仮面舞踏会
BY 流多和ラト
<ACT 6>
雪の降りしきる朝発見されたコリンズ・オーブリーは奇跡的に命は取り留めてはいるも
のの重度の凍傷と衰弱で非常に危険な状態である事に変わりはなかった。
知らせを受けた医療スタッフと騒ぎを聞き付けて集まった教員や生徒などの野次馬、そし
てコクランは雪の中コリンズをコートで包み腕に抱き込んでいる新一の姿を見て絶句す
る。
そこに無言のまま佇む彼の雪の精のごとき美しさもそうだがその状況の異常性にである。
何故、彼等はこんな時間にこのような所に居るのかという事。
新一は人々の存在に気付くと青白い顔をしながらそれでもしっかりとした表情で腕の中の
コリンズを医療スタッフへと引き渡した。
状況の説明はともかく、今彼の処置をする事が先決である事は誰の目にも明らかであっ
た。
だがその混乱した頭の中でコクランだけが雪に埋もれて消えつつある第三者の足跡に気付
いていた。
しかし……
『コリンズ』
彼は運ばれて行く弟の小さな体を見つめては何度も何度もそう呟く事しか出来なかった
……。
『それで、一体どういう事なんだね?』
口ヒゲを蓄えた厳めしい顔つきの中年男性は目の前に座った少年を疑惑の眼差しで見つ
める。
彼はこの学校の警備員達を纏める責任者であり、名前はカールセン・クラウフと言い元刑
事の経歴を持つ優秀な警備員の一人でもある。
だがその視線も長くは続かずつい目を反らしてしまいがちになるのはその少年の持つ独特
の空気と希有な美貌故か。
『…ですから、何度も申し上げているように僕は夜からずっとコリンズ・オーブリーを
訳あって見張っていたんです。そして部屋の外で待機するだけでなく気になる事がありま
したので外を見回ってみようとしたら偶然にも彼を発見したので急いで一度こちらに通報
し、それから再び介抱に向かったという訳です』
『シンイチ・クドウとか言ったね、そんな言い訳が通用するとでも思っているのか?そ
もそも何故君がそこまでの事をする必要があるのか説明出来るならしてもらおうか』
それなりに豪奢な寮に内在する警備員室には数人の警備員と舎監、一部の教員そして新
一のみで成り立っていたが廊下から聞こえる騒ぎの限りでは一歩壁の向こうでは少年達が
こちらに聞き耳をたてつつ犇めいているのは間違いなかった。
先日からの相次ぐ失踪騒動に加え今朝はとうとう実際に目に見える犠牲者が現れたのであ
る。
その疑いが話題の転入生にあるとすればこれで心の逸らない者はいないだろう。
週末という事もあり外出している生徒も多い中、しかしこんな刺激的な娯楽は滅多にある
ものではなく今だけは残っていて正解だったと思ってさえいるのかも知れない。
『…確かに、ただの一生徒でしかも最近転入してきたばかりの僕が特に親しかった訳で
もない人間の為にそこまでするのはおかしいと思われるのは理解出来ます』
新一の現在の状況は身柄を拘束されているようなもので、制服を着込んだ大人の男に囲
まれてもしかし彼は全く怯える様子もなく逆に毅然とした態度も崩さないでいた。
その事に戸惑いを覚えながらもそこでカールセンは尚更怯む様子など欠片も見せる訳には
いかなかった。
『君が、いや、君とクロバという生徒が転入して来てからこの学校はおかしくなった。
それを君はどう思う?』
『…間違ってはいないと思います』
即答する少年に一層厳しい眼差し注ぐ。
『ですが、それが今現在起きている一連の<事件>とどう関係するのかまでは分かりま
せん、今のところは』
『事件?!しかも君はこれまでの生徒達の失踪と今回のコリンズ・オーブリーの殺人未
遂は同じものであり、同一の犯人が関わっているとそう言うのか?!』
『そうです』
バシッと机を叩く音がこだまする。
その音と空気を伝わる迫力に廊下で騒いで中の様子を伺っていた少年達までもが思わず黙
りこくった。
気配だけでそうであるのだから目の前でそれをされている新一は本来ならどれだけの圧力
を感じているか。
『何故そう言い切れるんだ?!』
同時に鋭く放たれた声はこれまで刑事時代何人もの犯罪者を竦みあがらせてきたもので
ある。
彼はこれを武器に一度はICPOに推薦された事をずっと誇りに思ってきた。
たかが一少年が耐えきれるものではなく、過ぎた悪戯の結果なのだと涙ながらに謝罪させ
るには充分な効果があった筈なのだ。
そして彼がそこまで強気に出られる訳もある。
目前の東洋の少年にも伝えたがコリンズ・オーブリーは医療スタッフに処置を施されてい
る最中、一度だけ意識を取り戻したのだ。
そしてその時残した言葉は「悪魔に会った」であった。
そこでこれまでの新一と快斗の好奇心という範囲では済まされない不可解な行動や言動が
教員達や数人の生徒に聞き込んだ結果急激に怪しいものとして浮上してきたのである。
騒ぎが起き始めたタイミングや二人が強引に捜索に加わってきた事、彼等が生徒達の間で
コリンズを含め悪魔として認識されていたという事、そして何より発見者が寮内に居た筈
の新一だったと言う事が一気に疑惑を固めてしまったのだ。
『クロバと言う君の双児の弟らしき人物が昨夜寮内で不審な行動を取っていたところを
目撃した警備員も居る。第一そのクロバ君は今姿すら現さない。どういう事なんだ?
それとも君はもしかしてクロバ君を庇っているのかね?!』
『彼は何もしていません、そして僕の行動が確かに不審を募らせるに値するものであっ
た事は認めます』
『ではやはり意図的に関与していたと?』
『…はい』
『それなら、犯人である事も認めるという事か?』
『いいえ。ですがその代わり何故今回の騒動の数々が事件であると言い切れるのか説明
する事は出来ます』
不意に開かれた瞳の色が音もなく閃いた気がして、一同は訳も分からぬまま緊張した空
気に息を呑んだ。
丁度そこへ姿を現したアンリとコクランもまた掛けるべき挨拶も忘れ同じく立ち尽くす。
『…で、…では良いだろう、言ってみたまえ』
カールセンは何故か喉がからからに乾いていた。
そこで少年の言い訳に耳を貸してしまった事への不思議さには気付かないままに。
『このウィルヘルム校が創立して以来、実は似たようなケースの失踪事件が過去にも何
度も起きている事は御存じですね?』
『…!何故それを…?!』
蒼の双眸が正面から見据えればカールセンは目を見開いたままただ呟く事しか出来かっ
た。
唐突にその磨き抜かれた鏡のように美しい瞳が恐いと思った。
尋問しているのはこちらなのにまるで立場が逆転してしまったような錯覚に陥る。
ましてや子供相手に気を呑まれるなどどいう経験もない。
しかし不思議な事にそれを自然と受け止める自分もいる事に驚いてもいた。
新一は行方の知れなくなった少年達の名前と簡単な履歴をメモもなく挙げてみせる。
『…そして、彼等生徒の他に二ヶ月前高名な外科医がこちらの学校へ向かう途中…もし
くは<ここで>同じく消息を絶っています。僕がこの学校に来る以前今日までのケースと
似た状況で姿を消した人間は八名にも及び、そのDr.ベルナール・レッシュの件を含め
るかはともかくこれだけの事が僅か創立して三年の間に起こっている…』
視線が、何時の間にか外せなくなっている。
あの恐ろしくも澄んだ双眸がまるで網膜の裏に焼き付いてしまったかのようだった。
『その生徒達にはこれだと言う共通点は見当たりませんが、彼等が皆己の身体に不安を
持ち、死に怯え、交友も殆ど無く孤独であったという事が辛うじて分かっています。
そして中でもエルラッハ・ヒューという生徒についてはここに来てから更に詳しく調べる
事が出来ました。
それによると彼もまた深刻な病を身体に負い、日々死に怯えていたそうです。
しかし失踪する直前に彼は彼の唯一の友人に「もうすぐ会えるんだ」と嬉しそうに語って
いたそうです』
『…もうすぐ会える…?』
『はい、そして彼はよく悪魔という単語を口にしていたとも聞きました。それと照らし
合わせるとコリンズ・オーブリーが言った「悪魔と会った」この言葉と非常に似ている気
がしませんか?そして失踪当時彼の部屋は完全に密室状態だったと聞いています』
『だがそれは…!』
『仰る意味は分かります。僕も初めこの学校へ来て改めて失踪事件に関わった時、その
存在のお陰で<事件性>としての判断に迷っていました。
新館の全ての個室に存在するオートロック機能。
しかし今回起きた事件の中で三学年のハーゼ・マヌエルは旧館に住みそのオートロック機
能のない部屋だったに関わらず失踪時入口の鍵は部屋の中、そして変わらず窓の鍵も勿論
ドアの鍵も掛かった状態であった。つまり本当の密室だったという事ですよ。
加えて言うならコリンズ・オーブリーは新館に部屋を持っていますが昨夜皆さんも御存じ
の通り入口の前では一晩中僕と兄のコクランが共に居ました。
そして僕の知る限り扉は一度も開かれた覚えなどないに関わらず何故か彼は寮の外…しか
も部屋からは全く関係のない場所にて発見されました。
今他の鍵について調べて貰っていますが恐らくはこれまでと同じく掛かったままの状態で
の出来事だと思われます。
ですが、それ等については僕がまず犯人でないと信じて頂く事が前提になりますけどね』
新一は静かに微苦笑する。
彼とてこうして冷静に事件について述べてみせてはいるが、当然胸の内は苦いもので満た
されている。
コリンズは初め嫌われていたとは言えとても近しい存在であったのだ。
そしてそんな彼をみすみす危険な目に合わせてしまった事への痛みが無い筈もない。
『ホルト・デイターもハーゼ・マヌエルもスコット・グレドウィンも…そしてコリンズ
・オーブリーもまた過去の生徒と同じく身体に不安を持ち、死を恐れ、交友関係も極めて
少なく、そして調べがついた限りエルラッハ・ヒューも同じく信仰に厚い人物達でした。
死を身近に感じ恐れていた人間がこの季節、まして自殺行為にも等しい夜間における脱走
を自ら進んでする筈がありません。
また密室の件を置いておくとしても、それにあたり気が変わるような何かがあったのだと
すればそれは悪意を持った第三者の存在が不可欠になると思います。
そこに<悪魔>というものがどう絡むのか、それはまだ分かっていませんが、今回第三者
…犯人はこれまでと違い致命的なミスを犯している。
そこをもっと突き詰めて行けばきっと、何かが見えて来る筈なんです』
ため息が漏れた。
実際には感嘆の息だったのかも知れないが、それがあちこちから同時に起きたとなれば最
早どれが自分のものであったかなど分かりはしない。
ここまで淀みなく答え続けた新一がただ者でない事だけは充分に分かったが。
『では君は…君達はあくまで潔白だと、そう言う訳だね?君の今言ったデータの内容
には確かに恐れ入ったし積極的に関わりを持ち調査していたという事も分かった。
しかしDr.の件といい何故君がそんな事を知っていて、何処で本来は門外不出の筈のそ
のデータを手に入れたのか、その件だけでも充分に君は怪しい人物だと私は認識するが』
そうだよな、と急激に辺りがざわつきだした。
怪しいだとかやっぱり悪魔だとか、無責任に騒ぎ立てる輩で忽ち騒然となる。
流石に質問の続きが出来ないとカールセンが部下を使って注意をさせようとした時、
『うるせえぞ!!黙れお前等!!!』
と代わりに怒鳴った少年に目を丸くした。
いや、丸くしたのは彼だけではない、新一を含めるそこに居た全員がである。
近くに居た警備員が何事かと扉を開け放つと、少年達で延々と埋まっていた廊下をかき分
けつつ鋭く眼光を飛ばしている少年と仲間らしい二人組の姿が見えた。
その迫力と、それをしているのが誰であるか分かった時点ですでに口を開く勇気のある者
など少年達の中に存在しなかった。
ヴィオラ・ネイスミス。
彼に目を付けられてこの学校で平穏に暮していく事など考えられない。
『勝手な事ばっか言ってんじゃねえ!!あいつはな、俺の…俺達の恩人になるかも知れ
ねえ大事な奴なんだよ!!今からあいつの悪口は俺への悪口とみなすからそのつもりで言
葉には気をつけろ!分かったか?!!』
この時点で頷けないようなバカはいなかった。
だが彼のグループと新一が仲良いとはお世辞にも言えない状態であった事は皆知っていた
ので何がどうなっているのかポカンとするばかりである。
しかしその仲間であるモートンとシュラーも実は同じく呆気にとられていた。
…どうなってんだ?と互いに目を見交わしている。
二人はヴィオラに付いていただけで彼と新一のやり取りを知らない。
『…恩人になるかもってどういう事だ…?』
とモートンが声に出して言えばヴィオラは何故か仁王立ちして胸を反らせた。
『あいつは、クドウはな、<探偵>なんだよ!』
その声は新一達の居る部屋にもよく通った。
僅かに顔が赤いのは自分の心変わりを仲間に知られた事への照れがある為だ。
<探偵>という日常では本かテレビの中でしかあまり触れる事のない特殊な存在と響きに
再びざわめきが起きたがそれはヴィオラの一睨みで解決した。
『よし、丁度いいや、今からお前等に俺から質問したい事がある。あっちの部屋で一人
ずつ答えて貰おうか』
もう一度ヴィオラが仲間を振り返った。
『行くぜ、お前等も手伝え』
二人はまたも互いに目を見交わして、しかしプッと吹き出すと肩を竦めた。
『…な、何笑ってんだよ』
『何かさ、でも俺、ヴィオラのそういうとこ好きだなって…』
『そうそう、ついでに実はクドウも本当は俺等好きなんだぜ』
何たって美人さんだし!と頷きあっている二人は未だ笑みを浮かべたままで
『うるせ〜!行くぞおら!』
照れ隠しにヴィオラに頭を叩かれてもそれは増々治まる事はなかった。
だが二人はそれでも率先して野次馬の群を効率良く脅し…導くと近くのフリールームへと
少年達を連れて行く。
モートンもシュラーも初めは虐められっ子であったところ、一寸した切っ掛けでヴィオラ
に庇われてから急激に親しくなったという経験がある。
後に立って見届けていたヴィオラはそう言えばと興奮に頬を赤く染めたまま開いていた扉
から顔だけを出すと新一を見た。
『さっきお前の言った通りコリンズの部屋調べてみたけどな、やっぱ鍵は全部掛かって
たし、入口の鍵は部屋の中にあったぜ』
騒ぎを聞き付けてから唯一新一に対しこれまで協力的に動いていたのはヴィオラ達で
あった。
『そっか、色々とありがとなヴィオラ』
『んな事より、俺から最後礼を言われるくらい頑張ってくれよクドウ』
ヴィオラは新一の笑顔から逃げるように慌てて顔を引っ込めるとそのまま乱暴に扉を閉
めた。
大胆なのか臆病なのかよく分からない奴である。
ただそれが誰を相手にしてもという訳でないのは多分新一だけが知らない。
急激な静寂が訪れ何処か間の抜けた感じの室内でカールセンは気分を変えるよう一つ咳払
いすると改めて新一に向き直った。
『…彼は君の事を探偵と言っていたがそれは本当か?』
その質問に一瞬新一は表情を固くする。
『……はい、そうです。少し訳あって詳しい事を申し上げる訳にはいかないのですが、
僕がこれまでの過去の事件を知っていたのもDr.ベルナール・レッシュの事を知ってい
たのも今回の件に積極的に関わってきたのもその為です』
彼は何処か辛そうに目を半ばまで伏せた。
ここにはアンリもコクランも居る。
別に騙していた訳ではないが…それでも偽っていた事から生まれる裏切りのような気持ち
が少しでもある限り心に痛みが奔った。
今この瞬間新一は少しだけ普段の快斗の気持ちが分かったような気がした。
そのまま沈黙が落ちてしまったのは憂いを帯びたその凄絶な美貌に思わずカールセンもそ
の他の者も全てが魅入られてしまったせいだがこれは勿論新一のせいではない。
だがアンリとコクランの長い沈黙は勿論複雑な想いもあったせいであるが、その瞳にマイ
ナスの感情がないのは救いか。
『探偵、ねえ…君のような学生が。しかしどんな訳があるのか話せないというんじゃ疑
いを晴らす事も君の拘束を解く事も出来かねるな』
『一連の<事件>を解決出来ればお話する事は可能かと思います』
『解決?君が??確かに過去はともかく今回の相次ぐ失踪がただの脱走でなかったとい
う点には頷ける部分があり、君がそれを驚く程よく調べてある事も認めよう。しかし解決
出来ればなどと都合の良い希望的観測の元、やはり君をそれでも解放するのは私の仕事の
責任上出来ないのだよ。…警察を呼ばせて貰う』
静かな決断の声に新一は僅かに目を細める。
それは逆に有り難い事でもあったのだが、しかしこういう形での警察の介入は少々まずい
のだ。
何の関係もない第三者としてなら大歓迎でも容疑者の一人として調べられるのは人知れず
潜入調査を基本としている任務の内容に反する。
そう、新一の言った通り全てが解決してしまえば正体を調べられたところで構わないのだ
が…。
暫しの彼の沈黙をどう取ったのか、周囲の者達は疑惑と同情の入り交じった眼差しを注い
でいた。
しかし次の言葉で彼等のそんな心情は一気に吹き飛んだ。
『少しだけ猶予を下さい、その間に出来る限りの事はしてみせます』
絹のごとき前髪から覗いた蒼の双眸が強い意志と光を孕めば、冴え渡った空気に知らず
意識を奪われる。
鮮やかに咲き誇ろうとする花の尊い所行を見守っている、そんな風に。
彼が保身の為に時間を稼ごうとしているのでないのは一目で知れた。
『それは…つまり君が本当に事件を解決してみせると、そういう事か?!』
笑い飛ばせなかった。
何より目の前の少年は本気で、またそれをするだけの力がある事を説得するに足る気迫が
その瞳の中に揺らめいて見えた。
そう、まるで蒼い炎のようだ。
『正直言えばまだ分からない事だらけで時間に制限の付いた状況で何処までやれるのか
不安はあります。ですが前にも申し上げた通りここに来て犯人は致命的なミス、…重要な
手懸かりを残していったんです。
コリンズ・オーブリーはこれまでの失踪事件と全く同じ条件で満たしながら離れた場所で
<発見>されている…。
彼が居たのはあの古い塔、物見の塔と礼拝堂のどちらへ行こうとしたともとれる中間の地
点。残念ながら雪の為足跡の類いは綺麗に消失してしまっていますが、少なくともこれま
でに失踪した生徒達もまた似たような運命を辿っていたと推測出来ます。
つまり彼等が皆向かおうとしていた、もしくは向かわされる事となったとある空間…仮に
それを<見えない部屋>と呼ぶとします。
本当はコリンズの意識の回復があれば一番良いのですが、何故<彼に限ってあの場所で発
見される事となったのか>、それが分かればその部屋を発見する為の重要な鍵になる事は
間違いありません』
『……その見えない部屋とやらに失踪した人間達が居ると…?』
ゆっくりと頷いて見せた新一にカールセンは息を呑む。
目が合えば背筋がゾッと凍った。
確信に満ちた瞳で堂々と自らの意見を披露する少年。
ここまで淀みなく繰り出された言葉の数々。
彼はまるですでに誰にも見えない何かを視ているかのような…。
自分は今大きな間違いを犯しているのかも知れない、何故だか急激に焦燥感に捕われる。
こんな眼をした人物になどこれまで何十年と生きて来てお目に掛かった事もない。
ただ分かるのは彼の持つその光がイミテーションではなく本物という事。
そんなのはただのお伽話だ、そう言うのは至極簡単な事なのだが…。
『あの、すみませんが一寸よろしいでしょうか』
控えめな、しかしハッキリとした声はアンリのものであった。
彼はここへ来てからただ白い顔で困惑と驚愕で立ち尽くしていたのだが、今はしっかりと
目に力を込めている。
『何です?』
アンリには学校関係者の誰もが一目置き、敬意を払っている。
それはカールセンも変わらない。
『あなたがとても仕事熱心で真面目な方だと言う事も、クドウが確かに誤解を受けても
仕方ない行為をしていたという事も、そして生徒の中に目に見えて重大な負傷を他者の手
によって負った者がいると言う事も、全て分かります。
ですがいきなり警察というのは些か性急過ぎるのではないでしょうか。ここはクドウの肩
を持つ訳ではありませんがもう一度しっかりと我々で今回の件を検討しそれから相応の対
処をとるという形にしても問題ないかと思います。
どちらにしても父は雪さえ止めばヘリを使ってでも今日には戻って来ますし、この突然の
雪では直ぐに道路の除雪は間に合わず、彼はどうせここから出る事など出来ない。
責任者が必要だと言うなら僕がなります』
アンリは人の上に立つに相応しい気品と言われた相手を不快にさせない巧みな呼吸を自
然身に付けているようだった。
そんなところも年下だからと侮りをもたらさない彼の力なのだろう。
『クロバの件に関してはクドウ、あなたは保障出来るんでしたね?』
今度は新一を見て言う。
『勿論だ』
『では、そのあなたを僕が信じていますので彼の件についても同じく保留にすると言う
事で了承願います』
ニッコリと天使のように微笑まれれば誰もが頷かざるを得ない。
生まれながらの貴族、そんな人間は本当にいるのだ。
新一はそれでも皆のように心和むとまではいかなかったが彼という存在に助けられた自覚
はあった。
『あなたがそこまで仰るなら私に異存はありません。但し、明日の夜までが限度です。
その頃には除雪も完了するでしょう。短いと思われるかも知れませんが、これでも譲歩出
来る限界であり例え警察が来たとしても彼が本当に潔白ならば別にそれが確認されるだけ
の事。そうですね?』
『…その通りです』
アンリが神妙に頷く。
『クドウ、仕方ありませんがそれでいいですね?』
『助かるよ、最善を尽くす』
贅沢は言ってられない、今この貴重な時動けるチャンスを与えて貰えた事は本当に有り
難かった。
『寮内での行動に制限はしないが、そこから外へ出る時は必ず誰か警備の者と一緒にな
るように。それが呑めるのならもう行ってよろしい』
カールセンは部下に持ち場に戻るよう命令すると新一とアンリにコクラン、そして用も
済んだと思った教員や舎監達の背中を見送りよううやく静かになった空間で細く長く吐息
を漏らした。
今でもあの蒼い瞳を思えばゾッとする。
もしもそこに欠片でも翳りのようなものが見えたなら有無を言わさず拘束しただろう。
額に手を置き窓の外を眺める。
すでに雪は止んでいた。
だが一面の銀世界が外を埋めているというのに何故自分は汗を掻いているのだろう…。
これまで探偵という人種に会った事はあるが、彼はその誰とも当てはまらない気がした。
ならば一体何者なのか。
考えても仕方のない事と分かってもついそんな考えを巡らせてしまい、カールセンはその
まま力なく椅子に座り込んでしまった…。
新一はコリンズの部屋を訪れていた。
出払っている生徒とヴィオラによってねこそぎ連れ出されている生徒達のお陰で、持ち主
不在をより強調するかのようにその空間は静寂に満ちていた。
普段は人で溢れかえる巨大な箱。
まるで抜け殻だな、そんな事を思う。
窓に目線を移せば空は雲が晴れ、気紛れのように青空を覗かせていたが凍てついた風は変
わらず白い化粧は美しさを保ったままである。
天気は移り変わっても箱の中の現実は変わらない。
こうして限られたスペースだけでも一人の自由を許された事は素直に嬉しい。
昨夜最後にコリンズと会ってからドアの外でずっと見張っていたのは他ならぬ自分自身、
一度もそこが開かれていないと断言出来る。
にも関わらず窓にも鍵が掛かった状態で彼は寮の外にて発見された。
しかも部屋とは離れた全く関係のない場所で。
服装は最後に会った部屋着のまま、上着は着ていたがこれから外出しようという防寒スタ
イルとは言い難いものだった。
(つまり初めから外へ出るつもりは本人にはなかったって事だよな)
日射しに照らされた大地が白く発光している。
すでに昨夜は早くから降り出していた雪。
何故コリンズがあのような場所に居たのか、何処へ向かおうとしていたのか、この雪達は
全てを見ていたのに違いない…。
もう一度視線を戻せばこれまでと同じくベッドサイドには読み込まれた聖書が一つ。
さり気なく様子を探りに来る警備員の視線を感じながらも新一はこれまでと同じく部屋を
捜索する。
机の中にはこれと言ったものは見当たらない、コリンズには日記などを付ける習慣はない
ようだった。
だが昨夜彼が言っていた<明日>という単語は嘘ではなかったと思う。
部屋の中から争ったような音は聞こえずまた室内も荒らされた形跡はない事から本人の意
志で、しかも直ぐに帰れるつもりで<見えない部屋>へ向かった、そう言う事なのだろう
うか。
「……その扉を開く為には何が足りない?」
新一はこれまで何度も検討してきた事をもう一度呟いた。
初めてこの寮を訪れ、部屋に入った時に感じたものは何だったのだろう。
あの夜の時のようにベッドに腰掛けてみる。
しかしその違和感に慣れてしまったのか今は特に何も感じられない。
だがここからまるでワープしたように人が消え別の場所に現れているのだ。
快斗からの連絡を受けた時眠っていたコクランをそのままに新一は教えられた場所へと向
かい雪に半ばまで埋もれたコリンズを見て絶句した。
もしも初めからそこに何があるのかを聞いていれば一人では来なかっただろうが、声の様
子からすると彼もまた少なからず動揺していたようであった。
コリンズを見つけたのは偶然という事だ。
そして辿り着いた時には快斗の姿はなかった。
雪に残る足跡からみて自分がここへ来ると入れ違いに行ってしまったらしい。
コリンズの周囲に快斗以外の足跡がない事も確認している。
身体に触れてまだ微かに息がある様子から慌てて己のコートでその身体を包んだ。
快斗がそうしなかったのは恐らく単純にコートを着ていなかったからだと思われる。
そしてまず間違いなく快斗の手によって警備員に通報されている。
コリンズの件に絡んでいた新一はともかく快斗はわざわざ外に居た理由を説明出来ない、
その為姿を消したのだという事はすぐに分かった。
だが彼がどうしてそこに居てそれまでどうしていたのか、そして今はどうしているのかは
知らない。
そのうち連絡があると思うが。
『クドウ、少し休みませんか?』
突然の声に新一は思考に沈んでいた意識をようやく浮上させると目を見開いた。
何時の間にかアンリが目の前に立って何処か心配気に微笑んでいる。
『驚かせてしまいましたか?でも随分と前からお呼びしていたのですけど、全く気付い
て頂けなくて』
『悪い、…考え事してたから』
『凄い集中力ですね、でもあまり根を詰め過ぎては身体に障りますよ。昨夜は寝ていな
いのでしょう?』
『…少しくらいなら問題ないさ』
新一は一度跳ねた心臓が治まるのを待ってからそう答えた。
何時も考える事に没頭すると周りが見えなくなる、今アンリが来ていた事にも気付かな
かった。
しかしこれが悪意を持った何者かだったとしたら迂闊過ぎたのではないだろうか。
ICPOにおいて友良が新一と組んでいるのにはそんなところにも理由があるのかも知れな
い。
『でも顔色があまりよくないようですよ…。どうです?今からシャワーでも浴びて身体
を暖め、それから少々遅くなってしまいましたが僕の部屋で昼食をとりながら昨夜のお茶
の続きをすると言うのは』
今時間は正午を一時間程過ぎたところだった。
新一は正直そんな気分にはなれなかったのだがアンリのこちらを気遣う切な気な表情を見
ていると昨夜の会話を思い出してしまう。
深刻な病と闘う日々に少しでも意味を見い出そうとする真摯な姿にはショックにも似た感
動を覚えた。
その彼が自分の身体を気に掛けての誘いをどうして断れるだろう。
それに彼からも何かヒントが得られるかも知れない。
新一は頷いて承諾の意を伝えると、直ぐにホッとしたように微笑んだアンリの柔らかな美
貌の中にまたあのマリア像の面影を見ていた…。
『コリンズはどうだ…?』
新一は軽い食事の後コーヒーを飲みながらようやくその話題を口に乗せた。
『意識はあれから一度も戻りませんが、医務室で小康状態は保っています。一応うちの
医療スタッフはその辺の病院よりも優秀な医者が揃っていますから大丈夫かと思います
が、父が戻り次第ヘリを使って直ぐにもっと検査設備の充実した大きな病院へ移れるよう
手続きはしてありますので今はただ様子をみるしかありません…』
『コクランも一緒にいるんだな』
『はい、あの時あなたの居た警備室を出てから舎監に報告をして、それからまたずっと
側に付いていて離れません。あのご兄弟も色々と事情を負っているようですし、僕はあま
りいても邪魔でしょうからさっき退室して来たんです』
コリンズが発見されてからコクランは一言も発せずただ青い顔で弟ばかりを目で追って
いた。
どういう事なのかと新一を責める事もなく、ただいきなりの現実に打ちのめされている…
そんな風に見えた。
そして新一自身半ば予想した通り身柄を一時拘束され、思い掛けない形で<探偵>と言う
素性を明かしてしまったがアンリは、コクランはそれをどう思ったろうか。
『…騙してた訳じゃないんだ』
新一は静かにそう言ってアンリを見つめた。
半ばまで伏せられた瞳がまるで水底のように揺らめいた。
アンリは目を細め、何処か陶然とその光景に見入る。
『…正直、かなり驚きました。あなたが探偵だったなんて』
『一寸複雑な事情があって、もしもこんな失踪事件が新たに起こらなかったら俺は取り
敢えず調査だけをするつもりだった』
『その為にわざわざこんな遠い異国の地に…?だとしたら世程優秀な探偵なのですね』
それは嫌味などではなくアンリの素直な気持ちであった。
『俺が探偵だって信じるのか?』
『勿論ですよ。あなたの瞳は何と言うのでしょう…色々なものを酷く深いところで見届
けてきた、そんな哀しそうで、でも強い光を宿している。まるであなたの心そのもののよ
うに。だからこそ皆、あなたを一目見て囚われてしまうのでしょうね……』
アンリの眼差しの真摯さに新一は思わず息を呑む。
一瞬その中に狂気ともつかない翳りが垣間見えたような気がした。
彼は新一のそんな反応を知ってか知らずか、口元に笑みを浮かべる。
『僕も、クドウのように美しい瞳をしていた人を一人だけ知っていましたよ』
過去形…?
アンリは僅かに俯くと薄絹の手袋に包まれた手をソッとテーブルの上で組んだ。
『……僕の母です。彼女はこの城が火事になった時逃げ遅れて亡くなりました。僕はた
またまその日以前に通っていた寄宿学校の週末を利用して帰省していたところでした。
今でも鮮明に思い出せます、あの夜もこんな風に雪が積っていて…白く化粧された世界に
まるで明かりを灯したように城が……燃えていました』
何処か遠くを追うアンリのダークグレーの瞳が静かに瞬いた。
『母は聡明で美しい人でした。でも儚い人でもあった…。母はね、……本当は正妻では
なかったんですよ。母が父と知り合った時父にはすでに親の決めた婚約者がいました。
父はその話を断り母と一緒になろうとしたそうですが…母は厳格な貴族の親戚筋にはどう
にも受け入れ難い存在で、でも離れらなれかった二人は父が婚約者と結婚してもなお正妻
の了承を得てまるで囲われるように離れに住んでいたのです。
そして父が前妻と正式に離婚し母が正妻になってからもその生活は続きました。
僕は、その離れ……<塔>で生まれたんです』
塔…?新一は次第に早くなっていく鼓動に知らず手に汗を握る。
『母にとってもそうであったように病弱で殆ど部屋を出る事の叶わなかった僕は学校へ
あがるまでその塔だけを世界の全てとしていました。
勿論父は僕達を愛してくれていましたが、元々母が自らの姿を人目に晒すのを避けていた
人でしたのでその暮しに理解を示し無理に城の中へと連れ出そうとは決してしなかったの
です。父は…本当に優しい人です』
何処かで聞いたような話だった。
そう、これは……
『……まるで例の詩人みたいだな』
新一は冷めつつあるコーヒーで喉を潤してからようやく声を出した。
何故だか急激に身体の芯が寒さを訴えてきた。
『はは、そうですね。だからでしょうか、僕はヘルダーリンの詩が好きで本も全て揃え
てあるんですよ』
アンリはニコリと笑ったが新一の寒気は治まらない。
どう…したのだろう。
『良かったらお貸ししましょうか、折角ですからとっておきのものを』
立ち上がって本棚で本を選ぶアンリの姿に更に何かが閃く。
何だ…?何かが……。
『これなんですけど』
新一はアンリの声に必要以上に反応した。
今、何かが繋がろうとしている…だが先ずは落ち着かなければ。
『どうかしましたか?クドウ。顔色が……。もしかして明日の事を気にされているので
したら心配は要りませんよ、今朝は彼の立場もあってああは言いましたが僕はあなたを例
え完全に無実だと分かっていても警察に引き渡すつもりなどありませんから』
彼は誤解をしてくれているようだが、新一にはそれがかえって有り難く思えた。
しかしどういう意味なのか?安心させる為に作ったのだろう笑顔が今は見られない。
何時もの自分のペースがうまく掴めないでいる。
やはり何処か噛み合わない異質な空気に晒されて来た神経が今頃になって疲弊してきてい
るのか。
だからそれを自覚すれば尚更アンリを疑おうとしている自分にも迷いが出る。
そもそも初めの失踪事件が起きた夜彼は他ならぬ快斗とずっと一緒で、しかも本当に体調
を崩して臥せっていたのだ。
だから彼ではあり得ない…。
快斗はそういう意味で絶対に自分に対し嘘は言わないと断言出来る。
もう何度も試みようとして失敗に終わっている冷静さを取り戻そうと新一は己に再び言い
聞かせた。
『これがヘルダーリンの本か?』
現実に目を向けるようアンリの持って来た薄い本…というよりは手帳のようなものを手
に取る。
『普通の本なら図書館なり本屋でも手に入れる事は出来ますけど、それは僕の宝ものと
も言える非売品で未完成の詩が詰まったヘルダーリン最後の作品集です。と言いましても
オリジナルの写しなんですがそれは彼が亡くなるまでの間に書いていた詩と呼べるかどう
か分からない…そう、日記に近いようなもので殆どが意味不明の文章なので出版するには
至らなかったらしいですね。僕のお世話になった精神科の医師も彼のファンらしくてどう
やって手に入れたのかは知りませんが、そのとっておきの詩集の写しをプレゼントしてく
れました。よろしかったら気分転換にでもどうぞ』
皮の感触がヒヤリと冷たい。
新一はそれでも何かを感じたようにそれをしっかりと握ると借りておく事にした。
予感かも知れない、ヘルダーリンの思考に触れておきたいと思ったのは。
パラリと簡単にページを捲ってみると中から写真が出て来た。
『あ!こんなところに…何処にいったのかと思っていましたが、きっと本を整理してい
た時にでも紛れてしまったのでしょうね』
アンリは目を丸くして新一の白い指の間に挟まれた写真に見入る。
そこにいたのは幼い…アンリ?と彼を間に挟むように佇む父リヒターと…黒いベールを全
身に巻き付けた女。それは顔の殆どをも覆い辛うじて両目だけが見えている。
その瞳の色は一見黒のようだがよく見れば深い蒼のようでもあった。
そしてそれは目だけを強調されたファッションのせいかまるで宝石のように美しかった。
『あなたにそっくりでしょう…?』
アンリは新一の瞳を覗き込むように言った。
『僕の母です。あの日の火事で思い出になる殆どのものを消失してしまいましたのでこ
ういった写真の類いは…、しかも母は写真を撮られるのもよしとしない人でしたからこれ
はかなり貴重なものなんですよ』
写真に目を落とし、そして再び新一を見るその瞳は茫洋と、しかし過去の面影を追うよ
うに熱情が篭っていた。
新一はそれに訳もなく戦慄しながら、しかし視線はその写真へと釘付けになっていた。
三人の親子の背景にあるのは城。
火事になる以前の完全なもの。
その中でも一際高く目立つものが写っている…<塔>だ。
城と同じく美しい装飾の施されたそれは考えるまでもなくアンリと母親が住んでいたもの
だと分かった。
勿論物見の塔などとは全く違うものである。
だが新一はその城の背景の景色にも目を奪われれいた。
何かが噛み合おうとしている。
ピースの破片が急激にある形へと組み上がろうと激しく音を発てていた。
だが未だそれが完成するにはもう少し時間が要る、高鳴る心臓だけが焦燥感を煽った。
『母は、息子の僕が言うのもおかしな話ですが本当に美しい人でした。父など母と僕は
そっくりだとよく言ってましたが、僕などとは比べ物にならなかったですよ。この写真で
は分かりませんが肌は透き通るように白く、僕と同じ淡い金の髪を腰まで伸ばしていまし
た。そして瞳は黒と見紛う蒼』
アンリのダークグレーの眼が目の前に在った。
新一は意識を引き戻すと思わず椅子から立ち上がりかけた。
アンリは自然彼の肩に置いていた手を引っ込め、微苦笑する。
『すみません、つい…』
笑いながらも困ったように眉根を寄せるその顔は嫌われる事を恐れているようにも見え
た。
『……ひとつ、聞いてもいいか?』
新一はようやくアンリに目線を合わせた。
『何でしょう』
『お前の母親は何処か身体を患っていたのか?』
『いいえ?確かに丈夫であるとは言い難かったですけど、特に僕のような事はありませ
んでしたよ』
新一は再び写真に視線を戻す。
『…ありがとうアンリ、この本は借りていくよ。それから世話もかけて悪かった。俺そ
ろそろ戻るな』
新一は自分の分をテーブルから片付けると今度は本当に立ち上がった。
その時、ふと目についた窓の外の風景に見入る。
これまでに2回、この部屋を訪れているが思えばこんなにも明るいうちに来たのは初めて
である。
だから気付かなかった、あのよく分からない物見の塔が彼の部屋からこんなにも近くに見
えたとは。
時から置き去りにされたようなその塔は当然写真の塔とは似ても似つかない。
しかし新一は今確かめたい事があった。
『クドウ』
ドアを開けた時点でその声に振り返るとアンリが立ち上がってこちらを見ていた。
『……もしも、たった一つだけ願いが叶えられるとしたらあなたは何を望みますか?』
明るいがその広さ故に充分に光の行き届かないそこで影を滲ませながら佇む華奢な少年
はただ真摯な瞳をしていた。
新一は答える言葉を持てず、立ち尽くした。
軽い頭痛を起こしていた。
自室へ戻った新一は直ぐさまPCを立ち上げた。
そしてICPOへと緊急で資料と回答の請求をする。
内容は名前だけは知っていた、マリア・フォン・ウィルヘルムについて知りうる限りの事
を、そしてリヒター・フォン・ウィルヘルムが本当に出張しているのかどうか。
「…マリア、か」
新一は皮肉にも初めに何かを感じた聖母マリアと同じ女性の名前を復唱する。
だがどうしても知っておく必要があると探偵としての勘が告げていた。
今は少しだけその勘にも自信がなかったが、それでもなお。
もしも彼女が新一の想像した通りの人物だとしたら…あれの存在自体もおかしいような気
がするのだ。
だからと言ってそれでどうなるのか分からないが、一つでも多くのピースが要る。
特に今回は形も色もバラバラで、中には変型してそのままでは使えないものもありそう
だった。
それでもきっと全てが揃えば形になる筈だ。
信じるしかない、己を。
回答が来るまでの間、新一は借りて来たヘルダーリンの詩集に目を通す事にした。
写しとだけあって中身は驚いた事に手描きであった。
薄いとはいえ大変な作業であったろうに。
流暢な文字を目で追っていく。
それは彼が最後に書いたというだけの事はあり、意味不明な文字の羅列のようにも見え
た。
元々は詩というもの自体難解なものであるのだしそれは仕方のない事かも知れなかった
が、新一は気になった単語の部分で意識を集中した。
「………鏡の中の悪魔?」
美しいカーブを描く眉を顰める。
その時着信を知らせる音が鳴った。
新一は顔を上げ急いでPCへ向かう。
添付されたファイルの容量はごく僅かであった。
特殊なロックを解除し、開くとそこにあるのは本当に数行のものだった。
殆ど軟禁状態にあったというマリアにはICPOをもってしても大した調べはつかなかった
のか、その素性が簡潔なものであるせいか返答も早い。
写真はないがしかしそのたった数行の文字は新一の知りたい事を示していた。
そしてリヒターが確かにその人物と面会を果しているとの裏も取れた。
「思った通りか、…なら彼女がそうだとするならアンリも…?」
ゾクリ、再び悪寒に襲われる。
これまで何気なく見て、聞いてきた彼の姿や言動が蘇ってくる。
そしてヴィオラの言った言葉。
次々に連鎖反応的に頭の中を駆け巡る記憶の波は頭痛を一層酷くした。
彼ではあり得ず、でも、では今回のコリンズは<何故発見される事となった>のか?
これまでの少年達は皆姿を全く現す事なく失踪は続いている。
何が違ったのか…どうしてそうなったのか……。
そして、何故少年達とDr.は姿を隠されなければならなかったのか。
新一は慌ててこれまでの失踪者の写真を取り出して机に並べた。
これまで特に共通点などないと思っていた、しかし…。
(<選ばれた>のは<必要>とされたから…?)
新一は部屋からコートを着るのももどかしく飛び出した。
外へ出ようとしていたところでそれを見咎めた警備員に呼び止められた。
外出するには許可と同行員が必要なのだ。
新一は昨夜毛布を運んでくれた警備員と並んで寮の外へ出ると真直ぐにコリンズの発見
された現場へと向かう。
本来なら<彼>はあり得ない。
新一は雪に足を取られながら目的の場所を目指しつつも頭の中は軽い混乱を起こしてい
た。
彼、アンリは完璧なアリバイがある…あの事件の夜に関して。
(だとしたら…何だ?何でアンリはこんな時になってあんな事を)
再び頭痛がした。
疲労の為だけとは思えない、もっと根本的な奥深い部分が積み重なった地盤のズレに崩壊
を起こしかけている。
そんな嫌な痛み。
快斗もずっと感じているらしいこの不快な感覚は同じように彼をも苦しめているに違いな
い。
『大丈夫かい?何だか顔色が悪いようだけど』
『…大丈夫です、光の加減ですよ』
早く何時ものペースを取り戻さねば…。
新一は毅然を前を見据えるとそう言ってようやく目当ての地点へと立った。
コリンズの発見された場所から空を仰ぐ。
雲一つない青空。
あれ程の雪が嘘のようなその光景に気紛れな天候を思い知る。
今からまたどれだけそれが変わろうとも、今夜はきっと美しい月が空を飾る事になる…予
感がする。
そのまま見渡し、新一は何が見えるのかを確認した。
視界の中に在るのは空と寮と塔。
アンリの部屋も確かに近いが例え彼の部屋の窓から落ちたと仮定してもコリンズの居た地
点はもっと離れているので無理だ。
そして礼拝堂は塔に比べれば遠い位置にある。
その時、ふと視界の端に映るものがあった。
虹色の雫。
ゆっくりと少しづつ溶け出したそれが屋根の上から時折キラリと光って見えた。
新一は瞬間流れ込んできた記憶のピースがガチリとハマる音を聞いた。
「だからか、だから……」
そして今度は先程見た写真の記憶を頼りに歩く。
あの背景にあった木々の位置と旧館の位置を測り、そしてそれは直ぐに見付かった。
(ここで写真を撮ったのか)
見上げて、例の塔の在った位置を確認する。
そして今度は物見の塔へ行き入口の木戸を調べ…ある事に気付く。
狭くて小さいとは思っていたのだ、元々。
(マジかよ、こんな事が本当にあるのか?!)
新一は万人が美しいと評する蒼の双眸をゆっくりと見開いた。
刃のように瞬く至高の宝石。
今、仮にも一つの推理が組み上がった。
だがしかしそれでは未だ不十分である事も自覚していた。
密室からの消失の謎も解けていない。
どうすれば<あそこ>に出られるのか。
そこから本当に行けるのか。
そしてそもそもその仮定は現実として成り立つのか…?
それでも…自分は見つけた…かも知れない、これまで誰の目にも留まらなかった
<見えない部屋> を。
新一は目眩にも似た高揚感に白皙の額に手を伸ばす。
そしてそこから撫で下ろしつつ希有な蒼の双眸をゆっくりと掌で塞いだ。
取り巻く世界そのものからの隔離を促すように……。
まずは一つの真相に近付こうとしている新一…。一人でどんどん深みにハマっていってるような気がす
るんですが大丈夫なのでしょうか(苦笑)そして今回は快斗は一寸小休止。
初めから皆の前で探偵である事を明かす時はここだ!と決めてあったのですが思っていたよりも一寸新一
は複雑な気持ちを抱いてしまったようです。もっと誇らし気な展開になると思ったのにこれまでの経過
と環境の違いの読みが甘かったらしい…。叉はドリーム見過ぎとも言うかも(汗)
次回は更に奮闘する新一と快斗は…?という感じです。今回も長い話をありがとうございます!
新ちゃん出ずっぱり〜v
もう完璧にヴィオラくんを虜にしてますね、新一(^^)
そりゃもう美人だも〜んv
気になるのは、新ちゃんが感じるマリア像の印象ですね。
快ちゃんは感じてないようなのに・・きっと何か重要な意味が・・・
今回は快ちゃん休憩ですか・・まだ拗ねてたりして(苦笑)
そろそろクライマックス間近でしょうか?
最初に出てきた息子は、アンリ君だったんですね。 麻希利