泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史/中央軍集団の後ろの方<中編・中央軍集団の保安師団>

第707歩兵師団
707. Infanterie Division

 1941年の第15編成波では占領地での警備任務のために15個の占領地用歩兵師団として編成されました。この歩兵師団は700番台の番号が割り当てられ、フランス、オランダ、ノルウェー、バルカン半島などに送られて占領地での警備任務に従事しましたが、このうちの第707歩兵師団はOKH予備から「中央軍集団占領軍司令部」に配属されてベラルーシ~中部ロシアの地域に送られており、バルカン半島に送られた4個師団と共に貧乏くじを引いた感が漂います。(笑


・第702歩兵師団:ノルウェー
・第704歩兵師団:バルカン
・第707歩兵師団:OKH予備 →ロシア
・第708歩兵師団:フランス
・第709歩兵師団:フランス
・第710歩兵師団:ノルウェー
・第711歩兵師団:フランス
・第712歩兵師団:フランス
・第713歩兵師団:OKH予備 →クレタ
・第714歩兵師団:バルカン
・第715歩兵師団:フランス
・第716歩兵師団:フランス
・第717歩兵師団:バルカン
・第718歩兵師団:バルカン
・第719歩兵師団:オランダ


 これらの師団は3個大隊編成の歩兵連隊2個を基幹としており、通常の野戦師団の2/3ほどの兵力であるほか、連隊の支援部隊である歩兵砲中隊、対戦車中隊、工兵中隊を欠いていました。さらに砲兵は大隊規模(3個中隊)で砲は馬匹牽引となっているほか、105mmleFH16各4門の定数ですが、「第707歩兵師団」では75mm砲で代用されていました。
 支援部隊としては工兵中隊と通信中隊各1個が配属されましたが、自動車化されたのは通信中隊の半分、輸送段列の1/3、野戦病院の半分など一部のみで、それ以外は馬匹牽引が基本となっていました。師団管理部隊の規模も通常師団の半分程度の規模でしたが、その割には軍楽隊(バンマス1名+楽団員37名)が定数表に入っており、占領地域の宣撫活動には重点が置かれたことが伺えます。


歩兵師団(占領地用)の標準編成

師団司令部
  オートバイ伝令小隊
  軍楽隊(バンマス1名+楽団員37名)
2個歩兵連隊
  連隊本部/通信小隊
  第1大隊(4個中隊)
  第2大隊(4個中隊)
  第3大隊(4個中隊)
砲兵大隊
  大隊本部/通信小隊
  3個砲兵中隊(105mmleFH16×4門)
工兵中隊
(半自動車化)通信中隊

師団補給指揮官
  1個自動車化輸送段列
  2個馬匹輸送段列
師団管理隊
  と殺1/2中隊
  製パン1/2中隊
  (半自動車化)野戦病院
  獣医中隊
  (自動車化)野戦郵便局


第707歩兵師団

師団司令部

第727歩兵連隊(3個大隊)
第747歩兵連隊(3個大隊)
第657砲兵大隊(3個中隊):75mm砲×4門
第707工兵中隊
第707通信中隊
第707師団管理隊
※師団補給指揮官は欠、輸送段列は自動車化段列×1個のみ


 師団は1941年5月の設立後はOKH予備となり、ソ連侵攻後は6月22日から「第102軍集団後方地域司令部」(7月5日からは「中央軍集団占領軍司令部」と改称)に配属されました。8月8日~21日の間はビエルスク・ポドラスキ(Bielsk Podlaski)へと前進し、ベラルーシへと送られ、8月22日以降は「白ロシア行政区」の国防軍オストラント司令部に配属されミンスクに駐屯しました。
 1942年3月18日、師団はバブルイスク南西地区に移動し、パルチザン掃討作戦「Bamberg(バンベルグ)作戦」に次のような部隊とともに参加しました。


Bamberg(バンベルグ)作戦

第707歩兵師団
第203保安旅団
スロヴァキア保安師団第102歩兵連隊
第315警察大隊


 当初立案された作戦計画はこの地域に駐屯する「第203保安旅団」によって立案されたもので
a)主要なパルチザン部隊の壊滅
b)地域の治安回復
c)穀物と家畜の収集
 を目的としており、作戦には大規模な航空支援が必須と見込まれたほか、計画ではパルチザン容疑者と無関係な農民を区別してパルチザンとその協力者のみを処刑することを要求する、どちらかと言えば「正攻法」な作戦となっていました。

 しかしこの作戦計画はミンスクから派遣された「第707歩兵師団」のGustav Freiherr von Mauchenheim genannt Bechtolsheim少将によって大きく変更されました。春の雪解けによる泥濘で効果的な作戦行動が事実上不可能な森林地帯でのパルチザン部隊捜索を行わず、むしろパルチザン活動地域の町や村での作戦に兵力が集中され、作戦中は「ユダヤ人やその他の望ましくない男・女・子供のパルチザン協力者の粛清」が一層厳しく厳命されました。
 新しい作戦計画では参加部隊のうち「第707歩兵師団」と「第203保安旅団」は北部地区を担当し、「スロヴァキア第102歩兵連隊」と「第315警察大隊」は南部地区を担当しました。

作戦計画は四段階に分かれており、
・第一段階(3月28日まで):部隊は作戦地域に進出し、作戦地域の直径25~30kmの地域を封鎖
・第二段階(3月31日まで):封鎖地区を外周から締め付け
・第三段階(4月初めまで):封鎖地区を包囲攻撃による掃討
・第四段階(4月3日~6日):封鎖地区を中心部から外側への掃討作戦で、作戦地域内の村や農地は住民と共に破壊

 このような包囲戦術はこれ以降のパルチザン掃討作戦の標準となる「皆殺し作戦」の戦術と手順を含んでおり、以後の数年間にわたってドイツ軍占領地の各地で行われる「パルチザン掃討作戦」の原型となりました。

 3月26日から4月6日までの12日間に、「第707歩兵師団」、「第203保安旅団」、「スロヴァキア第102歩兵連隊」、「第315警察大隊」は森林地帯の村々を破壊し、住民を家屋や集会所に押し込んで手榴弾、放火または銃殺により殺害しました。
 ドイツ軍側公式発表では『約3,500名のパルチザン容疑者を殺害』としていますが、パルチザン側の推計では約5,000名、他の推計では4,396名が死亡したとされます。ただし、この数字には周辺地域での掃討作戦は含まれておらず、南部の「スロヴァキア第102歩兵連隊」と「第315警察大隊」は作戦の準備段階で約1,000名を殺害しており、合計で少なくとも約6,000名が一連の作戦中に死亡したとされますが、その大部分は地元の農民とユダヤ人でした。
 戦闘はほとんどなく、ドイツ軍側の損害は戦死7名、負傷8名にすぎず、一方的な虐殺であったことがわかります。また作戦中に押収された武器は47丁の小銃とサブマシンガンのみで、パルチザン部隊の1,200名~2,000名は脱出に成功しました。
 「バンベルグ(Bamberg)作戦」の計画と結果は中央軍集団司令部にも報告されており、パルチザン部隊が包囲網から逃れたため「作戦失敗」でしたが、『約3,000名のパルチザンを殲滅した』との報告は「関わりの薄いものもパルチザン協力者と報告される」ことは百も承知の上で第707歩兵師団への高評価となり、作戦結果は陸軍総司令部(OKH)にも報告され、最終的にはヒトラー総統自身にも報告されました。

 1942年4月11日、第707歩兵師団はブリヤンスク(Brjannsk)北西のデスナ川(Deddna)流域地区へと移動し、第2戦車軍後方の「第532軍後方地域司令部」(Korück 532)に配属され、その後はジズドラ(Shisdra)、ブリヤンスク(Brjannsk)、オレル(Orel)及びクルスク(Kursk)地区で活動しました。
 1942年5月の時点で、師団の兵力は4,911名と報告されており、第747歩兵連隊の兵力は2,100名でした。その内訳は将校:45名、軍属:3名、下士官:332名、兵:1,720名でしたが、将校のうち連隊長以外は予備役士官で、連隊の平均年齢は30歳を超えており、将校の年齢も通常の歩兵連隊の平均を遥かに超えていました。1942年6月の時点で連隊長のCarl von Andrian中佐は56歳、大隊長の平均年齢は52歳、中隊長は41.6歳、小隊長は29.3歳でした。【補足-1】

 1943年5月20日から5月30日まではブリヤンスクの北~北東地区でのパルチザン掃討作戦、「フライシュッツ(Freischütz)作戦」に師団の第747歩兵連隊が参加しました。この作戦はブリャンスク北~北西のジャチコヴォ(Dyatkovo)~イヴォト(Ivot)~ジューコフカ(Zhukovo)地区で実施され、次のような兵力が参加しました。


Freischütz(フライシュッツ)作戦

第707歩兵師団第747歩兵連隊(保安集団「ジュート」)
第5戦車師団の一部(第455東部特別編成司令部を含む)
第6歩兵師団の一部(カミンスキー旅団第1連隊の第1、第2大隊を含む)
カミンスキー旅団第1連隊の第3大隊と第4連隊の第11大隊
第587保安大隊
第791保安大隊
第807アゼルバイジャン歩兵大隊
第4装甲列車


 続いて1943年5月31日から6月23日にはブリヤンスクの南西地区での「Tannhäuser(タンホイザー)作戦」に師団の第727歩兵連隊の第2大隊が参加しました。この作戦はスタロドゥーブ(Starodub)東方~ポーチェプ(Pochep)の鉄道線路~デズナ川(Desna)西方にかけての地域で実施され、次のような兵力が参加しました。


Tannhäuser(タンホイザー)作戦

第707歩兵師団第727歩兵連隊の第2大隊
第587保安大隊
騎兵部隊「Trubtschevsk」
第9アルメニア野戦大隊の一部
第618東部大隊
第617東部大隊の一部
第304保安大隊の2個中隊
第757保安大隊の2個中隊
カミンスキー旅団/第4連隊第12大隊


 1943年6月から第707歩兵師団は「第490保安大隊」、「第787保安大隊」、「第852(自転車化)保安大隊」、「第586補給大隊」、「第321工兵大隊第1中隊」とともにブリヤンスク市街北方のオルジョニキゼグラド(Ordschonikidzegrad)地区での防衛戦に投入され、ブリヤンスク地区でのデズナ川(Dessna)の防衛戦後はソジ川(Ssosh)、ドニエプル川を渡って西方へと後退し、Shobin~Schatiliki~Paritschiを経由してバブルイスク(Babruysk)地区へと後退しました。
 1944年6月時点で師団は第9軍予備となっていましたが、中央軍集団を崩壊させたソ連軍の「バグラチオ作戦」の戦闘に巻き込まれてバブルイスク地区で壊滅し、1944年8月3日付けで正式に解隊されました。


【補足-1】
 第747歩兵連隊長のCarl von Andrian大佐(昇進した模様)は第1次大戦でMax-J0seh勲章と剣付騎士十字章を受章しており、なかなかの経歴です。しかしブランクは取り戻せなかったようで、1943年8月に連隊長を解任されており、当時の師団長は『東部戦線で燃え尽きた(意訳)』と評しています。
 Carl von Andrian大佐は1943年秋からボルドー(Bordeaux)の「Feldkommandantur 529」に配属されました。「Feld」と入っていますが野戦司令部ではなく、フランス占領軍の「第529地域軍政司令部」のことで、ボルドーに駐屯してジロンド県の軍政を担当していました。フランスからの撤退により解散となり、Carl von Andrian大佐は1944年11月にユーゴスラヴィアのザグレブへ異動となりました。(嫌な予感が・・・
 Carl von Andrian大佐はザグレブの「Feld-Stadtkommandant von Agram」に着任しました。「Agram」はザグレブのドイツ語名で、「アグラム地域及び都市軍政司令部」でアグラムの周辺地域とアグラム市の軍政を兼務する司令部です。
 1945年5月に捕虜となり死刑判決を受けましたが控訴して20年の懲役刑に(後15年に減刑)その後2年で恩赦となり帰国できましたので、この部分については強運の持ち主!
【戻る】


2023.4.20 新規作成

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/