11月14日までの予定でしたが、ネヴェリ(Nevel)地区でソ連軍が北方軍集団の戦線を突破したため作戦は9日までで中止され、作戦に参加した戦闘団「フォン・ゴットベルク」と戦闘団「イェッケルン」はそのまま防衛戦に投入されました。
作戦参加兵力:
【SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」】SS Kampfgruppe "von Gottberg"
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第2大隊を除く)
第24SS警察連隊(第3大隊を除く)
第1(増強)、第4、第9、第12(増強)警察戦車中隊
【警察戦闘団「イェッケルン」】Polizei Kampfgruppe "Jeckeln"
第113保安連隊
第9SS警察連隊第3大隊(第132警察大隊)
第773保安連隊
第319(ラトビア)警察大隊
第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
ハインリッヒ作戦は11月14日までの予定でしたが、ネヴェリ(Nevel)地区でソ連軍が北方軍集団の戦線を突破したため作戦は9日までで中止され、作戦に参加した戦闘団「フォン・ゴットベルク」と戦闘団「イェッケルン」はそのまま防衛戦に投入されました。第23SS警察連隊(第1大隊を除く)はロッソニ(Rosony)地区で11月1日~11月4日までの間のみ「ハインリッヒ(Heirich)作戦」の支援に投入されましたが、その後はポロツク南方へと移動して「Ulannen作戦」に投入されました。
Ulanen作戦
1943年11月6日~11月7日、ベラルーシ北部、ポラツク南方約35kmのDubrovka-Yaroslav地区でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第32警察狙撃兵連隊第1大隊、第2大隊(第206(ウクライナ)シューマ大隊)
第405郷土防衛大隊
「Ulanen作戦」修了後、第23SS警察連隊も11月から1944年4月までの間、ポロツク地区で防衛戦に投入され、4月にはポロツク地区でのパルチザン掃討作戦に再び投入されました。
春祭り(Frühlingsfest)作戦
1944年4月16日~5月12日、ポラツク(Polotsk)近郊のウシャチ(Ushachi)地区でのパルチザン掃討作戦。「Regenschauer作戦」の直後に開始され、第16軍の後方部隊がポロツク地区の南と西から第3戦車軍団の陣地に向かってパルチザン部隊を追い込みました。
この作戦ではSS戦闘団「フォン・ゴットベルク」を含む「にわか雨(Regenschauer)作戦」参加部隊の他にさらに大兵力が招集され、パルチザン部隊は激しく抵抗しソ連空軍も航空攻撃と大規模な空輸により支援し、ドイツ軍も空軍のシュツーカと多数の警察及び武装SS部隊を投入し、第95歩兵師団がパルチザン部隊の撃破に成功しました。
パルチザン部隊の損害は戦死、捕虜、負傷者14,000名に上り、3,000名以上がオルシャ地域へと脱出したものの、ポラツク南部地域からはパルチザン部隊が一時的に一掃されました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊
第26SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊第3大隊
第36警察狙撃兵連隊第1大隊
第286保安師団第64保安連隊
第330国土防衛大隊
第350保安大隊
カミンスキー旅団第1連隊
カミンスキー旅団第5連隊
カミンスキー旅団護衛大隊
第56(ウクライナ)シューマ大隊
第62(ウクライナ)シューマ大隊
SS連隊「ディルレヴァンガー」
第5ラトビア国境防衛連隊
第2ラトビア義勇警察連隊
第3ラトビア義勇警察連隊
第201保安師団
1944年6月22日、ソ連軍の「バグラチオン」作戦により中央軍集団の戦線が破られると、第23SS警察連隊は6月26日~7月14日の間にオルシャ(Orsh)~ボリソフ(Borisov)及びミンスク地区での前線で防衛戦に投入され、その後7月には総督府のルブリン地区まで後退してパルチザン掃討作戦に投入されました。
Wirbelstrum作戦
1944年7月15日~7月21日、総督府のルブリン北東約50kmのパルチェフ(Parczew)地区でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第23SS警察連隊
第310郷土防衛大隊
第619郷土防衛大隊
第887郷土防衛大隊
第888郷土防衛大隊
第990郷土防衛大隊
第991郷土防衛大隊
第992郷土防衛大隊
第23SS警察連隊はその後休養と再編成のためシレジア地方のカトヴィッツ(Kattowitz)まで後退し、連隊の第1大隊が再建されたようですが詳細はわかりません。1944年8月、連隊の2個大隊は臨時戦闘団として上シレジア地方での防衛戦に投入され、11月までの戦闘で第2大隊は壊滅して解体されました。
1945年1月18日~3月まで、第23SS警察連隊の新しい第1大隊はBendsburg(現ベンジンBedzin)~Sossnowitz(現ソスノビエツSosnowiec)~Hinderburg(現ザビジェZabrze)~Gleiwitz(現グリビツエGliwice)地区での防衛戦に投入されました。一方、連隊の第3大隊はアウシュビッツ収容所に送られて収容所警備に従事し、1945年3月に解隊されました。
第23SS警察連隊は連隊本部も1945年3月に壊滅した模様で、第1大隊のみが第24SS警察連隊の新編成大隊とともに戦闘団「Aug」(Kamphgruppe
"Aug.")に配属され、シレジア地方のSchwanowitz(現ズバノビツェZwarowice)~Brieg(現ブジェクErzeg)地区の防衛戦に投入されました。
この戦闘団「Aug」(Kamphgruppe "Aug.")とはおそらく(Kamphgruppe "Augsberger")の略で、フランツ・アウグスベルガーSS少将の第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)の師団戦闘団のことではないかと思われます。
第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)は3月17日のファルケンベルクでの包囲脱出戦でアウグスベルガーSS少将が戦死するなど大きな損害を被っており、師団残余は3月末から新師団長のベルホルト・マークSS少将の指揮により4月21日まで防衛戦を維持し、その後は西方へと撤退を開始しました。
第23SS警察連隊第1大隊はいつまで戦闘団「Aug」に配属され、その後どうなったのかなど、大隊の最後の状況はわかっていません。
【補足-1】
Hornung作戦
1943年2月8日~2月26日、プリピャチ沼沢地のMorocz~Milewicze地区でのパルチザン掃討作戦。この地区では約4,000名のパルチザン部隊が活動していると考えられており、パルチザン部隊は機関銃、対戦車砲、戦車や装甲車まで装備する強力な部隊でした。
ドイツ軍はこの作戦によりブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保することを目的としており、次のような大規模な兵力が招集されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「オスト」】Kampfgruppe "Ost"
第2SS警察連隊
第1SS歩兵旅団/「ボリソフ(Borissow)」大隊
第18SS警察山岳猟兵連隊/警察山岳砲兵大隊
SSドルージナ部隊/「ロジオノフ(Radjanoff)」歩兵大隊
【戦闘団「ノルト」】Kampfgruppe "Nort"
第23警察連隊/第1大隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第57シューマ大隊
第112警察通信中隊
第12警察戦車中隊
【戦闘団「ヴェスト」】Kampfgruppe "West"
第13警察連隊/第1大隊、第2大隊
第18シューマ大隊
第56シューマ砲兵大隊/第1中隊
警察工兵部隊
【戦闘団「ジュート」】Kampfgruppe "Süd"
第10警察連隊/第2大隊、第3大隊
第11警察連隊/第1大隊
第103シューマ大隊
重装備中隊「Kohlstedt」
【戦闘団「ジュートオスト」】Kampfgruppe "Südost"
第101スロヴァキア歩兵連隊
【戻る】
2004.10.1 新規作成
2023.9.12 改訂版
2023.11.22 一部追記