仮面舞踏会
BY 流多和ラト
<ACT 5>
新一と快斗は食事を済ませた後礼拝はサボり早々に捜査に取掛かった。
実際には新一は朝食すら食べる時間を省こうとしたのだがそれは快斗によって速攻で却下
された。
食べられる時には食べる、ごく普通の生活とは遠い世界に住んでいる彼ならではの台詞に
は重みがあり、また昨夜新一が夕食を抜いている事を見越しての発言である。
時間的に少し早くもあり、疎らな食堂は同じように捜索に出る教員達が圧倒的に多くコク
ランもヴィオラの姿もなかった。
アンリは食べないつもりなのか部屋でとっているのかやはり姿はなかった。
だが彼の場合は食べない方がむしろ普通に思えるが。
「…まさか旧館から失踪者が出るなんてな」
二人は二学年のスコット・グレドウィンの方は後回しにし真っ先に三学年のハーゼ・マ
ヌエルの部屋を訪ねていた。
三学年と言えば旧館。
これは過去を通じて初めての事である。
だからこそ先にこちらを優先したのだ。
「て事はこれまで新館でだけ起こったのは偶然って事か…?」
「かも知れねえ」
二人はそれでも新館とは大して変わりのない旧館の部屋を見渡す。
家具の配置も大差なく、ただ全体に使い込まれた感の木材や壁がより重厚で上品な雰囲気
を漂わせているくらいだ。
広さは新一達の部屋よりも若干広く、しかしアンリの部屋だけが破格に広いという事だけ
は分かった。
弱々しい日射しの差し込んだ窓辺で僅かに目を細めやはり鍵を一通りチェックする。
今現在他の生徒は礼拝を始めた頃であるので基本的に辺りに人は居ない筈なのだが無用な
混乱を避ける為始めから部屋の捜索は二人に任され、残りの者は外周りを中心に動いてい
た。
アンリは身体的な事などから普通に授業に出て空いた時間をそちらに回す事になってい
る。
「…決定的だな」
新一はあるものをサイドテーブル上に認めるとそう言って軽く腕組みをした。
「これまでと同じで部屋の鍵は何処も掛かったまま、そして…ドアの鍵は<ここに>あ
る。もしもハーゼの失踪が他のケースと全く同じものであるなら今回も、そしてこれまで
も……<密室からの消失>だったって事だ」
開かれた瞳が光を孕めばたちまち現れた抜き身の刃に空気が音もなく凍った。
新館と旧館の唯一にして最大の違い。
旧館の部屋の入口には新館にはあるオートロック機能がないのだ。
二人の視線の先にはこの部屋の鍵が鈍い光を放っている。
朝訪れた教師は何も考えず合い鍵で開けて入ったと聞いているがこの事実はこれまで推測
の域を出なかった<事件性>を肯定するに充分な証拠となる。
「…て事は第三者の意図が確実に絡んでるって訳か」
つられて昂る意識を宥めるように殊更ゆっくりと呼吸して快斗は前髪をクシャリと握り
込む。
「もう暫く調べてみて、答えが変わらないようならさり気なく警察の介入を勧めてみて
も問題なさそうだな。こうも立続けに起きたとなれば流石に放っておく事は出来ねえだ
ろ。そうなればICPOも大手を振って介入出来るしDr.達の捜索もずっと楽になる」
「承知するかはともかく、な」
快斗はそう言いながらチラリと新一を見遣った。
直ぐさま気付いた新一は軽く眉根を寄せる。
彼の掌に忽然と現れたのはボタン程の大きさの物が二つ。
「何たって探偵のおメーがいるんだからよ、俺これ以上ここに居ても意味ねえから昨日
の続きに励んでくるぜ」
その一つを新一の手に握らせて快斗は背を向けるとヒラリと手を振った。
「同じ建物つっても広いからな、何かあったらそれで連絡してくれ。…それから、絶対
にスイッチは切るなよ」
最後だけはわざわざ振り返って念を押す。
態度と口調とは裏腹の瞳の真摯さに新一はただ頷いてみせた。
「じゃあな、……新一」
初めて呼ばれた訳ではないのに、何故だか酷く大切そうに名前を呼ばれた気がして新一
は僅かに目を見開くとしかしそのまま快斗を見送ってしまった。
そして彼はもう何度目だか数えるのも鬱陶しくなったため息をまたついたのだった。
だがこの日は特にこれと言った進展のようなものはなかった。
行方の知れない両生徒も勿論ホルト・デイターも一日中の捜索にも関わらず発見には至っ
ていない。
家族とも連絡は取れず、捜索はハッキリ言って難航している。
新一はあれから丹念に旧館の部屋を調べ、その後で新館の部屋も調べてみたが例えば秘密
の通路のようなものは見当たらなかった。
だが密室から少年達が次々に消失しているのはほぼ間違いない事実なのだ。
ならば何が足りないのか。
各々の生徒についてさり気なく聞き込みもしてみたがやはりアンリの説明通り殆ど人付き
合いのなかった彼等の事は大して分からない。
ただ死ぬのを怖がっていた、そして信心深かった、そんなところである。
何度も読み尽くされた聖書も同じ、直ぐに手に届くベッドサイドにあった。
新一はヒントを少しでも目に映しておこうと細かく歩き周り、自室のPCで彼等のデータ
を引き出し検証にも努めた。
現れた履歴と写真を眺めてみてもこれといったものは見つけられない。
「もうすぐ会えるんだ」最後に嬉しそうにそう言っていたというエルラッハ、彼は本当に
悪魔に会おうとしていたのだろうか。
自分と同じ顔をした悪魔に会えば…死んでしまうのではなかったか?
鍵を開く為の大切なピースがぽっかりと口を開けたまま…。
足りないのは情報か、それとも……状況……?
机に並べた写真を眺める。
PCの淡い蒼で染められた秀麗な横顔は暗くなりつつある部屋で瞬き一つしなかった。
快斗とは彼が煩いので昼食を一緒にとった時に一度顔を会わせている。
作業は順調に進んでいるようでもしかしたら明日には新たな図面が形を現すかも知れない。
しかし図面はあくまで大まかなものであり、実際建築する際には若干の違いが生じている
事は理解出来る。
昨日測量した分だけでは何かを断定するに至る量ではなかった。
全ては入力が終了してからか…。
だが、と新一は思考を戻す。
何なのだろうこのタイミングは。
過去のデータからもこんな短期間に頻繁に失踪者など出している例はない、まして複数同
時になど。
悪意を持った第三者は何かを焦っているのか、それとも他に理由があるのか。
では今現在と過去との違いは何だろう。
癖のように無意識に白い顎に手をあて長い睫に微妙な光を纏わせる。
半ばまで隠された瞳はここにない何かを模索する。
暫し思考に沈み、しかし浮かんだ答えは一つしかなく、それはどうにも理解出来ない事で
新一は眉を顰めた。
(…ここ最近でこの学校で変わった事って言えば俺と快斗が転入してきた事くらいじゃ
ねえか)
それがどう関係するのか。
自分はあくまでも一生徒として転入してきただけで、その際の手続きも書類も完璧であ
る。
何の疑いもない。
では快斗はどうかと言えば、彼に限って書類に不手際があったとは到底思えない上に潜入
捜査は自分よりも遥かに上手く彼の本職のようなものだ。
何か事情を背負っているようでもあるが今回の事件に関して彼には本当に心当たりがない
ようである。
だが彼が探す人物と少しは関連はあるのかも知れない…そんな事をふと思う。
しかしそれならば逆にこちらに気取られぬよう気配や痕跡を隠すものではないのか…。
そしてその理屈を抜きにして考えても、生徒の出入りの激しいこの学校でたかが転入生が
二人一度に入ったくらいで(しかも皆双児と誤解しているようであるし)何の意味がある
というのだ。
人が消える程の理由は…?何を目的としている…??
結局は疑問が堂々回りするばかりで新一はため息をつく。
やはり組み立てるにはピースが足りなさ過ぎる。
埋まらない隙間、黒くてポッカリと空いたそこから聞こえるものは何だろう。
控えめなノック音に新一は顔を上げた。
快斗ではあり得ない気配はしかし発せられた声で直ぐに確認に至った。
『居るか?クドウ』
新一はロックを解除して少年を一人招き入れる。
ヴィオラだ。
彼は開いたドアから一歩入った途端思わず立ちすくんだ。
PCの画面のみが生きた室内は水底のように暗く、そこに立つ少年を包み込むように染め上
げていた。
そして自分と目が合った瞬間瞬いた希有な双眸がまるで人外の…そう、悪魔のように魅惑
的な美しさをたたえていたように見えたのだ。
一瞬言葉を失ったヴィオラに新一は訝し気な視線を送った。
『どうかしたか?』
『……いや、…別に。そ、それより何でこんな暗くしてんだよ、電気ぐらい付けたらど
うなんだ?』
照れ隠しのようにそう捲し立て、しかし逆にこの暗さで丁度良かったのではないかとも
思った。
そうすればきっと赤くなっているに違いない顔を誤魔化せる。
それを言われた方は今気付いたとばかりに目を見開いて辺りを見渡すと納得したように頷
いた。
どうやらヴィオラが思うのも何だか目前の少年は常識からどうもズレた部分を持っている
らしい。
だがそれすらも何となく似合っているような気さえさせるのだから感心してしまう。
『つい、な。何かに夢中になってると忘れちまう』
『お前それでよく今まで眼鏡の世話にならずに済んだな』
呆れたように言えば新一はやっと部屋の照明を灯して振り返った。
ようやく露になったその姿はそれでも夢の続きのように美しい。
但し暖かな光に照らされたそれは先程とは異なり天使にも似た清冽さがあった。
更にその顔に笑みが浮かんでいれば尚更。
『眼鏡にはガキの時に散々世話になったよ』
そう言って肩を竦め新一は再び椅子に戻る。
ガキで眼鏡?普通逆ではないのかとも思ったが、コンタクトに変えたのかと勝手に納得し
ヴィオラは取り敢えずの用件を済ませる事にした。
と言っても大した用ではないのだが。
『ほらよ、これ差し入れだ。お前多分また飯抜くんじゃねえかと思ってさ、多目に貰っ
といてやったから余ったらクロバにでもやるか夜食にしとけ』
食堂ではテイクアウトもやっている。
ヴィオラは下げていた紙袋を机の上へと置いた。
新一が目を丸くしてそれを見ていると彼は焦ったように身じろぎする。
『な、なんだよ、気に入らねえってのか?!嫌なら別に無理に喰わなくたっていいんだ
ぜ!』
『……いや、別にそんな事は。ただ何て言うかお前ってさ…、案外面倒見良いんだなと
思って』
新一は素直に感心してそう言ったつもりだったのだがそれが却ってヴィオラを追い詰め
る。
そもそもここに訪れる事自体結構な照れがあり(これまでがこれまでなので)、シュラー
とモートンにも内緒で来ている程なのだ。
『んな事ねえって!俺はただお前にエルの事託したようなもんだからそれなりに見届け
る義務があんだろ?!お前にもきっちり動いて貰わねえといけねえし…!!』
何だか興奮している様子に新一は責任感の強い奴だと増々感心し、素直に好意を受け取
る事にした。
特にお腹は空いていないのだがあまり不摂生をすれば後々主治医の小言が待っている事も
確実で何より快斗にも煩く言われている。
しかもその原因は己にあるのだと分かっているから仕方がない。
気が付くとヴィオラが並べてあった少年達の写真に見入っていた。
解像度の高いそれは鮮明で、新たに今日までに失踪した三人の分も加えられている。
因に流石にPCのファイルは一般人に見せる訳にはいかないのでヴィオラが入って来る前
に閉じてあった。
ヴィオラは一枚の写真を手にとり眉根を寄せている。
写っているのは淡い金髪を長く伸ばした腺の細い少年。
まだあどけなさを残したその顔は整ってはいたが可愛いと言う方が似合っている。
目線が会う訳でもないのにヴィオラの顔には緊張が浮かんでいた。
もう懐かしいと形容してしまっていいのか…。
エルラッハ・ヒュー。
『こいつ、髪が凄げえ綺麗だったんだよな。女みたいに伸ばしてて腰まであってさ、
でも聞いてみたら単に切るのが億劫でほったらかしにしてあるだけだって笑ってたけど』
苦笑してゆっくりと写真を戻す。
その横顔に憂いとも疲れともしれない影がこびり付いていた。
もう一度笑って、並んだ写真を端から順に見遣る。
何故こんなものがここにあるのか疑問に思う様子は全くないようだった。
『まるで、美人コンテストみてえだな』
ヴィオラはからかい半分にそう言って新一に視線を移す。
色素の薄い肌と髪、そして瞳…、身体的に負ったハンデと引き換えるように独特の憂いを
含ませた昏い美しさを各々が滲ませている。
『それからいくと、お前も気をつけねえとヤバいぜ』
『はあ〜?何言ってんだよお前は』
沈んだ気分を払拭しようと努めている事は分かったので少しだけ顔を顰めるに留め新一
は呆れたように息をついた。
恐らくそれを言ったのが快斗であったなら全く別の反応を見せていたのだろうが。
『そう言えばヴィオラ、お前例の悪魔の噂の出所って知らねえかな』
『ん〜さあな、考えた事もなかった。でもそれが知りたいってんなら俺の出来る範囲で
調べといてやるよ』
『助かる』
ヴィオラという少年はエルラッハの事といい、新一も言ったが面倒見がよくそして一度
懐に入れた人間に対して何処までも広い心で接する事の出来る人間らしい。
『ところでクロバは何処行ってんだ?』
『さあな、あいつはあいつで忙しい奴だから』
『…?双児なんだしクロバも仲間で探偵なんだろ?』
唐突に落ちた沈黙にヴィオラは内心で冷汗をかいた。
何か……不味い事でも言ってしまったのだろうか自分は。
『……あいつは仲間じゃなければ探偵でもない。ついでに言えば俺とは全く血の繋がり
もない』
抑揚のない声は怒っているようにも冷たく突き放しているようにも聞こえた。
ヴィオラは思わず息を呑んでその硬質な美貌に見入っていた。
どうしてそんな表情(カオ)をするのか彼は。
しかし……
『でも、あいつがこの世にいないと…俺は俺に潰される』
次第にゆっくりと浮かんできたものは………苦笑?
これまで見た事もない程人間めいて暖かなそれはヴィオラの胸を一瞬にして埋めてしまっ
た、同時に奥には鋭い棘を残して。
彼は何となく宙を仰いで大きく息をついた。
どうしてだろう、こんなに切なくなるのは。
『…じゃあ俺もう行くな、邪魔になるし』
新一が何かを言いかけた時には既に片足を廊下に出してからヴィオラは振り返る。
『でもさ…一寸羨ましいな、そういうの』
暫し間を開けた後、笑って、必ず差し入れは食べるようにと念を押すと彼はあっと言う
間に扉の向こうへと姿を消した。
「分かんねえ奴」
残された新一は何故だか笑ってしまってから、しかし直ぐに真顔でため息をつくと机の
中にしまった写真を取り出した。
ヴィオラにモートン、シュラー。
一応関わった者として調べてはみたのだ。
特に不審な点は見当たらないし、ヴィオラの全ては演技ではないと確信もある。
「…誰だ?仮面の下で笑ってやがるのは」
それでも一度声に出してしまえば、新一の心の中にも苦いものが広がっていくのだっ
た。
冬になる程に日照時間が極端に短くなるドイツでは陽が暮れるのが早い。
快斗は明るい間に粗方の測量を済ませていた。
勿論個人の使う各部屋の鍵は掛かったままであったが彼の前には無意味だった。
頼めば合鍵を勿論借りる事は可能であっても全室となると教員の誰かと組まされる事とな
るのは必至だ。
新一から特に連絡はなく、無線を使ったのは昼食に誘った時だけである。
放っておいては食べるか分からず、昨夜の報告もしていない、そして何より一度顔を見て
おきたかったのだ。
快斗は今戻って来た少年達で一気に活気づいた寮の片隅に居た。
明日から週末でもあり、これからすぐに校外へと外出しようという輩が大きな荷物を手に
出掛けていく。
何時にも増して厳重になっている警備のせいでチェックは厳しいが各々身元を確認出来れ
ば何時も通りの楽しい休日が待っている。
そして残りの生徒も自由を満喫したり食事をしようと皆浮き足立っていた。
再び失踪事件が起きたという話はこれから広まるのだろう。
新たな騒ぎになるのは時間の問題だ。
快斗はそう思いながら彼等に言葉巧みに話し掛け、例の噂話の発信元を探った。
これまでも何度も意識して愛想を振りまいている快斗はもう殆ど顔見知りになっていた。
少年達と笑顔で話に興じる。
三学年ばかりを中心にそれを繰り返し、しかし収穫もないままにいると現れた小柄なシル
エットに快斗は目を細める。
どうやら向こうはこちらに用事があるらしく足を不自然に動かしながらも嬉しそうに近付
いて来た。
その瞳にあの恐怖や嫌悪が見られない事をもう一度確認しポーカーフェイスを張り付け
る。
『兄貴ならまだみたいだぜ?』
そう話し掛ければ目の前にた立った少年は快斗の予想通り不快気に顔を顰め、柔らかな
頬を膨らませた。
『僕は、あなたとクドウさんに会いに来たんだよ』
<お前>から<あなた>に格上げされている。
見上げて来るその姿はまるでリスのような愛らしさであるが残虐性を煽るあの卑屈な翳り
は見られない。
『俺と新一に、ねえ…。おメー随分と態度変わっちまったじゃねえかよ。俺が恐くねえ
のか?』
快斗は率直な意見をぶつけると笑顔の影から鋭く観察眼をとばす。
コリンズはどう答えるか。
『恐くなんかないよ。…僕はもう何も、兄(あいつ)だってそのうち平気になれる。も
う誰にも馬鹿になんてさせない』
快斗を見てハッキリと宣言する様は堂々とすらしていて、昨日礼拝堂で祭壇の前に佇ん
でいた彼を思い出した。
あの時には背後に彼の信奉する神がいた。
では今は何によってその身体を、心を支えているというのか。
昼食をとりながら密かに新一と情報交換した際、ヴィオラから聞いたという過去失踪した
少年の話を聞いた。
幸福そうに何かに会えるのを楽しみにしていた彼…。
虚言癖があり<悪魔>という単語をよく用いていたという事。
新一は会う予定としていた(?)相手が誰だったのか、もしくは何だったのかと言う点を
酷く気にしていた。
彼はそれこそが<悪魔>だったのではないかと仮定さえして考えている。
しかしこの場合悪魔が<ヘルダーリンの悪魔>を指しているとして、ならば自分と同じ顔
をした悪魔を待っていた、もしくは会いに行って…戻れなくなったと言う事なのか…。
だが会えば死んでしまうと言う悪魔に会うのを何故楽しみに出来るのだろう?
快斗は内心で眉を顰める。
やはりこういう事を考えるのに自分の頭は向いていない。
もっと即物的な駆け引きならば得意とするところなのだが。
『んじゃ兄貴と仲直りでもしたか?それとも派手に喧嘩?』
何処か開き直っているようにも見えるコリンズに快斗は重ねて質問する。
彼とコクランが喧嘩出来る程に近しい仲ですらない事も承知している。
万一本当に喧嘩をしたのだとすればそれだけでも大した進歩と言えるのだ。
『…関係ないよ、あいつとは』
返って来たのは昏い嘲笑を含んだ言葉であった。
その可愛らしいと形容される事が殆どであろう顔は今酷く大人びて見えた。
それを見たのが快斗でなければあまりのギャップにショックを受けたかも知れない。
しかし快斗は礼拝堂で自分に喰ってかかってきた彼を知っている。
見た目だけでは分からない普段は卑屈な仮面の下に隠されているのは熱い炎。
なのでどんな態度をとられようと大した驚きではないが、ただ根本的な心変わりの原因は
気になる。
これはもしかしてエルラッハ・ヒューと同じパターンなのではないか。
その時快斗は見知った気配に視線を向けた。
廊下の奥から歩いて来たのはコクランである。
彼の大きな体は離れていても酷く目立つがそれ以上に主人を物語る秘められた闘志が存在
そのものを知らずアピールする。
快斗は彼の気配を捉えるのが一番楽であった、…これが予め仕掛けられたものでないとす
るならば。
目が合う前に複雑そうに顔を顰めたコクランは何故旧館に彼等が居るのかとの驚きも含ん
でいるようだ。
しかもその取り合わせがよりによってまたこの男となのだから頭痛すら起こしているかも
知れない。
『手間が省けたろ、おニイチャン』
快斗は裏の全てを綺麗に包み隠して何時も通り彼を迎える。
『今おメーの噂してたとこなんだぜ』
『…どうせロクなものじゃないだろう、特にお前の一方的な見解で』
何故ここに居るんだと問いただすのもすでに億劫な程にお馴染みの彼のペースに巻き込
まれまいと、コクランは早々に視界から彼を閉め出しに掛かった。
今はそれ所ではないのだ。
『……コリンズ、お前今日の定期検査をサボったらしいな』
コクランは固い顔と声で弟を見つめる。
驚いた事に目が合った。
弟の方から見つめ返してくるのは何年ぶりだろう。
何時もは反らされてばかりのその瞳が激しい憎悪と憤りを灯していた事に苦痛を覚えなが
らそれでも感動にも似た感情が沸き上がった。
『それがどうかした?』
しかし発せられた声のあまりの冷たさに愕然とする。
『…どうしたって、……分かってんのか?!あの検査がお前の身体にとってどれだけ大
事なのか…!!』
つい声が大きくなってしまうのは仕方ないが再び険悪なムードを察した周りの少年達は
たまたま通りかかった者も含め慌てて部屋に閉じこもってしまった。
何やら一悶着ありそうな感じだ。
『知ってるよ、あれで僕が後どれくらいもつのか測ってるんだろ?』
身も蓋もない言い方に思わずコクランは虚勢を削がれた。
『でも、別に死ぬのは僕だけで、あんたが毎日毎日しつこく顔を見に来るのも薬を飲ん
だか聞いてくるのも、それでも全部他人ごとだ。何時だって何もかも奪ってくくせに自分
は勝手に自分の世界を捨てたからって僕に依存するのはやめてよ!干渉するな…!父親
(あの人)に何を頼まれてるか知らないけど、もう僕だけでもやっていけるんだから!』
この偽善者!、と最後に捨て台詞を残してコリンズは厳しく固めた表情のまま踵を返し
た。
これ以上同じ空気を吸うのも視界に収めるのも気分が悪いとでも言うように。
あまり興奮して心臓に負担をかけて欲しくない、秘められた激しい想いが心を突き刺して
も、コクランが真っ先に考えたのはそんな事だった。
だが一瞬後には時を置いて沸き上がった自責の念に顔を曇らせる。
きっと弟は何一つ間違った事を言っていない…。
追い掛ける為の足も、振り向かせる為の言葉も見付けられない。
凍えた外気のように体を包んだ痛みは流石の彼をもそこに縛り付けた。
たった一人の観客であった快斗は一度も表情を変える事なく去って行くコリンズと立ち尽
くすコクランの兄弟を眺めていた。
そして弟の姿が消えてもまだ動けないコクランを同じように黙って見つめ続ける。
それを観察と言ってしまってもいいが、どちらにしても今彼を縛っている見えない枷は本
人にしか外せないのだから。
コクランが動けるようになるまでたっぷりと三分は掛かった。
それだけショックの大きさを物語っているようだが、そこで喚いたり罵ったり、感情を表
に出さなかったのは彼の強さかそれとも第三者の存在のお陰か。
振り切るように歩いている筈の自分に全く間を空ける事なくついてくる快斗にコクランは
本気で頭にきていた。
今は一人になりたいのだ、よりにも寄ってこいつにだけは情けない顔を晒したくない。
自室の前に来て勢い良く開けたドアを後ろ手に素早く閉める。
ようやく安堵の息をついて、しかし目前でベッドに当然のように腰掛けて寛ぐ快斗の姿に
絶句した。
一体何時入ったのだ?
『お前…何で…?!』
『あ〜、気にすんなよ。俺は別におメーが怒ろうと泣こうと関係ねえし』
サラリと流す快斗は本当に何も見ていなかったかのように言う。
『気にするのは俺の方だ!とっとと出て行け!!』
ドアを指差され、退室を迫られても快斗は動かない。
そのままゴロリと横にすらなって増々そこに留まろうとしている気配さえあった。
彼に対し声を荒げた事でコクランを抑えていた枷も外れたようで何時も通り実力行使に出
ようとして、やはり前回と同じく途中でそれを諦めた。
怒りよりも寧ろ情けなさが先に立ち、大きく場所を取っている快斗から少し離れて傍らに
座り込む。
しかし何故部屋の主である自分が端の方で小さくなっているのか、それでもムッとして睨
みつけようとして…息を呑んだ。
快斗は頭の後ろに手を回し天井を見上げたまま瞬き一つせず難しい顔で一点を凝視してい
る。
想像していたのとは全く違う様子にコクランは戸惑いを覚えた。
『……おメーさ、あいつの事どう思う?』
一切の揶揄の含まれない固い声。
『…あいつ?コリンズの事か?』
否定はされなかったので彼はそれを肯定と取った。
『…ハッキリ言えば、驚いたな、あいつにあんなに激しい面があったなんて…。何時も
俺が一方的に構うだけでまともな返事もしてくれた事なかったってのに。あいつがあれだ
け喋ったのを聞くのも初めてだった……』
快斗の空気に呑まれたように話してしまってからコクランは己の馬鹿さ加減に腹が立っ
て唇を噛んだ。
『……そんな事とにかくお前には関係ないだろ、早く出てってくれ』
『まああいつおメーの弟だし、似たもの同士なとこはあるな〜っては思ってたけど…。
嫌われてた俺が好かれるってのはおかし過ぎねえか?』
『…だから出て行けと言ってるだろう』
『………気をつけた方がいいぜ』
全く人の言葉に耳を貸さず一人マイペースで喋り続ける快斗にため息をついた時、彼の
低く押し殺した一言が緊張を強いた。
『…どういう意味だ?』
『…さあな、俺にも分かんねえ。おメーに今こうして話してて良かったかも正直判断つ
かねえんだよ』
俺ってお人好し…?、そんな呟きが漏れた。
態度だけ見れば勝手に人の部屋に入り込みあまつさえ几帳面に整えてあったベッドに持ち
主に断りなく寝転びクシャクシャに乱している、そんな図々しい人間の言う言葉とは到底
思えない。
しかし静かに忍び寄ってくる気配の冷たさと荒んだそれは言葉通りの苦悩を彼に与えてい
るようで…コクランは言葉をなくす。
「……仮面を被ってんのはどいつだ?」
突然早口で吐き捨てるように呟かれた異国の言語は全く聞き取る事すら出来なかった。
だが、目が合った瞬間理屈ではなく本能が理解する。
この世で信じるものは己のみ、そう瞳が語っている。
野生の獣のような眼。
しかしそれは苦い思いと共にデジャヴを引き起こす。
過去散々見て来た、そう、何時でも共にしてきた自分自身。
鏡に映る顔は己さえも睨んでいた。
無造作に横たわっている少年は何かを背負い、それ故の敵を見分けようとしている。
そしてその疑惑の対象には自分も含まれているのだと、コクランは悟った。
『…俺はどうすればいい?』
気がつけば不安が口を突いて出ていた。
快斗は寝返りを打ち、顔を白く染めたコクランを見上げる。
その顔に次第に浮かび上がった口元だけを掠める笑みに知らず彼は戦慄した。
彼とそしてもう一人の片割れに初めて会った日、寮を前に二人が振り返った瞬間にも似た
恐怖と畏怖とが同時に沸き上がる。
太陽など何処にも見えない。
在るのはただの闇。
内に何かが潜んでいるとも知れないもの。
『取り敢えず、ひたすら足掻けよ』
その存在と同じ闇色の声は、コクランをより深みへと嵌め込むのに充分な重さと質量を
備えていた。
強さを増した風が窓を叩いても、凍える雲が己の分身を振りまく警笛を鳴らしても、快斗
はまるで異世界の生物のように何処までも遠く、ひっそりと総毛立つ程の微笑をゆっくり
と刻んだのだった…。
入力の終わった画面を見て新一と快斗は絶妙のタイミングで形のよい眉を同時に顰めて
みせた。
未だ未入力の部分を除いて大まかな形の違いを取り敢えず立体的に立ち上げた寮の図と色
違いで重ね比較してある。
「外周は変わらねえけど…各部屋の大きさが微妙にズレてんな」
「でもこの程度なら大して問題にならねえようにも見える…。元々図面なんて実際の現
場の状況でその都度変更があって当り前だし。それでも人を数人隠せる程の部屋がある可
能性は低いか…」
新一はそう言って、しかし鋭く細めた瞳はそれでも油断なく画面を見据えている。
快斗もまた手にしたパンをパクリとやりながら同じくそれに倣う。
「あるとすれば、精々人一人通れる位の隙間だな」
特に生かしておく必要もないなら…スペースは要らないのかも知れない。
だがそれならそれで少年達、そしてもしかするとDr.レッシュの体は一体何処に隠して
あると言うのだろう。
まして何を目的にそんな事が起きているのか意味不明である、今は。
「…でもやっぱ取り敢えず全部測ってみねえ事にはな。今日も一応塔の中も見て来たけ
ど何もなかったし、俺はこれからしか出来ねえとこを測りに行ってくるかな」
快斗は先程の己の言葉に続けてそう言うと立ち上がった。
「じゃあ俺はアンリに会ってくる」
新一はようやく画面から顔を上げると快斗を振り返った。
彼はすでにヴィオラの持って来た差し入れの殆どを平げている。
その食欲は新一とは比較にならない。
「アンリ?何で…?」
途端顰められた顔に新一はそれでも瞬き一つせず答える。
「コリンズが一番気になってるけどな、でもおメーがコクランをそれだけけしかけて
放っておくとは俺は思わねえし」
蒼の瞳が射るような視線を送れば快斗は思わず乾いた笑いを漏らす。
別に隠すつもりはなかったのだ、言わなかっただけで。
昼間は逆にどうしても人目のある場所に忍び込もうというのは本当であるし。
「アンリもマークしてる奴の一人だろ?それにあいつなら色々と詳しい話が聞けそうだ
と思ってな」
「でもこんな時間から一人でか?もしかしたらもう寝てるかも知れねえぜ」
「その時はその時さ」
すでに半ば腰を浮かせた状態の彼の肩に快斗はソッと手を置く。
別に強く抑えている訳ではないのだが新一は動く事が出来ずにいた。
真正面から見据える快斗の瞳が何かを強く訴え掛けるように揺れている。
だが実際には無言のまま、快斗は少しして手を離した。
危険だからやめろとか、大人しくしていて欲しいだとか、もう眠ってくれだとか、全てが
<彼>という存在の否定に繋がるのだ。
「バーロ、信じろよ俺を」
「……信じてるからこそってのも有りだと思うんだけど」
「何だよそれ?」
快斗は肩を竦めただけだった。
実力を知っているからこそより深みに一人でどんどん入って行ってしまいそうで、しかも
トラブルを呼び込むという厄介な体質である事も計算すれば快斗の苦悩は察して余り有る
だろう。
それでも……<彼>は探偵なのだ、自分が怪盗である事を辞められないのと同じで。
快斗は真剣で切実な想いとは裏腹になるべく軽めの苦笑を作るともう一度無線機の確認を
する。
「じゃあ、俺もう暫く戻ってこねえから、何かあったら連絡してくれよ」
「ああ、分かってる」
「それから、奴のところから戻ったら今日の分の薬ちゃんと飲めよ」
「……ああ、分かってる」
今の間は何だったのだろう、快斗が眉根を寄せれば新一は快斗ですら呆然と見入ってし
まう程の美しい…でも今は小憎らしい笑みを浮かべる。
「俺は俺の出来る亊をするだけだ、何時でも、…おメーと同じで」
強い光を宿した双眸は笑みの鮮やかさとは対称に何処までも熱く、深く、言葉以上に彼
自身を現す。
彼は何処までも探偵という生き物で、それを痛いと思う反面そんな彼だからこそ惹かれて
しまう事実は酷く残酷で…心地よい。
こんな時の彼を前にすれば流石の快斗も何も言えなくなってしまう。
ため息をついて、快斗は微苦笑した。
「悪ぃ…、でもま、あんまドクターを泣かせるような事は控えろよ」
そうとしか言い様がなく、快斗は片手を挙げてドアへと向かった。
その表情はコクラン辺りが見たら卒倒しそうな程情けないものであったが当然新一からは
死角になっている。
ドアが閉まる寸前、新一はふと思い出した事を口の乗せた。
「あ、そうだ快斗。昨日は言い忘れてたんだけど俺が初めアンリを見た時驚いた訳が分
かったぜ」
快斗が肩越しに目線だけを寄越す。
「すっげ〜バカバカしいんだけどな、アンリってあのマリア像に似てんだよ」
意外な客という事もあるがそれ以上にこんな時間への訪問者など彼にとって父親以外酷
く珍しいものであったに違いない。
アンリはすっかり寝る仕度が整っていたところに上着だけを羽織ってそれでも嬉しそうに
微笑んだ。
『さあ、どうぞ』
熱いコーヒーを差し出してニコリと笑う顔に新一もまた小さく笑い返した。
『悪いな、こんな時間に、用が済んだらすぐ帰るから』
『いいんですよ、どうせすぐには眠れそうもありませんし…何よりあなたとはゆっくり
話がしてみたかったんです、クドウ』
それは社交辞令とは思い難い本物の好意が込められていた。
新一はそれをどう取ればいいのか、瞬間迷って取り敢えず用件に入る。
『まだ見付かってないみたいだな』
『…何処に居るのでしょうね、この冬の夜に』
アンリはグレーの瞳を窓へと移す。
『もしかすると今夜あたり、降るかもしれません』
昨日の昼を境に少しずつ空を覆い始めた雲はすでに厚く垂れ込め、その先にあるささや
かな星の瞬きも月の輝きも全てを呑み込んでいる。
充分に暖められた部屋からは想像もつかない凍てついた世界。
そこを彷徨うものは野生に生きる獣か、それとも人の皮を被った悪魔だけか…。
『すみません、転入早々に色々と面倒な事に巻き込んでしまったようで。父は結構出る
事も多いですし』
『別に構わないさ。俺はそういう性分だから』
アンリが不思議そうに首を傾げる。
そうやっていると容姿と相まって新一よりも年下に見えた。
『ところでそのリヒター校長は何処に?』
『懇意にしているこの学校の後援会の代表の方と会っている筈です。言わば営業活動と
いうものですよ』
新一は頷きながらも後できちんと裏を取っておこうと決めた。
『…今回の件、警察に通報する気はないのか?』
『……そうですね、僕は個人的にはその方がいいとは思っているのですが何しろここは
体裁を重んじる方達が多過ぎるところなので…。でも明日からの連休まで掛かっても駄目
なようでしたら考えるべきだと思います』
顔を曇らせるアンリに新一は一応頷いた。
『ところでアンリ、お前なら知ってるかと思って教えて貰いたい事があるんだけど』
『何です?』
『前にここでお前が言ってた、ヘルダーリンの悪魔の事だ。一寸聞いた話じゃ<自分と
同じ顔をした悪魔を見たら死ぬ>って噂なんだって?俺よくその事で色々と言われてさ、
でも逆に凄く興味でたんだよな』
新一は出来るだけさり気なさを装おう。
『すみませんでした、あの時はつい失礼な事を……』
『いや、別にそんな事は気にしちゃいないさ。それより、それって何でそんな話になっ
たりしたのか知らないかと思って』
アンリは彼が気分を害している訳ではない様子にホッとしたように息をついて、次には
記憶を探るように視線を僅かに上向かせた。
『ヘルダーリンというドイツの天才詩人の事は御存じですか?』
『精神に異常があったらしいな』
『この噂はその天才詩人の奇妙な生涯が元になっているんです。精神…心を患っていた
とされる詩人ヘルダーリンは幽閉された塔という狭い空間を世界の全てとしていました。
そんな彼の楽しみといえば誰に見せる事も叶わぬ詩を作る事と……孤独な心を癒す唯一の
友人にして兄弟だったもう一人の彼の住処、鏡を眺める事だったと聞いています』
『鏡……?!』
新一はドキリと跳ねた心臓に思わず手を握る。
今、とても重要なピースが赤い点滅と共に暗い空間を満たしていったような気がする。
『その鏡に映る自分に話し掛け、時を分け合い、……そして彼が死の真際にあっても最
後に望んだものはやはり鏡だったと…そして自分は一人でない、双児の兄弟が共に在るの
だと笑って息を引取ったのだそうです。彼を狂気へと陥れたのは他でもない彼自身でした
が実際に鏡という形を借りた彼そっくりの悪魔が取り憑いたのだと、色々な噂が当時飛び
交い、それを………』
何処か虚ろな眼で話していたアンリは、しかし突然鳴り響いた電話の音に我に返ったよ
うに身じろいだ。
新一もまたハッとして顔を上げる。
アンリは失礼、と席を立つと電話を取り上げる。
そしてそれは直ぐに切られた。
『すみません、急な用事が出来てしまいました』
『何かあったのか?』
新一は色々な意味で逸る動悸に胸元を軽く押さえようと腕を動かした。
だがその小さな動作の際カップを引っ掛け、陶器のかち合う音がしてほんの僅かに残って
いた中身が溢れた。
『悪い』
新一は咄嗟にハンカチで拭き取ろうとポケットを探る。
目当てのものを手に取った時一緒にテーブルに落ちた銀のアルミケースにアンリの視線が
注がれた。
『…クドウは身体の何処かが悪いのですか?』
彼にとってはもう見慣れた代物だったのだろう。
それが薬を入れる為のものだと理解したアンリは意外そうに言った。
『……ここってそういう奴しか入れないとこじゃなかったか?』
苦笑混じりに言えばアンリもまた困ったように小さく笑った。
『表向きはそうなんですけどね、実際はそうでない方も多いのが実情で…』
『でも、俺の場合大したもんじゃないさ』
一瞬複雑そうに翳った美貌にアンリはそれでも魅入られたように見つめ続ける。
『……ねえクドウ、でも弱者の立場に立って初めて見えて来るものもあるって、そう考
えた事はありませんか?』
新一は咄嗟に答えられなかった。
『僕は生まれた時からずっと周りの手助けなしには生きて来られませんでした。その事
でずっと劣等感を抱いてきましたが…でも健康でも自分の生きている意味が見付からず暴
走してみたり、そんな方達に比べて生きる事の重さを知っている分我々はきっと幸福なの
ではないでしょうか。そしてこんな風に生まれたのにはきっと意味があり、各々に役割が
ある…これは全部母の受け売りですけどね。…勿論、健康に憧れる気持ちも止められませ
んが』
やはり新一は言葉が出なかった。
アンリの表情は穏やかで何処か神々しくさえあった。
新一は生まれた時からそんな不自由さを味わっている訳ではない、ほんの僅かな期間だけ
でも内心で弱音を吐きたくなる瞬間が数え切れない程にあるのだ、彼がそこに至るまでに
どれだけ傷付き耐えてきたのか想像もつかなかった。
困惑したままに固まっている新一の様子にようやく気付いたアンリはハッとして苦笑し
た。
『すみませんクドウ、勝手にペラペラと。特に親しい友人もないのでつい…。そう言え
ば急いでしなければならない事があったのでした。まだ誰かが消えたと言う訳ではないん
ですが、一寸問題を起こした生徒がいて困っているそうなので見て来ようと思います』
『まさか…?』
新一はやっと声を出した。
『いいえ、でもあなたもよく知っている方です。コクラン・オーブリーですよ』
新一が一瞬誰を想像したのか何となく分かってしまいアンリは笑ってそう言った。
彼とて快斗がそんな騒ぎを起こす程の間抜けでない事は承知していたが状況次第では何が
起きてもおかしくないと思ってもいる。
しかしその人物の名も新一の眉を顰めさせるには充分なものであった。
『俺も一緒に行っていいか?』
新一は目を丸くしたアンリがそれでも嬉しそうに頷くと彼が簡単に身支度を終えるのを
待って共に目的の場所に向かった。
その廊下の一角では二人の警備員を相手に口論をしている長身の少年の姿があった。
『だから言っているだろう!俺はこの部屋の持ち主の血縁で別に何も迷惑なんて掛けて
ない!!』
『いいから、とにかく自分の部屋へ帰りなさい!』
『中に入る訳じゃなくてここに居たいだけなんだぞ?!』
『今夜から原則として暫く騒ぎが収まるまで夜の寮内は外室禁止なんだって説明してい
るだろう』
制服を着込んだ警備の男達とコクラン、どちらも譲る気配はない。
力づくで排除出来る相手では勿論なく、二人の男は彼の威圧的な気迫に押されながらも一
応職務を全うしようと必至である。
アンリの姿を見て彼等はようやくホッとしたように胸を撫で下ろしかけ…その後ろから現
れた少年を見て陶然と息を呑む。
そのうちの一人に若干困惑が浮かんだのを新一は見逃さなかった。
コクランはこちらに気付いてからすでに臨戦体勢に入っていた体を取り敢えず治めた。
『すみません、このような時間に呼び立ててしまいまして…』
『いいんですよ、それよりどうしました?』
『彼が我々の言う事をまるで聞こうとしないものですから』
コクランはその言葉を遮るように壁を拳で殴りつけた。
『何で兄の俺が弟の部屋の前に居たら邪魔なんだ?!』
あまりの迫力に男達はヒッと小さく喉を詰まらせる。
それを見たアンリはあくまでも柔らかい物腰で微笑み掛ける。
『すみませんコクラン、今夜から急遽警備員の寮内巡回を頼んだんです。…別に生徒を
監視しようと言う訳ではないのですが恐いと訴えてきた生徒の要望もありましたので。で
すから届けを出して週末の外出する者以外誰であろうと部屋からあまり出ないよう注意し
ているのですよ。でも色々と御心配な事があるようでしたら、弟さんの部屋に泊まられた
ら如何かがですか?それなら別に誰も咎めたりはしませんし』
痛いところを突かれた、コクランは眉間に皺を思いきり寄せた。
その件は真っ先に実行しようとして速攻で断られたのだ。
だから仕方なくドアの前で一晩中見張っていようと思ったのだが…。
彼のそんな表情から新一には大体の事態が飲み込めていた。
快斗から弟の事で警告を受けたコクランは彼らしい率直さで杞憂を薄めるべく足掻いてい
るのだろう。
だがふとそれを彼に焚き付けた本人はどうしているのか…そんな事を思いがらも新一は一
つの提案をしてみる。
『じゃあこんなのはどうだ?あいつさえ良ければ俺が一緒に泊まるって事にしてお前は
部屋で待機する。何かあったら連絡入れてやるし』
新一がそう言うとコクランもアンリもまた不思議そうに目を見開いた。
『お前が…?』
『ああ、お前が心配する気持ちも分かるし何でだか俺好かれたみたいだしな』
しかしコクランの驚きには別の意味もあった。
何故彼の双児の片割れである快斗とは全く別の行動を取るのだろうと言う事だ。
自分を勝手に煽った彼は今姿すら見せないのに。
コクランの困惑も理解した上で新一はそれでも反対がない事を見て取ると行動に出た。
コリンズの部屋をノックする。
初めはまるで出る気配がなかったそこは、しかし相手が新一だと分かると僅かに開き主が
顔を出す。
『悪ぃなコリンズ、こんな時間に。実は今夜お前のところに俺を泊めてくれないかと
思ってな。あいつは関係ないぜ、ただこうしねえと仕事をクビになりそうな気の毒な人達
がいるんだよ』
新一は泣きそうな顔で立ち尽くしている警備員を振り返ってそう言った。
あれだけ大声を出していればこれまでの現状はなんとなくは分かっているには違いない。
コリンズは初め兄の気配を感じ不愉快そうな顔をしていたがそれでも新一を見ているとや
がて笑みを浮かべた。
しかしまた次の瞬間には苦悩に眉を顰めた。
『クドウさんなら歓迎するけど…ごめんなさい、今部屋も散らかってるし。でも!でも
明日なら絶対いいから!明日泊まりに来てくれる?!大歓迎するしお菓子も用意して待っ
てる!!』
コリンズは頬を紅潮させて懸命に喋る。
本当に残念そうにしている上に、<明日>という単語を強調している。
要するに自分は別に何処にも行きはしないのだと彼は主張しているのである。
そしてそれが本気であると目が語っていた。
新一はそこまで言われてしまえばどうする事も出来ない。
振り返って軽く肩を竦める。
コリンズの部屋のドアが閉まってから少し離れた場所で新一達は密やかに相談した。
コクランは取り敢えず弟が今消えてしまう意志などない事を確認出来たので幾分落ち着き
を取り戻していた。
『ではすみませんがそういう事で…よろしくお願い致します』
アンリが締めくくるように頭を下げた。
結局それでも部屋を見張る事を譲らなかったコクランに新一が付き添う事で決着が着いた
のだ。
そして万一の時の為に合鍵を借り、その代わり警備員はこの辺りを頻繁に見回る事にして
彼等をも共に見張るという体勢にした。
一人では心配だが何より校長の息子であるアンリと懇意にしている新一も一緒という事が
警備員達を頷かせたのだ。
だったら自分も残ると言うアンリにはそれもまた好都合ではあるが彼の身体の事を思えば
それを頼む訳にもいかず申し訳なさそうにする彼を新一は見送る。
『では、明日必ずお茶の続きをしましょう』
アンリはコリンズのようにそんな事を言ってその場を後にした。
残された新一とコクランは並んで廊下の壁に背中を凭れさせて座った。
暖房は効いているがやはり完全な冷気の遮断と言う訳にはいかない。
『何でお前が…?』
『心配だったから、って言ってた信じるか?』
二人は囁き程度の声で語り合う。
あまり大きな声ではコリンズに気付かれる可能性がある。
『………お前がクロバだったら絶対に嫌がらせだと思うだろうな』
何をどれだけ思い出しているのか顔を顰めたコクランに新一はつい苦笑する。
『あいつ相当色んな事仕掛けてるみたいだけど、でも、少なくとも俺は信頼してるよ、
あいつの事』
あまりに自然に流されたのでコクランはその伏せられた瞳が深く色付く様に気付かな
かった。
『まあ双児の兄弟ならそんなものだろう』
『あいつとは何の血の繋がりもないぜ。滅多に会えないし、会える事の方が奇跡に近い
かもな』
そう言って微苦笑する新一をコクランは不思議そうに見入る。
冴え渡った瞳はどんな光の加減か酷く深く、しかし穏やかに包み込む暖かさをも持ってい
る。
『でも血の繋がりはなくたって、俺とあいつは別のものを分け合ってる、そんな気がし
てるよ』
新一は続けてそんな事も言った。
あの凍える獣の眼をもった彼はこの人の事をどんな眼で見ていただろう、コクランはふと
記憶を巡らせた。
だが思い出せそうにない。
彼は何時でもよく分からない危険な人物にしか映らないからだ。
『……そういえばそのあいつはどうした?』
コクランがそう聞いた時警備員の一人が手に毛布を抱えてやって来た。
『寒いと思って、良かったら使いなよ』
『すみませんありがとうございます』
新一が二人分の毛布を受け取るのをコクランは複雑な思いで見ていた。
自分一人の時には強制的に退去を命じられたと言うのにこの待遇の違いは何だろう。
やはり自分が悪いのかそれとも傍らの人物の人徳か…。
どちらにしても彼は快斗と同じくかなり要領のいい人間のようである。
『どうかしましたか?』
自分を不思議そうに眺めるその警備員に新一は聞いた。
『…別に大した事じゃないんだけど……さっき隣の彼を見つける前に君を見かけたよう
な気がしてたから。ほんの一瞬だったから見間違いかも知れないんだけどね』
彼が新一に会った時の戸惑ったような視線はその為か。
しかしそれが新一ではなく快斗であるという事に彼もコクランも気付いた。
きっと見間違いですよ、もう一度礼を言って警備員を送りだした後二人は無言のまま各々
思考に沈んだ。
快斗が恐らく離れたところでコクランとコリンズの部屋を観察していたのは間違いないと
思うが…、コクランが粘っているのを見て取り敢えず先に測量に向かったのかそれとも…
…何か気になる事でも起きたのか。
無線は入らない。
新一はそれでも彼を探し出したところで何の役にも立たない自分を自覚するからこそ、今
はコクランの側に居る亊を選んだ。
白いものが舞っていた。
幾つもの天からの使者はそれでも優しさの欠片もない強さと有無を言わせぬ圧倒的な力で
世界を呑み込んでいく。
たちまち一つの色に染め上がったそこは全てを平等に導いて…極寒の痛みと自分の爪痕を
刻みつけた。
これから先の長い時間、支配するのは我々なのだと。
すでに脛の半分を軽く隠す程に積ったその上で呆然と佇む少年が居た。
まだ夜明けと言えども空は垂れ込めた雲とおびただしい冬の使者のお陰で薄暗い。
それでも何とか眼を凝らせば判別が着くという状況の中でその少年だけは足元に横たわる
ものが何であるかを理解する。
「……し、…新一?俺、だけど……一寸出て来れねえか……?」
快斗は凍える指先に無線機を挟んで呟いた。
僅かな動揺で染まった視線の先には半ばまでを白く染めた小柄な……人間の体。
思いきって体に触れれば驚いた事に固く閉じられていた瞳が薄らと開く。
『おメー、何で……?!』
『………会ったよ、僕』
それだけを言って再び瞳は伏せられた。
「…マジかよ?……コリンズ」
快斗は手にした身体の鼓動が今にも消えようとしている現実を感じながら何処までも遠
い風の叫びを聞いていた。
南ドイツに今年初めての雪が降っていた……。
長い…今回はこれまで書いて来た中で一話分最長の長さです(汗)読み疲れたかと思います、御免なさい。
でもどうしてもここまでは持ってきておかなかいと流石にやばいと思ったのです(汗)
これで事件編は終わって解決編に突入していきます。今頃?と呆れられそうですが…(苦笑)
そして前回で嘘になってしまいましたが新一が本当に活躍(今回も活躍始めてますけど)するのは次回から
になります(大汗)ああ、私はなんて嘘つきなんだ〜(泣)
快斗は未だやさぐれモード引き摺ってますね、意地悪い(汗)ヴィオラはパシリと化しています(笑)
でもどんな奴でも怪しいとなれば……仮面を被っているのはさて誰なのでしょうね?待ってました!いえいえ、読めばアッという間ですよ、ラトさん。
どんどん、事件に深刻味を帯びてきましたね。
今回ウケたのはやっぱりヴィオラくんの世話焼きでしょうか。
そりゃあ、1分でも長く目の保養したいよねえ(^^)
せっせと世話を焼くヴィオラくん、ポイントアップ!
そして、互いがどんなに大事かを二人に言う新ちゃん。
めったに会えないからこそ、彼等の繋がりの深さが感じられるのでしょうね。
そして、いよいよクライマックスでしょうか。
謎めいた仮面の主は誰なのか。
それにしても、ヴィオラくんの心配もわかる(^^;
新ちゃん、自分の美貌に無頓着過ぎ!
快ちゃん、復活してくれ〜〜 麻希利