仮面舞踏会          
                    BY 流多和ラト


<ACT 3>

 穏やかに晴れ渡ったその日、学校は一寸した騒ぎになっていた。
と言っても騒いでいたのは教職員で生徒には何も知らされていない。
それもこんな閉鎖空間、時間の問題であると言えたが。
一学年の生徒が一人行方不明になった。
朝の礼拝の時に出席しない生徒は珍しくなくその時点では気付かれていなかった。
元々その少年は本当に身体が弱く日頃から授業も休みがちだった為始業時間が過ぎても疑
問には思われず、部屋を十時頃になって尋ねた医療スタッフの二人組が異変を察したの
だ。
連絡もなしに欠席した生徒には万一の為に一度訪問する事になっている。
そしてノックをしても返事のないそこを寝ているのではないかと静かに合鍵で入り(二人
で組むのは盗難などないよう互いを監視する為である)、そして中が無人である事を発見
する……。
 『次の授業自習だってさ』
 嬉々とした顔で戻って来た室長の少年の言葉に教室は沸いた。
やはり自習というのは世界共通で嬉しいものらしい。
隣の教室からも似たような声が上がっているが日本と違いしっかりと厚い壁に阻まれた校
舎は何もかも筒抜けに聞こえてしまうと言う事はない。
新一は無言のまま立ち上がった。
皆の注目を浴びたが本人は涼しい顔で教室を後にする。
そして遅れて快斗もまたそれに倣う。
その頃には皆の感心は他へ反れていた。
ただ一人快斗を見ていたのはコクランくらいであったが彼は座ったまま動く事はなかっ
た。
廊下に出ると足早に歩き新一に追い付く。
彼は朝食を食べる頃には戻っていた。
アンリが明け方には何事もなく目を覚ましたのだ。
一応それから暫くは側に居て後は父親のリヒターと交代したらしい。
礼拝にはアンリは居ないがリヒターは参加していた。
もう完全に大丈夫だと言う事であろうが大事をとってアンリは授業も休んでいるようだ。
 「…何かあったみてえだな」
 新一は各クラスの様子を見ながら言った。
一クラスだけでなく他のクラスもとなると教師一人の都合というのとは違う。
感覚が澄んでいく。
新一はその予感に秀麗な眉を顰めながらも慣れた空気に体が反応していくのが解った。
傍らを歩く快斗はそんな彼の変化に気付きながら静かに戦慄し、頷いた。
徹夜明けの筈の彼もあの時の言葉通り全く疲れを感じさせていない。
眼差しに更に力を込め先を急ぐ。
途中すれ違った少年に新一は振り返った。
ヴィオラだ。
何処に行っていたのか固い表情の彼は新一達の存在を完全に無視し反対の方向へとどんど
ん歩いて行く。
昨日の話の続きをまだ聞いていない。
しかし……。
今は先ず何が起きたのかそちらを見極めなければならない。
新一は呼び掛けた彼の名を途中で飲み込み、踵を返した。
そのまま教員達も集まる広い事務室へと顔を出す。
思った通り教師は誰も見当たらない。
部屋には事務の男性が一人残っているのみである。
その事務員は二人を見て目を丸くした。
一度初日に寄った時に会っているのだが何度見てもこの強烈なビジュアルには慣れないの
だろう。
クラスメイト達でさえ未だそうであるのだから。
だがその驚きの中に生徒達の間で見られるあの恐怖にも似た感情はない。
これは教職員に共通する事項である。
 『何だね君達は?!今は授業中の筈だぞ』
 男の声が多少上擦っていてもこの場合仕方ないと言えた。
 『…すみません、こいつが急に気分が悪くなったらしくて、保健室へ行くよりも寮に
戻って休みたいと言っているんですよ。それで先生に許可をと思いまして…』
 新一はいきなり快斗の肩に手を置き、真顔でそう言うとジッと相手を見つめた。
それをされた方は目を三割増しに大きく見開くとそのまま固まった。
普段は無意識に振りまいているそれが意志を込めて使われれば当然こうなる。
 (すっげ〜、新一って時々ほんと手に追えねえよな…)
快斗は内心で相手に同情を示した。
暫くしてやっと復活したその男は麻痺した思考に、しかし寮という単語を思い出すと顔を
強ばらせた。
寮と言ったのはこの部屋へ入ってからさり気なく観察をした結果である。
空の席に上着はなく、また乱雑に開かれたロッカーからコートの影が見えなかった。
自己管理の徹底した国の教師がそんな事をする程に慌てて外に出たという証拠であり、わ
ざわざ自習にしたのは直ぐに戻っては来られずコートも必要な離れた場所へ移動したとい
う事だ。
この校舎からそんな場所と言えば寮か礼拝堂などの生活圏。
いきなり礼拝堂と言えば怪しまれるが、寮へ戻るというのなら問題ないと思った。
しかもその途中礼拝堂の側も通る。
だが今の様子から何事か起きたのが寮であるという確信を持った。
迷った様子の男を見て、快斗は額に手を置くとヨロリと新一に凭れ掛かった。
 『おい、大丈夫か?』
 新一が顔色を変えて語りかける。
 『一寸目眩が……でも大丈夫、ゆっくり休めばきっとよくなるから……』
 耐えるように眉根を寄せ新一の肩に顔を埋めた快斗は何処から見ても病人そのもので、
だがもっと驚いたのはそこから生まれた官能的とさえも言える構図。
同じ顔をした希有な美貌の少年が二人、憂いをもって身を寄せ合う姿は見る者の思考を溶
かす。
男は何を思ってか唾を飲んで、そして何時の間にかただひたすらに頷いていた。
それを許可と取って二人は適当な挨拶をし、さっさと退室する。
 「やっぱ寮だな」
 「ああ、とっとと行こうぜ」
 ケロリとした顔で二人は頷き合った。
 別に演技する事を示し合わせていた訳ではない。
だが何も言わずとも咄嗟にあそこまでのコンビプレーが出来るのである。
快斗はともかく、新一も相当な役者であった。

 寮を目前にして、礼拝堂へと入って行く少年の姿に二人は立ち止まった。
淡く光る金色の髪。
一瞬の事であったがそれが誰であるのかすぐに分かった。
新一と快斗は互いの顔を見遣り目だけで会話する。
そしてそのまま無言のうちに寮ではなく礼拝堂へと向かい歩き始めた。
重々しい扉を開いて、それによって薄闇が裂けるように光の道を造り出すと祭壇の前で祈
りを捧げていた人物は驚いたように振り返った。
光の中に浮かんだのはアンリ。
彼は眩し気に目を細め、やがて閉じられた扉に再び視界が戻るとホッとしたように息をつ
く。
華奢過ぎる程に肉の薄い体は布地の厚い制服を着込む事で何とか保たれている、そんな印
象を受ける。
冴えない顔色であったがマリア像を前にこれ程馴染む者はいないかも知れない。
影の淡い信者とそれを導く神と。
新一はハッとして、快斗はまた目を細めその光景を見ていた。
 『珍しい時間に珍しいところで御会いしますね』
 アンリはようやく笑みを浮かべるとそう言って二人を交互に見た。
 (…ああ、成る程……)
新一は心の中で呟いた。
今になってようやく気付いた、とても単純な事だったのだ。
 『大変な事になったな』
 『…どうしてそれを?』
 『一寸寮に用事があって寄ったら先生達が慌ててたから』
 新一は肩を竦めた。
快斗は呆れを含んだ視線をそんな彼へと送り微かに苦笑した。
実際にはまだ寮へは行っていない。
寮に居た筈のアンリなら何か知っているのではないかと、カマをかけたのだ。
ひょっとすると彼ならば一般の教師よりも詳しい話を聞かされている可能性もある。
だからこそ先にこちらへと寄った。
 『本当に信じられません…またこの学校から人が消えるなんて……』
 アンリは顔を伏せ、胸元に手を置いた。
新一と快斗は内心の驚愕を抑え目を見交わす。
 『何故こんな事が起こるのか、以前にも有名なDr.が一人こちらに向かう途中で行方
不明になられたとかで父も色々と尋ねられていましたが…。その前からも何度か似たよう
な事が起きていたので仕方ありませんけれど、人が居なくなるというのはそれだけ重くま
た悲しい事なんですね』
 そう言ってマリア像を振仰ぐ。
切な気な美貌に降り注ぐ光が彼を彫像のように浮き彫りにする。
色素の薄い肌に一つだけ飛抜ける濃いグレーの瞳が印象的であった。
 『今回の事も失踪…いえ、出来る事ならただの無断外泊であって欲しいのですが居なく
なった彼は深刻な持病を持っていて、もし何処かで倒れていたらと思うと…こうして神に
祈りを捧げる事しか僕には出来ません』
 やはり何か起きていたのだ、しかも失踪者を出したとは…一体どういうタイミングだろ
う。
ここ数カ月そのような事はなかった筈だ。
確かにこういう学校では勝手な外泊や脱走もないとはいえない。
しかし現実に過去のものでしかなかった事件が今、目の前のものとして描かれようとして
いる。
新一は底知れぬ予感に身を震わせるとすぐにでも現場を見たい衝動に駆られた。
 『悪ぃ、俺先行くな』
 挨拶もそこそこに新一は一人足早に出て行った。
アンリはその後ろ姿を最後まで目で追って、ようやく快斗に向き直る。
 『…あいつが気になるか?』
 快斗はからかい混じりに笑う、目だけはしっかりと相手を見据えて。
 『…え?あ、…いえ、ただ何をそんなに急いでいるのかと思いまして』
 『……まあな、ただああいう時のあいつは誰にも止めらんねえんだ。ところで、これか
ら授業に出るのか?』
 『ええ、もうお陰さまで落ち着きましたし、あまり寝てばかりでは余計に思考も暗くな
りますしね』
 『確かに、それは賢明かもな』
 アンリが口元に手をあてクスリと笑うと薄絹の手袋が皺を作る。
そうしているとまるで少女と見紛う。
 『ですから今朝は目が覚めて、あなたが居て驚きましたが楽しくもありました。あんな
体験は初めてです、ありがとうございましたHerr…』
 『クロバでもカイトでも好きに呼んでくれよ。あいつの事もさ、別に同級生なんだし』
 快斗は言いながらさり気なく背を向けた。
<彼>を追い掛けねばならない。
いや、特にその必要はない事も分かってはいるが自分なりに見ておきたい事もあり、何よ
りその場の空気を感じておきたい。
そこでふと顔だけを振り向かせた。
 『……ところでヘルダーリンの……まあいいや。じゃあな、アンリ』
 言いかけ、彼にしては珍しく途中自己完結させる。
また間が悪い、そんな気がした。
快斗は自らの感覚というものに重きをおいている。
だが…新一が以前言った通りその感覚そのものの調子を狂わされているのかも知れない。
気付かない程度に少しづつ…確実に。
そう思いながらも快斗は扉に手を掛けた。
冷たい木の感触が何故か昨夜の彼の鼓動を思い起こさせ、彼は内心で眉根を寄せた。

 寮へ入るなり先ず出迎えたのは教師の顔であった。
確か二学年の担当教師である事を新一は思い出す。
驚きに凍り付いた顔が次第に戻るとその男は目に見えて落胆してため息をついた。
こんな時間に制服を着た少年が突然入ってくれば行方の知れない生徒が帰ってきたかと
思っても無理はない。
 『何の用だ?今は授業中の筈だぞ?』
 『すみません、一寸部屋に用事がありまして。一応許可は貰っているんです。でも途
中寮長に会って困った事態が起きたと聞き、それでついでに力を貸して欲しいと頼まれ
たので すが…』
 新一は事務室の時と同様真顔でそう答えてみせた。
深い蒼が男を見つめれば彼からはため息にも似た吐息が漏れた。
そして「そうか」と納得した様子で新一を迎え入れる。
冷静に考えてみればあり得ない話であったろうに。
寮長であるアンリが今回の件を耳に入れる事はあってもそれを他の生徒に簡単に漏らし、
その上捜索を手伝うようになどど言う筈がない。
それだけ慌てている証拠か、新一の瞳に惑わされたのか。
促されるままに姿を消した生徒の部屋へと案内する。
途中何人かの教師に会ったが同じ教師連れであったせいか特に何も言われる事はなかっ
た。 
思ったよりも数が少ないのは敷地外へも出ているせいらしい。
 『手懸かりになりそうなものを探してみます』
 『それは我々も散々やった事だよ』
 『でも人が変わればもしかしてという事もありますし』
 新一が微笑むと僅かに身じろいで頬を赤く染めた男は二人きりで居る事が気まずくなっ
たかのように彼を部屋へ置くとそそくさと持ち場へ戻って行った。
 『あ、すみません、ところで先生は<ヘルダーリンの悪魔>って御存じですか?』
 振り返って、まだ少し動悸の収まらない胸を押えながら男は目を泳がせる。
直視すれば何を言ってしまうか…してしまうか分からない。
 『…何だそれ?ヘルダーリンはともかく、悪魔??』
 新一はその中に生徒達の持つマイナスの感情が見て取れない事を確かめた。
 『いえ、御存じないならいいんです。引き止めてしまって申し訳ありません』
 それから一人になった事を確かめると新一は改めて部屋を見渡した。
新館の二階、角から数えた方が早い位置にそれは在った。
内装も広さも新一のものと大差ない。
水回りの関係か部屋は隣同士左右対称になっているくらいで、後は時計など一寸した調度
品が微妙に違うメーカーのものであったり、その辺りは流石の財力とこだわりと言えた。
新一は早速白い手袋をはめるとあちこちを調べ始めた。
過去行方不明になった少年達は出身地・家柄・学歴等、特にこれと言った共通点はない。
無理に挙げてみるとするならば当時新館に部屋を持っていたという事と、その少年達は皆
深刻な悩みを抱えていたという点だ。
だが元々この学校へ来る者は大なり小なり同じようにトラブルを抱えてやってくるのであ
る、それが特出しての事であるかは断定出来ない。
しかし逆にそれらは何時誰がどんな形で居なくなってもおかしくないともとれる。
失踪とまでいかずとも途中馴染めず自主退学する者も多かった。
そして中でも身体に悩みを抱える者の多くは人付合いもなく、情報収集は困難を極めてい
た。
今行方の知れない少年もアンリの話ぶりでは身体に悩みがあったようだ。
まずは一通り見て廻り、部屋の造りが殆ど自分の部屋と変わらない事を実際に確かめる。
机の上には入口の鍵。
ここに来る途中これまでの様子を聞いておいたのだが、スタッフが訪ねた時何と鍵はこの
まま机の上にあったらしい。
そしてどの窓も鍵が掛かっていた事も確かめたと言っている。
万一そこから落ちて動けなくなっている可能性を考え一度全ての窓を開いて下を見てみた
のだ。
新一は机の中を調べてみた。
すでに誰かの手によって乱雑に探られた跡があるが、再びそれを一つ一つ手に取ってみ
る。
家族の写真や文房具、手懸かりになりそうな物と言えば…。
新一は掌サイズの手帳を見つけた。
中には短い文章が細かな字で書かれている。
どうやら日記代わりにしているものらしい。
毎日ついているという訳ではなく、気が向いた時に書き列ねてある。
その内容は家族の事や自分の身体の事。
彼の母親は数年前に彼と同じ病で亡くなっているようである。
新一の目がふと止まった。
昨日の日付けでたった一言、「死にたくない」。
蒼の双眸が半ばまで伏せられる。
息をついてそれを元の場所へと戻す。
もう一度部屋を歩き回り窓の鍵の様子など自分の目で確かめそのまま外を眺めた。
今日は陽が射している為こうしていると暖かい。
しかしそれも今だけか、青い空に少しずつ雲が集まり始めていた。
これから先の暗雲を示すかのように…。
今度は雄大な森林に視線を移す。
歩いて近くの町まで行って行けない事もないかも知れない、健康と体力に自信のある者な
らば。
でなければこの寒さの中、身体をそれでなくとも患っている者なら脱走は自殺行為に等し
い。
ベッドサイドに目を遣ればボロボロになるまで読み尽くされた聖書が一つ。
 <死にたくない>
もう一度その言葉を思い出し眉を顰める。
そして開け放たれたままの入口から音もなく入って来た人物に新一は振り返った。
気配を感じた時から分かっていた、快斗だ。
彼は一人であったがここを突き止める事くらい造作もないだろう。
 「どうだ?」
 「全ての窓にも勿論ドアにも鍵が掛かってたらしい。入口の鍵は部屋の中、完全な密室
空間からの失踪…って言いたいけどな」
 新一が肩を竦めた。
快斗は彼の言わんとしている事が勿論理解出来る。
 「だよなあ、これがあっちゃあ…」
 何故ドアが開け放しになっていたのか、それは一々鍵を開ける手間を省く為だ、扉に取
り付けられたオートロック機能によって。
部屋に残されていたという鍵。
だが鍵を持たずとも勝手にロックは掛かる。
つまり何かが起こり別ルートから第三者に連れ去られる、もしくはそこから自力で出ると
いいう可能性は限り無く低く、普通に脱走したという線が濃いという事。
部屋の合鍵は一枚しかなく、それは常時二人以上のスタッフによって管理されている。
当然朝少年の失踪を発見するまでそれが使われたという事はない。
誰かが訪ねて来て少年自身が招き入れたとなれば別だが彼に親しい友人はいないと聞いて
いる。
 「夕食を運んだ職員がその時点でそいつが居た事は確認している。もし自分の意志で外
へ出たとしたら夜…。寮の出入口自体は鍵は掛かってても非常口は誰でも簡単に開けられ
るようになってるし、監視の目を盗んで…って可能性はない訳じゃない」
 「この時期に足もなくてじゃ何処にも行けねえよな、しかも暗いし。ただ単身抜け出す
くらいならいくらでも方法はあるだろうけど第一敷地の唯一の出入口の門は警備員が二十
四時間体勢で管理してるとなれば迎えが来るってパターンも一寸なあ」
 「誰かが例えば少し離れた場所で車を持って待機してる可能性がない事もないけど、そ
れは一度詳しく調べてみねえ事には何とも…」
 新一と話している間快斗もまたあちこちの物を見ていた、同じく手袋をはめて。
そして手帳に目を留め、例の文章に見入る。
 「……自殺の可能性はねえな」
 快斗の呟きに新一は頷く。
 「死ぬのをこんなに怖がってる奴がそんな事できる筈がねえ」
 空気の色が変わった。
そう思ったのは快斗の気のせいではない。
彼を取り巻く景色そのものがモノクロに霞んでいく、その双眸の鮮やかさ故に。
 「事件だぜ、これは」
 蒼い眼の探偵が新たな始まりを告げるように静かなテノールを滲まれば、怪盗もまた高
まった気配に闇色の瞳を鋭く細めてみせた。

 新一は快斗と共に一度自室へ戻るとPCを立ち上げた。
今朝失踪した少年の資料を呼び出す。
ホルト・デイター、十六歳。
彼は腎臓を患っている。
家族は現在父親のみである。
その父親は海外出張が多く今は北京に滞在している。
 「どう見ても誰か迎えの来そうなタイプじゃねえな」
 「て事は…やっぱおメーの感じた通り事件、だなこりゃ」
 二人は同じように眉を顰めてみせた。
何が動き出しているのか。
だがやはりこれまでの調査の方向は間違っていなかったようだ。
この少年が何処へ消えたのか、それを追っていけばその先にはあのDr.レッシュが居る
ような気がする。
そして快斗の探す人物もまた…?
 「それからこれは昨日調べた分だ」
 本当はプリントアウトしたものを持っていたのだが学校で見せるつもりで机の鞄に入れ
たままになっている。
画面に現れたのは別の少年の写真と履歴。
コクランとコリンズのものだ。
コリンズはともかくコクランは弟の入学に合わせるように転入してきている。
二人はある実業家の息子となっているが実は父親とは血の繋がりはなく母親の連れ子で
あった。
二年程前に母親は再婚したらしいが結婚して一年、元々から患っていたアルコール依存症
を再発しその後入退院を繰り返している。
コリンズは生まれつきアンリと同様心臓に疾患があり、彼の右足は人為的な外傷によるも
ので骨折した際に神経まで切断しそのままうまく繋がり切らなかった結果であった。
そしてコクランはやはり元ボクサーでプロ試験こそ受けていないがアマチュアではかなり
の有名人であった。
だが補導歴もある事から素行は良いとは言えなかったらしい。
アルコール依存症の母親と病弱の弟、典型的な不良の例だ。
しかし試合相手をリングで殺しかけた事があり、その試合を契機にどんどん勝てなくなっ
ていった彼は自らボクシング界から去っている。
 「相手に重傷を負わせた試合とコリンズの怪我の時期が一致してるんでもう少し調べて
みたら新聞記事があった」
 新一はクリックしてもう一つファイルを開く。
そこには小さな記事で少年一人が集団で暴行を受け重傷を負ったとあった。
 「この重傷を負ったのがコリンズ、集団のグループはどうやらコクランと例の試合をし
たジムの奴等みたいだな」
 「…成る程、それであいつ俺が怪我させたって言ってやがった訳か」
 快斗は新一に昨日のコクランとの事を語った。
 「そっか…、そんな事があったのか。何か思った以上に複雑な奴等なんだな」
 「でもコクラン一人空回りって感じだな、本読んで勉強してる割に」
 図書館で彼が読んでいたのは医学書であった。
 「…で?」
 新一の視線に快斗は淡い苦笑を浮かべる。
 「いちいち個人のプライベートにただ興味があって暴き立ててる訳じゃねえだろ、どっ
ちが引っ掛かってんだ?」
 ある意味容赦ない物言いである。
 「両方」
 「ここまで身元もしっかりしててか?その根拠は」
 「あると言えばあるし、ないと言えばない」
 途端細められた瞳に快斗は高揚しながらも心の何処かで安堵する。
 「強いて言えば、最初に絡んできたから」
 「…それがどう関係すんだよ」
 快斗はただ笑っただけだった。
 「昨日の事といい、おメー……」
 鍵の話をして、その翌日に行方不明者が出た。
新一の瞳から逃れるように目を伏せると快斗は口の端を持ち上げる。
 「…別に、俺は気になった奴を片っ端からマークしてるだけさ。それに身元のしっかり
してる奴の方が返って怪しいかもしんねえし」
 「変装の名人なのか…?」
 「多分」
 (それだけならいいんだけど…)
 「ついでに言えばアンリもマークしてる奴の一人なんだけどな、俺もあいつも昨日は本
当に朝までずっとあの部屋に居たぜ、誓ってもいい」
 こんな時には狡いと思う真摯な瞳に、新一はハッキリ言って完全に納得出来た訳ではな
かったが渋々言葉を飲み込んだ。
…彼を信頼している、この世の誰よりも遠くて近い存在。
だからこそ抱えるものの深さや大きさが感じられ、また触れてはならない領域も思い知ら
されてしまう……。
だがそれと感情は別問題で、彼にはやはり後で仕返ししておこうと新一は今決めた。
 「それからこれだ、<ヘルダーリンの悪魔>」
 再び別のファイルが開かれる。
そこには黄色い壁にとんがり屋根の塔の写真、そしてとある人物の事が記されている。
 「悪魔はともかく、ヘルダーリンはここドイツのテュービンゲン大学に在籍した天才詩
人の事だった。1790年頃ヘーゲルやシェリンクと同室で学んでいて後に精神病と診断さ
れてから死ぬまでの36年を同大学の敷地内にあるこの写真の塔に幽閉されていた。今は
この塔は有名な観光施設でこの辺りの地元じゃヘルダーリンを知らねえ奴はいないみたい
だぜ。さっき先生に聞いてみたらやっぱ知ってた、…悪魔の事は分からねえみたいだけど
な。多分これまでの反応からして生徒の間だけで知れ渡ってる造語のような気がする」
 「へえ〜、天才詩人か…」
 快斗はそう言って塔の写真に目を細め、そして窓へと視線を移した。
 「同じ塔でも全然違うな」
 ここからは見えないがあのいまいちよく分からない物見の塔を思い浮かべる。
 「あの中は探したと思うか?」
 空っぽの塔。
 「…鍵が掛かってるしおメーじゃない限り入れないと思う。第一意味がねえような気が
する…って普通の奴なら思うだろうな」
 快斗の目が玩具を見つけた子供のようにキラリと光る。
それだけで彼が何を考えているのか口にするまでもなく分かり新一は微苦笑した。
そしてそれを横目に軽やかなタッチでキーボードを叩き、寮の見取り図を呼び出すと形の
よい顎に手をあてた。
 「別の可能性を考えてる?」
 快斗は再び視線を戻した。
 「万一密室からの失踪だとして、ごく単純に別ルートの存在を考慮しておく必要もある
かと思ってな。あくまで可能性の問題で」
 コツンと爪で画面を叩く。
その瞳はあらゆる形のピースを狩出そうとするハンターに似ている。
希有な双眸に映り込んだ図面が歪み暗号のように焼き付いて見えた。
 「元の城でなら当り前に在るんだろうけどな、そういう緊急の隠しルート」
 「ああ、でもその城は火災で大半を消失、一部は改築してるけど…過去のも今回の行方
不明事件も新館の方で起きた。…初めから工事の際に意識して造るくらいの段階でなきゃ
無理だろうぜ。でも、あらゆる可能性は捨てちゃならねえ…」
 当然その図面におかしな所はない。
工事をした業者の詳しい資料を手に入れられればいいのだが、生憎親族会社が請け負った
もので基本的に貴族に関する一切の資料は完成後全て破棄されるのが普通である。
元の城の詳しい見取り図なども当然残されていない。
観光地ならともかく写真一枚ですら撮影も持ち出しも厳禁にされているのである。
それは古くからその莫大な財産を守る為に謀られてきた事。
まるでひと昔前の日本のように厄介な国と言えた。
新一はため息混じりに図面をプリントアウトした。
因にこの図面は学校紹介用に公式発表されているものをもう少しだけ詳しくしたレベルの
ものであり、これが手に入る限界であった。
こっちは辛うじて建物や部屋の大きさなどが記されている。
 「あ、もう一枚な」
 快斗がすかさず言って腰を浮かせる。
 「いっぺん実際に測量しなおしてみるんだろ?俺もやる。二人で手分けしねえと広すぎ
て無理だって。大丈夫、道具は持ってるし」
 無言のままジッと己を見つめるその瞳に快斗は苦笑して立ち上がった。
 「…ほんと、俺にも今回の事はよく分からねえんだ」
 静かな物言いが彼の微妙な心情を表しているようで…。
 「……気をつけろよ」
 新一はやっとそれだけを言った。
それが何に対してなのか、しかし快斗は頷くと部屋を後にした。

 人目を盗み、忍び込むのは怪盗の彼には造作もない。
快斗は例の塔へ来ると以前と同じく鍵を外し中へと入った。
簡単に見渡せる広さのそこにはやはり何もない。
ただ空と汚れた床が出迎えるばかりだ。
 「……だよなあ、やっぱ」
 初めからここに少年が居るなどと期待はしていなかった。
彼の目的は他にもある。
快斗は迫り出した木材の一つに手を置く。
風雨に晒され脆くなったそれを暫く調べ大体の強度を頭に叩き込むと羽のごとき軽さで乗
り上げた。
ミシッと嫌な音がする直前に次の木へと飛び移る。
螺旋状に並んだものを一つ一つ一定のリズムで昇って行く。
ほんの少しのバランスとタイミングを間違えば下へ叩き付けられるという状況で快斗は鼻
歌すら混ざらせてそれを軽々とこなした。
普段酷く動き難い衣装でとんでもない体捌きを見せる彼だからこそであろう。
 「ふ〜ん」
 快斗はあっと言う間に塔の頂上へと辿り着いた。
足場として組まれていた板は同じくボロボロで、直接厚みもさ程ない壁に足を着けてい
る。
流石に風がきつく冷たいが慣れているので特に支障もなく景色を確かめる。
だがハッキリ言って想像した通り眺めが良いとはお世辞にも言えなかった。
半分は確かに広大な森の景観を堪能出来るがあとは寮の屋根が見えるばかりで、以前は良
かったのかも知れないがこうして見れば増々無用の長物といった感が強くなる。
ため息一つついて、そろそろ降りようかと思っていると礼拝堂へと歩いて行く私服姿の小
柄な少年を見つけた。
快斗は一瞬思案した後昇る時の半分の時間で地上へ戻ると鍵を元通り直し礼拝堂へと向
かう。
音もなく忍び込むのもまた得意だった。
彼は正面からの侵入を止め、設けられた窓の一つから入室すると影から中の様子を伺う。
祭壇の前で両膝を折り熱心な祈りを捧げていたのはコリンズであった。
彼が今日も授業を休んでいたのを知っている。
礼拝にも顔を出さなかった。
だが見ている限り顔色は悪いが特に体調を崩しているようにも見えない。
<弟に構うな>コクランの言葉を思い出しながら快斗は一度外へ出ると再び今度は正面扉
から中へと入り直した。
 『よお、コリンズ』
 快斗は明るく屈託のない笑顔と共に挨拶する。
これで大抵の人間は騙されるのであるが、コリンズは眉を顰めるばかりでやはり何時もの
反応を示した。
無言のまま固まっている彼に快斗はもう一度笑顔を見せる。
 『何そんなにマジになって祈ってんだ?』
 コリンズは一歩後退してより祭壇へと近付いた。
 『…ヘルダーリンの悪魔、本気で信じてんの?』
 軽さを保ったままに用意した言葉を告げればコリンズはようやく噛み締めていた唇を開
く。
 『……今日、人が一人消えたって……お前達が来てから急に…!おかしいよ…』
 大きな恐怖と小さな憤りと、少年の体は戦慄く。
 『僕は、…僕は神のしもべだから……絶対好きにさせない…!!』
 震えた声のまま見上げる涙混じりの瞳を快斗はただ見ていた。
だが恐怖に晒されながらもその強い眼差しはコクランに通じるものがある。
血の繋がりとは皮肉なものだ。
やはり悪魔とはアンリが言った<ヘルダーリンの悪魔>で間違いないらしいが、これと天
才詩人、そして自分と新一がどう結びつくのか。
しかし今の反応と新一の情報からそれは生徒の誰に聞いても分かりそうな感触だ。
快斗はそのまま黙って踵を返すと振り返る事なくそこを後にした。

 悪魔は去った。
やはり神の御前において奴等は手出し出来ない。
コリンズは再びたった一人深い祈りの世界へと戻った。
こうしている時彼は何もかもを忘れ一番心安らぐ事が出来る。
体調が思わしくない時も時間をずらしてでも必ず祈りは欠かした事はない。
 『……それだけ祈って神はあなたに何を与える?』
 いきなり現実に引き戻され、新たな侵入者の登場にコリンズは目を丸くする。
しかし驚いたのは初めだけですでに怯えの色はない。
響く靴音。
 『日々死に怯える身体、心、恐怖の全てが神の与えたものだとするのなら、真に縋るべ
きは他に在る……』
 目前に立ったその人物に柔らかな光が差し込むと、彼は次第に恍惚の表情を浮かべた。
そこに何を見たのだろう。

 『……祈ってみませんか?真の救世主に…。
          その御方こそはあなたの味方になってくれるでしょう……きっと』

 


ヘルダーリンとその塔は実在します。でも本編は当り前ですが全くのフィクションなので…(苦笑)
そしてようやく事件発生ですね。これから私はあまり呑気に書けなくなるという訳です(笑)
まだ事件は当然これだけでは終わりません。少年が何処に消えたのか、二人の探す人物達は何処に居るの
か、予定より長くなってますが次からはもう一寸スピーディーな展開になる筈です多分(汗)

ではまた来週…。

事件発生!
それにしても、捜査となれば新ちゃん手段を選ばずですね。
おサスガとは言いたいけれど、快ちゃんが大変ですね。
まあ、快ちゃんもこういうこと好きそうですが・・・
そろそろクライマックスでしょうか?
来週が待ち遠しいです(^^)

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