仮面舞踏会
BY 流多和ラト
<ACT 7>
新一は再び部屋へと戻るとヘルダーリンの詩集を手に取った。
密室の秘密はここにあるような気がする。
先刻気になった部分をもう一度広げてみる。
最後に近いページ。
文字の羅列から詩の中へとイメージを飛ばす。
そこに描かれているのは恐ろしくも甘い世界。
ヘルダーリンは鏡の中で己の分身と戯れる。
もう一人の自分は広く冷たい逆さまの世界に囚われる悪魔であり、しかし夢と希望を与え
る彼だけの幸福の使者でもあった。
狂った思考、と言えばそこまでかも知れないがこれは彼にとっての現実で、ヘルダーリン
の悪魔の本当の姿……。
読み進んでいくうちにある一文にいきあたった。
<悪魔を呼び出す>
新一は目を細めその文章に見入ろうとした。
しかし先程から何かが光って読書の邪魔をする。
彼は苛立たし気に秀麗な顔をあげるとその光の正体を見極める。
壁に備え付けられた鏡だ。
と言ってもほんの小さなものであり、凝ったデザインの枠が付いているだけの変哲もない
代物。
一寸した身だしなみをチェックするくらいしか役に立たない。
それが外光に反射し今丁度彼にそれがあたる位置にきているのが原因だった。
新一はしかしハッとして立ち上がった。
そしてゆっくりと部屋を見渡す。
「そうか、おかしいんだ…位置が」
新一はようやく合点がいったように呟いた。
初めてここへ来た時感じた違和感。
あの時は夜であったがきっと無意識だったのに違い無い。
今度はベッドの方へと座り直してみる。
きっとそんな事に気付く者は殆ど居ないと思う。
そう、位置がおかしいのだ、家具の。
鏡はあんな風に光が反射する場所に設置するべきではない。
そして机はともかく、埃避けの硝子扉がついているような立派な本棚を日射しに晒される
窓辺に置くのはタブーだ。
でなければデリケートな本はたちまち紫外線にやられ劣化してしまう。
本好きか、常に大切な本を管理しながら生活してきた人間でなければ気にもかけない事。
だから、直ぐに手に取れるという手軽さもあっただろうが信心深かった少年達は皆棚を避
けベッドサイドへと大切な聖書を移してあったのだ。
新一とて別にここが安いホテルというならば仕方ないと思ったろう。
しかし仮にも由緒在る名家の管理する建物で、インテリアも一流のものを揃えてあるここ
では似つかわしくない。
部屋はそれ程広くないとは言え他にも置き場所など幾らでもあるのだから。
例えば…こちらの壁際だとか。
対称的に薄暗いそこにはもう少し明るい場所でないと少々見辛いアンティークな時計と飾
りの施された壁ばかりあった。
確かに初め快斗が誉めた通り手彫りの木工細工は美しいが、それだけの為にまるまるその
空間が空いているのは考えてみれば不自然である。
一つの切っ掛けで色々な事が見えてきた。
昼間における寮の捜索は初めてではないのだが、思えば先程アンリの部屋で彼が詩集を本
棚で探している姿を見た事で体の中の記憶が刺激されたのだろう。
因みに彼の部屋の本棚は新一達とは違いきちんと光を避けてあった。
「もうすぐ会えるんだ」「悪魔に会った」…やはり会おうとしたのだ、ある人物の囁きに
耳を傾け、彼等にとって死ではなく夢と希望を与える幸福の使者である<悪魔>に会う為
に。
気が重かった。
何故なら悪魔のもう一つの意味を知る者でこのからくりを知り、そして誰に近付こうとも
怪しまれない人物と言えば…。
だが、何故自分を探偵と知って尚事件との関連を知らしめるような真似をするのか。
「……もしも、たった一つだけ願いが叶えられるとしたらあなたは何を望みますか?」
それを言った彼にはアリバイがあった。
という事は…あれだけがやはりイレギュラーだったという事か。
つまり犯人は………。
仮定が確定へと近付いていく。
新一は本を片手に再びコリンズの部屋を訪れた。
推理が正しいとすれば特にどの部屋でも変わらないと思うのだがやはり確実な証拠を掴む
為にも現場に戻るのが一番だという判断をしたからだ。
造りの殆ど変わらないその部屋で飾りの施された壁へと近付く。
細かな蔦のような細工は一面に及び、しかし一見しただけでは扉のようなものがあるよう
には見えない。
都合の良さそうな隙間に指を掛け動かそうと力を入れてみたがびくともしなかった。
それはどの部屋において何度も調べてきた事でもあった。
だが、今は<鍵>がある。
本を開く。
詩の中でヘルダーリンは鏡の中に住む双児の片割れと溶け合う幻想を視ている。
時は深夜、鏡に向かい手を伸ばし逆転した世界へと入り込む…。
但し、その秘密の儀式は決して人目に触れても話してもいけない。
完全に二人だけの秘密である事。
それを破れば永遠に幸福は去ってしまう。
そんな事が書かれていた。
「秘密…か」
本を閉じ、新一は蒼の双眸を痛まし気に半ばまで伏せた。
昨夜最後に見たコリンズの希望に溢れた瞳を思い出す。
彼の望みが何であったのか想像するまでもない…。
新一は目の前に在るものに注目した。
測量は済んでいないが、今想像している事が当たっているとすればもうその必要はなくな
るかも知れない。
今は不自然だと認識出来る時計。
デジタルなどではなくそれなりのこだわりをもって造られた柱時計である。
新一はそれを時計が恥じらう程の眼差しで見つめ、文字盤を覆う硝子扉を開いた。
緩やかに戻ろうとするそれを右手で押さえ、左の繊細な指先を美しいデザインの施された
長針へと絡ませる。
詩の中では深夜という事くらいしか分からないが想像はつく。
音もなくゆっくりと回されていく針。
恐らくは長針と短針が仲良くピタリと交わる時のどれか。
先ずは初めの重なり。
その針の状態で例の細工の施された壁を探ってみる。
…動く様子はない。
もう一度時計に戻り次の重なりに合わせるがやはり動きはない。
新一は根気よくその作業を繰り返した。
何時の間にか陽は傾き気紛れのように通り掛かった雲の固まりが雪を降らせていた。
晴れたり降ったりとこの季節の天候は落ち着きがない。
そして2時12分。
数字的にも左右対称であるその時間に合わせた時それは起きた。
初めは力をいれ過ぎて壊してしまったのかと思った。
軽くスライドしたと思った壁の細工はそのまま沈黙を保ちつつドアのように手前へと開い
たのだ。
「見つけた」
見えない部屋へと続く未知なる入口を。
少し身を屈めれば充分人一人が入っていける大きさがある。
中は暗かった。
だが新一は躊躇う事なく体を滑り込ませた。
彼の時計にはライトも付いている。
勝手に閉じてしまった扉にハッとして振り返ると代わりのように灯された足元の小さな人
工の明かりに瞬間視界がぼんやりと開けた。
どうやら一定の時間が経つと自動的にこうなる仕掛けになっているらしい。
明らかに人為的なもの。
咄嗟に扉らしきものに手を掛けたがどうなっているのかもう開く気配は見られなかった。
後ろがなければどちらにしても前へ進むしかない。
新一はそのまま再び踵を返そうとして…息を呑んだ。
誰か居る。
淡過ぎる光の中蒼の双眸を細めれば浮かび上がったその人物の姿に声が喉元まで出掛かっ
た。
艶のある漆黒の髪に白磁の肌、そしてこちらを見据える眼差しと瞳の美しさは…。
そこに居たのは<工藤新一>であった。
快斗は舌打ちした。
何と言うタイミングで愚かな選択をしてしまったのだろうと。
コリンズを見張るコクランの率直な行動を少し離れた場所から観察していて、少し時間に
余裕のある内に測量の続きをしておこうと思い直し一度その場を離れた。
何より新一がどう見てもその部屋を目指しているらしい姿を偶然見かけたからだ。
同時に警備員もまた。
どうも一人には見られてしまったようだが一瞬の事なので大した問題ではないと思う。
そして実際に手早く終わらせるつもりで作業に奮闘していた時、不審な人影を快斗は見つ
けた。
気配を殺し窓辺に近付いて暗い中警備員の目を掻い潜るよう移動を繰り返すその姿を見咎
められたのは彼だからであろう。
動きからして素人ではありそうだがこんな時に何処へ向かおうとしているのか、後を付け
ようと判断したのは当然の事である。
快斗は窓から外へ抜け出すと追跡に移った。
寒い、が、我慢出来ない程ではない。
何時雪が降ってもおかしくない冷気と厚く垂れ込めた雲の姿には人工の照明だけでは補え
切れない自然の圧力があった。
コートもないまま不審人物を追っていくとその先には校舎が在った。
更に追跡し一人図書室に閉じこもったきり何をするでもなさそうな人物にようやく声をか
ければ、正体は単に寮に居るのが恐くなり逃げ出したという少年であった。
そこで快斗の舌打ちになったと言う訳だ。
『紛らわしい事すんじゃねえよ』
快斗はもう怒るのも馬鹿馬鹿しくなり嘆息する。
寮から校舎までは案外と距離もある、すぐには戻れそうもない。
殺伐とした気分のままに元凶を見遣ればその少年は目に見えて怯えまくりひたすら頭を下
げるばかりだ。
だがそれは快斗のせいばかりでなく本人の性格に因るところも大きいだろう。
『すみません、よく分からないけど本当にすみません。でも恐かったんですよ〜!今も
恐いですけど』
それでも言いたい事はサラリと言ってのけて、腺が細くおかっぱのような髪型に丸眼
鏡、如何にも気の弱いお坊っちゃん然とした彼は図書委員でクレーフェ・オルタンスと名
乗った。
背の高さはコリンズといい勝負であったが彼は快斗と同じ歳である。
『だって考えてもみて下さいよ、あの寮から何人も消えてるんでしょう?次が僕じゃな
いという保障は何処にもないじゃないですか。うちは学費だけで手一杯で週末外泊する余
裕なんてないし、だからせめて好きな本に囲まれてこっそり休日を過ごそうと……』
持っている大きなバッグには毛布やら食べ物やらが詰まっており、そして足元には用意
の良い事にランプまでもが灯っている。
確かに彼のとった行動はかなり軽率で紛らわしい迷惑なものだと言うしか無いが、気持ち
は分からなくもないような気もする。
快斗は苛々しないよう己に言い聞かせるとついでに校舎の探索を試みておこうと機転を利
かせた。
万一寮から離れているからと見落としがあるといけない、ついでに講堂の方も廻っておけ
ば完璧だろう。
コリンズの事は気になったがコクランがあれだけ警戒しながら張り付いているのだ、事件
が密室で起きているのは知っているがそれでも彼の存在によって犯人が警戒するのは間違
いない。
それに恐らくは<彼>が一緒の筈だ。
一通り終えれば戻る。
それまでだ、まだコリンズに何か起こると決まっている訳ではないのだし…。
だが快斗が予想外であったのは夜間における校内の警備システムの厳重さであった。
一寸した名画の置かれる美術館レベルのものである。
この図書室はたまたまそのシステムが一部故障しているのをクレーフェは知っていた為に
入り込めたのだ。
寮と比べ夜は無人になってしまうのだから仕方ない事かも知れないが、流石は金持ちと
いったところか。
こうなる事が予め分かっていればそれなりの準備をしてきてさっさとシステムを誤魔化す
事など造作もなかったのだが。
面倒であるが注意をしつつ直接行動に移ってしまうのが早い、そう結論付けると快斗は図
書室に立て籠っている(?)少年をそのままに新たな探索に出掛けて行った。
細部に渡るまで丹念に見て廻っていたせいもあって、思った以上に時間が掛かってし
まった。
講堂の方も一応行ってみたが特におかしな様子はなかった。
分かっていた事でもあったが調べておいて別に損はないだろう。
やはり何かが起きているのは完全に生活圏だけに絞って間違いないと認識出来るのだか
ら。
快斗は視界を塞ぐように降りしきる雪を体に纏わせながら寮への道を急ぐ。
すでに足を取られる程に積ったそれは、しかし足跡もまた消してくれる。
東都で生まれ育った彼には酷く珍しい光景であり、また都合の良い事でもあった。
しかしそれは第三者…犯人にとってもそうであるかも知れなかったが。
寮の灯りが見えた時、快斗が真直ぐに中へと向かわなかったのは予感かも知れない。
密室の中で消えて行く少年達は何処へ行くのか。
コリンズの部屋の入口前にはコクランとまず間違いなく新一が居る。
やはり大人しくなどしていない彼にはため息がつい出てしまいそうになるがそれこそが工
藤新一なのだから仕方がない。
彼がそちらに居るのなら自分は外から部屋を眺めてみようかと思う。
雪に塗れた体は丁度良いカムフラージュになる。
寒く無いと言えば嘘だがこれくらいに耐えられなければ怪盗などやっていられない。
新館へ廻る。
目的の窓は灯りもなく見た目には何事も起きてはいないようだった。
暫く様子を見るかと思ったが、一応寮の周囲全てを一度全部見ておく事にした。
今ならどれだけ歩き廻っても足跡は残らない。
夜から朝に移り変わろうとする闇の世界は実質的な変化を伴い始め、快斗でなくとも次第
に視界が多少は開ける程になってきた。
だから遠くにあった僅かな変化を彼の目が捉えたのは当然の事であった。
初めはそれが何なのか分からなかった。
だが近付いて人であると知って……。
「…マジかよ?……コリンズ」
快斗は動揺に掠れる声のまま、しかし無意識に周囲の観察をした。
足跡はなく第三者の気配も感じられない。
そいつは足跡が隠れ切る程前にここを去ったのかコリンズが一人勝手にやって来たのか。
だがそのコリンズの足跡も見当たらない。
どうなっている…?
新一を、呼ばなくては。
本当はこんな寒い所にまで彼を引っ張り出したくはないがそうも言っていられなかった。
自分ではコリンズを発見した経緯を説明出来ない。
早く処置してやらなければならないのは一目瞭然だというのに。
コリンズの見張りをしている筈の彼ならば何とでも皆に話せるだろう。
入れ違いに声色を使って警備員と医療スタッフに連絡を入れて…、きっと説明しなくとも
彼は分かってくれる筈。
自分が隣に居ない方が今となっては彼はもっとうまく立ち回れるに違い無いのだ。
この後恐らく不審人物として尋問めいたものを受ける事になるだろうが、しかし彼はれっ
きとした探偵であり、自分とは違い周囲を納得させる力もある。
それに関し自分も切り札がない事もないが彼がICPOを直ぐに名乗れない限りそれは使え
ない。
快斗は小さな無線機越しに新一へと連絡を取った。
そして彼の到着を待つ僅かな間細かな状況の説明を怠った事に気付き小さく舌打ちする。
みっともなく動揺してしまった。
ここに横たわるのは犯罪者や慣れた同業者でも大人ですらないただの少年。
自らの危険を常に意識しているプロでもない人間がこうも簡単に死の淵に立たされてい
る。
僅かな会話をして、彼が生きていたと分かってからも正直恐いと思う気持ちが残った。
人の生死が関わる場面は自らも含め何度となくお目に掛かってきたが純粋な一般人を相手
にしてのケースはあまり経験がなかったからだ。
だが新一は何時もこんな光景に目を反らす事なく一人立ち向かってきた……。
快斗は彼の強さと痛みと、それらの全てをこの時改めて識ったような気がした。
快斗は意識して気持ちを切り替え寮内に忍び込むと最後の仕上げに取掛かる事にした。
こうなれば少しでも早く事件の真相を…そして何より自分は出来るなら<彼>にも気取ら
れぬよう探し人を見つけなければならない…。
今回の事でコリンズは完全にマークから外れ残りは絞られてきた。
無気味な程静かなそこを内心の警戒は逆に高めつつ作業に入る。
後少し、それが終われば様子を見計らって新一とコンタクトを取ろうと思う。
今下手に無線を使っても彼は監視を受けている可能性が高い。
だが彼が探偵である素性を明かした上で本格的な捜査に乗り出している事も想像はついて
はいた。
(でも俺は結局あいつに迷惑掛けちまったな)
手元は止めないまま眉根を寄せ思考に暫し心を委ねる。
未だ探している人物を見つけ…見分けられない。
急がなければきっともっと厄介な事になりそうな気がしていると言うのに。
とても難しい事だと聞いてはいたが何をやっているのだろう自分は。
何時もはもっと冷静に心の何処かに余裕を持ち、また実行していると言うのにここではそ
れがない。
取り巻く空気が気持ち悪い。
<彼>と居る時には中和されてしまうそれも少し離れれば直ぐに神経を逆撫でされる。
頭痛がした。
全てを振り切るように作業の続きに没頭する。
どれくらいそうしていたのか、ふと窓の外に目を遣った。
広がっていたのは青空、だが雲の動きは早く移り変わりも激しい。
しかし夜になればそこには月の女神が婉然と微笑むのだろうか。
確か今夜はそう…満月。
作業が終了すると、快斗は新一の動向を気にしながら取り敢えず彼の部屋へと向かう事に
した。
あの時は半ば見られたところでどうでも良いと警備員の存在は放っておいたが今度は用心
せねばならない。
今姿を見せ余計な騒動を持ち込む事は得策ではなく、新一もまた動き易いようこちらも配
慮が要る。
とある廊下で人の気配を感じた快斗は咄嗟に鍵を開けると近くの扉へと飛び込んだ。
その人物は何かを探すようにキョロキョロとしていた。
気配を消しながら様子を伺っていると不意に呟きが聞こえた。
その声とある人物の名前に一瞬で快斗の中で顔が浮かぶ。
音も無く扉を開らきその少年を引き摺り込むように招き入れた。
『てめ〜何しやが…!!?』
いきなりの事に、言葉と体を構えたのはヴィオラであった。
快斗は薄く笑ってそれを軽く受け流す。
彼が新一と理解を深めている事は昨夜差し入れを貰った時に聞いている。
ヴィオラは快斗の姿を認めると直ぐさま目を丸くし、破顔した。
しかし…
『クド……じゃねえな、クロバか』
一転して目許を厳しく引き締めるその様に快斗は苦笑する。
どうやら予想通り彼が心を砕いているのは新一にだけのようだ。
それは昨夜の差し入れがどう見ても二人分とまでいく量でなかった事から伺える。
新一が少食だった為に快斗は満足のいくまで食べられたに過ぎない。
『お前こんなとこで何やってんだよ!クドウ一人に苦労掛けさせやがって』
『別にサボってる訳じゃねえ、俺には俺のやり方があるってだけさ』
ヴィオラは沸き上がった思いのままに言葉をぶつけ、しかし直ぐに言葉ごと息を呑み込
んだ。
『……お前、本当にクロバか…?』
彼がそう言ったのも無理はない、快斗は今何時もの彼である事を半ば放棄している。
『他に誰に見えるってんだ?こんな良い男があいつ以外そうゴロゴロいてたまるかよ。
ところで、その新一に用なのか?』
睨まれた訳ではないのは分かっているが見据えられただけで新一とは別の意味でドキリ
とする。
同じ顔、同じ声でどうしてここまで印象が変わるものなのか。
そしてこれまでの彼からしても…そう、まるで太陽が沈んだ端から月が顔を覗かせたよう
な……。
もう一人の彼の側に居ると分からなくなる、それが相殺されるのか何色にも染まる柔軟で
透明なものを持っているのか。
新一を光とするならしっとりと濡れた闇の美しさがそこにはあった。
『…た、頼まれてた事があってその報告をしてやろうと思ってな。でもさっきから姿が
見えねえから探してたんだよ』
ヴィオラは反射的に暖かな光を求め身じろいだ。
だが直ぐに使命感に燃えた気力を思い出すと己のペースを戻そうと逆に挑戦的な目で返し
てくる。
中身の伴わない只の粋がった輩とは若干違うようである、快斗は僅かに目を見開くと口元
に自嘲気味な笑みを浮かべる。
やはり<彼>に惹かれるような人間は何処か少し違う。
『無理もねえな、今のあいつは理屈抜きに<探偵>だ、同じところで何時までもジッと
なんてしてねえだろ』
『…お前はじゃあ何やってんだよ。クドウはお前の事探偵じゃないって言ってたけどそ
れでも仲間なんだろ?』
沈黙がおちた。
そして暫くしていきなりクスリと笑った快斗は紫紺の双眸をヴィオラに向けた。
あの蒼の双眸とは全く似て非なる、しかし文句なく美しい瞳。
その中に酷く人間臭い動揺が篭っていたようで少しだけ糸が張った緊張感が薄れていくの
を感じる。
『ほんと、何やってんだろ俺は。しかもおメーにいきなりそこまで言われちゃあなあ
〜。…あいつの事、俺は仲間だなんて考えた事もないぜ』
その言い種にヴィオラは思わず眉を顰めたがそれだけに留まっているのはやはり快斗が
それでも放っている冷涼な気配のせいだ。
『でも何て言うか、あいつがこの世にいねえと俺は…迷って狂っちまうな。そうなった
らきっと誰にも止めらんねえ』
そう、例えばこのイカレた頭に誰かが鉛玉でも撃ち込まない限り。
快斗は薄く笑ったまま己の顳かみを指で象った銃で撃つ真似をしてみせる。
ホッとしたのも束の間ゾクリと背中が粟立った。
美しい笑みの中に垣間見える狂気の光に。
皮肉な事に昨日新一が彼の事をヴィオラに語って聞かせた独白と似た台詞を言い、しかし
その印象は全く対極に位置するものであった。
何なのだろう彼等は。
己の存在全てを架けて大切にしていると事もなげに言い合える同じ顔をした二人。
『……その割にはやってる事が矛盾してねえか?じゃあ何でそこまで大事な奴の側に居
てやんねえんだよ』
『…大事だからさ、きちんとしたラインが必要なんだよ。でねえと互いに侵食し過ぎち
まうだろ』
快斗の答には若干の間があった。
『…………お前ってさ、すっげえ捻くれてんのな』
人の事を言えた義理ではないが素直でないなと思う。
ため息と共にヴィオラがそんな事を言ったのは快斗の凍える瞳が言葉の数々を裏切ってい
たからだ。
今直ぐにでも会いたい、そう叫んでいるように揺れている。
だが今の快斗を相手にそこまで言い切ったヴィオラ自身もある意味凄いかも知れない。
いや、今だからこそ言えたのだろうか。
『…ところで、その新一への報告って何なんだ?』
もうこの話はお終いとばかり現実に話題を戻す。
ヴィオラは不本意そうにもう一度眉を顰めるとしかし思い直して快斗を見つめた。
何時の間にか彼を取り巻く空気が変わっていた事に気付いた。
正確には彼が新一の名前を呼んだ瞬間からだったか、少しだけ太陽が顔を覗かせたかのよ
うに暖かな気配が漂っている。
『…クドウに頼まれてたんだよ、<ヘルダーリンの悪魔>って噂の発信元が誰なのか』
『分かったのか?』
『お前に報告する義務は別にねえと思うけどな…でもクドウが…まあいいや、じゃあ俺
より先に会う事があったら伝えてくれるか?今居た奴等かき集めて聞いた限りじゃあ一番
古い元は三学年のクレーフェ・オルタンスだってさ。確か暇さえあれば本ばっか読んでた
奴だと思った。あいつ外出してねえ筈なのに今のとこ見当たらねえんだけどさ』
ヴィオラは何となく昨夜新一が彼に対して語った言葉を伝えるのが惜しい気がしてそれ
については黙っている事にした。
だが途端顰められた憎たらしい程<彼>に似た顔に訝し気な視線を送る。
『どうかしたか?』
『……そいつ、心当たりあるかも』
軽く舌打ちし素早く快斗は身を翻した。
一度廊下へ出る事などまるで頭にないのか余計な手間は省きたいのか彼は窓辺に立ち、呆
気に取られているヴィオラに寸前でそう言えばと顔のみを振り向かせた。
『…あいつ等どうしてる?』
それがコクランとコリンズを指している事はすぐに分かった。
『コリンズは取り敢えず医務室で処置を受けてるよ、相変わらず意識は戻らないままみ
たいだけどな。コクランはずっとそれに付き添ってる』
それだけを聞くと快斗は軽く頷き無言のまま外へと飛び出した。
因にここは二階である。
鮮やかな身のこなしと音も無くそれをやってのけた事実にヴィオラは目を丸くしながら、
しかし光の加減なのか複雑に翳ったように思えた横顔の美しさに彼の葛藤を垣間見た気が
していた。
快斗が最速にして最短で校舎の図書室に辿り着くと毛布にて仮眠をとっていたらしいク
レーフェ・オルタンスは、体を隠す程の本の山に囲まれた状態で上半身をバネのように起
こして小さく悲鳴をあげた。
その勢いで周囲の本が崩れて落ちる。
いきなり現れた人物が誰なのかを知るとクレーフェはホッとして本を拾い上げ少し離れた
床に重ね置いた。
暖房を密かに利かせてあるそこで彼は本当に本に囲まれて夜を明かしたらしい。
『脅かさないで下さいよ、えっと確かクロバ君でしたね』
『おメー誰かにどうこうされる前に何時か本に潰されるぞ』
呆れ顔でため息をついた快斗はしかし本題を当然忘れてなどいなかった。
『おメーに聞きたい事があってわざわざこんな遠くまでまた来てやったんだよ』
『僕に…ですか?僕がお役にたてる事なんて言ったらお勧めの本を紹介する事くらいで
すけど』
クレーフェはズレてしまった丸眼鏡の位置を調整しながら不思議そうに答える。
『おメーがヘルダーリンの悪魔って噂の出所だって聞いてな、それって本当か?』
『ヘルダーリンの…ってああ、あれですか?自分と同じ顔をした悪魔を見たら死ぬって
言う…。でも残念ながら僕も人に聞いた話ですよそれって』
いきなり振られた話題が意外だったせいだろう、目を丸くして答えるクレーフェに快斗
は宛てが外れたかとため息をつきかけた。
しかし次の言葉で顔を上げた。
『ですけど多分僕が聞いたその人が本当に最後の大元だと思います』
『誰だそれって?』
『アンリさんですよ、寮長の』
快斗は瞬間息を呑んだ。
『僕はここへ来る以前に彼と同じ学校に通ってたんです。彼と僕は本を通じての一寸し
た知り合いでした。そんな彼が何時だったか…確か今と同じくらい寒い時期だったと思い
ました、凄いものに会ったと聞かせてくれたのは』
『会った…?』
『<自分>に会ったらしいですよ』
『……マジか?』
快斗は目を見開いて片手を頭にゆっくりと置いた。
『彼、その頃かなり情緒不安定でしたから真偽の程はよく分かりませんけど。不吉の前
兆で自分はもうすぐ死ぬんだって怯えてそれはもう酷い状態でした。でも精神科医のカウ
ンセリングを受けるようになってから落ち着いたようでしたね。
それから暫くして火事で家が大変な事になってからはショックだったせいもあるかと思い
ますが急に別人みたいに立派になって…、ここで再会してからはあまり話す機会はなかっ
たですが何時も驚いて見ていました』
『……それで何でそいつが発信元だって分かんだよ』
『彼は幼い頃からずっと<塔>で育ったと聞いた事がありましたし、それで余計に自分
はヘルダーリンが好きなんだって事も言ってましたから。そして僕もそうです、ヘルダー
リンが心を病んで鏡に映る自分を双児だと信じていた、そして最期それが悪魔にとり付か
れての死だったという噂話は彼のファンですから知っています。
その事と自分に起きた出来事がごちゃ混ぜになってしまったんだなとここで改めてその噂
を彼に聞いてから僕はずっと思っていましたよ』
『…塔だって……?!』
今、とても重要な事を聞いたような気がする…。
新一は初めて彼に会った時何かを感じていた様子だった。
だが彼が<奴>でない事はあの夜、自らの手で確かめたつもりであり、彼が何処にも出
掛けていないと言うのも本当だ。
にも関わらずその夜人一人姿を消している。
どういう事だろう…これは。
そしてまたしても塔?あの物見の塔は人が住めるようなものではない…。
だが快斗は嫌な胸騒ぎに唇を噛み締める。
勘が鈍っているのか、それともやはり狂わされているのか。
(もしかして試す力が足りなかったのか…?)
また頭痛がした。
快斗は一刻も早く寮へ…<彼>の元へ戻ろうとそこから走り出した。
気が付けば再び通りすがりの雲が雪を降らせていた。
寮へ再び戻った快斗は真直ぐに新一の部屋を訪ねていた。
しかし当然のようにその持ち主は不在であった。
だが一度はここに居て何かを精力的に調べたらしい事は部屋の様子を見て分かった。
机の上にはこれまでの失踪者の写真が並べられPCの電源は入ったまま、ファイルは閉じら
れてはいるが余程急いでいたのか…。
快斗は逸る胸を鎮める努力をしながら猛烈な勢いでこれまでの最後の測量結果を入力して
いった。
忽ち出来上がった図面の様子に目を細める。
やはり元の図面とはズレがある、しかもこれまで気付かなかったがそのズレにもある一定
の方向がありそれに向けて収束している形であった。
それは使っている材料だとか設計の変更の為だとは到底思えない不自然さである。
快斗はそれを立体的に立ち上げ直してみた。
「…何だこりゃ」
どの部屋からも網の目のようにはり巡らされたそれは人一人が通れる程の隙間しかなか
ったがそれでも巧みに死角をついて巧妙に隠された造りになっており、それはどうみても
全てが最上階…をもう一つ越えた上へと螺旋のように繋がる様子なのである。
まるで何処かで見た事のある何かの名残りのように……。
屋根裏部屋の類いは無かった筈で、一応分かる範囲で確かめてもみた。
だがもしも全てのものから隠されて初めから造られていたのだとすれば何があるにしろ見
た目だけでは分からないようになっているだろう。
「…初めに意図的に造らない限り…か。何を目的にこんなもんを?ここに出てどうな
るってんだ?」
快斗はここに来た頃交わした新一との会話を思い出しながらそうごちた。
だがもうこれでハッキリしたではないか、この建物には入り込む術は分からないがやはり
抜け道が存在しまたそれを造れたのはこの学校の持ち主以外にあり得ないという事が。
そしてアンリが例の噂の発信元だとすればどういう理屈かは分からないがあの親子がこれ
までの失踪事件に関与している…。
と言う事は自分の探す例の人物は……?
(あいつは言ってた、<奴>はきっと渦中に居るより一歩引いた位置で内心笑ってるよ
うなバケモンだって)
快斗は勢いよく椅子から立ち上がった。
新一は今どうしているだろう。
急激に不安になり状況はどうであれ一度連絡を取ろうと無線に手を伸ばしたその時だった
、その器械が彼の声を運んで来たのは。
少し興奮したような彼は一体何処から喋っているのか、だが無事のようだと幾分ホッとし
かけた時突然通信が途切れた。
「し…新一??!」
不自然な切れ方と最後に何かがぶつかるような音が聞こえ、しかもただ切れただけでな
くなんの音も拾えなくなった様子から無線機自体が壊れた事を悟った。
何か不測の自体が起こった?!
快斗は彼が最後に残した言葉の意味を頭に響かせながら呆然と立ち尽くした。
まるで世界の崩壊の足音のごとく一気に血の気の引く音が聞こえていた。
「……鏡?」
新一はようやくそれが鏡に映った自分の姿だと認識すると大きく息をついた。
心臓が痛いくらいに早鐘を打っていたが正体を見てしまえばバカバカしい程に単純なもの
であった。
目がその暗さに慣れてくると狭い通路を仕切る壁が全面鏡で出来ている事に気付く。
視覚を撹乱させるそれに新一はまた頭痛を覚える。
そう、まるでよく遊園地などにあるミラーハウスのようなものなのだ。
巧みに歩く者を混乱させ距離や方角を狂わせるあれである。
しかも延々と映されるのは己の姿。
気分が悪い…。
だがこれで<悪魔>の正体も分かった気がした。
恐らく生徒達は自分のように無理矢理時計を合わせるような事などせず第三者に教わった
通り律儀に時間になるのを待ってここへ入り込んだのだろう。
各部屋の時計が特に狂ってなどいなかった事からそれは分かる。
そして鏡に映る沢山の自分と…悪魔と出会う。
瞬間覚えたのは恐怖かそれとも歓喜か。
新一は明るさの足りないそこで時計に仕込まれたライトで死角を補うと丹念に辺りを調べ
ながら先を進んだ。
人がやっと一人通れるくらいのそこはうっすらと埃がつもっており、そこにコリンズのも
のらしき足跡が残っているのを発見した。
何度も踏み荒らした跡がある事から彼もまた動揺しながらもそれでも進んで行った様子が
伺い知れた。
他の足跡は取り敢えず今のところは見当たらない。
途中から螺旋階段のようなものを延々と昇った。
そして他の部屋達と繋がっているだろう幾つもの分岐点があったが、道を示すように歩く
度に先を灯す自動照明装置が間違う事なく案内してくれた。
新一はそれでも一応時計に仕込まれた磁石で方向を確かめながら歩いた。
だが狂わされた感覚のお陰で大まかな位置取りしか掴めない。
しかし…新一が仮に練り上げた推理が正しいとするのなら向かっている先はいずれにして
も一つである。
やがて冷気が足元から忍び寄ってきた。
そして確実に感じる新しい空気の流れと匂い。
ゴールが近い。
新一は行き止まりに突き当たるとそのまま壁を押しやってみた。
「……やっぱりか!」
頬にあたる凍えた風と白い天の御使い。
新一は一面が白く染まったそこで蒼の双眸を見開くとそう呟いた。
そして…身を乗り出すようにして周囲の景色を見渡し、ここに例のものが立っていた事を
知る。
やはりあの推理に間違いはなかったのだ。
何と言う現実だろう…。
無線機を取り出し、新一は快斗と連絡を急いでとる。
「…快斗?俺だ、分かったぜやっと…!<逆さま>だったんだよ全ては、だから…」
そこまで喋ってふと人の気配を感じ反射的に新一は振り返った。
そしてそこに何時の間にか佇んでいた人物に目を見開く。
だが次の瞬間には思い直したように鋭く細めた視線を送った。
深い蒼の双眸が鞘から解き放たれた刃のように閃く。
胸が痛んだのは果たして新一と<彼>のどちらだったろうか。
それを避けられたなかったのは足場の悪さと体勢の不自然さもあったと思う。
新一は揉み合う暇すらなく体を傾かせた。
それからはあっと言う間であった。
全身に冷たい洗礼を受けながら滑り落ちる体が一度強い衝撃を受けると、彼は意識を暗い
闇の淵へと沈めていた。
最後の瞬間遠くから雷鳴ともつかないヘリの轟音をその耳に残しながら。
何故一人にしてしまったのだろう。
「……新一」
彼は何処でどうしているのか。
そして残した言葉の意味がまるで理解出来ない。
(逆さまって何なんだよ一体!!)
彼の…この部屋にヒントになるようなものは他にないのだろうか。
隠し通路の発覚した今、しかし快斗はその扉を開く為の鍵を持たない。
その先に彼の居る可能性は高いと言うのに。
快斗は並べられた写真を見て、それから直ぐにPCの中身を検索しようとして、震えて動
かない指先を机に打ち付けると痛みで中和しながら作業した。
一番早い通信のやり取りのファイルは時間にしてそれ程前ではない。
何を請求したのかそれを開いてみる。
そこに書かれた文字はたった数行であった。
「マリア…?アンリの母親の名前じゃねえか一体新一は何を知りたかったん…」
快斗は最後の一行に眉根を寄せる。
「……アシュケナジー?」
そんな女性が貴族という世界の中に受け入れられていた事は非常に珍しい、快斗は息を
詰めて画面に見入る。
「まてよ、それならあいつも、アンリの奴もアシュケナジーって事じゃねえか」
何かが琴線に触れた。
違和感が神経を刺激する。
新一はこれ等の事を調べてそこに何を見い出そうとしたのか。
そう言えば、とその新一の事で思い出された事があった。
アンリが礼拝堂のマリア像に似ていると……。
そして何より新一が初めマリア像を見て感じたものは?
いや、それよりも根本的に間違っていないか?だって彼が本物のアシュケナジーならあり
得ないではないかそんな事は。
分からない事だらけだった、優秀な頭脳を誇る怪盗キッドとも在ろう者が焦る内心を押さ
え切れないでいる。
複雑に絡まった糸を<彼>のように解きほぐす術もない。
快斗は目の奥がチリチリと痛むような頭痛を堪えながら部屋を飛び出した。
それは直感だった。
ここに来てから苛々させられっぱなしの神経に苦痛を覚えながら今は少しだけ自信のない
それにしかし賭けてみる事にした。
事件の真相はどうあれやはり<奴>は彼であり、当然のように新一の居所も掴んでいる、
と。
<自分>に会ってから人が変わったというその事実は何よりも重く、そしてその後に火事
が起きていると言うのは符号が合い過ぎる。
…結局巻き込んでしまった。
情報がないと言うのは本当の事、ただ探し出す相手が化け物のように危険な人物である事
は知っていて言わなかった。
打ち明けられなかったのは純粋に<奴>に<彼>を関わらせたくなかったからだ。
その話を持ちかけてきた彼女、ラビットが珍しく難しい顔をしていたのを思い出す。
もしも奴が本当にここに居たと仮定して、ならば<彼>に触発され何か起こる可能性はあ
るとは思っていた。
それは事件や人を呼ぶ<彼>の体質故であったり、この身を取り巻くリングと言う名の呪
いの為であったり…。
寧ろそうなる事を予測し、<彼>の名前をドイツでも数ある幾つかの潜伏先の候補に見つ
けた時迷う事なくこの学校を選んだ。
候補が絞れたら自分で内密に解決するつもりだった、だから積極的に彼の仕事を優先して
手伝ったりもした。
そう、あらゆる予測だけなら幾らでも立てたのだ。
そして朝から門前で会うとは思わずそれには驚いたのだが結局<彼>と会ったのは必然だ
った。
だがそこで思いがけず手に入れた彼の友人としての学校生活の楽しさと喜びに自分は目が
眩んでいたのかも知れない。
正直言えばこのまま互いに見付からなければそれだけ一緒に居られる時間が増えると思わ
なかったと言えば嘘だ。
そして現実との相反する心に勝手に葛藤して足掻いて…余計に遅れをとった。
未だ未だ自分は甘い、たった一度の過ちが取り返しのつかない事になるのは身に染みて知
っていた筈なのに、後悔は何時だって後から付いて来る…。
快斗はひたすら走った。
どんなツケを払う事になってもいい、早く終わらせなければ。
希望の光がこの手から溢れ落ちてしまうその前に…。
快斗が誰に見咎められる事もなく礼拝堂に辿り着いた頃には陽もかなり傾いていた。
この小さな世界を囲む城壁のような木々の足元には夜の使者達がすでに大きく蟠ってい
る。
雪の降りは先程までとはまた変わって小降りになっていた。
その雲の端も見え始めている。
それが頭上に来る頃にはまた空も開け、星や月が本当の支配者が誰であるかを主張するよ
うに燦然と輝くに違いない。
ヘリが浮上していく姿が見えた。
これくらいの気象状態なら問題ないのだろう。
コリンズを病院へ運んでいくらしい事はヘリの狭い窓から白衣の男達の姿が見えた事で分
かった。
快斗はそれをほんの僅かな間見送った後、凍れる扉に手を掛け音を発てるのも関係なく思
いきり開いた。
薄暗く冷気に沈んだ独特の小世界。
しかし<彼>どころか人の気配もなく、快斗は落胆しなからもその中を大股で歩いて真っ
先にマリア像の前に立った。
負ける訳にはいかない、今こそ逆に死ぬ気で冷静にならなければならないのだ。
穏やかな顔をした美しい像。
快斗は無言のまま目を鋭く細める。
そして手を伸ばしたところで訪問者の存在に気付き振り返った。
だがその人物が自分の目当ての者でない事は気配で分かっている。
『ここに居たか!クロバ!!』
快斗以上に扉を乱暴に開きそこに立って肩で息をしていたのはコクランであった。
彼はこれまでに無い程の険しい表情と狩人のような殺気に燃えた眼を真直ぐに快斗に向け
ていた。
その迫力は常人ならば腰を抜かしかねない。
だが相手は他ならぬ快斗であった。
近付いて来る長身の体に軽く眉を顰めただけで彼は微動だにしない。
『…!お前だな?!お前の仕業だろう?!コリンズをあんな目に合わせたのは!!』
コクランは快斗の胸ぐらを掴み上げてそう言った。
彼は放心の中にもずっと考えて出した結論を感情のままにぶつける。
皆を騙せても自分だけは騙せない、弟を殺そうとしたのはこいつしかいない。
新一が違うというなら残った悪魔は一人だけ。
しかもそれでなくともこんな冷たい眼をした危険な人物を自分は他に知らない。
弟に付いてヘリで病院に向かわなかったのは彼を探す為だ。
側に居てやりたかった、しかしこの男がその間に自分の前から姿を消してしまうと思うと
どうしても同乗出来なかった。
ここに来たのは半ば勘である、以前彼がここで佇んで居た様を思い出した、それだけだっ
た。
コクランは変わらず黙ったままの快斗にそのまま殴り掛かった。
何度も躱され良いように捌かれていた過去の事はこの際強引に忘れた。
顔を狙った初発は難無く躱されてしまったが驚いた事に脇腹を狙ったものは手応えは半分
しかなかったものの初めてヒットした。
威力がある程度殺されたのは彼が咄嗟に体を捩って力を逃がしたせいだと分かったが…。
『…って〜、やっぱ効くな』
『お前、どういうつもりだ?!』
逆に若干の冷静さを戻したコクランは呆然と快斗から手を離した。
少し、様子がおかしいとは思っていた。
快斗は殴られた箇所に手を置いて顔を顰めると眉根を寄せたままコクランを見上げる。
『顔は大事な商売道具だから困るけど、こっちならまあいいかと思ったんだよ』
変なところで妙に恩着せがましい台詞にコクランは増々困惑する。
『確かにおメーの言う事、半分は当たってやがるからそれの分だけ殴られてやったって
訳だ。丁度頭冷えるくらいの刺激も欲しかったとこだし』
『じゃあやっぱりお前がコリンズを…?!』
『んな訳ねえだろ、でも、多少の責任はあるかもしれねえって事だ。疑ってたせいで対
処の仕方に問題があった…。だからって自分が全部悪いなんて思うような聖職者じゃねえ
けどな、俺は』
『疑う…?コリンズをか?』
『おメーとコリンズの二人をな。でも、それももう終わる』
快斗はいきなりコクランに足払いを掛けると身長差をものともせずその体を床に沈ませ
た。
『いきなり何す…!?』
『静かに、そのまま隠れとけ』
突然の事に抗議の声を上げようとしたコクランに快斗は鋭く言い放つとついでに長椅子
の下を指差してそれを促す。
何故彼の言う事を聞かねばなかないのか、しかし疑問に思う間もなくコクランは反射的に
そのまま転がるように身を潜めてしまった。
快斗のただ事でない真剣な眼差しと圧倒的な気配に。
何なのだろう一体。
またタイミングを間違えてしまったのだろうか、妙な事に巻き込まれつつある自分を自覚
する。
コクランがそう考えた時、再び扉の開く音がし人の気配が沸いた。
誰だろう。
彼の位置からは何も分からない。
ただ規則正しい柔らかな靴音が響くのみだ。
それが近くに来た所で唐突に止まった。
『よお、……会えて嬉しいぜ、アンリ』
快斗の声が微かに揺れている。
それは思い掛けないチャンスを前に興奮しているのか、彼が忍び笑いをしているせいなの
か区別がつかなかった。
ただコクランにも分かったのは、快斗も自分がそうしたようにここで人を探し、またそれ
によって何か必至に足掻こうとしているらしい事。
そして今からとんでもない世界が展開されようとしている…それくらいの事であった。
何故なら彼の声を聞いただけで背筋が震えた。
これまででも似たような経験はしたが、今はそれ以上の昏さとギリギリの何かががそこに
満たされているような気がする。
彼に、彼等に何が起きたのだろう。
この小さな世界を取り巻く緊張と凍える空気に比べれば床の冷たさなどコクランにはまる
で問題になどならなかった。
…今ひたすら言い訳ばかりが頭を過っています(汗)それに少し触れるとするなら、やはり表現に不足が
あったかなあという事でしょうか。快斗は特に、そして新一も何時もと一寸違う…。
普段の視覚を彼等個人の高性能レーダーみたいなものを入れて常人100を比較し200とするならレーダー
の稼働率はおかしな 環境の妖気にあてられて20%で現在は120しかない状態なのです(汗)
その辺を説明なしに伝わるよう書けないといけなかったのですけど…う〜ん(苦笑)
話は戻りまして、大ピンチっぽい新一がどうなって何処にいるのか(笑)、快斗と巻き込まれたコクラン
そしてアンリ、彼等のやり取りとアシュケナジーについての説明も含め次回はもっと掘り下げていく事に
なると思います。長々失礼致しました(大汗)大分事件の真相に近づいてきたという所でしょうか。
新ちゃん、やはり謎を解くためには無茶しまくりますね。
可哀想に快ちゃん心配しまくり(^^;
ヴィオラくん、どうやら快ちゃんの裏の顔に気が付いたようですね。
コクランくんも。
いやもう、どう決着つくのかわかりません!
とにかく、新ちゃんの無事を祈りたいものです。
ケガしても快ちゃん、きっとキレそう・・・