仮面舞踏会          
                    BY 流多和ラト


<ACT 10>

 何処までも昏く時から置き去りにされた空間で新一は呆然としていた。
今ようやく彼はこの事件の恐るべきもう一つの仮面に気がつき始めていた。
快斗はこの事を予め予測していたのだろうか、考えていたよりもずっと深い闇の向こうで
別の何かが蠢いている。
ここまでの異常事態に遭遇するのは流石の新一も初めての事であった。
開いたままの扉からヨロリと体を傾かせつつ入ってきた人物に彼はようやくハッとして振
り返る。
足音が聞こえていたのは知っていたがぼんやりとした頭に危機管理能力が低下していたよ
うであった。
そして今知ってしまった新たな事実に優秀な頭脳が混乱をきたしていたというのもある。
増々煩くなった心臓にライトを持つ手が僅かに震えた。
追い付いてきたのか。
新一はライトをゆっくりとその人物にあてようとしたが、瞬間眩しくなった視界に思わず
手を翳した。
新一の見つけたものとは別にスイッチがあったらしい。
剥き出しの電球が数カ所に設置されている。
どう見てもそれは臨時に設けられた即席のもの。
やはり大した明るさではなかったが暗さに慣れていた瞳には辛い。
露になったその人物はゆっくりと歩みを進めてくる。
リヒターであった。
どうやら少し引っ掛けた程度では本当に一時の足留めにしかならなかったらしい。
だが新一はその瞳に探るような恐れるような複雑な影を乗せると、片手に光る注射針を
持ったままの彼がこちらに近付くに任せていた。
麻酔が抜け切らないせいか足元の覚束ない状態で執念のようにこちらを見据える瞳は霞み
が掛かり、しかし妄執を感じさせる眼差しの強さに畏怖を覚えずにいられない。
但し<彼>が<彼>であるのなら……。
起伏の激しい床で新一と同じく足を取られ膝を付いた男はまるでそうあるようにと命令さ
れているがごとく再び立ち上がる。
散乱した家具はことごとくひっくり返りそれが足元を邪魔しているのかと言えばそれは半
分、残りの理由はそこが<床>ではないからだろう。
かつては鮮やかに色付いていたのであろうそれは黒く汚れ埃を積らせていたがはり巡らさ
れた豪華な蔦模様の飾りと小さな間接照明の跡、そして何より新一が初めてここへ入った
時つまづく切っ掛けとなったシャンデリアは元からそこに在った所に上から降って来た物
があたって壊れたのだ。
そして高過ぎる位置のスイッチは<上>からならば丁度手の高さに。
…今なら全体を見渡せる、それでなくとも新一にはすでに全てが分かっていた事であるが
この部屋はつまり<天地が逆転している>のである。
今新一達が居るのは床ではなく<天井>で、だからこそ歩くに初めから適していない造り
になっていると言う訳だ。
そして家具や小物の類いは落下の衝撃でバラバラに砕けたのであり、扉がひしゃげていた
のもその為。
あちこちが必要以上に黒くなっているのは煤、火事の際ここまで火は廻らなくとも先に高
いところへと昇っていく煙りによってそうなったのである。
ではここは何故こうなっているのか。
それはこれこそが元々城であった頃アンリとマリアの住んでいた<塔>であったからに他
ならない。
新一は写真の風景と<物見の塔>の位置を見比べ、ある仮説を立てた。
それはあまりにも馬鹿馬鹿しいが全くの盲点と言えなくもない事で…つまりは写真の塔と
物見の塔は同一のものから出来ていて、物見の塔とはホ事により土台が崩れた城の塔の先
端から一部が途中から折れ<逆さまに地面に突き刺さる事によって出来た偶然の産物>
なのではないか、と。
頂上が何も無くポッカリと口を開いていたのはそこが火災により脆くなって倒れた塔の折
れ口であったからで、螺旋状に突き出した柱の数々は衝撃の際骨格だけを残して崩れてし
まった螺旋階段の残骸。
つまりこれまで上へ昇っているつもりで実際の形からすれば下へと降りていたという事に
なる。
そこまで仮説が立てられた時点で新一はならば地面から下へと埋没し見えなくなった先端
部分には当然部屋がまだ在ったに違いないと考えた。
それが普段は地下に隠れて存在を消失している<見えない部屋>の正体である。
そしてここは中身の様子からしてアンリとマリア、どちらかの部屋であった事が伺える。
リヒター達はその部屋を掘り起こそうとした時点で逆にこの環境を利用する事を考えつい
たのだろう。
城の改築と共に地下部分の改造をも合わせて行ない、それに伴う秘密通路も造築しかなり
不自然に見える煤けた塔の残骸を<物見の塔>と名前を付る事によって新たな存在を得た
のだ。
入口の木戸は元は窓であったものをそのまま使っている為通常の扉よりも狭く小さいので
ある。
だが……と新一は戦慄する。
ここまで壮大な数年にも渡る計画を影から進めてきたのは誰なのか、自分はずっとアンリ
とリヒター二人の共謀だと思ってきた。
しかしここにあるのはアンリの遺体、しかもその様子はどう見積もっても何年も経過した
ものである。
つまりアンリは火事の際既に死亡していたと言う事で、快斗から聞いた情報からすれば彼
の探す人物はその時からアンリに成り済ましリヒターを騙し利用していたと言う事にな
る。
だがそれならそれで納得出来なくもないのだ。
 『どうして明るい方へと逃げなかったのだ…』
 新一は直ぐ傍らにまで来た男を見上げた。
希有な一対の宝石に映るのは妻と息子を愛するあまり修羅になった男、リヒター・フォン
・ウィルヘルム……であってそうでない者。
何故なら新一がアンリの側に発見したまだ肉片の付着した男性の遺体のジャケットにもま
た同じ名前が刻まれていたのだから。
ならば今ここでこうして自分を脅かしているのは誰だ?
資料で見たリヒターそのままのこの男は、家族への愛情に溢れた昏い情熱を秘めた眼をし
たこの男は何者だ…?
新一は立ち上がるどころか動く事もせずただその男を見つめていた。
腕を掴まれ身体を引き寄せられても抵抗せず、しかし視線は外さなかった。
すでにあがらう程の力も残っていないというせいもある。
だがそれよりも…見極めたい、これは誰なのかを。
普段は無意識に使われている蒼い宝石が今意志を持って全てを見い出そうとしている。
その瞳があまりに眩しかったのか、美しいそこに映る己の顔に嫌悪を抱いてしまったのか
リヒターの姿をした男は小さく呻くと注射器を床に投げ出し自由になった両手で顔を覆っ
た。
これはさっきと似たような現象だった。
そして思い起こせばあの寮の頂上でアンリと遭った時も突き落とされる寸前同じく彼の戸
惑い動揺する姿を見たような…。
新一は反射的に男の手を取ってその顔をもう一度間近から覗き込もうとした。
そして瞳を見る前に手の中の違和感に視線を落とす。
そこに在るゴツゴツとした無骨な男の手の人さし指に見覚えのある縦の筋を見つける。
先程例の部屋で生身の腕の部分に触れられた時感じた違和感もその為か。
以前何度も見た事がある、これは手術を頻繁に行なう外科医の指に認められる手術用の糸
を使用する際に出来る跡だ。
しかもその部分の厚くなった皮膚の感触からすれば相当の長い時間頻繁にそれを行なう事
を常としていた人間という事になる。
幾らリヒターが時折素人の知識で手術の真似事をしていたからと言っていきなりここまで
の指は出来上がらない。
以前握手をする機会があったが偶然にも彼は手袋をしていた為に気付けなかった。
あの手慣れた道具の使い方と良い、これではまるで…。
新一は驚愕に目を見開いた後、一度呼吸を整えるとその男の名前をゆっくりと確かめるよ
うに呼んだ。
 『お迎えにあがりました、……あなたが、Dr.ベルナール・レッシュですね?』
 ハッとしていきなり顔を上げた男の瞳に、これまでと違った澄んだ光が浮かび始めてい
た……。

 長い夢から覚めたようにリヒターの姿を持った男…Dr.ベルナール・レッシュは何度
も目をしばたいて痛むらしい頭を片手で押さえると何故そこに自分が居るのかまるで分か
らないといった風に辺りを見回していた。
 『…私は一体何を…何故こんな所に居るんだ…?早く予定を終えて帰らねば明日にはま
た……』
 彼の記憶はどうやら失踪した直後で止まっているらしい。
 『……そう言えば君は誰だ?』
 そう言った後再び頭を強く押さえ小さく苦鳴を上げる。
 『僕はあなたを迎えに来た者です。詳しいお話は後程、今は何も考えず先ずはここから
抜け出す事を考えましょう』
 『だが……』
 そう言って初めて新一の顔をまともに見たベルナールは自分を見つめる瞳の凄絶な美し
さとそれと対称的に輪郭を染める鮮やかな赤に心を奪われ沈黙した。
大変な怪我を負いながらも気丈に微笑んでみせる少年。
一瞬ここは地獄と見せ掛けた天国なのでは、そんな的外れな事をぼんやりと考える。
そして思考にふけろうとした意識は簡単に闇に呑まれていった。
新一は気を失ったベルナールの身体をギリギリで支えるとこの先をどうするか、頭を悩ま
せた。
恐るべきもう一つの事件の全容が見えたと言うのに肝心の彼を運び出す手段を持たない。
自分一人でさえも体力的にかなり厳しい状況であった。
だがその時いきなり辺りを包んだ振動と大勢の少年の声に顔を上げる。
何人居るのかよく分からない程に沢山の足音と話声、先程まで新一の居た部屋を見つけた
のか悲鳴めいた言葉が飛び交っているのが聞こえる。
 (まさか?!でもどうしてここが……そうか、あいつ…)
段々近くなる足音に新一は目を丸くして扉に注目した。
 『あ!!クドウ!!!』
 初めに顔を出したのはヴィオラとコクランのどちらだったか、タッチの差でヴィオラか
も知れない。
初めは笑顔で、しかしその新一の怪我の様子に気付くと二人は顔を強ばらせた。
 『丁度良かった、今どうやってこの人を運ぼうか迷ってたんだ』
 新一は己の事に驚いているとは微塵も思わずホッとしたように笑みを浮かべると腕の中
にようやく支えている男の体を示すように若干前へ突き出してみせた。
 『んな事より!!お前…!!』
 ヴィオラは新一からベルナールを引ったくるように離すとしかし意識のない大人の体が
こんなにも重いとは思わずよろけてしまう。
それを更に横から攫ったのはコクランであった。
彼は実に簡単に彼の体を担ぎ上げてみせた。
それを少し悔しいと思いつつだがヴィオラは何よりも新一に詰め寄る。
 『一体どうして…』
 そんな怪我を、と続けようとして新一の声に遮られた。
 『悪い、折角来て貰ったってのに。この部屋の説明なら後でするから、先ずは彼を安全
な場所へ送らないと…』
 新一はあくまで彼等が驚いているのはこの部屋の異常性にだと思い込んでいる。
支えるものがなくなったところでようやく自力で立ち上がると新一は一人ドアを目指す。
あまりここに居ては見なくても良い余計な遺体と対面させる事になってしまう、そんな配
慮がこの場面においてまだ新一の頭にあった。
ヴィオラが慌てて彼に追い付こうとした時この部屋に気付いた他の少年達が一斉にやって
来た。
きっと例の部屋で彼等も新一が見たものと同じものを見てしまったに違い無い、一様に顔
色を変えている少年達はしかし新一の姿を見つけるとそんな事は全て忘れてしまったかの
ように呆然と立ち尽くした。
言葉もなかったのはその惨澹たる有り様にではなく怪我を負って尚輝くばかりに凄みを増
した美貌にである。
誰かが唾を呑んだ。
 『随分と大勢で来てくれたんだな』
 Danke(ありがと)、新一は通路を埋める勢いの少年達を見て苦笑しながら言った。
未だ言葉もない輩に新一は状況的に無理もないとやはり見当違いな事を考え、ヴィオラと
コクランを振り返り目線で先を促すとこの逆さまの部屋を全員で後にした。
呼吸も整いきらない彼にヴィオラを含め皆が心配げに見遣りながらも手を貸せなかったの
は、あくまで新一自身己の不調を決して表に出すまいとする姿勢故にだった。
ここで手や肩を貸してしまえばそれは彼を逆に傷つける事になってしまうようで暗黙の了
解が出来上がっていた。
だがこれで彼が倒れようものなら瞬時にその足元には人間クッションが群れを成す事は間
違い無く、皆そのチャンスを狙って異様に火花が散っている。
新一はベルナールを担いだコクランを優先的に導きつつ歩いていたが、やがて瓦礫に埋も
れた恐らく入口であったろう場所で目を丸くした。
音を聞いた時から予感はしていたのだが。
 『…どうやら人数オーバーだったらしくてな』
 コクランは改めて先程の惨状の結果を見ると顔を顰めて言った。
彼とてこうなっていた事は知っていたのだが他にどうして良いか分からず一応新一にも見
せておこうと思ったのだ。
 『これじゃあここから出るのは無理だな』
 ハッキリ言ってまたここから引き返す為の道程が新一には辛い。
だがそんな事は全く表には出さず彼はあくまで苦笑して踵を返す。
 『大丈夫、多分出口はもう一つある筈だ、行ってみようぜ』
 ここへ来た時新一は気を失っていたのでどのようなシステムの元、内部へと招かれた
のか想像するしかないのだが、最近はともかく以前は特に人の出入りを禁じていなかった
そこから自らも出入りしていたとは思い難い。
他にもっと目立たない彼等専用のものがあると考えるのが自然である。
助けに来たのはいいが逆に新一に助けられ先導される形となってしまった少年達は、水面
下で熱い不毛なバトルを繰り返しながらも一様に申し訳ない&情けないと言った顔で落ち
込んでいた。
しかしどうする事も出来ず新一の後に続く形で一同はまた元来た道を引き返し奥を目指し
た。
 『少し休んだ方がいいんじゃねえか?』
 ヴィオラは立ち止まろうとしない新一に彼の方が倒れそうな程青ざめて言う。
 『…それよりも早く確かめたい事があるんだ』
 新一はやはり歩みを止めず通路の最奥へと歩き続ける。
その時もう一つの傍らを歩く長身の少年が胸元から覗かせている一枚のカードに視線が吸
い付いた。
 『それってもしかして?』
 『ああ、そうだ、奴から預かってきた』
 コクランの差し出したカードを新一は手に取った。
塔の絵柄の示されたタロットカード。
コクランは意識していたのかどうか、所謂<逆位置>になった状態で保管していた。
 『…あいつは?』
 新一は如何にも彼らしいなと思いつつ少し固い声を出した。
 『おかしなカッコしてアンリと……、良く分からないが真剣だったな…』
 という事は快斗もまた別の方法でアンリの真の姿に気付いたと言う事か。
そしてその最中、どういう経緯か分からないのだがこの塔の本来の姿に気付いた彼はコク
ランを遣わした。
最後の無線の交信の様子が我ながらただ事でない雰囲気ではあったので彼は…心配したの
だろう。
ここを突き止めた流石の明晰な頭脳に感嘆しつつ新一の胸の中に苦いものが広がる。
異常な事件、それを引き起こした黒幕を相手にしている彼に余計な事で神経を使わせてし
まった。
 (だけど、あいつ何にも言ってくれねえから…!)
それでもそれが彼の領域であり強さと…狡いくらいの優しさだと分かるから感情のままに
沸き上がる理不尽な怒りはどうしたら良いのだろうか。
だからこそ地上で何が起きているのか早く確かめたかった。
自然足取りも早いものへとなったが気力とは裏腹に体力は限界に近付く。
目眩が襲って知らず身体が傾いた時肩を引き寄せバランスを戻してくれたのはコクラン
であった。
途端足元で次々に地面に転がった少年の群れに疑問を抱きつつも新一はコクランだけを取
り敢えず見上げる。
 『悪い』
 『無理するな、お前にもしもの事があったら悲しむ奴は多分お前が思う以上に多いと思
うぞ』
 実際すでに今地面に伏せたまま泣いている輩が沢山いるのだが鈍感な彼も新一同様気付
いていない。
コクランが軽く笑みを浮かべると新一は少し雰囲気の変わった彼の空気に気付いた。
何があったのか、何処か落ち着いた物腰を身に付けた彼は一回り大きくなったように見え
た。
そう言えば彼は快斗の正体を知ってしまったようだが…。
 『…コリンズはどうしてる?』
 新一は一応それが弟のせいかと思い元々気になっていた質問をしてみた。
コクランは何となく話に入れず機嫌の悪いヴィオラの視線を片側の頬に感じながら僅かに
目を伏せる。
 『取り敢えず病院へ運んで貰った、症状に今の所変化はない。…あの時は付いていくつ
もりだったが、今はこうしていて良かったと思っている。あいつは一人でも立派に戦い抜
けるだろう、……そう、信じる事にした』
 (あいつを見習ってな)
 最後の言葉は心の内だけで。
そしてだからこそ勘違いした挙げ句彼を追って、成りゆきでこんな所に来る事になったの
だと、それも言わなかった。
自分を変えられるチャンスをくれた事を感謝している。
…例え、彼が何者だとしても。
だが新一はコクランの穏やかな瞳を見ていると何となくそこに至までの展開が分かったよ
うな気がして、あらゆる意味を込めて一つ頷くと再び先を急いだ。
例の逆さまの部屋から更に先、今の新一にとって何処と通じているのかと思う程歩くと
(実際にはそれ程の距離ではない)その突き当たりに扉のようなものを発見した。
しかし喜んだのも束の間どんなに力を入れても開く様子がない。
一見何処にも鍵のようなものも取っ手も見えなかった。
 『これじゃあいくらお前でもぶち壊すのは無理だよな』
 ヴィオラはため息混じりにコクランを見てそう言うと次に新一を見遣る。
彼は先程から黙々と扉の周辺を探っている。
やがて新一は壁に隠された金属プレートを発見した。
 『何だこれ?』
 『多分、指紋を照合するんだここで』
 新一はコクランに頼んでベルナールの指先をそのプレートに触れるようにして貰った。
すり変わってからこれまでここへ来ていたと言う事は指紋ですら再現してあるのか再度登
録し直してあるのか。
だが無事動いたのは扉ではなくそのプレートで、さらなる奥に仕掛けられた装置を一目見
て新一は舌打ちした。
 『声紋のチェックもするのか、随分と厳重だな』
 幾ら何でも気を失っている人間にそんな事はさせられない。
どうするか。
自分の時計には変声器の機能も付いているが器械を通す声と生身の声とでは微妙に声紋パ
ターンが違う、ここまでの精密機器を騙し切る程のものではない。
ここに居るのが彼の方ならばクリア出来たかも知れなかった。
手立ては本当に無いのか、考えようとするが思考が纏まらない。
顔色は増々透き通るように白く、冷たい汗を滲ませた新一は立っているだけでやっとのよ
うに見えた。
いや、実際そうなのだろう。
ヴィオラはどうしたものかと内心動揺し、そう言えばと気が付いて後ろを振り返る。
 『おい!誰か喰いモン持ってねえか?!』
 決定的に身体が限界に来ているのは分かっている、頭に施された止血のハンカチが朱に
染まり切っていた。
直接失った血液を補う事が出来ないのなら内側から造り出すしかない、それには栄養を補
給しなければ。
それでなくとも疲労にもそれが一番適した対処法で、エルラッハによく世話を焼いていた
時を思い出す。
あちこちからポケットを弄る音が聞こえたが返ってきたのは無情にもため息ばかりであ
った。
 『ちっくしょ〜!俺もエルが居た頃ならよくチョコくらい持ち歩いてたってのに』
 その言葉に新一はああ、と思い出したように自らのポケットを探った。
そして出て来た金色のコインチョコを手に取る。
 『それは確か…』
 コクランは見覚えのある包みに目を丸くする。
 『余ったとか言うのを後で俺も貰ったんだよ。悪いヴィオラ、俺忘れてた』
元々甘いものは苦手であったが確かに今は少しでも栄養を補給した方が良い。
新一は気付かせてくれたヴィオラに感謝しつつ金色の包みを開きかけ、しかし途中で固
まった。
 (……あいつ何考えてやがったんだ?!)
別の意味で意識がハッキリしてきた新一は半眼になって手元の包みを見下ろすとゆっくり
と後ろを振り返った。
これまで背中しか拝ませて貰えなかったその他大勢は突然露になった彼の美貌と凛とした
空気に嬉しい金縛りにあったが、あまりにも意外な言葉がその可憐な口元から発っせられ
ると一様に目を見開いた。
 『今直ぐここから離れろ』

 『思いきったジョーカーを隠し持っていたものですね。ですが、随分と余裕ではありま
せんか、それとももうあなたには探すまでもなく宝石の在り処が分かったと言う事でしょ
うか』
 長身の切り札が消えた後、今度こそ本当に二人だけになった礼拝堂では再び冷たい嵐が
見えない雷雲を呼んでいた。
静寂の中に浮かぶ魔術師の影はあまりにも白く、幻のように美しい。
対する美少女と見紛う艶やかな少年は切り取られたその現実空間を支配する王であった。
柔らかな靴音を響かせファウストは中央へと進み出て泡沫の怪盗と対峙する。
傍から見れば勇気をもって困難に立ち向かおうとしている健気な美少女と、これからその
美少女を攫おうとしている怪盗のワンシーンのようにも見えた。
 『マジシャンはそう簡単に手の内を見せないという事ですよ』
 キッドはシニカルな笑みを浮かべる。
まさがあれが半ば偶然の産物であったとは流石の化け物も知り得ないであろう。
どんな状況も味方に呼び込む、これぞまさに魔術師。
 『そして、ビッグジュエルの在り処についてならばすでに些かの心当たりがあるもので
すから』
 ダークグレーの瞳が細められた。
途端これまでの華やかさから真冬の冷気に変わる。
しかしキッドはマントの端を一ミリたりとも揺らす事なくそれを受け流した。
逸早く<彼>の元へと駆け付けたがる快斗の心。
ここに留まり己の存在意義を架けビッグジュエルを追い求めんとするキッドの心。
この場合どちらを優先するべきなのか、コクランを助手と指名した時点でどれでもない第
三の心が判定を下した。
つまりは<彼が>望むもの。
<彼>は例え己の身が危うくとも、途中で志しを投げ出す自分を受け入れはしてもきっと
……その瞬間希有な双眸を微かに伏せるのだろう。
決意が固まった瞬間から迷いは消えIQ400を誇る頭脳はフル回転していた。
キッドはオリジナル銃を再び構えた。
その表情は全て片眼鏡に封じ込められている。
ファウストは己に向けられた銃口に僅かに眉を顰めた。
 『私が持っていると…?それとも一番確実にして最短の方法、脅しで口を割らせようと
いう事ですか。……嫌いではありませんけどね、頭の良いやり方ですから。ですが私の知
る怪盗キッドは少なくとも折角のゲームに水を差すような不粋な真似をするような方では
ありませんでしたが』
 キッドはニヤリと笑みを深める。
銃口はまだ定められた訳ではない、実にゆるやかに動いていたのだ。
狙うはアンリの姿を持った博士…ではなくその傍らで佇む白き聖母の像に。
淡い光の中硬質な美を体現するそのマリア像は泣いているようにも笑っているようにも見
えた。
 『Missing ringシリーズ NO.222 <夢魔の囁き>。……その一対のスターサファイ
アには強力な催眠効果があり見た者を夢の世界へ誘うと言う。但し、その夢とは多分に悪
夢であると伺っておりますが』
 キッドの声は煌々と闇に溶けた。
鋭さを増した瞳と肌を刺す空気が色を変えても穢れる事を知らない白い砦は染まる術もま
た持たない。
 『ずっと考えていました、その宝石を隠すのに一番適した場所が何処であるのか。あな
たの嗜好からすればただ隠すのではなくそれなりに意味を持たせるのではないかと』
 『…それで?』
 『つまりはこれが答えと言う訳ですよ。あなたの喜ぶ一連の事件を誘発した娼婦、悪夢
の封じられたパンドラボックス』
 キッドは引き金に掛けた指に力を込める。
 『そしてアシュケナジーであるアンリ・フォン・ウィルヘルムが崇拝し、またそれを正
当であると認識させる理由』
 放たれたカードは少年の髪を掠めるように飛んだ。
風圧で揺れた淡い金糸が己の頬を撫でても彼はただ真直ぐに白い怪盗を瞬き一つせず見つ
めていた。
その瞳には凄絶な光に混じるように恍惚とした狂気が見え隠れしていた。
特殊な加工の施されたカードは元より刺さっていた一枚のカードが生んだ亀裂に合わせて
突き立った。
それはマリア像の白い額部分。
瞬間大きくひび割れ下へと放射状に深く入った亀裂から何故か血潮のごとく液体が吹き出
し凄惨な光景を垣間見せたがそれも束の間、仕込まれた火薬が小規模な爆発を起こせば衝
撃でバランスの崩れた聖母は白い破片をまき散らしつつゆっくりと横倒しになった。
静寂の鎮座していた空間に響いたその音はあまりにも大きく、また哀し気であった。
 『つまりは、<アンリ>という人物にとってその像は偶像などではなく、名前も同じく
<本物の聖母>だったという事ですよ』
 キッドはマントを翻しつつ歩みを進める。
足音はなく滑るような動きは礼拝堂に住み着く亡霊のごとく、しかし凛とした冷涼な気配
は何処までも生気に溢れ、彼を現実へと留めていた。
己の横を通り過ぎた怪盗を目で追い、振り返る前に浮かべた微苦笑はそのままにファウス
トは眼下に広げられた現実を見た。
半ば倒壊したマリア像は白い衣を剥がされ緑色をした液体を絨毯のように敷き詰めた上に
裸身ならぬ<中身>を晒していた。
キッドは膝を付き白い布地が汚れるのも構わず手を伸ばす。
その先にあるのは色素の抜け落ちた長い髪と白蝋のごとき肌を露にした女性…でかつて
あったもの。
急激に空気に晒された細胞は更に横から加えられた衝撃ににより粘土のように潰れ、原形
を半分程も留めていない。
残った部分があまりにも美しい女性を体現している為その対比にゾッとする程の残虐さと
芸術的な均衡とが微妙なラインで同居していた。
マリア・フォン・ウィルヘルム。
火事で数年前死亡したと言われた彼女はこんな所で長い間眠っていたのだ。
鼻をつく刺激臭は細胞を保存する為のもの。
 『あまり良い趣味であるとは言えませんね』
 キッドは涼しい顔を保ったまま女の目蓋から溢れ出た一対の宝石を拾い上げた。
 『<アンリ>の心が望んだのですよ、幸い火に焼かれた訳でもなかった母親の身体を誰
の目にも晒したくないと。けれど今度もまた塔の部屋と同じく鏡で囲み何時でも寂しくな
いように、そして皆に鎮魂の祈りを捧げて貰えるように…。
<アンリ>は本当に彼女を愛していたのです。
ですがたった一つ、死して濁ってしまった瞳をそのままにしておく事を嫌がりましたので
丁度良く色具合も似ていた私の宝石を代わりに差し上げました。もしもアンリの瞳が彼女
と同じ蒼だったら自らのものを捧げたかも知れませんが、生憎彼は彼女にどれだけ似てい
てもその瞳だけは譲り受ける事がなかった……。それをずっと気に病んでいた彼はだから
何よりも本物の生きた宝 石が見付かるのを心待ちにしていたのですよ』
 <夢魔の囁き>と呼ばれる一対のスターサファイアは抜き取られた瞳の代わりとしてマ
リアの目に埋め込まれていたのだ。
キッドは半瞬片眼鏡の奥の瞳を揺らしたが、後は何事もなかったように立ち上がり手の中
の獲物を掲げてみせた。
もしも新一が同じ立場だとしてマリア像の正体を見抜いていても尚キッド…快斗と同じ選
択と行動をしたかと言えばきっと答えはNOだ。
心はどうあれ中身がどうなるか知った上で残酷とも取れるその行為を実際に行なってしま
える彼はやはり闇の世界の住人なのだろう。
 『これでゲームオーバー、私の勝ちですね』
 佇む白い影は足元に広がる光景の何もかもが舞台の一部であるかのよう にただ美しく微
笑む。
ダークグレーの瞳が魅せられたように一度大きく見開かれた。
 『よく、分かりましたね』
 『…切っ掛けを与えて下さったのは別の方でしたが、これ以上に相応しい場所はないか
と』
 アンリがユダヤ人でありユダヤ教徒である事に気付き調べたのは新一。
そして元々何かあるのではないかと疑った訳も初日における新一の反応であった。
初めてマリア像を見てゾッとしたと言った彼。
その類い稀な探偵としての勘と魔眼とすら呼ばれる双眸をもって既にあの像の異質さに無
意識に気付いていたのだろう。
後は持っていた宝石に関する情報から導きだした答に過ぎない。
だがまさかそれがあんな風に使用されているとまでは思わなかったが。
 『流石ですね怪盗キッド、では約束通りその宝石はあなたに差し上げますよ。但しあな
たなら大丈夫かと思いますが、普通の人間には強過ぎる光が眠っていますからなるべく必
要以上に覗き込まない方がいい。それには本当に人を惑わず力があるのです、ですがだか
らこそこんなにも美しいのでしょう。そう…あのイーブルアイのように…』
 キッドは瞳を半ばまで細めると無言のまま手中の宝石を握りしめた。
 『今となってはそれが宿主ごと壊されてしまった事を少しだけ残念にも思いますね』
 『……随分な言われようですね、まだ決まった訳ではないでしょうに』
 『先程の彼が何処までの事が出来るか分かりませんが、時間の経過を考えればそろそろ
……。クドウがどんなに優秀な探偵でイーブルアイの持ち主でも、この私の施したもう 一
つ の二重仕掛けの謎が解けない限りは逃げる手段もないかと思われます』
 足元から忍び寄ってきた冷気に少年は笑おうと開きかけた唇を再び引き結んだ。
 『では、もう一度ゲームをしてみませんか?』
 白い怪盗は闇色の声を吐くと淀んだ空気を一掃するようにマントを払った。
ファウストは自分を一瞬怯ませた相手の気配に憎悪しかけながら、しかしゲームという単
語に心を動かされる。
 『ゲーム、ですか。…一体どのような?』
 『先程と同じく実に簡単なものですよ、ゲームというよりは賭と言った方が正しいで
しょうか。あなたの言うイーブルアイがあなたは既に…この世のものではないと仰った。
ですが私はまだ生きていると思っています。もうあなたの仕掛けた壮大な舞踏会も我々の
邂逅を祝ったゲームも幕を降ろした事ですし、ではこれから共に結果を見届けに伺おうで
はありませんか』
 光の加減か紫紺の瞳がキラリと妖しく閃いた。
魔物の瞳。
ファウストは一度は乗せかけた剣呑な翳りを消して微笑む。
好奇心が怒りに勝った。
 『…面白いですね、いいでしょう。それでは何を賭けますか?』
 『何でも結構です』
 『私はならば、あなたの願いを何でも一つだけ叶えて差し上げる事にしましょうか』
 『では私は…そうですね、この命でも…』
 キッドは軽く胸元を押さえて笑った。
 『絶対の自信があるという訳ですか、それともイーブルアイの持ち主のいないこの世に
は何の意味もないと?』
 ダークグレーの瞳が探るように動けばキッドはまたニヤリと、驚く程に無邪気な笑顔を
見せた。
 『ただ馬鹿なだけですよ。私もあなたと同様、人の目を欺き一時の幻想に耽る事に喜び
を見い出す愉快犯……ただの<子供>ですから。
面白そうだからやってみたいだけです。もしかして御高名な博士の驚愕に歪む世にも珍し
い顔が拝めるかもしれないチャンスですし』
 傍目には何処から見てもイベントを前にはしゃぐ子供のようにしか見えなかった。
 『それだけの為に全てを捨て去ると?』
 『リスクが大きい程後の喜びも大きい、まして相手となる人物が途方もなく素晴らしい
方なら尚更に。あなたにならこの気持ちお分かりになる筈。それにまだ捨てると決まった
訳でもないでしょう』
 この明るさは何処からくるのか、演技でもそうでなくとも苦笑が漏れる。
頭の良い相手との駆け引きはやはり楽しい。
 『…分かりました、では行ってみるとしましょうか。あなたには既に彼の居場所が分か
っているようですから。ですが期待を裏切るようで申し訳ありませんが私は今更世程の
事でもない限り何を見ても本気で驚いたりなどしませ……』
 その時、いきなり何の前触れもなく祭壇とその周辺の鏡が壁ごと轟音と共に砕け散っ
た。
爆風の余波で白いマントは広く棚引き、襲いくる熱と礫に手を咄嗟に翳し目をガードす
る。
焼け付く空気に一瞬息を止め、治まりがついた途端視界を開けば辺りには煙が薄く立ち篭
め一部では未だ燻っている炎が最後の燃焼を続けていた。
足元には無数の鏡の破片が星のごとく光彩を放っている。
目を庇う直前見えたのはオレンジの閃光で、キッドは彼らしからぬ呆然とした表情で引き
寄せられるように足を動かす。
何が起こったのか、万分の一の確率で想像した事はある……。
かつては鏡であった部分に立つ。
暫くして煙が晴れ、視界に映ったものに一瞬あの爆発は嘘だったのではないかという錯覚
に陥った。
何故ならそこには自分が居る。
…が、よく見れば服装も異なるしどうやら怪我をしているようで…、そして何より瞳の輝
きが違う。
この世に二つとない希有な宝石。
夢の続きかと思う程に美しいその人は鮮やかに燃える蒼の双眸をほんの一瞬驚きに揺らす
と、後はそのままにゆっくりと歩み出て来た。
まさか例の扉越しにいきなりこんな光景に出くわすとは流石に予想外だったのだろう。
 「………無事、だったのか……?」
 どう見ても無事とは言い難い様子で彼には珍しい失言であったのだがそれに気付かぬ程
に動揺しているのだ。
しかも口調も快斗のままである。
だがキッドもまた気付かなかった、その後ろで流石のあのファウストが驚愕に目を丸くし
言葉を失っていた事に。
新一はそのままキッドの脇を通り過ぎるとかつてはアンリであった者の前に立つ。
 『…あなたが一連の事件の黒幕という訳ですね。何者かは知りませんが精神科医になり
済ましその頃心を病んでいたアンリに近付いた。城が火災に遭ったのもあなたの仕業です
か。その際死んだ本物のアンリとアンリに成り済ましたあなたが入れ代わり父親であるリ
ヒターをそそのかす。
それから火災で偶然にも逆さまに崩れ落ちた塔を利用しおかしな寮と設備を造らせた。
そして、二ヶ月前Dr.ベルナール・レッシュを強引に迎えた際あなたはリヒターを殺害
し代わりにDr.をリヒターに仕立て上げた…。Dr.は自らの事を本当にリヒターであ
ると信じきっていました。 体は元々体型は似ていましたが、顔はどう見ても紛い物ではな
かった。となると整形した 上で強力な 催眠術のようなものを掛けた、…信じられない事
ですがそうとしか考えられません』
 新一は決して膝を折る事なく真直ぐにアンリの姿をした別人を見据えると一気にそこま
でを言い放った。
その姿にキッドは彼に手を貸す事も出来ずただ息をつめて立ち尽くす。
顔色も悪い、呼吸も不規則で何より流れる赤が彼に相当なダメージを与えている事は明白
であった。
それでも翳る事を知らない鮮やかな蒼は息を呑む程に美しい。
燃える蒼、彼そのものの。
今触れればきっと灼かれてしまう…。
 『……よくあの暗示が解けましたね』
 何処となく夢の続きを見ているような瞳と声でファウストはイーブルアイとその宿主を
見ていた。
 『暗示?…成る程、ではあなたがアンリであった事も自己暗示というものなのですね。
長い年月、そこまで強力な暗示を掛け続けられる能力が実在するとは聞いた事がありませ
んでしたが』
 お前は何者だ?名を名乗ってみろ、そう訴える双眸がファウストを現実へと引き戻す。
その柔らかな美貌に浮かんだ淡い笑みは僅かに強ばっていた。
 『凄まじいですねイーブルアイ、これ程強力なものは初めて見ました…。その眼に映っ
た通り私はこの少年になる以前は一寸した興味から精神科医をしていました。何と言って
も面白いゲームのタネが一番詰まった職業でしたから、この<アンリ>を患者として見い
出した時には思わず笑みが溢れましたね。後は頃合をみて彼に姿を変えて……あなたの想
像通りです。火事を誘発し混乱の中で私はアンリとなり父親であるリヒターには軽い暗示
のみを掛けた、塔の工事の際その中で発見される遺体が誰のものであるかを認識しないよ
うに、と。……それにしてもここまで……、私も認識を改めなければなりませんか…
いえ、だからこそ……』
 一気に不穏な光を帯びたダークグレーの瞳はしかし突然別の気配の介入により打ち消さ
れた。
 『賭は私の勝ちです』
 言葉を遮るように重なった声は新一とは似て非なるもの。
その持ち主である怪盗は二人の視線の間、新一を背後に隠すように立ち塞がる。
本音を言えば単に彼に己の表情を悟られたくなかったからなのだが。
白いマントに視界を遮られた事で新一は眉を顰めたがキッドの放つ冷涼な気配が冴え渡る
銀月のように辺りを満たせば口を挟む事も出来ない。
彼はまだラストダンスを終えていない、自分は今立ち入るべきではないと悟ってしまえば
尚更。
気を取り直したようにファウストは変わらぬ薄い笑みを浮かべる。
賭の結果が向こうからやってきただけの事なのだ、相当に予定外でインパクトのある出来
事であったが…。
 『…確かに、ではお聞きしましょうか?あなたの望みを』
 複雑な儀式の末呼び出された悪魔のように昏く甘い響き。
単純に望みなら沢山あった。
父親の事、パンドラの事、リングの事、きっとどれも今を逃せば次は何時手に入るか分か
らない情報。
もしかすると次などというものは無いのかも知れない。
それでも、今最も望むものは……。
 『では、あなたには……今直ぐにここから退場して頂きたい』
 玲瓏と響いた声は簡潔で迷いの欠片も見出せなかった。
目的も果たした今、この存在はただの毒でしかない。
そして何より一刻も早く<彼>の視界から消えて欲しいのだ。
それは己のどんな願いよりも切望された。
 『…………成る程、いいでしょう。それが望みと言うのなら』
 返答にはやや間があった。
彼の申し出が意外だったせいだろう。
だがどんな望みを口にしてもこれ程に愉快な気分にはならなかったに違いない、そして先
程の出来事で久々に本気で高鳴った胸と。
 『イーブルアイとミッシングリング、探偵と怪盗、…実に面白い取り合わせですよ。久
しぶりに心が躍ります。……ですが最後に一つだけよろしいですか?』
 ダークグレーの瞳には不可思議で複雑な光彩が宿っていた。
 『人を超えるという事はまた人としてそれ故の代償を支払うという事です。強過ぎる光
が倒 される時が来るとすればそれもまた己の内からくる光の仕業でしかない、それ は闇
に とっても同じ事。……覚えてお いて 下さい』
 細められた二つの眼差しに小さく華のように笑うと、来た時と同じく柔らかな靴音を響
かせ金の髪を持った魔物は魔術師の望み通りに去って行った。
扉が開かれると礼拝堂の中は月の浄化を受けたがごとく冴えた心地よい冷気に満たされ
た。
閉じられた音が静寂を運べば舞踏会の終わりを告げる淑女達のさざめきもまた空気に溶け
ていく。
残ったのは宴の後の静けさ。
ここでようやく向き合った怪盗と探偵は互いの目を見交わす。
 「…仕事、お互い無事済んだみてえだな」
 自分を見ると再び固まった怪盗に新一はそう話掛けると不敵な笑みをその口元に刻ん
だ。
止血をした布が真紅に染まり切っている、普段からの身体の状態を思えば本当は相当苦し
い筈だ。
それでも彼は何処までも探偵で、工藤新一であった。
キッドは無意識に伸ばし掛けた手を途中で引っ込めると同じく不敵な笑みを浮かべる。
 「お陰様で、恙無く完了致しましたよ」
 揺らいでしまった瞳くらいは愛嬌と思って欲しい。
キッドは新一の死角をついて宝石を仕舞い込むと白装束から一転、黒羽快斗の姿へと戻っ
た。
舞踏会は終わったのだ、もう衣装は要らない。
気配すらすり変わった相手の相変わらずの手腕に感嘆しつつ新一は歳相応の少年の顔で微
苦笑する。
 「そっか、お疲れ」
 「…しん……おメーよくこの状況でDr.見つけられたな」
 快斗は彼の名前を呼び掛けて…一瞬言葉に詰まってしまった。
どうしたらいいのだろう、彼の存在が今は眩し過ぎる。
 「ああ、すっげえ意外なところに……本物が居たんだ。例の塔の中で俺はアンリとリヒ
ターの遺体を見つけた。アンリのはもう完全に白骨化していて、リヒターのはまだ骨には
成りきってなかった…」
 新一はそんな快斗の様子に気付きながらも淡々と事実を告げる。
改めて聞いたそれは快斗にもかなり衝撃的な事実であった。
化けていたのはアンリだけでなくファウストの手によってリヒターでさえも別人と入れ代
わっていたと言う訳だ。
それが彼の言っていた二重仕掛けの謎…。
道理で苛々する筈だ。
アンリだけならまだしももう一人外見と内側の違う奴が堂々と目の前に居たのだとすれば
鋭い感覚の持ち主程ズレが生じ混乱する。
ファウストの気配に混ざるようにそこまで撹乱させられていれば調子も狂う。
この学校を取りまいていた異質な妖気の正体はそこにもあったのだ。
そしてマリアの存在もまた。
新一は足元の壊れたマリア像と崩れた女性の遺体を見た。
何も聞かずともここへ足を踏み入れたあの瞬間から二人の間で凄絶な駆け引きが繰り広げ
られていた事は分かっている。
その内容の激しさは本物のマリアが語っていた…。
 「成る程…怪しいとは思ってたけどそういう事か、これなら偶像崇拝にはなんねえよな
……」
 美しく醜い女神、聖母、彼女を復活させる為に魂を売った親子、それにつけこんだ悪魔
、生け贄になった沢山の小羊達……。
ポッカリと空いた二つの空洞にこの眼がはめられる筈だったのか…。
新一は渦巻く妖気の残り香にあてられたように希有な双眸に指先を触れさせると、これま
での展開してきた推理…表から見たこれも紛れもないウィルヘルム親子の事件と真実を快
斗に説明した。
 「…そして、Dr.は第三者の手によって自分がリヒターだと信じていた。でもその天
才的な外科術はそのままに、それを疑問に思う事なく彼が手を下していたらしい…。だけ
ど幾ら何でもそれ程強力で複雑な暗示が本当に掛けられるものなのか俺もこの目で見な
きゃ信じられなかっただろうな」
 「ああ、俺もびっくりした、噂に聞いた悪魔的能力ってほんとだったんだなって。奴は
自分が天才的な医学博士でもあるから顔だけじゃなく全身整形なんてお手のもの、そこで
わざわざDr.を誘拐したのは単に興味があったからじゃないのかな、もう一人の天才外
科医の技術ってのに」
 「…へえ〜、知らねえって言ってた割には随分と詳しいじゃねえか」
 そこでジロリと睨まれて快斗は思わず息を呑んだ。
今彼は新一が生きて目の前に立っている事に頭が痺れる程安堵しているのだが、それでも
半ば都合の良い夢だったのではないかと思う部分もあって…つい余計な事を喋ってしまっ
たようだ。
こんなにも真直ぐに己を映す鮮やかな蒼がこの世のものでない筈がないのに。
 「快斗」
 名前を呼ばれてそれでもやはりぼんやりと返事をすれば今は何処までも深い双眸が柔ら
かに細められた。
途端優しい光を帯びた至高の宝石がゆっくりと距離を縮めてくる。
快斗は傾いた新一の身体を支えようと慌てて腕を伸ばした。
これまで彼があれだけの怪我を負いそれでも最後まで堂々と立ち振る舞えたのは本来奇跡
なのだ。
だがその奇跡とは新一の意志の強さが形になったもので、これまで誰一人として手を貸す
事を許さなかった彼は事件も解決した今とっくに超えていた限界を思い出したのかも知れ
ない。
 「しんい…」
 その腕の中に華奢な身体が収まったかと思った瞬間、
ゴチン!!
見事な音が響き渡った。
 「………あれ?」
 快斗は何が起きたのかと目を丸くし、それでも腕に掛かる温もりを決して離そうとはし
ないままどうやらそれの原因らしい白皙の額を見遣る。
 「……バ快斗、あんな物騒なもん人に勝手に預けやがって」
 再会したあの夜、快斗がチョコと称して新一に渡したものは小型だがそれなりに力のあ
るプラスチック爆弾であった。
特に他意は無かったのだがあまりにも危険な見えざる相手に、万一の時のお守りとして持
たせたのだ。
それに気付くかどうか、そもそもそれを使わざるを得ない状況に陥るような事になるかど
うかは快斗にも分からなかったのだが。
教室で初日に播いたコインチョコは本物で、あのパフォーマンスも新一にそのたった一つ
を渡しておく事が本来の目的であった。
新一にしてみれば最初からそれが必要になるかも知れない程に危険な相手と快斗が関わっ
ていた事はともかく、それを一人で背負いつつも自分の事にまで気を配っていてくれたと
いう事実が理解は出来ても妙に寂しく、また腹立たしかったのだ。
限り無く縮まった距離は時にその髪の毛一筋程の厚さでも大きな壁へと転じてしまう。
あと一つ、それを乗り越えるにはまだ時間が掛かると言う事か、互いが互いである為に必
要だからそこに在ると言うのか。
…答えはない、今はまだ。
倒れるのかと思った彼は頭突きが上手く極まった事に実に満足げに美しく微笑むと、今度
は本当に意識をそのまま失ってしまった。
今度こそ快斗は屑折れた新一の身体を全身で支えると熱く痛む自分の額にソッと手を触れ
る。
こんな大事になるにも関わらず何も知らせていなかった事に彼が怒るのは当然で、でも互
いの立場もよく承知していて…だから彼は深く追求はしないがここでその行為を選んで踏
み切ったのはきっとそれでも優しさ、なのだろう。
そしてその眼が語っていた、名前くらいきちんと呼べと。
 (かなわねえな、新一)
やはり彼は彼だった、そんな当り前の事が今は酷く嬉しくて…少しだけ切ない。
痛みと共に覚醒した頭はただこの奇跡的な存在を感じる事で一杯で、彼が現れた穴から長
身の影がゆっくりと歩み出て来てもすぐには視線が外せなかった。
 『…おい、もうそろそろ皆出て来ても良かったかクド…』
 全身のあちこちを煤塗れにしながらその背に男を一人抱えた長身の少年は辺りの様子を
確認するように見た後、二人の状況に気付いて目を見開いた。
どうでもいいが殆ど汚れていない新一に対し彼の汚れ具合と言ったら、どうやら爆風もそ
の余波でさえも新一に流れるのを自ら避けたように彼へと降り注いだようであった。
コクランは何故か出口が礼拝堂と繋がっていた事実や足元に広がった訳の分からない惨状
よりも何よりも、まるで運命を分け合うがごとく身を寄せあう同じ顔をした二人の少年の
姿に声もなく魅入られる。
薄暗い礼拝堂の中佇むそれは神から追放された堕天使のように厳かでしかし哀しい色を
纏っていた。
何処にも染まらない、何処にもいない二人。
そして自分達の前で最後まで膝を折らなかった新一はそれでも彼には己の身体を預けてい
るようで……。
凍える瞳をした彼はもう一人の彼の事をどんな風にそこに映していたのか、以前考えた時
があった。
そしてその答えが今ここにある。
深過ぎる闇がその光によって己の居場所を確認したように何処までも満たされ安堵した瞳
は、同時に失くす恐さをも滲ませている。
あまりにも人間過ぎる紫紺の双眸。
その眼差しを向けるのはこの世でたった一人だけ。
見ているだけで分かる自然な光景。
その瞳が不意にこちらを見た。
途端色の変わる正直なそれにようやく現実に返るとコクランは瞬きをした。
快斗は彼が背負っている人物とボロボロになった服の様子に苦労の匂いを嗅ぎとるとほん
の少しだけすまなさそうに微苦笑を浮かべる。
そして鋭い快斗はコクランの微妙な変化にも気付いていた。
何があったのか、気にはなったがそれでも特にもう強引に聞き込むような真似はしない。
コクランもまた怪盗の衣装を脱いだ<クロバ>の視線に答えるように苦笑した。
切っ掛けをくれた彼には頭にくる部分も多いがやはり嫌でも感謝しなくてはなるまい。
それに不本意にも彼の強さを見習いたいと思ってしまったのだから。
何時まで待ってればいいんだ?!と新一に安全の確認が取れるまで待機を言い渡されてい
たヴィオラ以下少年グループ達の声がすぐ背後に迫っても、無事ショーをやり遂げたマジ
シャンと臨時の助手を務めた少年は無言のまま、 暫し幻の観客の拍手に身を委ねていた
……。


舞踏会は幕を閉じました。仮面を被っていたのは誰であったのか=主要キャラ全員が正解です(苦笑)
ウィルヘルム親子は元より快斗と新一も普通の学生の仮面を、コクランやヴィオラ達など心に仮面を
被ってい たという感じで…(汗)そして これでようやく本編は終わりです。最後という事でゴチャ
ゴチャしていましたが…微妙におかしいなと 思うところは目を瞑って下さい(汗)
新一のこれまで展開してきた推理は間違いではありません、あれは表から見たあの親子の真実であり、
快斗は裏から見た事件に迫ったという感じでどちらも正しいのです。
それでリク最後の3ですが、「キッドさまには新一を守ってもらい、 最後はキッドさまと美形の犯人
との対決
でした。……何と言うかどうしても私の考える新一は意識のある 限り這ってでも自力で
戻ってきてしまう人なので物凄く悩み…その挙げ句大平洋並の心の広さで見れば守って 貰った(?)
かもというインチキな感じになってしまいました(大汗)麻希利様、す、すみません(泣)
長く掛かったわりにはリク小説としては今一つだったかもです(涙)
ようやく再会を果たした新一と快斗、次回エピローグと言っても私の事なので程よく長いかと思います。
後一回、おつき合い下さいませ(汗)

 

お疲れさまでした、ラトさん。ついに解決しましたね。
エピローグでは新一と快斗のほのぼのとした触れあいがちょっと見たいかな。
とにかく驚いたのは、え!ファウスト博士ってば自分で整形したの?
まるで、ブラックジャックのようなお方だったんですね。
昔マンガで、内臓を何度も移植したために年をとらなくなった少女の話を読んだことがあります。
外側だけでなく、もしかしたら内臓まで取り替えていたんでしょうか?・・なんて(^^;
コクランにいいとこ先取りされて、空振りしてコケた親衛隊の少年たちに合掌・・・
そして、実はとても怒ってたんだぞと頭突きをかました新一くん(苦笑)
いやあ、その怒りを表情に見せず、すかさず行動に移す新ちゃんって、
もしかして、キッドさまより詐欺師?
今思いました。レクター教授のイメージはやっぱり隆良氏かもv  麻希利

 

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