ひこばえ俳句会:初代主宰・南部憲吉
初代主宰・南部憲吉
初代主宰 南部憲吉
初代主宰南部憲吉については、結社誌「ひこばえ」の冒頭に俳句(句集 余光などより)が掲載されています。また不定期に随想集「ひとりごと」からも随筆が掲載されていますが、誌面の都合もありまとまっての掲載は難しいのが実情です。
そこで、このHPに俳句集「余光」の序文、後書、などの掲載を試みることにします。(以下、敬称略)
1)南部憲吉著 随想集「ひとりごと」
2)南部憲吉の略歴
3)余光・序文 草間時彦
4)余光・飯田蛇笏の憲吉俳句の鑑賞
5)余光・跋 本間香都男
6)余光・発刊に際してー雲雀の空― 横山美代子
7)余光・あとがき
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2)南部憲吉の略歴
(句集 余光、ひょんの笛、林、脈搏より)
( )内は、その時代背景の参考にと、HP管理者が挿入しました。)
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1907年 明治40年 3月3日 東京生れ
1920年 大正09年 13才 作句開始
(国際連盟成立)
1924年 大正13年 17才 長谷川零余子の「枯野」に参与
(NHKラジオ放送開始)
1931年 昭和06年 24才 「河骨」 主宰
(満州事変勃発)
1937年 昭和12年 30才 飯田蛇笏に師事。「雲母」入会
(パリ万博、ヘレン・ケラー来日)
1938年 昭和13年 31才 第一回俳句研究賞受賞
(国家総動員法、李香蘭デビュー)
1938年 昭和13年 31才 「雲母」寒夜句三昧第二回個人賞
(東京オリンピック開催権返上)
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1939年 昭和14年 32才 「雲母」同人
(第二次世界大戦勃発)
1948年 昭和23年 41才 「雲母」寒夜句三昧第十七回個人賞
(大韓民国李承晩大統領)
1948年 昭和23年 41才 「鷹の巣」創刊。主宰
(朝鮮戦争勃発、美空ひばりデビュー)
1950年 昭和25年 43才 山本古瓢を識り、蘇鉄」同人。
以後、生涯の畏友となる(金閣寺放火、ジェーン台風、千円札発行)
1964年 昭和39年 57才 「ひこばえ」創刊 主宰
(東京オリンピック)
1973年 昭和48年 66才 句集・脈搏
(為替・変動相場制へ移行)
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1977年 昭和52年 70才 句集・林
(ダッカ日航機ハイジャック事件
1978年 昭和53年 71才 和泉一宮、大鳥大社鳳仙閣に句碑
(成田国際空港開港、ディスコブーム)
1986年 昭和61年 79才 随想集・ひとりごと
(ダイアナ妃来日、チェルノブイリ原発事故
1987年 昭和62年 80才 句集・ひょんの笛
(国鉄民営化(JR)、石原裕次郎死去
1990年 平成02年 83才 近つ飛鳥、古市にて逝去
(大阪国際花と緑の博覧会、ドイツ統一)
1992年 平成04年3月3日 句集・余光(南部憲吉三周忌)
(バルセロナ五輪(岩崎恭子)、新幹線のぞみ
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句 集『脈搏』『林』『ひょんの笛』
随想集『ひとりごと』『俳句の手ほどき』ほか編著多数
俳人協会会員
現代俳句協会会員
大阪俳人クラブ会員
受賞 昭和13年 第一回俳句研究賞
同 「雲母」寒夜句三昧第二回個人賞
昭和23年 「雲母」寒夜句三昧第十七回個人賞
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3)余光・序文 草間時彦
句集「余光」 序文より
**********
南部憲吉の俳句は飯田蛇笏との出合いに始まった。若い日に蛇笏から教えられ
た俳句の骨法と古武士的風格とは、生涯、南部憲吉の俳句のバックボーンとなっ
ていた。
南部憲吉が飯田蛇笏と結び付くのは昭和十三年である。南部憲吉、三十一歳。
「雲母」の第十四回寒夜句三昧個人賞に輝いた。そして「雲母」の新人としての
地位はまぎれもないものとなった。
さんさんと驟雨をあびて祭獅子
啓蟄のその夜の月の繊かりき
これらの句の骨格の正しさは、蛇笏から享けたものである。同時に「啓蟄」の
句に示した抒情のみずみずしさは憲吉の個有のものと言ってもよい。このみずみ
ずしさは生涯、憲吉の俳句を離れない。
戦争が終った年の翌々年、憲吉は西下した蛇笏を、柏原の自宅に泊めている。
昭和二十二年十一月で、そのお宅での句会には六十五人集ったという。
山廬に供して詩仙堂行
山冷の雨しげからず竹落葉 憲 吉
憲吉の生涯を通じて最も強い印象の残る一日だったと思う。
「まことに不肖の弟子だったが、私のこころの中には師、飯田蛇笏は巌のごとく
現存している。そして日夜、叱咤激励のこゑをきいている」
と第一句集『脈搏』の「あとがき」で氏は右のように述べている。彼の真情そ
のものなのである。
本句集を読んでお判り頂けると思うが、憲吉には蛇笏忌の句が少なくない。
蛇笏忌やわが窓前の樫一樹 昭四八
芋嵐ゆくは蛇笏の雲ならむ 昭五三
蛇笏先生二十七回忌
窓前に暮れてしまひぬ秋の山 昭六三
どれも秀れていて、彼の師への心が溢れている。
南部憲吉の俳句は蛇笏との出合いによって開花したと言ってよいのであるが、
開花するにはそれだけの才能を天から与えられていたのである。天から与えられ
たものとしては、前述の抒情性もあるが、それだけではない。この人には「雲
母」特有の 佶屈な声調は無い。平明でなだらかな表現のうちに心がこもっている
のである。この点は他人からの影響というより、自分自身のものであろう。
南部憲吉の実業家としての活躍の場は大阪だが、俳句の場も大阪である。大阪
の俳句と蛇笏の俳句とをどう結び付けるか、蛇笏の俳句を大阪の俳句に浸透させ
るにはどうすればよいか、このあたりは南部憲吉が志して、悩んでいたことであ
ろうと思う。主宰誌「ひこばえ」を創刊したのも、そういう心があったのではな
いかと私は思っている。私は「ひこばえ」に発表された憲吉作品が好きである。
うしろより椿がのぞく泉かな 昭四九
寒鯉にばあんと枢おとすなり 昭六三
はたはたにかがやきて堰落つるかな ″
利久忌の堺にひと日あそびけり 平成元
これらの句を拝見すると、大阪人の大阪俳句とは少し違った味が存在すること
に気付くのである。それは一筋の清涼感であり、人温のあたたかさである。それ
でありながら、日常の人情に溺れることのない厳しさを持っている。それらは、
結局は南部憲吉という人間の高潔な人格から生れたものなのである。
私が南部憲吉氏とおつきあいしたのはその晩年の十余年である。大阪へ行くと
きは、氏にお眼にかかるのがたのしみだった。氏は若輩の私に対し、謙虚な態度
で接して下さった。
しかも、それが、少しもわざとらしくなかった。自然な態度だった。私はこの
人は偉い人だと敬服した。
亡くなってから編まれる句集に序を書けと「ひこばえ」からご依頼を受けた。
光栄の至りだが、その任ではない。しかし、南部憲吉先生なつかしさで筆を執ら
せて頂いた。お宥し願いたい。
平成四年一月
草間時彦
南部憲吉の俳句は飯田蛇笏との出合いに始まった。若い
日に蛇笏から教えられた俳句の骨法と古武士的風格とは、
生涯、南部憲吉の俳句のバックボーンとなっていた。
南部憲吉が飯田蛇笏と結び付くのは昭和十三年である。
南部憲吉、三十一歳。「雲母」の第十四回寒夜句三昧個人
賞に輝いた。そして「雲母」の新人としての地位はまぎれ
もないものとなった。
さんさんと驟雨をあびて祭獅子
啓蟄のその夜の月の繊かりき
これらの句の骨格の正しさは、蛇笏から享けたものであ
る。同時に「啓蟄」の句に示した抒情のみずみずしさは
憲吉の個有のものと言ってもよい。このみずみずしさは
生涯、憲吉の俳句を離れない。
戦争が終った年の翌々年、憲吉は西下した蛇笏を、柏原
の自宅に泊めている。昭和二十二年十一月で、そのお宅で
の句会には六十五人集ったという。
山廬に供して詩仙堂行
山冷の雨しげからず竹落葉 憲 吉
憲吉の生涯を通じて最も強い印象の残る一日だったと思
う。
「まことに不肖の弟子だったが、私のこころの中には師、
飯田蛇笏は巌のごとく現存している。そして日夜、叱咤激
励のこゑをきいている」
と第一句集『脈搏』の「あとがき」で氏は右のように述
べている。彼の真情そのものなのである。
本句集を読んでお判り頂けると思うが、憲吉には蛇笏忌
の句が少なくない。
蛇笏忌やわが窓前の樫一樹 昭四八
芋嵐ゆくは蛇笏の雲ならむ 昭五三
蛇笏先生二十七回忌
窓前に暮れてしまひぬ秋の山 昭六三
どれも秀れていて、彼の師への心が溢れている。
南部憲吉の俳句は蛇笏との出合いによって開花したと言
ってよいのであるが、開花するにはそれだけの才能を天か
ら与えられていたのである。
天から与えられたものとしては、前述の抒情性もあるが、
それだけではない。この人には「雲母」特有の 佶屈な声調
は無い。平明でなだらかな表現のうちに心がこもっているの
である。この点は他人からの影響というより、自分自身のも
のであろう。
南部憲吉の実業家としての活躍の場は大阪だが、俳句の
場も大阪である。大阪の俳句と蛇笏の俳句とをどう結び付
けるか、蛇笏の俳句を大阪の俳句に浸透させるにはどうす
ればよいか、
このあたりは南部憲吉が志して、悩んでいたことであろうと
思う。主宰誌「ひこばえ」を創刊したのも、そういう心があ
ったのではないかと私は思っている。私は「ひこばえ」に発
表された憲吉作品が好きである。
うしろより椿がのぞく泉かな 昭四九
寒鯉にばあんと枢おとすなり 昭六三
はたはたにかがやきて堰落つるかな ″
利久忌の堺にひと日あそびけり 平成元
これらの句を拝見すると、大阪人の大阪俳句とは少し違
った味が存在することに気付くのである。それは一筋の清
涼感であり、人温のあたたかさである。それでありなが
ら、日常の人情に溺れることのない厳しさを持っている。
それらは、結局は南部憲吉という人間の高潔な人格から生
れたものなのである。
私が南部憲吉氏とおつきあいしたのはその晩年の十余年
である。大阪へ行くときは、氏にお眼にかかるのがたのし
みだった。
氏は若輩の私に対し、謙虚な態度で接して下さった。
しかも、それが、少しもわざとらしくなかった。自然な
態度だった。私はこの人は偉い人だと敬服した。
亡くなってから編まれる句集に序を書けと「ひこばえ」
からご依頼を受けた。光栄の至りだが、その任ではない。
しかし、南部憲吉先生なつかしさで筆を執らせて頂いた。
お宥し願いたい。
平成四年一月
草間時彦
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4)飯田蛇笏の憲吉俳句の鑑賞
句集「余光」 後書より
**********
飯田蛇笏先生の憲吉俳句の鑑賞
昭和十八年版「現代俳句秀作の鑑賞」ならびに「雲母」誌より一部抽出転載。(句集『脈搏』掲載文より)
さんさんと驟雨をあびて祭獅子
古来祭獅子は我国ほとんど至るところで行われているようである。凡そ祀祭に伴う伝統的な伎楽の最も面白いものの一つだと思う。全国的に普及してはいるというものの、その土地々々によって舞型又は雄雌の仕掛等にいくぶん
づつかの違いはあるようである。祭獅子についての説明を便宜上「大百科事典」によると、
「シシは多く雌雄一対、若しくは雄が一匹雌が一匹で雄ジシ中ジシ等に呼び場合により、八匹出て、七匹が雄、一匹が雌となりまた雌雄をとわず無数にも出る。別にシシに絡んで舞ふ者に、天狗その他の仮面のもの、棒使いの少年、花笠を冠りササラを磨る少女の群がある。シシに扮する者は男子に限り、青年以上が普通であるが、越後の月潟や小千谷、伊予の宇和島では少年も扮する。女子はササラ磨り以外には出ない。
土地により、歌、囃子、舞の型を異にする。笹ガカリ、花ガカリ、三拍子等々、この中で最も普遍的なのは牝ジシ隠しで、牝が隠れ、二匹の牡が心配して探し、めぐり合って喜ぶ舞である。また一々の曲目なく、二十分なら二十分を舞いつづって終る例もある。右の一々の曲目は長きは四十分に亘り、一曲をヒトニハと称し全曲を舞い終るには数時問を要する。(下略)シシ舞の音楽は笛、太鼓、ササラ等で、歌も歌われ全国ほぼ共通である。〽まゐりきてこれの御庭を眺むれば、黄金小草が足にからまるー」は庭誉めでその家をたたえ、〽この宿は縦が十五里横七里、入りを能く見て出場に迷ふなー」は村の繁栄を祝す等のもので
多く下の句を返して舞い、その旋律もほぼ一定している」とある。大概を知ることが出来ようかと思う。
そこで、句意であるが、上五にある「さんさんと」いうのは漢字の「燦々」で、きらきらと光る形容である。これを正しくは漢字で書くべきであろう。併し今日の常識でさんさんと仮名書きしたのを此の作品鑑賞上燦々と理解することは問題とするに足らないし、更らにこれの仮名書きが伝える響きと味とは漢字たるべき場合をひるがえし、柔軟にして微妙なる俳句的芸味を感得せしめ得る効果をもつのである。そこに思い入って敢て仮名書きした作者の用意を思いはかることが容易である。
次手だから云えば、筆者の如きも亦既往幾度か然うした表現上の事に体験を有するものであり、例をとって云えば、昭和三年夏(「山廬集」五九頁)
たくらくと茄子馬にのる仏かな 蛇 笏
という一作を貽してあるが、この「たくらく」は即ち漢字の「卓犖」であって、総てにぬきんでてすぐれた仏を、最も敬虔な気持で形容したところのものであった。
南部君の上掲作品に於ける「さんさんに」に就いて斯様に述べたからといって、
そのことが何時の場合でも漢字的形容が仮名のもたらす味に若かないという風に解し了る読者もまさかあるまいと思う。却説、今借用した事典説明の如く祭獅子が舞い狂う真ッ最中、沛然として驟雨がふりそそいで来た、降りそそいではきたけれども舞いくるう祭獅子の勢いは雨に圧されて止むべくもない、むしろ一層凄じく舞いつづげる。そういった光景を詠み上げたのが此の作品である。もはや蛇足をそえるまでもなく、読者の誰人もがこの古典的な伎楽に対して眼を眩ますばかりの燦爛たる感じをうけとることだろうと思う。
この古典味を現実的に鑑賞の心え結んで、云わば不退転の融通性を示すものは、其処にしろがねの如く降りそそぐ雨其ものである。まがうかたなく現実に生きて、俳句精進に一念これ捧げている作者のすがたは髣髴としてそのうしろに見透せるのである。
啓螢のその夜の月の繊そかりき
この作品の新鮮さも、一つにかかって作者南部君の心境が古人たちの糟粕をねぶろうとせない断じて個的精進を
志向する点に発していることが窺われるのである。もしそういうことが許されるならば、澄明なる幽玄とも云うべきである。
秋もはやはらつく雨に月の形 松尾芭蕉
この作品は芭蕉晩年の最もすぐれた力作の一つである。彼の生命的な詩として、どすぐろいばかりの陰惨な幽玄さが放射されることを其れから感じられるならば、南部君の此の作品からは、 慥かに対蹠的な清澄明徹なる近代的な玄妙が感ぜられなければうそである。
海峡の大いなる 暾に四月来ぬ
餉に嚮ふ海峡の凪ぎうららかに
春潮やロープ緊ぎ張る風の中
春暁のほのぼのとあり海図室
この作家が断然寒夜句三昧の個人賞を穫得したことは瞠目に値した。おそらく雲母の全読者は、俄然として起ちあがった作家に心で拍手をおくらぬものはなかったであろう。それかあらぬか、「俳句研究」(五月号)は、昭和十三年度俳句研究賞の受賞者を発表しているのであるが、二人に限るその入選者は、ともに雲母作家たる鈴木白祇君と此の南部憲吉君とであった。
昭和十三年四月二十六日午前十時十五分、畏くも 聖上陛下の行幸を仰ぎ奉り殉忠の 英霊を祀る靖国紳社臨時大祭第二目の御儀執り行はせらる。
新樹かげ巨きしづけさに龍駕待つ 鈴木白祇
冷えびえと晴夜の葡萄甘かりし 南部憲吉
この二作が其れなのであるが、これも亦南部君の技倆に対する証左の若干を荷うものとして宜かろうと思う。
この「葡萄」の作品にも作家の持味は充分に見えているように、叩き上げ叩きあげして来た、苟且ならぬ鍛錬の成果である。二年や三年の歳月で、天晴れ新興顔をして醇化なき生な感情をのみふんだんに吐き出したところで、夫れが何になるであろう。心細いかぎりである。
南部君に於ける、
海峡の大いなる瞰に四月来ぬ 南部憲吉
は、海を対象とする近代人の詩的収穫であり、
六月や峯に雲おく嵐山 松尾芭蕉
はまさに元禄の往時、山を対象とした芭蕉の詩的成果であった。この二つの俳句が、三百年を隔ててそれぞれの時代的特色をしめしている点も、読者の誰人にあっても充分肯けるところのものではなかろうかと思われるのである。
寒弾に堪へてさみしく粧ひぬ
寒弾は寒三十日内に於ける音曲の稽古を云うので、この作品としての場合はまづ三絃と見るのが至当と思う。極寒のつらい稽古を堪えに堪えて上達をめざしているのであるが、その辛棒が容易ではない。しかもその寒習いする当の人物は女性である。身だしなみということも心にあるので、一方一心不乱に稽古を励んでいるうちにも多少の粉粧を忘れず女性らしい振舞を見せているという点がこの作品の中心生命となっているのである。
愛誦に値することは勿論であるが、この「さみしく」という、ぽちっと針の先で示したようなことばを見逃しては駄目である。人事諷詠のむづかしさ。それが生きるか死ぬか、連想が豊かになるかならぬか、斯うした微妙な点にかかっていることを識るべきである。
海のいろ冴返るとしも浪たてぬ
嶺の雪まだ解けがたし鴉の巣
佳肴あり炕入る房の朱き壁
星岡茶寮
籬落あり白き薔薇も曾根の昼
南部君の所産がいよいよ底光りのする芸境を見せはじめた。第三句「佳肴あり」第四句「籬落あり」の二つは一見すでに尋常ならざる手腕をしめすものであるが、第一句の「海のいろ」及第二句の「嶺の雪」にいたると、此の芸境のよさは鳥渡会得にかん艱難を感ずるかもしれないと思うほどである。
「海のいろ」―春まだ寒さを残し、ややもすれば冴返りがちな所謂春寒料峭と形容すべき季節に渺たる海面を対象とした場合である。その海面は、藍を流したようを汐色に盛り上っているのであるが、ややもすれば海禽を吹き流したりするあんばいからみても寒さをぶり返してくるが如くにも感じられる。そうして俄かに、あちらこちら海一面に浪をおどらせているといった光景である。
「嶺の雪」―これは一見平凡にさえ看取るむきがあるかもしれない。何故かといえば、樹間に鴉の巣が発見され嶺には残雪があるというただそれだけの事象に対しての最も切りつめた諷詠に出ているからである。しかし、その極く極くのところまで切りつめた描出に於いて、決して凡庸として見逃せないところは中七の、嶺の雪が「まだ解けがたし」という此の風景の重点にかかっている。
芭蕉の (前掲の)作品。
六月や峯に雲おく嵐山 松尾芭蕉
でも、この作中で何処が大切なところかというと、峯に雲があることでもなければ、嵐山でもなく、「六月」という無形の啻に感じのみのものの中へ作者芭蕉の心が深く溶けこんでいっている点に存するのである。それが証拠には仮りに之れを一月や三月や五月や乃至八月、十二月などとしたならば果してどんなものになるか、そうしてみて能く理解出来るところだろうと思う。嵐山の峯に雲がかかったことを見、それをその儘に詠ずるということは天才芭蕉に俟つまでもないことだ。南部君に於ける場合でも、「まだ解けがたし」と看てとった。即ち左様に感じとるところの主観的抒情の微妙なる詩的琴線に幽韻がやどることになるのであって、かくてこそ俳句という此の小詩型の文学作品に、他の企及しがたい尖鋭にして機微な心の働きが要ることになり、従ってその霊的表現が人心を揺るに足るほどの効果的なものを産むことになるのである。
雪霏々と檜山の鴉啼きにけり
この作家の句は飽くまでも地味なところに特色がある。これなど、どちらかと云うと余程絢爛(?)たるものの方である。すでに上五に於いて「雪霏々」と叙してあるあたり、此の大形さは作家南部君を煩はすにあらざれば発想の奈何もあれ几庸の作者としてはまことに困り入るきっかけであるのだがーーつまり地味にして、著実なる作家南部君を俟って此の句境が生き生きと完成され来ったと看るのが至当なのである。
こだまを返して啼く幽韻嫋々雪山風景における鴉鳴、画龍点晴の実を挙げて誰人の鑑賞にも克く透徹するのである。
濃かりける瓶のきちかうな蟵ごり
今、純日本画に鳥渡触れたけれども、この作品の如きも、その清楚なる内容味と、表現上の技法からいって同様な純邦画を感ぜしめられるものである。ただ、この方は、白葉女さんの風景画的芸幅と違って、さらに極限せられた点景的場面が凝乎として現出するところに一特色を持つのである。
作者が散策でもこころみた折か何かに、桔梗の一茎を手折って帰り、それを几辺の瓶に挿しておいた。秋も最早や末つ方、蚊帳を吊る必要も感じられない昨今の爽涼さではあったが、不図耳辺をかすめる残り蚊の幽かなこえを感じ、吊ったことは吊ったものの何となく煩わしさも亦感じられる蚊帳の名残りである。あしたに目覚めて、それに別れんとする一種草っぽい青蚊帳の匂いを感じながら、やはり眼にとめた桔梗の花は、少し首垂れ気味に、一夜を経て花色さえいくぶん褪せたのではないかそのように感じられる。と、強いて説けば説けるとのような場合を詠じたものである。この作品として、上五文字に「濃かりける」と、過去をあらわし、一見隙を見せたような措辞は、それどころか真に作品の巾と深さとを具有するものである。
作者の伎倆の冴えを示してあまりあるものと云えよう。
春惜しむかりそめの爐を川原辺に
鮎漁期をまのあたりにした季節の一景と見て面白かろうと思う。関東方面とすれば、多摩川にしても桂川にしても、ああしたうつくしい流れが磧の央程を曲りうねって流れている。一としきり、腕に覚えある人たちが鮎漁にあたって後、川原のあたりに即成の一爐をかまえ、あるいは燗番にあたるもの、あるいは漁魚を串焼きするもの、ささやかな、併しながら心満ちたる歓をつくそうとするのである。流るる水、空ゆく雲、天地乾坤一つとして暮春の情ならざるはない、と、そう感じた作者の心境におもい入るとき、おのずから共感せしめられるものがあるのである。
雨さむく障子をとざし敷松葉
これも住宅の一景を敍したものではあるが、把握の主たるものは内部にある。即ち人事的感興に重要性がおかれてあるのである。季題としての敷松葉というのは、冬季に入り、凡そ庭園の蘚や姫芝などが霜や雪の凍結に傷められるので、それを保護するために枯松葉を敷くを常とするがそれを云うのである。全体の意味を解いてみると、そうした庭園を持った棲家ー少くとも窮乏の生活ではなく、やや豊かな、云わば有閑的な生活状態が想像に上るのである。たとえば、人少なで主人も亡くなり遊学中の世嗣を持った未亡人が一人の召使を置いて静かに読書をつづけ、或は時に丹青に親しんだりしている、そんな生活振りが想像される。
折から初冬の雨が蕭々として降ってきた。犇と寒さが感じられる。未亡人はひたと障子を締めきって尚静かな座辺をまもりつづけているのであるが、その森閑たるありさまが眼前に髣髴として浮び、対象人物のこころもちまで窺えるところがこの作品の身上というべきである。
雲母寒行句三昧第十七同個人賞作家
ー昭和二十三年ー
南部憲吉君の作品五句、これが又遺憾なく作家的持味を示して、優に擡頭した。
蒼天に一月の松音をたえず
山襞のあかるく大沼氷りけり
風の日の芝あかるくて寒雀
日は耀らひ寒の雲雀を面上に
五百重山しんかんと照り冬木原
作家として優秀なると然らざるとをとわず、好んで異数の取材に拠る者があり、そうした志向にある側は、心に張りが生ずれば生ずるだけ愈々顕著になる。これは当然といえば当然である。この作者の如きは併し優秀性を持するものの之れと対蹠的である、とまで云ったところで必ずしも過言ではない。素材は寧ろ身辺環境にとり日常茶飯的な吸収性に強みを発揮するのである。芭蕉も既に「俗談平語」を提示しているくらいであるが、この事だけが併し必ずしも近代性を持ち得るものではない。要は、作品内容として若しくは作品的に背景づけられたる余情として近代的な高度性にあるのであり、徒爾なる平談俗語的諷詠は、むしろ川柳の後塵を拝するに若かずである。この作家の個性は、如上の点を信念的に押えた作品に躍如たるものが示されている。
飯田蛇笏
飯田蛇笏先生の憲吉俳句の鑑賞
昭和十八年版「現代俳句秀作の鑑賞」ならびに「雲母」誌より一部抽出転載。(句集『脈搏』掲載文より)
さんさんと驟雨をあびて祭獅子
古来祭獅子は我国ほとんど至るところで行われているようである。凡そ祀祭に伴う伝統的な伎楽の最も面白いものの一つだと思う。全国的に普及してはいるというものの、
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その土地々々によって舞型又は雄雌の仕掛等にいくぶんづつかの違いはあるようである。祭獅子についての説明を便宜上「大百科事典」によると、
「シシは多く雌雄一対、若しくは雄が一匹雌が一匹で雄ジシ中ジシ等に呼び場合により、八匹出て、七匹が雄、一匹が雌となりまた雌雄をとわず無数にも出る。別にシシに絡んで舞ふ者に、天狗その他の仮面のもの、棒使いの少年、花笠を冠りササラを磨る少女の群がある。シシに扮する者は男子に限り、青年以上が普通であるが、越後の月潟や小千谷、伊予の宇和島では少年も扮する。女子はササラ磨り
ーーーーーーーーーーーーーーー
以外には出ない。
土地により、歌、囃子、舞の型を異にする。笹ガカリ、花ガカリ、三拍子等々、この中で最も普遍的なのは牝ジシ隠しで、牝が隠れ、二匹の牡が心配して探し、めぐり合って喜ぶ舞である。また一々の曲目なく、二十分なら二十分を舞いつづって終る例もある。右の一々の曲目は長きは四十分に亘り、一曲をヒトニハと称し全曲を舞い終るには数時問を要する。(下略)シシ舞の音楽は笛、太鼓、ササラ等で、歌も歌われ全国ほぼ共通である。〽まゐりきてこれの御庭を眺むれば、黄金小草が足にからまるー」は庭誉めで
ーーーーーーーーーーーーーーー
その家をたたえ、〽この宿は縦が十五里横七里、入りを能く見て出場に迷ふなー」は村の繁栄を祝す等のもので、多く下の句を返して舞い、その旋律もほぼ一定している」とある。大概を知ることが出来ようかと思う。
そこで、句意であるが、上五にある「さんさんと」いうのは漢字の「燦々」で、きらきらと光る形容である。これを正しくは漢字で書くべきであろう。併し今日の常識でさんさんと仮名書きしたのを此の作品鑑賞上燦々と理解することは問題とするに足らないし、更らにこれの仮名書きが
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伝える響きと味とは漢字たるべき場合をひるがえし、柔軟にして微妙なる俳句的芸味を感得せしめ得る効果をもつのである。そこに思い入って敢て仮名書きした作者の用意を思いはかることが容易である。次手だから云えば、筆者の如きも亦既往幾度か然うした表現上の事に体験を有するものであり、例をとって云えば、昭和三年夏(「山廬集」五九頁)
たくらくと茄子馬にのる仏かな 蛇 笏
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という一作を貽してあるが、この「たくらく」は即ち漢字の「卓犖」であって、総てにぬきんでてすぐれた仏を、最も敬虔な気持で形容したところのものであった。
南部君の上掲作品に於ける「さんさんに」に就いて斯様に述べたからといってそのことが何時の場合でも漢字的形容が仮名のもたらす味に若かないという風に解し了る読者もまさかあるまいと思う。却説、今借用した事典説明の如く祭獅子が舞い狂う真ッ最中、沛然として驟雨がふりそそいで来た、降りそそいではきたけれども舞いくるう祭獅子
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の勢いは雨に圧されて止むべくもない、むしろ一層凄じく舞いつづげる。そういった光景を詠み上げたのが此の作品である。もはや蛇足をそえるまでもなく、読者の誰人もがこの古典的な伎楽に対して眼を眩ますばかりの燦爛たる感じをうけとることだろうと思う。この古典味を現実的に鑑賞の心え結んで、云わば不退転の融通性を示すものは、其処にしろがねの如く降りそそぐ雨其ものである。まがうかたなく現実に生きて、俳句精進に一念これ捧げている作者のすがたは髣髴としてそのうしろに見透せるのである。
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啓螢のその夜の月の繊そかりき
この作品の新鮮さも、一つにかかって作者南部君の心境が古人たちの糟粕をねぶろうとせない断じて個的精進を
志向する点に発していることが窺われるのである。もしそういうことが許されるならば、澄明なる幽玄とも云うべきである。
秋もはやはらつく雨に月の形 松尾芭蕉
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この作品は芭蕉晩年の最もすぐれた力作の一つである。彼の生命的な詩として、どすぐろいばかりの陰惨な幽玄さが放射されることを其れから感じられるならば、南部君の此の作品からは、 慥かに対蹠的な清澄明徹なる近代的な玄妙が感ぜられなければうそである。
海峡の大いなる 暾に四月来ぬ
餉に嚮ふ海峡の凪ぎうららかに
春潮やロープ緊ぎ張る風の中
春暁のほのぼのとあり海図室
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この作家が断然寒夜句三昧の個人賞を穫得したことは瞠目に値した。おそらく雲母の全読者は、俄然として起ちあ。それかあらぬか、「俳句研究」(五月号)は、昭和十三年度俳句研究賞の受賞者を発表しているのであるが、がった作家に心で拍手をおくらぬものはなかったであろう
二人に限るその入選者は、ともに雲母作家たる鈴木白祇君と此の南部憲吉君とであった。
昭和十三年四月二十六日午前十時十五分、畏くも 聖上陛下の行幸を仰ぎ奉り殉忠の英霊を祀る
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靖国紳社臨時大祭第二目の御儀執り行はせらる。
新樹かげ巨きしづけさに龍駕待つ 鈴木白祇
冷えびえと晴夜の葡萄甘かりし 南部憲吉
この二作が其れなのであるが、これも亦南部君の技倆に対する証左の若干を荷うものとして宜かろうと思う。
この「葡萄」の作品にも作家の持味は充分に見えているように、叩き上げ叩きあげして来た、苟且ならぬ鍛錬の
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成果である。
二年や三年の歳月で、天晴れ新興顔をして醇化なき生な感情をのみふんだんに吐き出したところで、夫れが何になるであろう。心細いかぎりである。
南部君に於ける、
海峡の大いなる瞰に四月来ぬ 南部憲吉
は、海を対象とする近代人の詩的収穫であり、
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六月や峯に雲おく嵐山 松尾芭蕉
はまさに元禄の往時、山を対象とした芭蕉の詩的成果であった。この二つの俳句が、三百年を隔ててそれぞれの時代的特色をしめしている点も、読者の誰人にあっても充分肯けるところのものではなかろうかと思われるのである。
寒弾に堪へてさみしく粧ひぬ
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寒弾は寒三十日内に於ける音曲の稽古を云うので、この作品としての場合はまづ三絃と見るのが至当と思う。極寒のつらい稽古を堪えに堪えて上達をめざしているのであるが、その辛棒が容易ではない。しかもその寒習いする当の人物は女性である。身だしなみということも心にあるので、一方一心不乱に稽古を励んでいるうちにも多少の粉粧を忘れず女性らしい振舞を見せているという点がこの作品の中心生命となっているのである。
愛誦に値することは勿論であるが、この「さみしく」という、ぽちっと針の先で示したようなことばを見逃しては
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駄目である。人事謳詠のむづかしさ。それが生きるか死ぬか、連想が豊かになるかならぬか、斯うした微妙な点にかかっていることを識るべきである。
海のいろ冴返るとしも浪たてぬ
嶺の雪まだ解けがたし鴉の巣
佳肴あり炕入る房の朱き壁
星岡茶寮
籬落あり白き薔薇も曾根の昼
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南部君の所産がいよいよ底光りのする芸境を見せはじめた。第三句「佳肴あり」第四句「籬落あり」の二つは一見すでに尋常ならざる手腕をしめすものであるが、第一句の「海のいろ」及第二句の「嶺の雪」にいたると、此の芸境のよさは鳥渡会得にかん艱難を感ずるかもしれないと思うほどである。
「海のいろ」―春まだ寒さを残し、ややもすれば冴返りがちな所謂春寒料峭と形容すべき季節に渺たる海面を対象とした場合である。その海面は、藍を流したようを汐色に盛り上っているのであるが、ややもすれば海禽を吹き流し
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たりするあんばいからみても寒さをぶり返してくるが如くにも感じられる。そうして俄かに、あちらこちら海一面に浪をおどらせているといった光景である。
「嶺の雪」―これは一見平凡にさえ看取るむきがあるかもしれない。何故かといえば、樹間に鴉の巣が発見され嶺には残雪があるというただそれだけの事象に対しての最も切りつめた諷詠に出ているからである。しかし、その極く極くのところまで切りつめた描出に於いて、決して凡庸として見逃せないところは中七の、嶺の雪が「まだ解けがたし」という此の風景の重点にかかっている。
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芭蕉の (前掲の)作品。
六月や峯に雲おく嵐山 松尾芭蕉
でも、この作中で何処が大切なところかというと、峯に雲があることでもなければ、嵐山でもなく、「六月」という無形の啻に感じのみのものの中へ作者芭蕉の心が深く溶けこんでいっている点に存するのである。
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それが証拠には仮りに之れを一月や三月や五月や乃至八月、十二月などとしたならば果してどんなものになるか、そうしてみて能く理解出来るところだろうと思う。
嵐山の峯に雲がかかったことを見、それをその儘に詠ずるということは天才芭蕉に俟つまでもないことだ。南部君に於ける場合でも、「まだ解けがたし」と看てとった。即ち左様に感じとるところの主観的抒情の微妙なる詩的琴線に幽韻がやどることになるのであって、
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かくてこそ俳句という此の小詩型の文学作品に、他の企及しがたい尖鋭にして機微な心の働きが要ることになり、従ってその霊的表現が人心を揺るに足るほどの効果的なものを産むことになるのである。
雪霏々と檜山の鴉啼きにけり
この作家の句は飽くまでも地味なところに特色がある。これなど、どちらかと云うと余程絢爛(?)たるものの方である
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。すでに上五に於いて「雪霏々」と叙してあるあたり、此の大形さは作家南部君を煩はすにあらざれば発想の奈何もあれ几庸の作者としてはまことに困り入るきっかけであるのだがーーつまり地味にして、著実なる作家南部君を俟って此の句境が生き生きと完成され来ったと看るのが至当なのである。
こだまを返して啼く幽韻嫋々雪山風景における鴉鳴、画龍点晴の実を挙げて誰人の鑑賞にも克く透徹するのである。
濃かりける瓶のきちかうな蟵ごり
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今、純日本画に鳥渡触れたけれども、この作品の如きも、その清楚なる内容味と、表現上の技法からいって同様な純邦画を感ぜしめられるものである。ただ、この方は、白葉女さんの風景画的芸幅と違って、さらに極限せられた点景的場面が凝乎として現出するところに一特色を持つのである。
作者が散策でもこころみた折か何かに、桔梗の一茎を手折って帰り、それを几辺の瓶に挿しておいた。秋も最早や末つ方、蚊帳を吊る必要も感じられない昨今の爽涼さでは
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あったが、不図耳辺をかすめる残り蚊の幽かなこえを感じ、吊ったことは吊ったものの何となく煩わしさも亦感じられる蚊帳の名残りである。あしたに目覚めて、それに別れんとする一種草っぽい青蚊帳の匂いを感じながら、やはり眼にとめた桔梗の花は、少し首垂れ気味に、一夜を経て花色さえいくぶん褪せたのではないかそのように感じられる。と、強いて説けば説けるとのような場合を詠じたものである。この作品として、上五文字に「濃かりける」
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と、過去をあらわし、一見隙を見せたような措辞は、それどころか真に作品の巾と深さとを具有するものである。
作者の伎倆の冴えを示してあまりあるものと云えよう。
春惜しむかりそめの爐を川原辺に
鮎漁期をまのあたりにした季節の一景と見て面白かろうと思う。関東方面とすれば、多摩川にしても桂川にしても、ああしたうつくしい流れが磧の央程を曲りうねって流
れている。一としきり、腕に覚えある人たちが鮎漁にあたって後、川原のあたりに即成の一爐をかまえ、あるいはさやかな、併しながら心満ちたる歓をつくそうとするのである。流るる水、空ゆく雲、天地乾坤一つとして暮春の情ならざるはない、と、そう感じた作者の心境におもい入るとき、おのずから共感せしめられるものがあるのである。
雨さむく障子をとざし敷松葉
これも住宅の一景を敍したものではあるが、把握の主たるものは内部にある。即ち人事的感興に重要性がおかれてあるのである。季題としての敷松葉というのは、冬季に入り、凡そ庭園の蘚や姫芝などが霜や雪の凍結に傷められるので、それを保護するために枯松葉を敷くを常とするがそれを云うのである。全体の意味を解いてみると、
そうした庭園を持った棲家ー少くとも窮乏の生活ではなく、やや豊かな、云わば有閑的な生活状態が想像に上るのである。
たとえば、人少なで主人も亡くなり遊学中の世嗣を持った未亡人が一人の召使を置いて静かに読書をつづけ、或は時に丹青に親しんだりしている、そんな生活振りが想像される。
折から初冬の雨が蕭々として降ってきた。犇と寒さが感じられる。未亡人はひたと障子を締めきって尚静かな座辺をまもりつづけているのであるが、その森閑たるありさまが眼前に髣髴として浮び、対象人物のこころもちまで窺えるところがこの作品の身上というべきである
雲母寒行句三昧第十七同個人賞作家
ー昭和二十三年ー
南部憲吉君の作品五句、これが又遺憾なく作家的持味を示して、優に擡頭した。
蒼天に一月の松音をたえず
山襞のあかるく大沼氷りけり
風の日の芝あかるくて寒雀
日は耀らひ寒の雲雀を面上に
五百重山しんかんと照り冬木原
作家として優秀なると然らざるとをとわず、好んで異数の取材に拠る者があり、そうした志向にある側は、心に張りが生ずれば生ずるだけ愈々顕著になる。これは当然といえば当然である。この作者の如きは併し優秀性を持するものの之れと対蹠的である、とまで云ったところで必ずしも過言ではない。
素材は寧ろ身辺環境にとり日常茶飯的な吸収性に強みを発揮するのである。芭蕉も既に「俗談平語」を提示しているくらいであるが、この事だけが併し必ずしも近代性を持ち得るものではない。
要は、作品内容として若しくは作品的に背景づけられたる余情として近代的な高度性にあるのであり、徒爾なる平談俗語的諷詠は、むしろ川柳の後塵を拝するに若かずである。この作家の個性は、如上の点を信念的に押えた作品に躍如たるものが示されている。
飯田蛇笏
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
5)跋 本間香都男
句集「余光」 より
**********
此度、故憲吉先生の御遺句集を編纂されますことは、ご一門の先生への思慕のあらわれと存じ、深く敬意を表します。
この句集の跋文を書くようお指名があり、真に光栄に存じ乍らもいささか私が場違いな憶いがいたしますがお引き受けすることに致しました。
実は私は現在、俳句結社「蘇鉄」を主宰しておりますが、一昨年山本古瓢師を失い、その後を引き継いだものであります。
憲吉先生はこの蘇鉄の特別客員同人としてご支援を頂いて来たものであります。
蘇鉄も年間数回大会を持ちますが、その折は必ずご出席を頂き御声咳に接することが出来ました。然し大方は古瓢先生を介してのお交際でありましたので今に至りますと、御生前何故もっと深くぉ教導頂けなかったかと後悔をしております。然し先生からお教え頂いた事も少なくありませんので断片的な記憶を集め、私ながらの憲吉像を画いてみょうと思います。
先生はお若い頃から文才に恵まれて居られ、昭和十二年に飯田蛇笏先生の門を叩き、そして昭和十四年にはもう「雲母」の同人として頭角を現わされ、蛇笏先生への傾倒もいよいよ深く、長く続くことになります。そこで憲吉先生の俳風も当然蛇笏先生から大きな影響を受けられたと思いますが、その蛇笏俳句の特徴に就いて山本健吉氏にうかがう事にします。「格調高く格調の正しさはー彼において右に出るものがない」「甲斐の山中にあって孜々として磨かれた彼の句風は現代でも文字通り孤高であった」或いは「その気魄にみちみちた格調の荘調さ個性の異常な濃厚さは蛇笏調として俳諧史上に独歩して居る」というふうに蛇笏俳句を性格づけて居られる。
蛇笏先生は昭和三十七年に逝去される。所で憲吉先生は何故私共のような渺たる地方俳誌に同人としてお協力ねがうに至ったかに就いてであるが、蘇鉄創刊当初すでに人を介して両先生がお会いしており、爾来お親交を深められたようであります。直接私が憲吉先生におうかがいしたことは、古瓢先生のお人柄や俳風が蛇笏先生とよく似ておられたからと仰言られて居た事を思い出します。
その古瓢先生の俳風に就いては私「世の流行に組せず、むしろ孤高な俳人」とも[明治人としての気骨を持たれ、その上仏教徒としての信仰深く古武士の風格と申しあげる]と記したことがあるが、丁度健吉先生の蛇笏評とどこか共通するものがあるように思えます。憲吉先生か私淑されたといわれるのもこの点と思われます。即ち憲吉先生の手記の中に「重厚清操の先生(古瓢)に私淑して四十年」とあり、長いご親交でしたが一昨年に古瓢先生、そして三ヵ月後に憲吉先生も亡くなられました。
然しお両人にも自ら句風に差があるのも事実でしょう。晩年のある日古瓢先生自ら憲吉先生とを比較されて「憲吉先生は特上の和菓子で古瓢はゴマ塩むすびだ」と周囲を笑わせておられましたが、この比喩も当らずとも遠からずというように思えます。そしてその差の生じた所以は、人間が一番性格づけられる年代の教育が憲吉先生ならば慶応義塾大学時代の教育にあったのではなかろうかと思えます。実は私も学生の頃大学のある三田通りを慶応ボーイとは逆な方向に通学しておりました。当時の彼等は靴を磨き、ズボンの折目を正し、上衣の塵を払って紳士として訓育される校風らしく決して破帽弊衣のバンカラ学生ではなかったようです。
先生方お両人とも同様の俳風乍ら憲吉先生にあるものは極上の和菓子であり、古瓢先生は古武士も野武士の頭領の印象であります。
終りに、蛇笏先生を偲ばれてのお作と思う御句を五句ほど附記させて頂きます。
芋嵐ゆくは蛇笏の雲ならむ 憲吉
月明に渺と蛇笏の山河あり
どきつとする障子の白さ蛇笏の忌
虚子のつばき蛇笏の椿落ちにけり
蛇笏忌やわが窓前の樫一樹
平成四年三月
蘇鉄主宰 本聞香都男
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此度、故憲吉先生の御遺句集を編纂されますことは、ご一門の先生への思慕のあらわれと存じ、深く敬意を表します。
この句集の跋文を書くようお指名があり、真に光栄に存じ乍らもいささか私が場違いな憶いがいたしますがお引き受けすることに致しました。
実は私は現在、俳句結社「蘇鉄」を主宰しておりますが、一昨年山本古瓢師を失い、その後を引き継いだものであります。
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憲吉先生はこの蘇鉄の特別客員同人としてご支援を頂いて来たものであります。
蘇鉄も年間数回大会を持ちますが、その折は必ずご出席を頂き御声咳に接することが出来ました。然し大方は古瓢先生を介してのお交際でありましたので今に至りますと、御生前何故もっと深くぉ教導頂けなかったかと後悔をしております。然し先生からお教え頂いた事も少なくありませんので断片的な記憶を集め、私ながらの憲吉像を画いてみょうと思います。
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先生はお若い頃から文才に恵まれて居られ、昭和十二年に飯田蛇笏先生の門を叩き、そして昭和十四年にはもう
「雲母」の同人として頭角を現わされ、蛇笏先生への傾倒もいよいよ深く、長く続くことになります。そこで憲吉先生の俳風も当然蛇笏先生から大きな影響を受けられたと思いますが、その蛇笏俳句の特徴に就いて山本健吉氏にうかがう事にします。「格調高く格調の正しさはー彼において右に出るものがない」「甲斐の山中にあって孜々として磨かれた彼の句風は現代でも文字通り孤高であった」
ーーーーーーーーーーーーーーー
或いは「その気魄にみちみちた格調の荘調さ個性の異常な濃厚さは蛇笏調として俳諧史上に独歩して居る」というふうに蛇笏俳句を性格づけて居られる。
蛇笏先生は昭和三十七年に逝去される。所で憲吉先生は何故私共のような渺たる地方俳誌に同人としてお協力ねがうに至ったかに就いてであるが、蘇鉄創刊当初すでに人を介して両先生がお会いしており、爾来お親交を深められたようであります。直接私が憲吉先生におうかがいしたことは、古瓢先生のお人柄や俳風が蛇笏先生とよく似ておられ
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たからと仰言られて居た事を思い出します。その古瓢先生の俳風に就いては私「世の流行に組せず、むしろ孤高な俳人」とも[明治人としての気骨を持たれ、その上仏教徒としての信仰深く古武士の風格と申しあげる]と記したことがあるが、丁度健吉先生の蛇笏評とどこか共通するものがあるように思えます。憲吉先生か私淑されたといわれるのもこの点と思われます。即ち憲吉先生の手記の中に「重厚清操の先生(古瓢)に私淑して四十年」とあり、長いご親交でしたが一昨年に古瓢先生、
ーーーーーーーーーーーーーーー
そして三ヵ月後に憲吉先生も亡くなられました。
然しお両人にも自ら句風に差があるのも事実でしょう。晩年のある日古瓢先生自ら憲吉先生とを比較されて「憲吉先生は特上の和菓子で古瓢はゴマ塩むすびだ」と周囲を笑わせておられましたが、この比喩も当らずとも遠からずというように思えます。そしてその差の生じた所以は、人間が一番性格づけられる年代の教育が憲吉先生ならば慶応義塾大学時代の教育にあったのではなかろうかと思えます。実は私も学生の頃大学のある三田通りを慶応ボーイとは逆
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な方向に通学しておりました。当時の彼等は靴を磨き、ズボンの折目を正し、上衣の塵を払って紳士として訓育される校風らしく決して破帽弊衣のバンカラ学生ではなかったようです。
先生方お両人とも同様の俳風乍ら憲吉先生にあるものは極上の和菓子であり、古瓢先生は古武士も野武士の頭領の印象であります。
終りに、蛇笏先生を偲ばれてのお作と思う御句を五句ほど附記させて頂きます。
ーーーーーーーーーーーーーーー
芋嵐ゆくは蛇笏の雲ならむ 憲吉
月明に渺と蛇笏の山河あり
どきつとする障子の白さ蛇笏の忌
虚子のつばき蛇笏の椿落ちにけり
蛇笏忌やわが窓前の樫一樹
平成四年三月 蘇鉄主宰 本聞香都男
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6)発刊に際してー雲雀の空― 横山美代子
句集「余光」 より
**********
短夜の水にひたして榊かな 憲吉
和泉一の宮、大鳥大社の鳳仙園に句碑が建立され、除幕式を迎えたのが昭和五十三年十月十五目でありました。冒頭の御句です。
生前は句碑は建てさせなかった、という飯田蛇笏師の精神に添う、先師南部憲吉先生の信念は毫もゆるがなかったのですが、門下の切なる願望によって、委員会が結成され、密かに計画を進め、場所や規模も決め、檄も飛ばしたあと、この事を申し上げ、否応なく承諾して頂いた、という経緯から句碑建立の実現が叶
た次第であります。
また、先生の句業六十有余年の間の句集刊行は『脈搏』『林』『ひょんの笛』の三冊のみで、これでは一寸さびしいと思いました。けれど、これとても或る意味での先生の俳人としての、依固地なまでの謙虚さによるものに他ありません。
大正九年より作句を始められ、大正十五年より「河骨」「河骨通信俳句」「鷹の巣」と断続して昭和三十九年「ひこばえ」を発刊されました。平成二年四月四日、かりそめの病がもとで床に臥され、ご他界されるまで一貫して肯定精神、有機性を唱えられたのです。これは、つまりは先生の俳句に対する姿勢でもありました。
二上ミの雲雀をきかむ窓あげる 憲吉
ご存知のように右の御句が絶唱です。歴史的にも哀話の纒わる二上山を明け暮れ眺め、こよなき愛着を示され、これまでにも二上ミの句をよく詠まれた先生は、うすれゆく意識の中で、最後の力をふりしぼってメモにしかためられ、遂に力尽きてペンを落とされたのです。幾ら呼んでもお応えはありません。
もう一度元気になって、二上山を眺め、雲雀の声もお聞きになりたかったでありましょうに……。命の灯が消える瞬間まで俳人であった憲吉先生のこの絶唱、瞼の熱くなるのを覚えるのです。
病床に臥されてから僅かの間に、歯が痛ましく損われていました。誰にでもやさしく、そして笑顔で接しられる先生の、その唇からこぼれる白くてきれいだった歯が、見るかげもなく、こんなになるまで苦しまれたのかと、胸つまる思いでした。
俳句の指導は厳しかっか先生ですが、常はやさしく、また冗句もお好きで、よくみんなを笑わせて下さったものです。先生の居られるほとりには、いつも春風のような暖かい雰囲気が漂っていました。
このたび、南部憲吉俳句の集大成とも言うべき『余光』を刊行いたす事となりました。本集を編むに当りまして、膨大な作品の中から、刊行委員の方達によって厳正、抽出された三百六十句が収載されています。何れも格調高く、心に残る御句ばかりです。
どうか本句集をあなたの座右の書として、ときおりは繙いて頂き、南部憲吉先生をしのぶよすがとして頂ければと念願して筆を結ばせて頂きます。
平成四年三月
ひこばえ主宰横山美代子
ーーーーーーーーーーーーーーー
短夜の水にひたして榊かな 憲吉
和泉一の宮、大鳥大社の鳳仙園に句碑が建立され、除幕式を迎えたのが昭和五十三年十月十五目でありました。冒頭の御句です。
生前は句碑は建てさせなかった、という飯田蛇笏師の精神に添う、先師南部憲吉先生の信念は毫もゆるがなかったのですが、門下の切なる願望によって、委員会が結成され、
密かに計画を進め、場所や規模も決め、檄も飛ばしたあと、この事を申し上げ、否応なく承諾して頂いた、という経緯から句碑建立の実現が叶った次第であります。
また、先生の句業六十有余年の間の句集刊行は『脈搏』『林』『ひょんの笛』の三冊のみで、これでは一寸さびしいと思いました。けれど、これとても或る意味での先生の俳人としての、依固地なまでの謙虚さによるものに他ありません。
大正九年より作句を始められ、大正十五年より「河骨」「河骨通信俳句」「鷹の巣」と断続して昭和三十九年「ひこばえ」を発刊されました。平成二年四月四日、かりそめの病がもとで床に臥され、ご他界されるまで一貫して肯定精神、有機性を唱えられたのです。これは、つまりは先生の俳句に対する姿勢でもありました。
二上ミの雲雀をきかむ窓あげる 憲吉
ご存知のように右の御句が絶唱です。歴史的にも哀話の纒わる二上山を明け暮れ眺め、こよなき愛着を示され、これまでにも二上ミの句をよく詠まれた先生は、うすれゆく意識の中で、最後の力をふりしぼってメモにしかためられ、遂に力尽きてペンを落とされたのです。幾ら呼んでもお応えはありません。
もう一度元気になって、二上山を眺め、雲雀の声もお聞きになりたかったでありましょうに……。命の灯が消える
瞬間まで俳人であった憲吉先生のこの絶唱、瞼の熱くなるのを覚えるのです。
病床に臥されてから僅かの間に、歯が痛ましく損われていました。誰にでもやさしく、そして笑顔で接しられる先生の、その唇からこぼれる白くてきれいだった歯が、見るかげもなく、こんなになるまで苦しまれたのかと、胸つまる思いでした。
俳句の指導は厳しかっか先生ですが、常はやさしく、また冗句もお好きで、よくみんなを笑わせて下さったものです。先生の居られるほとりには、いつも春風のような暖かい雰囲気が漂っていました。
このたび、南部憲吉俳句の集大成とも言うべき『余光』を刊行いたす事となりました。本集を編むに当りまして、膨大な作品の中から、刊行委員の方達によって厳正、抽出された三百六十句が収載されています。何れも格調高く、心に残る御句ばかりです。
どうか本句集をあなたの座右の書として、ときおりは繙いて頂き、南部憲吉先生をしのぶよすがとして頂ければと念願して筆を結ばせて頂きます。
平成四年三月
ひこばえ主宰 横山美代子
ーーーーーーーーーーーーーーー
7)余光・あとがき **********
本句集は、故南部憲吉先生の三周忌を期して、先生の永年の尨犬な句業の中から一パーセントにも充たぬ句数ではあるが、一日一誦の念いをこめて、三百六十句抄」の選集としました。
阿修羅のように自分と俳句とに取り組まれた先生のいのちの証しの残照です。
序文はいささかのご縁を頼りに草間時彦先生に、跋文は先生ゆかりの「蘇鉄」主宰・本間香都男先生に賜わり、錦上華を添えて頂きました。厚く御礼申し上げる次第です。
句集名は、華厳経・人法界品の善財童子が悟りを開く直前、「普賢菩薩を見るに」のくだりより、「光明」の光被として『余光』とした。また昭和六十一年以降の百六十一句は、同経文中の「一一の毛孔より一切世界の微塵に等しき華雲を出し」より頂き、華雲抄としてまとめた。他の各抄はそれぞれ句集名によった。
装画に悩んでいた時、沢田重隆画伯の「奈良の街道筋」原画展を訪ねた。その折の思いがけぬ油彩画「二上山落日」と、沢田画伯・亀山太一氏との出合いは、二上山をこよなく愛された先生がお引き合わせ下さったかのようであった。
両氏の永年に亘るご交誼の恩恵にあずかって、即座に句集を飾ることのお許しを頂くことができたのは望外の倖せであり、この人温の有難さに、深く感謝申し上げます。
また第一句集『脈搏』上梓に際し、「雲母」主宰・飯田龍太先生のご快諾により掲載した、飯田蛇笏師の「南部憲吉俳句の鑑賞」を再録させて頂いた。
この句集は汎く多くの方々のご厚情とご援助に支えられて上梓すること、ができた。皆様に厚くお礼を申し上げる次第です。
上梓に当っては角川書店の小島欣二氏、装丁の伊藤鍍治氏をはじめ関係各氏に大変ご配慮とご尽力を得たことを感謝申し上げたい。
平成四年三月
実行委員長 奥仲 昊天
刊行事務局 宇佐美喜代治
刊行実行委員 森羅 泰一 福田 基
坂根白風子 築部 待丘
岡本 四天 岩坪秋童子
中田 梵 野上けいじ
徳田 文三 北川 正博
元山 政人 片岡 治己
仲田 良明 嶋 豊
本句集は、故南部憲吉先生の三周忌を期して、先生の永年の尨犬な句業の中から一パーセントにも充たぬ句数ではあるが、一日一誦の念いをこめて、三百六十句抄」の選集としました。
阿修羅のように自分と俳句とに取り組まれた先生のいのちの証しの残照です。
序文はいささかのご縁を頼りに草間時彦先生に、跋文は先生ゆかりの「蘇鉄」主宰・本間香都男先生に賜わり、錦上華を添えて頂きました。厚く御礼申し上げる次第です。
句集名は、華厳経・人法界品の善財童子が悟りを開く直前、「普賢菩薩を見るに」のくだりより、「光明」の光被として『余光』とした。また昭和六十一年以降の百六十一句は、同経文中の「一一の毛孔より一切世界の微塵に等しき華雲を出し」より頂き、華雲抄としてまとめた。他の各抄はそれぞれ句集名によった。
装画に悩んでいた時、沢田重隆画伯の「奈良の街道筋」原画展を訪ねた。その折の思いがけぬ油彩画「二上山落日」と、沢田画伯・亀山太一氏との出合いは、二上山をこよなく愛された先生がお引き合わせ下さったかのようであった。
両氏の永年に亘るご交誼の恩恵にあずかって、即座に句集を飾ることのお許しを頂くことができたのは望外の倖せであり、この人温の有難さに、深く感謝申し上げます。
また第一句集『脈搏』上梓に際し、「雲母」主宰・飯田龍太先生のご快諾により掲載した、飯田蛇笏師の「南部憲吉俳句の鑑賞」を再録させて頂いた。 この句集は汎く多くの方々のご厚情とご援助に支えられて上梓すること、ができた。皆様に厚くお礼を申し上げる次第です。
上梓に当っては角川書店の小島欣二氏、装丁の伊藤鍍治氏をはじめ関係各氏に大変ご配慮とご尽力を得たことを感謝申し上げたい。
平成四年三月
実行委員長 奥仲 昊天
刊行事務局 宇佐美喜代治
刊行実行委員 森羅 泰一 福田 基
坂根白風子 築部 待丘
岡本 四天 岩坪秋童子
中田 梵 野上けいじ
徳田 文三 北川 正博
元山 政人 片岡 治己
仲田 良明 嶋 豊