泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年〜1945年)

第9警察戦車中隊
9.Polizei-Panzer-Kompanie

 中隊は1942年11月18日付けのSS全国指導者兼ドイツ警察長官通達によりウィーン警察自動車学校で編成が開始され、次のような編成となりました。


第9警察戦車中隊の編成

中隊本部
  指揮班
  修理工場小隊
  補給段列
第1装甲車小隊:パナール装甲車×3両
第2装甲車小隊:パナール装甲車×3両
第3戦車小隊:ロシア製装軌式装甲車×5両


 装甲車小隊に配備されたパナール装甲車はウィーン警察自動車学校の訓練用車両が当てられ、戦車小隊の捕獲ロシア製装軌式装甲車は高級SS及び警察指導者「中央ロシア」から中隊に送られることとなりました。中隊のその他の装備車両については特別配備が行われました。またウィーンの警察技術及び輸送学校の予備兵器庫からはフィールドキッチン(旧式の鉄車輪型)が警察自動車学校へと送られて中隊に配備されました。修理工場小隊はベルリン警察技術及び輸送学校で編成され最後に中隊に合流しました。

 第9警察戦車中隊に配備される車両の到着は計画より遅れており、このため中隊の装備車両数についてはSS全国指導者まで報告が行われています。戦車小隊用の捕獲車両の到着も遅れており、戦車搭乗員に対する訓練も当面は基礎訓練のみが警察自動車学校の訓練用戦車を利用して開始され、より高度な訓練はロシア製装軌式装甲車が到着してから行われました。

 1942年12月9日午後8時、中隊の編成要員はウィーン警察自動車学校への終結を完了しました。12月23日の時点で第9警察戦車中隊は配属予定の修理工場小隊を除き、中隊の編成完了を一旦SS全国指導者に報告しましたが、最終的な編成完了は修理工場小隊の配属を待たねばなりませんでした。
 その修理工場小隊は1943年1月4日付けの通達によりベルリン警察技術及び輸送学校で技術士官1名と警察官7名により第7修理工場小隊として編成され、1月29日にはウィーン警察自動車学校で中隊と合流し、1月30日付けで第9警察戦車中隊の編成はようやく完了しました。

 出動準備の整った第9警察戦車中隊は1月31日にウィーンを出発し、高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の管轄下に配属となりました。中隊はSS及び警察指導者「モギレフ」(SSPF Mogilev)の下に配属されてモギレフに駐屯することとなり、1月28日には先発隊として士官1名と下士官5名がモギレフに向けて出発しました。
 SS及び警察指導者「モギレフ」での中隊は陸軍式に「装甲偵察中隊」と呼ばれており、1943年4月20日付けの高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の報告によると、「第9警察装甲偵察中隊」はロシア製装甲車×6両を装備していることになっています。
 しかし、この時点で中隊はロシア製装甲車は装備しておらず、これは「パナール装甲車」のことのようです。また中隊は装甲車両のほかにも軽機関銃×12挺、重機関銃×10挺、軽迫撃砲×1門、軽対戦車砲×2門のロシア製捕獲兵器を装備していました。

 1943年8月末、第221保安師団戦区ではパルチザン掃討作戦として「オルロフ(Orloff)作戦」が立案されました。特に師団戦区の北西地区においては強力なパルチザン部隊による攻撃がたびたび繰り返されており、険悪な状況となっていました。日々の交通の混乱と地雷による被害はもちろんのこと、白昼でも補給施設や輸送車列が襲撃されることも多くなり、ドイツ軍にとっては耐え難い状況となっていました。パルチザン部隊の兵力は約2,000名であり、その主力は「グリシン(Grischin)部隊」と呼ばれており、指揮命令系統や訓練も行き届いたパルチザン部隊でした。
 第221保安師団は中央軍集団司令部よりこのパルチザン部隊の掃討命令を受け、偵察の結果パルチザン部隊の司令部はプロポイスク(Propoisk)の北にあることを突き止めました。師団は該当地区の部隊だけではなくSS及び警察指導者「モギレフ」からも偵察装甲車中隊の支援を受け、作戦参加部隊は「コープ」集団(Gruppe"Kopf")としてまとめられました。


「コープ」集団(Gruppe "Kopf")

第34保安連邸本部
第636野戦補充擲弾兵連隊第1大隊の大隊本部及び第2中隊
第642東部大隊
第643東部大隊
第930保安連隊第2大隊
第930保安連隊の第1東部中隊
第286保安師団の第1中隊
第45保安連隊の第15東部中隊
高射砲部隊司令部と1個軽高射砲小隊
砲兵中隊「エンケ」(Enke)
第4砲兵集団「ボーメ」の本部及び第2砲兵中隊
第614東部砲兵中隊
第9警察戦車中隊(第9警察偵察装甲車中隊)


 作戦参加部隊は1943年8月29日から移動を開始し、作戦開始は8月30日の予定で「コープ」集団は包囲網を形成し、第9警察戦車中隊の4両の装甲車が攻撃の先鋒を務めることになっていました。第221保安師団は8月30日に「グリシン」部隊を捕捉しましたが、敵は8月30日〜31日の夜に包囲網を突破してしまい、師団も急遽移動することとなり作戦は中止されました。

 1943年11月8日現在、第9警察戦車中隊は第559軍後方地域司令部(Koruck559)に配属されており、この時点で中隊の兵力は当初の101名から44名にまで減少していました。これ以前の1943年10月初めにも第559軍後方地域司令部によりモギレフ(Mogilev)〜トトシン(Totoshin)街道でのパルチザン掃討作戦が立案され、第286保安師団の指揮下で第9警察戦車中隊は286保安師団に配属され、SS及び警察指導者「モギレフ」の286歩兵師団の部隊と共に作戦に従事しました。
 1943年10月14日付けの第559軍後方地域司令部の報告によると、中隊の兵力はこの時点で50名に減少していまいした。10月15日、286保安師団の第45保安連隊は「鴨狩り(Entenjagd)作戦」のために抽出され、第9警察戦車中隊の3両の装甲偵察車もこの作戦に参加していました。10月16日付けの第45保安連隊の戦闘報告によると、スタロショリ(Staroselye)の北〜北西地区での数日間の作戦期間中に第9警察戦車中隊の名前が登場しています。
 
 1943年10月25日、対ゲリラ戦部隊総司令官の指揮の下、戦闘団「フォン・ゴットベルグ」(Kampfgrupe "von Gottberg")によりポラツク(Polozk)〜クラスノポリエ(Krassnopolje)〜Pusstoschka〜Idriza〜セーベジ(Ssebesh)地区でのパルチザン部隊の掃討を目的とした「ハインリッヒ(Heinrich)作戦」が実施されました。

ハインリッヒ(Heirich)作戦
 1943年10月25日〜11月9日、ベラルーシ北部のドレトゥニ(Dretun)及びポロツク(Polotsk)東北の湿地帯でのパルチザン掃討作戦。この作戦にはクルト・フォン・ゴットベルクSS中将兼警察中将の戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe "von Gottberg") の他、戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe "Jeckln")、第3戦車軍の後方部隊が動員されました。
 この作戦でパルチザン5,452名が殺害され、住民約8,000名が強制労働に連行され、さらに約8,000名の住民が再定住のために強制移住させられました。
作戦参加兵力:
【SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」】SS Kampfgruppe "von Gottberg"
第2SS警察連隊(第1(増強)警察戦車中隊を含む)
第13SS警察連隊(第2大隊を除く)(第4警察戦車中隊を含む)
第24SS警察連隊(第3大隊を除く)
第9警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊

【警察戦闘団「イェッケルン」】Polizei Kampfgruppe "Jeckeln"
第113保安連隊
  第9SS警察連隊第3大隊(第132警察大隊)
第773保安連隊
  第319(ラトビア)警察大隊
  第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」

第23SS警察連隊(第1大隊を除く)

 1943年末から1944年初めにかけて、中隊は「増強戦車中隊」へと改編されることとなり、新たに1個戦車小隊と1個オートバイ狙撃兵小隊が追加配備されました。


第9(増強)警察戦車中隊

中隊本部
  指揮班
  通信小隊
  補給段列
  第7修理工場小隊
第1装甲車小隊:パナール装甲車×3両
第2装甲車小隊:パナール装甲車×3両
第3戦車小隊:ロシア製装軌式装甲車×5両
第4戦車小隊:I号装軌式装甲車×5両
オートバイ狙撃兵小隊


 1944年1月10日、北方軍集団戦区では弱体な戦闘団や警戒部隊しかいなかったポロツク(Polozk)〜ヤスノ(Jasno)湖南端にかけての地区に第1軍団司令部が移動し、軍団戦区にあった全ての警察部隊が編入されてソ連軍への防衛戦に投入されていました。中央軍集団戦区でも戦闘団「フォン・ゴットベルグ」に「ハインリッヒ作戦」に参加した部隊がそっくり編入されて防衛戦に投入されました。
 1944年1月10日付けの戦闘団の報告によると第24SS警察連隊には第9警察戦車中隊の1個装甲偵察小隊が配属されており、この小隊は将校1名と下士官・兵20名(定数は将校1名と下士官・兵27名)と報告されています。

 1944年2月29日付けの戦闘団「フォン・ゴットベルグ」の報告によると、第9(増強)警察戦車中隊は第1(増強)警察戦車中隊及び第12(増強)警察戦車中隊とともに引き続き戦闘団に配属されていました。1944年3月1日現在、戦闘団「フォン・ゴットベルグ」は陸軍の第32歩兵師団に配属されており、第9(増強)警察戦車中隊の1個装甲偵察小隊のみが第24SS警察連隊に配属されていました。

 第9(増強)警察戦車中隊は高級SS及び警察指導者「ロシア中央及び白ロシア」の管轄地域内で1944年中ごろまで活動しましたが、詳しい記録は残されていません。1944年7月15日現在の治安警察部隊戦力概要によると、中隊は高級SS及び警察指導者「ロシア中央及び白ロシア」の管轄下にあり、オストプロイセンのシュロータースブルグ(schröttersburg=Plock)に駐屯していました。一方中隊の一部はダンチヒ警察司令官(BdO. Danzig)の管轄化でダンチヒ市内のアドラーズホルスト(Adlershorst)に駐屯していましたが、元中隊員の証言によると実は中隊は発疹チフスのために隔離されていたようです!

 1944年10月26日現在の治安警察部隊戦力概要によると、第9(増強)警察戦車中隊は高級SS及び警察指導者「ヴィスワ」の管轄下にあり、引き続きダンチヒ警察司令官の管轄化でアドラーズホルストに駐屯していました。10月26日付けの命令により中隊はすべての兵員、装備、武器、車両とともにダンチヒ警察司令官からクラコフ警察司令官の管轄下に転属となり、10月30日には移動が完了して第25SS警察連隊に配属となりました。
 1944年11月17日付けの総統府治安警察部隊の報告によると、第9(増強)警察戦車中隊はラドム地区のJedrzejowに駐屯しており、兵力は将校4名及び下士官・兵171名と報告されていますがその後の記録は残されていません。
 第25SS警察連隊(第2大隊と第3大隊)は1945年まで総督府地域であるポーランド西部で活動を継続し、ソ連軍の接近に伴いドイツ本国へ撤退したようですが詳細は不明です。


2008.7.12 新規作成
2023.12.10 一部追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/