仮面舞踏会
BY 流多和ラト
<ACT 8>
激しい頭痛に朦朧としていた意識が一気に浮上した。
何が起こったのか、記憶が僅かに混乱したのは薄く目を開いてもなお暗い視界のせいで
あった。
だがそれも体に感じる仄かな温もりと振動、そして頭上で聞こえる他人の息遣いのお陰で
直ぐに状況を理解するに至る。
(生きてる…)
新一は先ずそんな事を思った。
そして気取られないようソッと手足に神経を集中してみる。
特に酷い痛みや折れて動かないといった様子はなさそうだ。
あの高さから<落ちて>この程度で済んだ事は…いや、ここへ無事に辿り着いた事は奇跡
に近いかも知れない。
だが完全に無事とも言い難いのはよく分かっていた。
頭が痛い。
前に感じていた内側からくるものとは違う、もっと直接的で単純な痛み。
何処かに打ち付けたらしかった。
体が揺れる度に鋭い痛みが奔る。
そう、彼は今他者の手によって何処かへ運ばれているのである。
新一は苦鳴を噛殺しながら次第に目が慣れてきた頃自分を胸に抱えている人物の顔を見上
げた。
ハッキリとは見えなくともそれが誰であるのか考えるまでもなかった。
言葉を紡ぎかけ、しかし直ぐに眩しい程の光に思わず目を細める。
これまでの道程は通路のようなもので、開かれた扉の先はどんなにか明るいものでもな
かったが暗さに慣れた瞳には充分に堪えるものであった。
『…目が覚めてしまったようだね、どうせならずっと気を失っていれば幸せだったろう
に』
ようやく焦点の合った視界の中でこちらを見下ろしていたのはリヒター・フォン・ウィ
ルヘルムであった。
彼は外出着のまま直接駆け付けたという感じで、気を失う寸前聞こえたヘリの音は彼のも
のだったのかと納得する。
だが新一はこの状況において驚いた様子など全く見せなかった。
寧ろ何処か辛そうに眉根を寄せ憂える眼差しを送る。
彼が何のリアクションも起こせないのはまだ意識がハッキリとしていないせいだろう。
背中に固い感触を感じその冷たさにゾッと鳥肌が立った。
新一はそこでようやく反射的に身を起こした、…と言ってもかなり緩やかな動作であった
が。
まるで手術でも施すかのような人一人分の大きさの緑色をした台の上だった。
ズキンと痛む頭に眉を顰め緩慢な動きで手をあてる。
覚えのある匂いと生温い感触に白い掌を見れば鮮やかな赤がベッタリと貼付いていた。
未だその流れは止まる様子もない。
目眩が襲った。
一体どれだけ気を失い、血を流していたのか。
だがその全ての痛みと不快感を奥歯を噛み締めて耐えると、新一は改めて辺りを見回し
た。
広さはそれ程でもなく、白い天井、白い壁、白い床、そして訳の分からない機材が視界を
占領し鼻をつく刺激臭やその他薬品類の匂いが淀んだ空気にたゆっている。
換気扇はあるが窓の類いは全くない。
静寂に満ちたそこはまるで生物の気配のない無機質な檻。
だが本当に分からない機材なのだろうか。
そしてこの匂いにも馴染みがあるのではないか、自分には。
何時も苦い思い出ばかりある白い箱の中でこの環境は日常だった。
薬品と身体をチェックする為の精密器械。
だがその器械の密集しているらしいあの奥…、白いカーテンで仕切られた向こうには何が
あるのだろう。
対してこちらに在るのはこの台と頭上に取り付けられた特槓照明と薬品の詰まっている
棚、そして今度こそよく分からない大きな水槽のような硝子の箱。
中は空だ。
そう言えば何時の間にかリヒターの姿が見えない。
だがカーテンの向こうで気配を捉えた。
彼が自分を放っているのは動けないと思っているからなのかそれともどうせここからは逃
げられないと思っているからなのか。
確かに扉のようなものは見えるがそう簡単には開きそうもなく、当然のようにロックもさ
れているだろうと思う。
しかもそこに行くまでの間に邪魔が入らない筈もない。
だが新一は元より逃げ出すつもりなどなかった、今はまだ。
確かめなければならないのだ隠された真実を、そして失踪した人々の行方を。
己の推理が正しければここはずっと探し求めていた<見えない部屋>の内部である筈なの
だから。
しかしある程度までここで何が起きていたのか予想はしていた。
実際にそんな事が起こっていたとは本当は考えたくなかった。
だがこの部屋を、そして今の自分を取り巻く状況が全てを物語っているようで…。
新一は音を発てないようゆっくりと台から降りると例のカーテンまでふらつく身体を引き
摺るように歩いた。
途中そう言えばと無線機の存在を探したが何処にも見当たらなかった。
(やっぱあの時どうにかしちまったか、これじゃあ連絡取れねえ…)
彼は咄嗟に言ってしまったあのヒントだけで分かってくれただろうか。
しかし次の瞬間新一は直ぐにその考えを否定し息をついた。
あれはただの報告であり彼に負担を掛ける訳にはいかない、ここは自力で解決出来るよう
努力しなければ。
元々それ程距離がある訳でもなく直ぐに目的の場所に辿り着いた。
躊躇ったのは半瞬。
新一は思いきってカーテンを開け放った。
そしてそこで見たものに思わず息をつめる。
でなければ流石の彼と言えどもみっともなく声を上げてしまったかも知れない。
『…正気ですか、こんな……』
込み上げて来る生理的な嘔吐感を堪えつつ声を絞り出す。
秀麗な眉を顰め、希有な双眸の先に在るものに一度視線を合わせるとそのままその傍らに
立つ人物…リヒターを見た。
彼は白衣を着込み、見たくも無い道具を準備する合間に片付けをしていたようであった。
彼の背後には壁一杯に並べられた大小の水槽があり、その中身は全て満たされている…。
薄く色付いた液体に浸かっているのはかつては一つであっただろう人間の手と足と…それ
から頭部らしきもの、虫にも見えた指だけのもの、髪の毛、皮膚のような皮膜も見える。
どう見ても一人分ではなさそうである。
必要な部分だけを切り取ったかのようなもの。
だがまだ綺麗に形の保たれているものもあれば中には色が抜け落ち細胞が崩れているもの
もある。
違いは…年月だろうか。
リヒターはその古く原形の崩れたものをもう不要とばかり次々に大きなバケツに空ける作
業を繰り返している、これから新たなものが並ぶ為の場所を作っているかのように。
無造作で機械的な動きが余計に寒気を誘った。
その中に長い、元は金色だったのだろう完全に色の抜け落ちた髪の毛を見つけた。
「こいつ、髪が凄げえ綺麗だったんだよな。女みたいに伸ばしてて腰まであってさ、
でも聞いてみたら単に切るのが億劫でほったらかしにしてあるだけだって笑ってたけど」
新一は唐突に蘇った言葉に形の良い唇を噛み締める。
『こんなもので本当に……?』
各々のパーツが組み合わさって何が生まれるのか。
込み上げて来る吐き気と頭痛に耐えて新一は真直ぐに相手を見据えた。
それまで無関心を装い淡々と作業に励んでいたリヒターはそこで初めて感情が動いたよう
に新一と目線を合わせた。
『……あれは不憫な子なんだ』
ポツリと漏らされた言葉には深い哀しみと苦悩…そして限り無い愛情が込められてい
た。
だが手元の怪し気な作業は中断する事なく続けられている。
その光景のアンバランスさに人の、親というものの狂気が見えたようで新一は戦慄した。
『だからと言って他の何の関係もない人々の命を奪う理由にはなりませんよ。彼等は懸
命に生きようとしていた、あなたは…あなた方はその弱味に付け込んだんです』
リヒターは新一がこれまでの事件のからくりについてすでに何かを掴んでいる様子に僅
かに驚いたように目を開き、しかしまた直ぐにどうでも良い事のようにため息をつく。
『私はどんなに非難されようと、例え自分のしている事自体に何の意味がないとして
も、あれが…アンリが信じ、望んでいる事は全て叶えてやりたいのだ…』
穏やかで揺るぎない声。
『無意味であると分かっていらっしゃるのですね…。それでもあなたは彼を止める亊な
く罪を重ねた。過去に行方の知れなくなった生徒達も今現在行方の知れない生徒達も皆…
やはり僕と同じ方法でここに来た、そして<死者の復活>、そんな倒錯した思考の元に
<選ばれ>、必要な部分だけを残し後は……』
その先は口にするのも憚られた。
ここに在るのはあくまで一部でしかなく、あの手術台の傍らに設置された大きな水槽が何
の為に在るのか今なら想像出来てしまう。
『…君は何を知っているんだ?』
具体的な新一の言葉にリヒターから感情の揺らめきが起きた。
『過去から度重なるこの学校での失踪事件、いえ、そもそもこの学校自体があなた方親
子にとって大切なある人をもう一度世に送りだす為だけに建てられたものだという事は。
…そして、過去を通じ行方不明になった生徒達は皆悪魔の囁きに身を委ねこの<見えない
部屋>へと連れ込まれた。その方法は至って単純。先ずは…』
そこまで言って新一は呼吸を整える。
白皙の額には寒い筈なのに冷たい汗が浮かんでいた。
『先ずはあなたの息子…アンリが容姿とその人物を取り巻く環境とを考慮し慎重に話を
持ちかける。選択するのは死を身近に感じ、日々を恐怖の中で過ごすが故に信心深く何か
に縋りたい切実な願望を持つ者。元々ここに集まるのは身体や家庭などに悩みを抱えた生
徒ばかりであるよう仕向けられている、それを探し出すのは容易な事でしょう。
アンリが僕に貸してくれたヘルダーリンの本には悪魔は死を招くものではなく逆に夢と希
望を与える幸福の使者だとありました。学校で広く噂される<ヘルダーリンの悪魔>とは
全く正反対のものです』
新一は再び浅い呼吸を繰り返した。
痛む箇所に無意識に手をあてればまだ出血している事が分かった。
立っていたせいか襟元から肩に掛けての部分が温く湿り、低い耳鳴りが始まっていた。
倒れてしまえればどんなに楽になるだろう。
しかし今こそが決闘の場、目を反らす事など絶対に許されない。
『たった一つだけ願いが叶う…。もしも本当に藁にも縋りたい思いで日々を過ごしてい
たとして、そこに例え信じ難いような、でも酷く魅惑的な話を持ちかけられたらきっと誰
しも試してみたくなるでしょうね、……悪魔に会う方法を』
リヒターの手が止まった。
『その話を持ちかけるチャンスはアンリになら幾らでもあります。そして個人の深い情
報を探るのもまた。信心深い生徒であったならば礼拝の時間以外でも礼拝堂に行けばそこ
に頻繁に出入りしている様子の彼と顔を会わせる機会も多かったに違いありません。
そして魅惑的な話と具体的な方法を入手し、各部屋から時計を使い抜け道を通った彼等は
<本当の最上階>へと昇り詰め、時間は把握している為影で待機しているあなたにそこか
ら突き落とされる。彼等がその方法を実際にいつ実行に移すかは分かりませんが、まず間
を空ける事なくそれが行なわれる事は想像に易かったでしょう。
後は重力の赴くままあの緩く長いカーブのかかった屋根の斜面を滑り落ち加速のついた状
態でここまで…ポッカリと口を開けた<物見の塔>の中へとまっ逆さまと言う訳です。
随分と乱暴で大雑把なやり方ですが人々の心理の裏を付いた巧な方法だと言えなくもあり
ません。それもここが<偶然の産物>によって生み出されたものだとしたら尚の事。
新しく建てた新館の全てにオートロック機能をつけたのは人が部屋からドアを通さずに消
える不自然さを紛らわす為もあったと思います。
その上自らの願いを叶える為には秘密である事が必要だとすれば誰にも告げる事なく、当
然争う形跡もなく他人から見れば悩みを抱えた生徒が一人脱走したくらいにしか映らなく
なる』
リヒターが真直ぐに立ち上がった。
白衣に身を包んだその姿は何処かの聖職者のようにも見えた。
『そして彼等が選ばれた容姿の条件。アンリから聞きましたよ、母でありあなたの妻で
あるマリア・フォン・ウィルヘルムの事を。肌は透き通るように白く、淡い金の髪を腰ま
で伸ばしていた、そして瞳は黒と見紛う蒼であると。失踪した生徒達は皆整った顏立ちの
持ち主で彼女を創る為に適した身体を持っていた…ある者はその髪が、肌が、指が…。
更に二ヶ月前にこの学校に来る途中失踪した天才外科医Dr.ベルナール・レッシュは
今、ここへ来てから確信を持ちましたが彼が選ばれた理由は<技術>ですね。
その壁を埋める新しい水槽の中身に施されている処置は明らかに古いものと比べ専門的で
レベルが明らかに違う。つまりあなた方はマリア・フォン・ウィルヘルムをどのような形
にしろもう一度この世に生み出す為に彼の技術を必要とし、秘密裏に誘拐したという訳で
す。彼が来るまではどうしていたかは分かりませんが…』
そう言って新一は眉を顰めた。
想像だけはついている。
今彼が捨てていたのは子供が虫を相手にしてやるような実験感覚で素人が見よう見真似で
行なった戦利品のように見えるのだ。
何故戦利品と言うか、それは既に使い物にならないと分かってなお寂しさを埋めるように
棚に飾ってあったからである。
『驚いたな、よくそこまでの事を…。でも君もその<選ばれた>人間の一人に成り得る
という事は考えなかったのかね』
視界が揺れた。
それは己が倒れたせいではなく再び抱きかかえられたからだと分かったのは例の台に戻さ
れてからだった。
新一がそれを簡単に許してしまったのは失血による体力と意識の低下からくるところが勿
論大きい。
『だが、君は何か勘違いをしているようだ。これまでの事は全て私一人がやった、あの
子…アンリは何もしていない。君をここへと突き落としたのが最初で最後になる』
起き上がろうと台についた手をそのまま捕らわれベルトで拘束される。
新一は希有な双眸を僅かに細め、まずいな、と心の中で呟いた。
抵抗らしいものも意志に反し中々思うように出来ない。
とにかく、話し続けなくては…。
『……確かに実際に手を下し犯行を重ねていたのはあなただと思いますリヒター校長。
アンリはホルト・デイターが失踪した夜僕の連れと朝まで一緒だったのはあなたも御存じ
の筈、だからこそ余計に事件の真相が見え辛くなっていました。しかしそれまでの事件で
一つだけ他と全く異なるものが混ざっていた…あなたも当然聞いている事と思いますがコ
リンズ・オーブリーの件です。
彼は度重なる失踪事件と同じ条件を満たしながらただ一人その身柄を発見されている。
ずっと不思議に思っていました。何かトラブルがあったのだとして、雪も降り暗く人目の
ない好都合なそこからどうして彼の身体を目的の場所まで再度運んでしまわなかったの
か。ではこれまでと比べ何が違ったのか、それを真っ先に考えた時二つの事が見えてきま
した。まずはあなたの存在、あなたは僕が知る限り一連の事件の期間中昨夜に限って学校
を不在にしていた。そして……<雪>です。
これはその時初めて実際に自ら手を下そうとしていた<彼>には不測の事態でもあったか
と思います』
リヒターの体がピクリと身じろいだ。
細められた目が新一を厳しく見つめる。
『雪が正確にあの時間から降り積もる事は誰にも予測しえなかった。しかしあなたが不
在だった為、彼…アンリは自らの手で強引な出迎えをする事にしたのです。そしてコリン
ズが例の通路を時間ぴったりに通ると出口の死角で待ち伏せしたアンリは彼をあの狭く体
の切り替えの難しいあそこからあなたを真似て突き落とした…。
ですがその時誤算だったのがあの雪、すでに降り積もっていたそれはしかしまだ固まって
いないサラサラの状態で<屋根の上を滑り落ちる>コリンズの体にとってブレーキの役目
を果たしてしまい、その先に自然待つ事になるこの<物見の塔>が開けた顎の中まで届か
ず、彼はそのまま中途半端な位置で地上に落下してしまった…。
すぐにアンリはその事に気付いたでしょう。しかし彼は知って尚どうする事も出来なかっ
た。何故なら彼は潔癖性で<一度下に落ちてしまったものには触れる事が出来ない>ので
すから。だからコリンズは雪の中発見される事となった。
足跡の類いがないのは雪のせいだと言うよりも彼が上から落ちて来た為です』
それはある仮説を元に屋根から溶け出した雪が地面に落下する様を見て思い当たった事
であった。
新一はこちらをただ見つめているリヒターを見上げると更に鋭く光る蒼の瞳に力を注ぎ続
けた。
『ですが僕の場合は雪がある程度固まっていた為に皆と同じくこの塔の開けたままの頂
上へと落ちる事になった。コリンズ同様僕がラッキーだったのはその雪がクッション代わ
りになったお陰で大きな怪我もなく済んだと言う点でしょう。更に僕はどういう仕掛けに
なっているかまでは分かりませんが凍傷になる前に無事この<塔の地下部分>へと御招
待頂けたと言う訳です』
リヒターは沈黙していた。
肯定もしなければ否定もしない。
その目は何処か遠くを見て、大切なものを思い出しているようでもあった。
『ただ…どうしても分からない事が……』
新一は話し続ける事で時間を稼ぎながら何とかここを抜け出す方法もまた考えていた。
しかし推理の内容はそろそろ底をつこうとしている、どうにかならないのだろうか。
頭痛が薄れてきた代わりに今は痺れるような重い倦怠感が全身を包んでいた。
血はまだ少しづつでも流れ出ているようであった。
身体が細胞レベルでおかしくなっている、通常の人間よりも修復機能が低下している証拠
か。
どちらにしてもこのままでは危ない…。
『何故今になって…このタイミングで犯行を重ねたんです?過去を通じてこれ程短期間
に事件が起きている例はありません、一体どうして……』
『…私も、あの日ここへ帰ってきてすぐアンリから君の報告を受けた時正直半信半疑
だった』
『……?』
新一は頬に触れた冷たいゴムの感触に息をつめた。
つい先程までこの薄い手袋をはめた手で彼は例の水槽達を片付けていたのだ。
特殊な薬品と生理的嫌悪感の込み上げる独特の匂いに背中に冷たいものが奔る。
もしも彼がプロを名乗る犯罪者や欺瞞的な悪意を持った人間だったなら今これ程の恐怖は
感じなかったろう。
どうしようもなく寒さを感じるのは彼の瞳の中に宿る妄執のような深い愛情故だ。
罪悪感が無い訳ではなく、しかしその全てを塗り込められる程に誰かに注げる愛情はそれ
が強い程に狂気と恐さを生む。
これと似た瞳をもう何度も見てきたがそれで慣れるものでもない。
何時だって探偵の名の下に鉄壁のポーカーフェイスで隠してきただけの事…。
『それから慌てて君と君の連れに会いに行ったあの夜、私は奇跡を見たと思ったよ……
君のこの眼はマリアのものだ』
愛おし気にゆっくりと目許を這う指の動きに戦慄する。
そしてその言葉の深く意味するものに新一は希有な双眸を見開いた。
『彼女の眼は特別だった。何百人生徒を集めようとただの一人として同じあの美しい瞳
を持った者はいない。私はそれでも彼女になりうる髪や肌、色々なものを集めてもみた。
だが肝心のあの瞳が無ければ例え仮染めのものだとしても永遠に彼女の復活はあり得な
い。だから一時期諦めの気持ちに入った事もある』
リヒターは愛撫する手を止め、心から喜びを訴える信者のように至福の笑みを浮かべ
る。
『…そう、君のせいだ、君が現れたから私達は早急に夢の実現に向け次々と新たな材料
を調達した。旧館の生徒を狙ったのもその為。アンリは私が帰るのを待てないくらい君に
夢中だった』
言葉にならなかった。
自分が今回の連続失踪…いや、連続殺人及び殺人未遂事件における引き金であったなど
と。
アンリの柔らかな美貌が自分を見つめていたひたむきな視線と、彼が探偵と知ってなお己
を犯人と知らしめると分かっていながらヘルダーリンの詩集を貸してくれた事など、全て
合点がいった。
その彼が恐らく他の生徒達に持ちかけただろう甘い罠のように悪魔と会う為の扉の開き方
を具体的に示さなかったのは新一の探偵としての実力をそれだけ買ってくれていたという
事か。
警察に引き渡すつもりなどない、そう言ったのは本心だったろう。
何故なら彼は新一を二度とここから帰すつもりなどなかったのだから。
新一は選ばれた、一番肝心で重要な母親の瞳を補う者として……。
『幸い私達はあの高名なDr.を迎え入れたところだった。非常についていたんだ、そ
れもきっとマリアが君という人間との巡り合わせを予感して遣わしてくれたんだろう』
『……やはりDr.はここで…』
『専門知識は必要だったという事だよ。こうして部屋を用意し機材を揃えたところで付
け焼き刃の知識ではやれる事に限界がある。折角向こうの方から出向いてくれたのだから
内密にここまで御出で頂いた』
それを話してしまうのはやはり新一がここから出る術などないと確信している気安さか
らだろう。
『Dr.は何処に居ます…?彼には待っている大勢の患者さんとその技術を必要として
いる人々がいるのです』
その時リヒターは初めて目の前の存在が只頭の良いだけの学生でない事に気が付いた。
先程ここへ戻ってすぐアンリから新一の事を例の場所へ誘導したと聞かされてはいたが息
子は嬉しさに興奮するあまり彼の説明を怠っていたのである。
僅かに目を見張って息をつめる。
どうして彼はあのDr.の事に詳しくまた行方を案じている素振りを見せるのだろうと。
しかし一度頭を軽く振ると更に喉元を拘束した。
新一は息苦しさに眉を顰めたがどちらにしてもやはり抵抗らしいものは出来そうに無い。
だが彼は別に全てを諦めている訳では勿論なかった。
再び作業を進めだしたリヒターの様子を観察する。
Dr.は近くに居るのだろう、この先は想像もしたくないがその彼が脅されつつも続ける
に違い無いのだから。
しかし何時まで経っても他の誰も出て来る様子はなかった。
振り返ったリヒターが新しい手術用の服に着替え、消毒されたその手に中身の満たされた
注射器を認めた時新一は自分に本当の危機が訪れている事を悟る。
それを打たれてしまったらもう次に目覚める事はない。
新一はゆっくりと深呼吸し一度その美しい蒼の双眸を世界から閉じ込めた。
そしてありたけの意志を込め大きく開く。
そこに現れたのは真実を映すこの世で最も尊く美しい至高の宝石。
体が動かないのならせめて屈する事のないその心をぶつけてやるしかない。
無言のままに見詰められればそこに浮かぶのは歓喜でもなく恐怖でもない…純粋な畏れ。
本当に自分はこの美しい瞳に穢れた手で触れる事ができるのだろうか、と。
震える手でそれでも注射を施そうとし、しかし更に細められた蒼の双眸に見据えられれば
力なくそれは手元から離れ床に転がり落ちた。
『……あ、…私は……早く……』
様子がおかしい?
頭を抱えてヨロリと体を傾かせたリヒターに新一はよく分からないがこれはチャンスかも
知れないと何とか今の内に体勢を立て直すべく身じろいだ。
拘束されたベルトは思ったより緩やかでもう少し力任せに動かせば抜けだせそうであるが
その少しが今の彼の体調からすると難しい。
意識は再び朦朧としかけ耳鳴りは酷くなりつつある。
このまま例の発作に繋がりでもしたら……。
新一は内心で高まる焦りに舌打ちする。
やっと片腕のベルトが外れたところでそれでも気を取り直したらしいリヒターは寸前のと
ころで再び彼の手を取った。
今度は生身のものだと言うのにヒヤリと冷えた感触に新一はゾッと息を呑む。
しかしその時感じた違和感に軽く眉根を寄せた。
何だろう…これは。
もう一度腕を拘束し直された。
思考はリヒターが予備の注射器を持って構えた瞬間中断される。
彼は本気だ。
新一は体から余計な力を抜いた。
『……もう止めて下さい、こんな事をして本当に彼女が喜ぶと…?Frau マリアは…そ
してアンリもまたアシュケナジーなのでしょう?』
今度こそリヒターは心底驚いたようであった。
これまで何処か感情に乏しかった表情に激しい動揺が浮かぶ。
『な、何故それを?!』
『アンリに見せて貰った写真の彼女の姿は全身に黒いベールを付け髪も顔の殆どをも隠
してありました。聞いた話では彼女は身体が弱かった訳でないに関わらず殆どを生活の
拠点であった塔から出る事なく人目から忍ぶように過ごしたそうですね。そして写真の類
いにも写る事を極力避けていた…。失礼ながら調べさせて頂きましたらやはり思った通り
でした、典型的なアシュケナジーの女性の特徴でしたから。貴族という特殊な社会に受け
入れられずひっそりと過ごすしかなかったのも頷けますがその理由の殆どはそこから来て
いるのですね?』
少々調べたところで絶対に知りようもない彼等親子の秘密。
一般の機関にも出回ってはいない筈の情報をどうやって一介の学生が手に入れる事が出来
たのか。
『そこまで教えに従順な彼女が最も禁忌とされる殺人が自分の為に犯されていると知っ
たらどう思うでしょうか』
リヒターは震える手で自らの額を押さえると俯き小さく呻いた。
だが指の間から溢れ見える瞳は苦悩に揺れながらも昏い熱情を鎮める事なく抱いていた。
『例え恨まれても、…私はもう一度アンリとマリアの三人で過ごしたあの頃を夢見たい
のだよ…。そうとでも思わなければもう生きている意味もない。
アンリはマリアを亡くしてから身体だけでなく心をも病んでしまった。アンリにとってマ
リアは世界の全てだったからだ。私は息子を癒してやりたいのだ、…何より私の為にも。
私ももう狂っているのだろうね、それでも……君には自分の全てを否定しても守りたいと
願わずにいられない大切なものはないのかな?』
瞬間痛みの奔った胸の内に浮かんだものが何で…誰であったのか理解のないままに新一
は息をつめる。
ここで感情に流されてしまえるような人間ならばきっと新一は愚かであっても人としては
幸せに生きていけたのだろう。
だがそこで哀しい程に真実しか映せない瞳が冷たく、しかし鮮やかに燃え盛った。
『……自首、された方がいいと思います。あなた方の想いはどうあれこれは立派な犯罪
であり、どちらにしても僕がここに居る限り発見されるのは時間の問題なのですから』
その炎のあまりの美しさに心が呑まれるかと思った。
リヒターはまるで触れれば灼かれてしまうとばかりに無意識に半歩後ずさる。
『…この後に及んでこの辺りの警察に私の敵になれるような輩はいない、それに何より
ここが見付かる筈がないよ残念ながら』
『いいえ、僕をこのままにすればいずれ必ずここは発見されます。……僕のこの身体
にはふざけた発信器が仕込まれていますから』
発信器?聞きなれない単語にリヒターは更に目を丸くし息を呑んで立ち尽くした。
『……Dr.の事やこれまでの事件の的確な解明といい、君は何者だ……?』
ようやく口に出来た言葉は焼け付く喉の乾きに掠れていた。
自分は酷く勘違いをしているのかも知れない、目の前の少年は傷付いた獲物…狩られる側
の人間ではなくむしろその逆なのではないか。
『探偵…いえ、』
新一はただ静かな声音で告げる。
『ICPOです』
『このような所でどうかされたんですか?皆あなたをずっと探していたのですよ』
アンリは何時もの柔らかな物腰で快斗に話し掛けた。
しかしそれが若干固くなっているのは快斗が無遠慮に放つ冷涼な気配の為だ。
彼は快斗のこんな一面を知らない。
『俺も探してたんだぜおメーの事』
快斗は口元に冷たい笑みを刻んだままクスクスと低く声を発てた。
あまり動揺を表に出さないよう意識しているに関わらずアンリの顔が強ばった。
あの朝、目覚めた時自分を迎えてくれた優しく楽しい彼とは別人…。
『僕を……ですか?何の御用でしょう』
アンリはやっと声を出しながらしかしいきなり快斗が背を向けた事で戸惑いを余計に隠
せなくなっていた。
『…クロバ?』
『これ、何なんだ?』
快斗は笑いの余韻を残しながら目の前の白い像を軽く握った拳でコツンと叩いた。
だがその背には一部の隙もなかった。
アンリは彼の言葉と行動のアンバランスさの意味が分からず息を呑む。
彼は本当に<クロバ>なのだろうか…。
あの飄々とした笑顔も余裕のある態度も形を潜め、しかしそれもまた<彼>なのだと思わ
さずにいられない全く自然な空気に、感情が否定しようとしても心の何処かで納得してし
まう。
彼は何時だって彼でしかないのだと。
『何と言われましても、御覧の通り聖母の像ですが…』
快斗はアンリの言葉に生返事しておいて、あちこちを繊細な手で滑らせるように探る。
『そんな事よりもあなたの不審な行動が疑われています、一度警備員室にきて説明をし
てあげて下さい、コリンズ・オーブリーの件は知っているのでしょう?これまで何をして
いたのかきちんと説明すれば分かって貰えると思います。僕も御一緒しますから』
『お前ってさ、アシュケナジーなんだって?』
それはまるで世間話をする程の気軽さであった。
その一瞬だけ元の…アンリの知るクロバに返ったような明るさすら滲ませている。
全くアンリの言葉を聞いていなかったかのようにそこでやっと彼は振り返ると片手はマリ
ア像へと置いたまま、口元には変わらぬ笑みをたたえていた。
だがそこで思わずアンリが身じろいだのは彼の眼差しの激しいまでの冷たさと薄暗い空間
に浮かぶ美貌の凄絶さ故だ。
何時もは新一の影にいて分からなかった、いや、彼が分からないようにしていたのか。
太陽は翳ってしまったがそれを追うように昇った月は闇夜の支配者を誇示するがごとく輝
く。
今度はハッキリとアンリの顔が驚愕に歪んだ。
女性的な桜色の唇から呻きとも呟きともとれる呼吸が繰り返される。
(アシュケナジー?)
コクランは息を潜めたそこで耳慣れない単語に眉根を寄せる。
『マリア・フォン・ウィルヘルム……母親がそうだってんなら当然おメーもそうだよ
な?アンリ』
『……それは…どうして…』
『だったら、これは一寸おかしかねえか?』
快斗はもう一度マリア像をコツンと拳で叩いてみせた。
アンリの顔色が変わる。
それを満足そうに見遣って快斗は口の端を心持ち更に引き上げた。
『おメーがユダヤ教徒なら、偶像崇拝は三大悪の一つの筈だ』
アシュケナジーとはドイツや東欧に住むユダヤ人の事である。
だがそれは特に珍しい事ではない、ドイツには古くからその歴史がある。
例え辛いだけのものであったとしても。
今現在までが迫害を受けるまでもなく公言している人々も多い。
『考えてみれば俺は今までおメーが実際の礼拝に出てるところを偶然かも知れねえが見
た事がない、でもそのわりに何度も熱心にここに足を運んでこの像に祈りを捧げるところ
は見てる…。何でだろうな?』
一般的にユダヤ人の定義としてユダヤ人の母親から生まれた人というのがある。
余談だか父親がユダヤ人でも母親が非ユダヤ人の場合子供はユダヤ人でないとユダヤ法で
は定められている。
子供の父親は母以外は本当に分からないからという考え方の元、そして家庭教育が重視さ
れており母親がユダヤ教を子供に伝える役目になっているからであった。
だからマリアがユダヤ教徒(アシュケナジー)であるのならその子供のアンリもまたユダ
ヤ教徒であると言う図式が成り立つのだ。
何時まで経っても何も答える様子のないアンリに快斗は懐から抜きはなったオリジナル銃
を構えた。
そのオプションにはすでに一枚のカードがセットされている。
『…な、何を…どういうつもりです?』
アンリはダークグレーの瞳を見開いてようやく言葉を絞り出した。
何故ならその銃口は真直ぐに自分に向いていたからだ。
例え玩具のようであってもそれをされる方は気分の良いものではなく、しかも構えている
快斗の瞳が底冷えするような気配を纏っていればなお…。
その気配の意味をアンリは殺気であると言う事までは知らない。
『俺はな、別にここから消えた奴等をおメー等が何を目的に何処でどうしてようと全然
興味ねえんだよ。でもあいつが関わったとなれば話は別だ、…何処に居る?』
要するに先程までの質問も何もかもがお前を揺さぶる為の手段の一つであるに過ぎな
かったと彼は言うのだ。
快斗は変わらずマリア像から手は離さず片手だけでアンリを狙う。
だが先程にも増して鋭く細められた紫紺の双眸は明らかに危険を孕んでいた。
『…あいつ…とはクドウの事ですか?彼がどうかしま……』
風を切り裂いた音にアンリは息を呑んだ。
耳が熱い。
柔らかな音を発てて足元に落ちた金糸を見て何が起きたのかをようやく悟り目を丸くす
る。
手をあて、そこに付いた赤い液体が何なのか考えるまでもなかった。
だが己の身に起きている事よりも彼は快斗が手を離そうとしないマリア像の方が気になっ
ている様子で時折目線がそちらへ吸い付いている。
『俺が何も知らないとでも思ってんのか?』
快斗は低く笑い声を発てた、それは笑っていると言うよりも獣が威嚇を繰り出している
ようにしか聞こえなかったが。
何時の間にやったのかすでに次のカードが装填されていた。
その銃口が今度は確実にもっと中心に狙いを定めている事と彼が限り無く本気でそれを実
行しようとしている事は明白で、アンリは驚きに見開いていた瞳をゆっくりと細めると薄
絹に包まれたたおやかな掌を内側へと握りこんだ。
その身体からは快斗の視線と気配にあてられて尚、毅然とした態度を表向きだけでも取り
戻そうと懸命な気力が振り絞られている。
そして彼はそれを成し遂げ、凛とした顔を快斗へと向けて立つ。
それは覚悟を決めた人間のもの。
折れそうな程細い体の何処にという芯の強さである。
アンリはゆったりとした動きで快斗に近付く。
快斗は目を反らす事なく銃口もそれに合わせ続けた。
緊張で白くなる柔らかな美貌が彼の横を少し通り過ぎた所でアンリは立ち止まった。
途端礼拝堂に照明が入り、煌々とした明るさとまではいかないが一気に視界が開ける。
アンリは壁に設置されたスイッチから手を離すと露になった鏡に映る己の顔に見入った。
『……もしも、たった一つだけ願いが叶えられるとしたらあなたは何を望みますか?』
その台詞は快斗には初めてのものであった。
快斗は油断なく構えながら唐突な彼の態度にと言うよりも言葉の内容に眉を顰める。
『…僕にはこの世で何者にも代え難い大切な人がいました。それこそ先の分からないこ
んな僕の命と幾らでも引き換えていいくらいにね』
深く向けられる彼の視線は鏡を通り越し他の誰かに思いを馳せているようであった。
もしもそこに居たのが新一だったならば彼が己によく似ていたと言われた母親を視ている
と気付けただろう。
『そして誰の犠牲を払ったとしても』
快斗の目が更に細められた。
視線を背中にまともに受けるアンリの額に薄らと冷たい汗が浮かぶ。
顔色も悪くなったかも知れない、だが今の快斗を前にそれでも自分を崩すまいと気力を保
っていられるのはその胸を占める人物への想いなのだろう。
『……悪いけどな、俺はさっきも言ったが生憎事件のからくり自体には興味がねえんだ
よ。でもおメーのさっきの言葉を借りるなら、今の俺の願いはたった一つだけだ』
再び空気が唸った。
アンリは鏡越しに目に入った光景に小さく声無き悲鳴をあげると振り返って増々顔を青ざ
めさせた。
『何て事を?!』
その特殊なカードが突き立ったのは彼の体…ではなく快斗の傍らに立つ例のマリア像で
あった。
快斗は彼がずっと己の事よりもこの像に心を配っていた事に気付いていた。
そして驚愕に歪んだ彼の表情に満足したように改めて銃を向け直す。
勿論その先に居るのはアンリだ。
『…あいつは何処だ?』
『クロバ、あなた探偵なんでしょう?こんな乱暴なやり方許される筈が…』
快斗は声を上げて笑った。
『俺が何時探偵だなんて言った?確かにあいつは探偵だけどな、生憎と俺はそんな……
哀しい生きモンじゃねえぜ』
その声は闇よりも濃く、瞳は凍てついた真冬の夜よりも深かった。
『もう一度聞いてやるよ、あいつ…新一は何処にいる?アンリ、いや』
隠そうともしない殺気を乗せて真直ぐ放たれたカードはアンリの滑らかな額を躊躇う事
なく襲った。
『Dr.……ファウスト博士』
闇色の声は冴え渡る月光のごとく響き渡った。
白い柔肌を切り裂く寸前でそれは細い指の間に挟まれていた。
少年は可憐な口元に笑みを浮かべている。
手にしたカードはスペードのA。
それを確認するようにゆっくりと目前に構えるその仕種も表情も気配すらも、全てが一瞬
にしてすり変わっていた。
『…まさかこのようなところで名前を呼ばれるとは。その眼といいおかしな玩具とい
い、只者でないとは思っていましたが……あなたは何者です?黒羽快斗』
声も身体もアンリのまま、しかしそこに居たのは紛れも無い別人。
柔らかな美貌で微笑むのも同じく、しかしその身を取り巻く圧倒的な気配や存在感、そし
てひたむきであったダークグレーの瞳に潜むのは昏い影。
儚かった少年の印象は突如として闇に咲き誇る妖花のように艶やかなものへと変化した。
この美を前に人類史上初めて悪魔を呼び出したとされる彼と同じ名の博士はどのように魔
物を魅了したのだろうか。
快斗はしかし眉一筋動かす事なくそれを見ていた。
ようやく会えた、ずっと探し求めていた人物に。
内心では満ち始めた妖気にも似た異質で不穏な空気に寒気を覚えると、しかし心臓を握り
潰す程の焦りも何もかもを今は綺麗に包み隠す戦闘服を視界から隠すよう素早く広げた。
そう、ここから先は怪盗の領域。
舞踏会へ出るには衣装が必要だ。
しなやかな肢体を包む雪よりも白い上下にそれを飾るシルクハットとマント、端正な顔に
は真実を封じ込める片眼鏡が。
傍から見れば何時変わったのか分からないであろう程に鮮やかに現れた存在はまるで月の
化身のごとき美しさと静謐さとを当然のように纏っていた。
彼は純白のシルクハットを胸に抱え、ゆったりと舞うがごとく頭を垂れる。
『Guten Abend. お初にお目に掛かります、私怪盗キッドと申します。
今宵は御高名な博士にお会い出来た事、大変光栄に思いますよ』
それはまるで待ち焦がれた淑女にラストダンスを申し込む貴族の若者のように無駄のない
優雅な仕種であった。
『…ICPO?』
あまりにも突拍子もない単語であったせいだろう、リヒターは絶句したまま成す術もな
く拘束された少年の美貌に見入る。
すでにその顔は青を通り越し雪のように白く透けていたが、双眸の輝きは褪せるどころか
増々強くなっているようだった。
そこで再び戸惑いと躊躇いを見せ始めたリヒターに新一は微かな希望を抱いたがそれでも
放す事のなかった注射器が己に近付く様子を見ると内心で舌打ちする。
新一は右手に意識の全てを集中した。
幸い彼は何も気付いてはいない、先程僅かに自由を得た間に時計を手首の内側へまわして
おいた事に。
手探りでスイッチを探し当て半ば勘で照準を合わせる。
コナンであった頃何度も世話になてきた麻酔銃である、大体の発射角度は予想出来る。
何故今の今までこれを使わなかったかと言えば、元に戻ってからより凶悪で強靱な犯罪者
に接触する機会が増えた為麻酔自体の力もかなり強めてあったからだ。
常人には後々後遺症が出る可能性がある。
相手が救いようもない犯罪者であったならば躊躇う事なく使えたのだが、彼は力づくで解
決して良いものでない部類の人間だと思っていた。
だがもうそんな悠長な事を言っている場合ではなく、新一は確実に狙える一瞬を待って息
をつめた。
しかし今だと発射させようとした瞬間、血に濡れた指が滑り照準が狂ってしまった。
(まずい)
その針が何処へ飛んでしまったのか新一は動かせない視界の中で愕然とした。
第二射を…そう思ったがいきなり捲り上げられた腕の振動でただでさえ血で滑る指が増々
ボタンに掛からない。
ヒヤリとした針の感触に総毛立った。
未だDr.の姿はなく、まさかこのまま彼によって自分は……。
その先を考えるのは恐ろしかった。
これまで犠牲になってきた者達のお陰か随分と手慣れた様子ではあるが冗談ではない。
「……?」
だが寸前で床に転がった凶器と屑折れるよう膝を付いたリヒターに新一は間一髪で自分
が救われた事を知った。
恐らく先程の針が刺さらないまでも何処か近くに突き立っていたものを彼が今の動作で
引っ掛けるなりしたのだろう。
その効果は充分に発揮されていないが良い足留め程度には効いていた。
先程腕を捲られた時の振動で少し右手の拘束具が緩くなっている。
それを残っている力を振り絞ってようやく抜けさせ、その手で次々とベルトを外し新一は
ようやく自由になった身体と楽になった呼吸に少し咳き込みながら台を降りた。二・三歩
踏み出したところで思わず膝を付きそうになったがギリギリで耐えると未だ立ち
上がる様子のない彼を見遣りながら出口を目指した。
まだこの何処かにDr.ベルナール・レッシュが居る筈なのだ。
新一の状態を見ていたせいか鍵は意外にも掛けられていなかった。
思い扉を開き新一は暗い通路へと出る。
先程通ってきた片側はぼんやりと明るいが、彼はそちらではなく明かりの灯されていない
逆側の道を時計のライトと共に歩き出した。
通路は狭く、石畳のようになった床はデコボコで酷く歩き辛かった。
その先に一つだけあった扉は古めかしいもので黒く汚れ歪に変型していた。
だが新一には今となってはそれが何故であるのか分かる。
開くのだろうか?だが実際に手を掛けてみると思ったより簡単に開いた。
変型してから後抉じ開けた者が他にいるという事だ。
更に中へと足を踏み入れた。
人の気配はなく、カビと塵に淀んだ空気とそれ以上に吐き気を覚えるような饐えた匂いに
秀麗な顔を顰める。
細いライトの光ではフォローし切れない部分で新一は何かに足を取られて膝を付いた。
ライトを当ててみてそれが照明灯…シャンデリアであった事を知る。
豪華に飾りこまれた硝子の殆どが割れ細かな破片を宝石のように反射させていた。
新一は再び立ち上がるまで相当の時間を要した。
身体が痺れたように動かない…動けない。
だがこのまま倒れたら最後、意識を失ってしまう事は目に見えていて新一は必至に立ち上
がった。
(大丈夫だ。未だあの発作の様子もねえ…、って事は動けるって事だ俺は)
かなり強引な理屈でもなければ身体を支えていられない。
新一は気分を変えるように辺りを興味深気に観察する。
沢山の布や木材、本に食器に家具…あらゆるものがひっくり返り壊れ、散乱していた。
歩き難い足元を慎重に進めるとかなり高い場所に照明のスイッチらしきものを認める。
彼が背伸びをしても届かないそれが何故そんな位置にあるのか、しかし新一は疑問に思う
事なく更に進む。
Dr.の姿はない。
考えていたよりずっと広い部屋のようだった。
だがそれは半ば間違いであった事を新一はその一角で悟った。
そこには同じくライトを持った新一が立っている。
左の顳かみの辺りから血の筋が頬を、首を伝わり襟から肩にかけて布地を変色させてい
た。
衣服はあちこちが汚れ裂けた部分もあったがそれでも怪我も含め惨めな印象を全く感じさ
せず、寧ろそれすらも彼自身を引き立たせる装飾品に過ぎないように見える。
反射した光に眩んだのか目眩がして息を詰めた。
血が足りない。
まだ少しづつであるが出血しているようである。
新一はポケットからハンカチを取り出し簡単な止血を施した。
こうして傷口を圧迫しておけばそのうち止まるだろう。
その時キラリと光るものが床に落ちた。
「…これってあいつに貰った幸運の……。でも確かにこんな目に遭ってまでしぶとく生
きてる俺ってラッキーだったのかもな」
クスリと笑うと新一は繊細な指先に金色に光るコイン型のチョコレートを掴みポケット
へと戻した。
再びいきなり現れた己の姿にライトをあてる。
先があると思われたその一面にあるのはとてつもなく大きな鏡であった。
殆ど壁と言ってもよい規模だ。
まるで礼拝堂を思い出す造りである。
目線を流し更に周囲を見回す。
するとそこに映ったものに心臓が跳ねた。
新一は必死に足を運ぶ…瓦礫に埋もれたようになっている人の形をしたものに。
幾つかの障害物を取り除くとかつては人間であったと分かる衣服とそこから覗く白骨が鈍
い光を放っていた。
既に死後かなり経っていると一目で知れるそれをしかし彼は目を反らす事なく見つめる。
一体誰の遺体だろう…服の様子から辛うじて若い男性のものである事は分かったが…。
手懸かりを求め探ったポッケットの中に手帳を発見する。
中は細かな文字が整然と並んでいた。
どうやらこの持ち主は几帳面であのホルト・デイターのように手帳を日記代わりにする趣
向があったらしい。
だが読みふけろうにも意識が朦朧とし中々頭に文字が意味を成して入ってきてはくれず、
新一は焦っていた。
しかし最後の方になってくるといきなり文字が大きく乱れ罫線をまるで無視した使われ方
をされていて逆に読み易くなる。
「<10月10日…同じ顔をした自分に遭った、僕はもうすぐ死ぬのだ。嫌だ死にたく
ない。まだ何もこの身体に意味を見い出していないのに>」
新一は頭に入り易いよう声に出して読み上げるとあまりの衝撃に慌てて次のページを捲
る。
「<10月15日精神科のカウンセリングを受けた。先生はとても聡明で優しい人だっ
た。僕にも生きる目標が出来た。僕は将来先生のようになって病気で苦しむ人の心を治療
出来る人間になりたいと思う。先ずは手始めに手袋を徐々に薄いものへと変えていけるよ
う努力しなければ>
<10月20日先生からヘルダーリンの詩集を頂いた。僕がファンだという事を覚えてく
れていたのだ、感激した。……しかもこれは先生がわざわざ手書きで写してくれた幻の最
後の作品集で……>」
新一はこれ以上読み上げる事は出来なかった。
希有な双眸は大きく見開かれ驚愕に揺れている。
この手帳の持ち主……この遺体が誰であるのか分かってしまった。
だがそれはあり得ない事で新一の推理通りならここに在るのは<彼女>のものでなければ
ならないのだが…。
しかしならばこれでハッキリしたではないか、快斗の探し人が誰に成りすましていたの
か。
だがあの彼の全てが発作を含め演技であったなどと新一には到底信じられなかった。
もしそれが本当だとするならその人物は悪魔のごとき才能の持ち主と言わずにいられな
い。
しかしまだ全てを見た訳ではない、新一は更にその瓦礫の辺りを丹念に見渡した。
気分が悪い。
動悸が激しくなってきた。
だがそれは怪我のせいだけではない、まるでこの学校全体を包んでいた強烈な妖気の破
片が胸に突き立ったかのような…。
その時新一はおぼつかない足元で何かを引っ掛け転倒した。
痛みはあまり感じなかったが途端襲って来る倦怠感に慌ててあがらう。
ようやく上半身を起こしたところで障害物にライトをあてた。
そこに在ったのもまた新たな遺体であった。
しかもこれは一部肉片が残っているあたり先程のものより断然新しい。
部屋の匂いの原因はこれにもありそうだった。
大きな骨格に身なりからするとこれも男性。
まさか?と新一は先程と同じく持ち物を探ってみた。
しかし簡単に判明する、ブレザーに刺繍された名前によってそれが誰であるのかを。
「……?!!何だこれは…?何が起きてんだ??!」
(快斗!!)
新一は思わず小さな叫びを上げた。
耳鳴りに混じるように近付いて来る足音が大きさを増しても、今はただ呆然と固まる事し
か出来なかった。
こんな大嘘でいいのでしょうか(汗)私は最初この人が消えるトリックのようなものを考えた時昔よく
聞いたお笑い話で「消えるシュウマイ」を思い出しました。日に日に一つずつ消えるシュウマイ、その
訳は蓋の裏にくっついていたというあれです(汗)別に同じ理屈という訳ではないのですが馬鹿馬鹿し
さが同レベルだなあと…(苦笑)こんなデタラメが許されていいのか(伏線は色々と張ってありましたが)
疑問ですが、 トリックそのものよりも何故その塔に地下(?)があるのか、新一が逆さまだと言った訳
などバレバレ かと思いますがそっちに注目してやって下さい。
あ、でもそっちもかなり非現実的なんですが(大汗)
新一のピンチは続行中、快斗本当に冷静か?と突っ込みどろこもあり、キッド様も登場し謎も少し残し
たまま次回へと更に 続きます。リク内容については次で書く事にしますね。新ちゃんピンチ!ハラハラする場面が目白押しですね今回は(^^;
新ちゃんの瞳を奪うのはやめて欲しいなあ。
しかし、どんな状況でも真実を暴こうとする所は探偵。
快ちゃんが言うように哀しい生き物なんでしょうか。
そして!なんといってもキッド様登場が嬉しいv
ありがとう、ラトさんv
すっごくいい場面で出てきてくれて嬉しいです〜v
さあ!いよいよクライマックス?関係ありませんが、今回のお話読んでつい・・
そういえば、今「人体の不思議展」をやってたなあ・・と思い出したりして(^^;
P 1 2 3 4 5 6 7 NEXT
HOME BACK