南部憲吉著 随想集「ひとりごと」
―― 序にかえて ――
啓蟄の流雲白きみ空かな 山本古瓢
―― 帯 ――
迫真の随想集 ひこばえ社
俳句誌「蘇鉄」に十余年にわたり,発表した珠玉の随想百五十篇を収録。著者の広範な交流をはじめ,吟行でのエピソードや大阪に赴任した頃の苦心談は,読者の心を爽やかにとらえ,百聞・泣董の佳境に迫る必読の書である。 竹島昌威知
―― あとがき ――
俳句誌「蘇鉄」に十余年にわたり、発表したミニエッセイ百五十篇。まことに恥ずかしい雑文です。字数に制限もあって、文中の敬称略も含め、佶屈は免がれません。
今回、筆者の傘寿に際し、蘇鉄社の協賛を得、山本古瓢先生の序句を忝のうし、ここに「ひこばえ叢書」として上梓。有難いことです。終りにご多忙な竹島昌威知先生に帯文を、また協力下さいました関西文学の皆さま方に厚くお礼申し上げます。
南部 憲吉
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― ひとりごと 南部憲吉 随想集 ー
ひこぱえ叢書 第12集
昭和61年3月3日 発行
著 者 南部 憲吉
発行者 南部 耕也
発行所、発売所 ひこばえ社
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―――――――――――――――・雨 畑 硯
なんの催しだったか、忘れてしまったが東大の法学部のホールで「雲母」の大会があった。席題「遅日」。久しぶりとあって、もっとも親しい兄弟子、佐々木有風が私を離さない。才気喚発のジョークが、顔いっぱいのパイプとその紫烟のなかから、ひっきりなしに飛ぶ。締切が迫るので、いらいらした。ようやく「大学の遅日の芝を踏みにけり」と一句。いざ披講がすすみ、最後に蛇笏特選という緊張の時を迎えた。
大学の遅日の―と朗々と詠みあげられたとき、しめたと思った。
が次の瞬間ー芝を踏むこころ――の後尾がつづき、高室呉龍という声があがった。
後刻、祝宴のとき「大阪から飲まず食わずに馳せ参じたからには、雨畑硯の特選をと必死だったが、考えてみれば大切な「こころ」がなかった」と挨拶したら、どっと哄笑が湧いた。正直なところ「こころ」は蛇足だなどとも思ったが、終戦直後、旅行は命がけの時であった。
(令4,5月号に掲載)
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―――――――――――――――・粟津ヶ原
前に来たとき膳所の駅からすぐ下に学校があり、その上に湖のかかっているのが見えた。句会場の義仲寺へ「そこの湖から」と言って蒲の穂をさげて来た女性もいた。そんな風景を心に溜めて来たが湖のかけらもない。
巴地蔵尊の横から入る。街なかの山門。まず葉芭蕉が涼を呼んだが、以前からみると株が少ない。堂守が「このように咲くと枯れてしまう」とその中の一株を指した。見ると葉間に大きな蕾、まさに開花寸前。成程と肯くと今度は俳人だと覚ってか、いま句座がひらかれたばかり、だと参加を勧めてくれた。
私は翁堂のほとりで、雨上りの苔の花を仔細に眺めながら、間遠の添水を聞いていた。
ふと気づくと緑蔭の部屋に灯が入り、四五人が正座している。上座のその仁は、まさしく石鼎坊、むかし渡辺水巴門で鳴らした斉藤兼輔翁である。どうやら、この前来たときと同様、歌仙を巻いておられるようであった。
私は翁堂の落書帖に「斉藤先生へ」と前書し左の一句を認めて辞した。
常磐木の落葉や句座の四五人に
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――――――――――――――――・入 江
目を覚ますと床の間のまん中に何か黒いものがある。よく見ると置物よろしく蛇がとぐろを巻いている。おそるおそる隣床の陶仙を促す。板場がやって来てこれは「蝮」だと云いざま、さっさと摘まんで提げて行った。その早業の見事さもさりながら、よくも襲われなかったものよ、と怖気をふるった。
山の手に松籟園という豪華な旅館が出来たというので陶仙に連れられて、そこでよく泊った。傍らに白紙と筆をおきながらの酒席には、美女が侍んべることも度々であった。つれづれに後山の桐畠に佇つと、鶯が啼き入江が光っていた。正宗白鳥の生地だという。
昭和十一年佐々木陶仙ら「岡山河骨」を創刊こんな記事を塩尻青茄著「岡山の俳句」で読んだ。わたしの主宰誌「河骨」の支部が、この陶郷、伊部におかれていたからである。
その陶仙兄も七十才を越えた。松籟園は人手にわたってしまったが、家内ともども古戦場めぐりをと慫慂されている。回想のなかで光る入江。わたしの今の心境は、シュトルムの「みずうみ」のそれだ。
(令4,6月号に掲載)
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―――――――――――――――・運 座
先輩、伊東水亭が私に俳句をすすめた。すなわち青霞吟社というところに出席することになった。そこは水亭の親戚。海軍大佐だと聞いたが、立派な邸で青山霞町にあった。
出席者はみな羽織、袴。学生服は私と同窓の宮崎だけだった。受付で署名、会費二十銭を払って兼題を提出。着座すると兼題が二つ貼り出されている。雑談厳禁。清記は名筆家が書くが、選も墨書せねばならなかった。
席題は天井から下げられた優美な籠に、題別に入れる。兼題ともに十句ぐらいだった。
いつしかに柱暦も九月かな 失名
「九月」の席題で、この句が披講されたときうまいもんだなァと思った。みな、この道の古強者で「雀海に入って蛤となる」てな難題も、またたく間にこなす。宗匠の三光、五客の披講となると一段と緊張度を増すが、講評らしいものはなかった。賞品は豪華。会後かならず、ざる蕎麦が振舞われた。礼儀正しく親しい運座であったが、子規が目の敵にしていた旧派がこれだとは後で知った。
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―――――――――――――――・飼いうぐいす
羽曳野へ移ってから、もう五年近くなる。当初この庭に早朝から日没まで、ひっきりなしに鶯が来て啼いた。鶯、鴨、小綬鶏など毎日のように聞いたり見たりしていたが、それも昨年四月に中環と外環とを縛ぐ広い道路が完成してからは、庭に来ることは稀になった。
それでも庭つづきの畑へ下りるとよく鶯のこえを聞くことが出来る。いまでも春になるとその駱蕩たる俤を遠望することが出来るが、ここらは十年前までは一面の桃畑だったそうだ。さてその鶯を居ながらにして聞くべく山妻がこの二月、鳥寵とともに手に入れて来た。これは鳥籠を見せないため、従来通りの野鳥として、訪れる多くの俳句仲間をよろこばせた。それも盛夏に入るとさっぱり啼かず結局は鳥屋のしきたりに習って放してやることにした。人に懐かずせっかちな鶯だったが、排気ガスで次から次と枯れてゆく野中寺の老松とともに、さみしい気がする。
(令4,7月号に掲載)
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―――――――――――――――・籠鳥雲を恋う
七十才にして念願どおり仕事を辞めた。これですこしは自分の時間がとれたとおもっていた。と言っても相談役として残れという。
しからば自由にということにしたが永年の風習で大概の日は梅田へ出かける。俳句の仕事をさきに済ませるので家を出るのは昼食後だが、これでは中途半端。ただ事務的なものが片付くだけで大事な選句とか原稿書きなどは出来ない。会社へ行ってもお茶を喫み新聞に目を通すくらいだから、せめて読書でもと思うが気分が乗らない。ただし、そんなウィークデーの昼間に俳句の講座と句会が月に十数回はある。それを済ましてから一寸会社へ顔を出すだけだが、それで自分の気が済む。
その中で第三木曜の吟行。これは気楽に会社を休み自分も結構楽しむ。飯田龍太先生が「追いかけられる忙しさを追いかける忙しさに」と書いていて成程なとおもったが、日曜、祝祭日、それに夜間の催ものも相不変多い。それに義理が重なっていよいよ時間貧乏。「追いかける忙しさへ」如何にすべきか机辺散乱の中でそんな事を考えている。
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―――――――――――――――・かつらぎにて
曽て雪峡に一読の日章旗がひるがえっていたのを遠望して、すめらみこと、とも、いのちとも新鮮な感動を受けたことがある。異国で仰ぐ、オリンピックで揚る、それとはまったく違った感激であった。
草庵に毎年、大晦日から仲間が押掛けてくる。初詣をすませて句会という、ならわしになっているが、旧臘は趣向をかえて葛城山で越年をすることにした。初日の出は七時六分と承知してロッジを出たが、生憎の曇り。雪のないゲレンデに霜柱を踏んだ雪沓。金剛山をまともにして自ら青春の血の滾るのを覚えた。
若しここに翩翻として日の丸が揚っていたらどんなによいだろうかなァと思った。「初国旗」たちまち蕭条たる冬山に淑気みなぎることだろうとも思った。すると途端に、往時の霏々たる雪中の日章旗が髣髴として眼前に迫ったが、その風景とともに、いよいよ明治が遠くなってゆくことも自覚せざるを得なかった。
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―――――――――――――――・九 軒
夕霧伊左衛門で有名な吉田屋の前は、やっと三米ぐらいしかない。つまり通り抜けの路地で、九軒と呼ばれ親しまれた。そこに桜の並木があった。夕方、新町界隈は急に活気を呈してくる。箱屋と呼ばれる男衆が走る。「ご存じ×様お待ちに御座そろ、早々とお越し下されたくそろ」などと、結状になったものを携えて置屋へ走る。そんな頃になると、芸妓や半玉を乗せた俥が右往、左往、指名の妓が来ない場合は「ぜひ貰い」「ぜひぜひ貰い」状が飛ぶ。
九軒のしにせ割烹「菱富」ここは接待の下拵えの場として通った。日のあるうちに入浴丹前に着換えての浅酌。かならず美女が侍べっていたが、春ともなれば二階の手摺に夕風をたのしむことがあった。そんなとき白い花びらが来てとまったりして、おもいは風情とも春愁とも判じ難かった。 一現を受付けなった九軒、ことに吉田屋の古い廊下を軌ませる時など満足感を味わった。先日、通りすがりにその辺りに行った。茫々四十年郷愁のごとき目にビルが林立していた。
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―――――――――――――――・時間どろぼう
ある講座に出掛ける矢先、電話が掛った。この対手たる者「大菩薩峠」に出てくるような長広舌。まさに三十分。そんな事で遂に二電車遅れ二十分遅刻した。十四年の間、曽てなかったことである。聴講者百二十名だから四十時間奪ったことになる。最近、松下幸之助さんが全財産を投げうっても青春を買いたいとか閃聞した。いま私に何が欲しいかと問われれば、即座に「時」と答える。
西諺とのみあるが「時は金(かね)なり」と言ったのは誰か。せめてゴールドというなら貴重を感じさせるがタイム・イズ・マネーでは、いかにも軽薄だ。道元禅師に「時あるが故に山河あり」とう意味のことばがあるが終幕を眼前にした筆者には、一刻々々が、いつ何処にあっても一期一会の念につながる。
そんな素晴らしい「時」を感ずるのも、まったく俳句のおかげだと思うが、前述のような「時間どろぼう」は大手を振って通る。これだけは警察へも訴えられず困ったものだ。
時間を無駄にしないのは、時間だけだ。ジュ・ルナールの痛烈な言葉だ。
(令6,10月号に掲載)
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―――――――――――――――・十七音経
これが時計草です、というCの声が玄関できこえる。彼が俳句を習いに来てから五年。はじめのうちは、いつも酒気を帯びて来るので幹事のY君が家への出入りを差しとめた。
しかしYが幹事を辞したあと、彼はまた熱心に通いはじめた。もう二年程になるか、「一日一句」を申しつけてからは俄然、彼の猛勉強がはじまつた。月に三回その結果につき添削を受けにくるのだが、はじめのうちは誤字、乱筆その上、未推敲のままで投げつけるので、その都度、姿勢を問うようにした。その「一日一句」の行が重ねられるこのごろ、彼の人間としての見事な変貌ぶりが顕われて来た。もともと素直、と云っても大正生れだから頑固なものがある。家庭的にも恵まれなかったのもそうしたことに因るのだろうが、いま句三昧によって本来の姿をとり戻したという感じだ。彼は茅屋の附近にある病院の療養者、いまでは病院句会の幹事だが、「文字摺草」だ「紫苑」だと折々に届けてくれ、二人をよろこばせてくれる。
(令5,3月号に掲載)
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―――――――――――――――・十三月一日
毎年多くの賀状を戴くが、こちらから一枚も出した事はない。目上の方からも、著名な人からもある。随分失礼だと、おもいながらも後から出すのも、なんて勝手な理屈をつけて出していない。曽て印刷をしておいて、三回とも一枚すら出さなかった事がある。その一回は喪中となってしまったとき、あと二回は相不変の多忙で十三月一日になったこと。
代書なんて、事務的で心がゆるさない。東京に「雲」という俳誌があり、現主宰の野口根水草氏は、予め対手の.誕生日をメそしておいて、当日必着で得意の挿絵入りのメッセージを送る。三月三日には必ず私のところにも着く。また某社の会長になった私の友人は大の紋切形ぎらいで、四月か五月頃いろのついた上質紙、それを三つ折にし、人生観や近況を印刷、角封に入れて送ってくる。捨て切れぬ名文。私も不躾を詫び何らかの形でとおもいながら矢張りズボラしている。そんな自分自身が腹立たしいことだ。
鏡餅うもれて机辺散乱す 憲吉
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―――――――――――――――・十二月三十一日
中塚一碧楼を寮に迎えた日、東京は大雪であった。高橋晩甘ほか三名同伴。これは先輩鈴木あつみの斡旋であった。学生のわたしは滅多に着ない和服それも羽織を着ると袖口が会わない、それをしきりに気にしながら運座に加わった。先生の出句は、黄半紙に薄墨六朝くずしはもっとも美しかった。めいめい十句、記名入。兼題、席題、披講などに馴らされた私には「なんと純粋な」という感じがした。先生は回って来る句稿を叮嚀に見ながら含むように復唱、その果に○一とサインする。これが入選なのである。皆もそれに做う。一順後ふたたび全句稿は先生の机上に集まる。そうすると一枚ずつ叮嚀に見ながら○一の句をもう一度嘆ずるように三四回、いい句です、とぼっつり言われる。真の詩人だと思った。
私が大阪へ来てからも有沢木染月から誘われて二回「海紅」の会へ出た。総髪、黒づくめの和服。柔和な顔が時折眼鏡を透してみせる鋭さ。社会主義者でクリスチャン〈病めば布団のそと冬海の青きを覚え〉は絶唱。また一碧楼忌が来る。<敬称略>
(令7,1月号に掲載)
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―――――――――――――――・春 雪
今年は東京も大雪が降った。わたしが中学入学後ふとしたことから伊東水亭という先輩と知り合った。その頃詩を書いていたわたしに、「俳句」をやらぬかと勧めてくれた。
青山にその方の親戚で海軍大佐というのがいて、月一回その宅で句会がひらかれていた。指導者、その頃は宗匠と言われたものだが、茶色の頭巾をかぶった品のよい老人が、後から来て満座の中を通って床の間につくならわしになっていた。三月のこと、東京はめずらしく大雪で当時の市電はうごかなかったが、わたしはその月並会のため徒歩でニ時間半かけて、定刻に会場に入った。このグループ常時参加者三十名程。勿論小生は最年少。宗匠から「小天狗」というニックネームをつけられた。後日この会が旧派だと知った。
東京の春雪といえば桜田門外や二・二六事件など想い起すが、わたしが誕生した六十八年前の三月三日も大雪だったそうだ。
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―――――――――――――――・人 温
二月八日は旧の小正月。その日招かれて府営住宅の中にある会館へ行った。発起人三名連記の案内だったが、二三の内儀の接待もあってか、古いながらも掃除が行届いていた。
机上には、菓子、ビール、酒、つまみ、果物それに鮓桶といった具合。それにちらちらと雪が降ったりして、ちょっとした婚礼祝いといった感じだ。十二、三名集まったところでHが発会の挨拶をした。それから前触れは俳句の会という事だったので、私は一人一句と決め、司会者に一句ずつ黒板に書かせ、それに基いて俳句のこころ、作り方、味わい方を説明、添削をし、皆にノートさせた。この方法はこの会のような初心者の方々には受けた。一通り廻って乾益となったが、その先は余興に弾んだとの事。風邪の為中途で辞したが、きまりきった句会よりローカルカラーがあって懐かしさを覚えた。
その籬をめぐらした住宅街、いまでは、三分の一を残すだけ。辞すとき門口に××会発会式場と達筆になる貼紙を見ながら、ダムに沈む村のような寂寥感を覚えた。 (令6,2月号に掲載)
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―――――――――――――――・ステッキ
はじめて書写山に登る。ロープウェーと馬車。 乗りついで程なく摩仁殿まえに着く。そこで歳月に寂びた荘厳で華麗な殿堂を仰いだ。
Tさんは門前からしきりに賛嘆していたがやがて茶屋へ入ってしまって参詣しようとしない。 眼前に垂れている石段が可成りの高さを見せていたからであろう。
そう言えば昨日駅へ迎えに来てくれたとき「これが一万数千円とは」と言いながら、ステッキを見せていた。
彼と交際してから既に五十余年その間事業をともにした事もあったが若し俳句の繋がりがなかったら、とっくに縁が切れていただろう。
円教寺の石段が彼を拒んだのも、このステッキの一件でわかったが、蟬声の中で俄に老を感じさせられた。昨夜の歓談、 これも過去の事ばかり、 互に喜寿を越したものよとの感が強い。下山のロープウェーから蜿々と美しい夢前川を見た。 そして来しなに見た川辺の曼珠沙華の炎いろを瞼に、いつ又、 会えるかなァとおもったりした。
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―――――――――――――――・蕎 麦
戦後間もなく上京したときのこと。雲母東京支社は当時、神田和泉町にあった。そこで偶然、蛇笏先生に会った。附近にうまい蕎麦屋があるからというので先輩、石原舟月に昼を誘われた。言わずと知れた「ざるそば」だ。立て混むから予め数を決めねばならぬというくだりになって、わたしは他に面会の約束があるため「一つ」両先生は「二つ」ずつ発註した。さて配られて来た「ざる」を啜り出したものの、わたしの速度は、まさに新幹線なみでみるみるご両氏を抽いた。追加をするからというので、遂には蛇笏、舟月の前の二つ目とも見事に片付けてしまった。そして追加分が来るまでに、さっさと喰べ逃げの格好となった。
修学旅行の折、軽井沢で停車中、夜霧につつまれながら「お代わり」をしたこと、本郷赤門前の「そぱ喰ひ競争」で、成績を挙げたことなど思い出が多い。
その蕎麦の原料も、ちかごろは殆ど輸入していると聞くが、わびしい限りだ。
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―――――――――――――――・泰山木
私の住むところは、行政のそれとは別に桜台という名がつけられている。桜の並木がある高台だからだが、今年はあの寒さのあと、さっさと咲いて散った。といえば梅を魁けて本年はどれもこれも早く咲いた。まず庵主鍾愛の麝香藤。純白で芳香を放つ、ゆれるとき妖気をただよわす。いつもは天皇誕生日ぐらいが最盛なのに四月初旬からどっと咲いた。
拙宅では「薔薇園への招待」という行事があって毎年、俳句の友人に寄って貰っているが、そのバラも今年は極めて開花が早い。五月甘九日のそれまでもたせたい念いで、家内が次々に剪るのだが、どぅゃら最盛期は過ぎたようだ。白、黄、紅それにブルームーンという名の淡紫色など、惜しいことだ。その代り鉢植えをも含めて三十あまりの杜鵑花がいま、まっ盛り。しかし、これよりもうれしいのは泰山木。毎年父の日に決まって純白な珠をつけるが、これが当日間に合うように咲いてくれるのではないか。二十米の喬さ、すでにつけている蕾を数えながら期待している。
(令5、5月号に掲載)
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―――――――――――――――・大 先 生
文学の友人というより悪友である。こちらも衰えて飲めなくなったが、Zが来ると否応なし、遂には梯子を担がねばことが終わらない。彼が京都在住の頃はよく寿司の折を提げて、家内にあやまり旁々茅屋に泊っていったものである。
どこへ行ってもママやウェイトレスが出て来て「先生」という。彼はダンスの名手。そのことは一緒に登山した時フットワークで確認した。この調子だったら柔道でも敵わないナと思ったことがある。彼ばかりもてていては、とウェイトレスに「あれは俺の弟子だ」と言ってやったら皆がおどろいた。それ以来自分は彼と同行するいたるところで、大先生になった。彼の遍歴の中には潤一郎の末弟谷崎修平やギタリストの加藤や画家の誰彼れなど多くの名が出てくるが、殆どがバッカスのつながり、その彼も三度目の胃潰瘍で酒はつつしまねばならなくなった。見舞に行き彼の前でビールをおけるのも一寸罪のようで、また佗びしい気がする。
(令4,8月号に掲載)
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―――――――――――――――・凌霄の花下にて
「わたしを誰だが知っていますか。」去る八月廿四日の晩、こんな電話に出たわたしは、いろいろ名を挙げてみたがあたらない。
昨秋、赤穂吟行の折、陶仙(往時、岡山在) の消息を聞いたが、「自分も探しているんだが、どうやら死んだらしい。」という。電話の声、はてなと審しんでいたら、当の佐々木陶仙だという。
わたしがNHKの人気番組(后七時五十五分)にちょっとしたことで、ほんの一瞬間白髪頭をみせた。それを緒に懸命の追跡があって連絡がついたという。そこで三十年の空白が、嘘のようにすっ飛んだ。わたしは、またひとつ大儲けをしたと思った。ここ三年来秋田の碧浪、赤穂の鳴潮などと共に「河骨」の残党が現われたからである。しかも今度は鳴潮の隣りの町から発掘されたと聞いて驚いた。九月一日に来訪を受け、大東亜戦争を中心にお互いに、ばらばらになったが、禿頭、白頭を突き合はせて感無量であった。
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―――――――――――――――・ひぐらし
秋ちかい某日、大山詣りで有名な阿夫利神社へ登ることになった。一汽車遅れ、皆にはぐれて平塚から一人で歩いた。目的の神社へは、石段を一登りすると踊場のような広場に出、さらに磴、広場と断続していた。蜩がさかんに鳴き、宿引の声がかかるようになると流石に心細さを覚えたが、それでも登りつづけると、突然と四、五人の乞食が現われた。乞われるままに大型の二銭銅貨を奮発。次の広場に出た途端、ここでまたパラパラと乞食に囲まれた。それを過ぎるとまた別の一団に襲われるといった始末、参詣客ひとりいないところ、蜩や法師蟬の鳴きたてる中で肌寒い思いをした。最後に小銭がなくなったので「やる金がない」と言ってやったら、中の一人が「下で呉れていたを見た」といって手を出す。仕方がない、交渉して一円札で釣を貰うことにした。古今東西、乞食から釣銭をとったのはわたしだけだろうと思いながら、わたしは掌中の九十八銭の温みを感じた。
東京、在学中のことである。
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―――――――――――――――・二人にふたつ薬箱
老耄憲吉、この三月三日を以て満七十五才。市役所から初めて敬老金五千円也をわたすから取りに来いと云って来た。敬老月間に入ってからの事で有難いが、ちょっぴり淋しい気もしないではない。忙しいのでその侭にしておいたが、期限が切れる、折角だからと老妻が市役所へ出向いた。それで確かにいただいて来たのはよかった。しかし帰って来てから「眼鏡」がないと言う。家中さがすことは常ながらで、気にしていなかったが、本当にない。市役所へも問合せたがそこにもない。これは一刻も放っておけないので、定めている大阪北区の老舗へ伴かねばならぬ仕儀となった。そこで検査の上、三万円ほどの眼鏡を新調したわけだが、市役所へ遣ったこと自身、大きなマイナスとなった。金銭ではない、時間のロス。大変な時間どろぼうに見舞われたわけだが、ご当人、片方見えぬ眼をしながら、けろりんとしている。この山椒魚。何かの因縁と諦めるほかない。
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く 日野草城
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―――――――――――――――・肥後っ子半遊
日立製作所に安田万十という月斗の門人がいて、顔を出すたびに[同人]をすすめられた。私はすでに決意していたので辞わったが「雲母」の話が洩れて同じ課にいた磯野半遊と知り合った。昭和十一年のことだ。後彼が転職するたびに相談に与ったが、いつでも一流企業に迎えられた。仕事における熱意と手腕は見事だったが、俳人仲間では傲慢不遜のレッテルを貼られた。彼を知る者からすれば、実は稚気愛すべしと言ったところだがー。
「明眸のまた爽かに姉いもと」という拙句は彼の帝塚山宅での即興。清楚な二令嬢がいた。古瓢先生との大切な出会いも彼の企みであった。
後住の羽曳野で彼の自慢の庭を見にゆく約束をしていたが、果さず千葉へ転住してしまった。「蘇鉄」に句を見られないのが淋しいと書き送ったことがあるが、投句歴四十余年の「雲母」七月号に「ぼうたんや愁の色の仏達」の一句を残して彼は七月十日に世を去った。いま飲めば顔いちめんに笑う大兵肥満の彼が私の前にいる。
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―――――――――――――――・人みな師なり
目の前の小さな鉢を見て、これはなんという植物、と主人に聞いたら路傍で摘んで来た虎杖だという。わたしが羽曳野へ移ると間もなく町外れに瀟洒な理髪舗が開業した。爾来わたしは常連となったわけだが、こんなことがあってから、ここの主人に敬意を払うようになった。花や観葉植物はいつも鏡前に、或いは天井から吊るされるのだが、寒中でも欠かしたことがない。靱草など拙宅では珍重がっていたものも一年で枯らしてしまったが、ここでは毎年お目にかかれる。天井から垂れる蝙蝠蘭にしても、店内ところ狭しとおかれる皐月のたぐい、 エトセトラ。化粧水にまじって芳香を放つ。主人は通いだが自宅には十年を越す金魚が何匹もいるという。花後に施すお礼肥、金魚の飼い方などを教えられたが、まったく愛の行為そのものだ。はじめ墓場がみえるこんな店で都会なみの料金なんてと思ったが、流石は住友本社ビルで修業した人だけあって、ともすると失いがちな、まごころを示してくれる。有難いことだ。
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―――――――――――――――・負けずぎらい
有志吟行の時は、わたしもよくすすめられた。すなわち二、三台の車に分乗、ある時は一泊したりした。その吟行には何をおいても参加した彼女であつた。
この事はどこへ行った時だったか、車が中古車センターの前を過ぎようとした。ゎたしが彼女にそれを指した。彼女はセンターに張られた万国旗をまぶしそうに見ながら肯いていた。その後わたしはうとうとしていたらしい。肩を突っかれて、ひょいと外を見るとまさにポンコツ車の山の前を通り過ぎんとしつつあった。肩を突いたのは紛れもなく彼女だろう。にたりと笑った。車中の喚声。このパントマイムには完敗した。
きものを着たときは、その眉目とともに衆目を率いた。まして頭の切れ方の素晴らしさには魅力があった。以前から謡から能へとその深さに惹かれていたが、その指導に、といって、いつとはなしに俳句から遠ざかっていった。退きぎわにこんな旬を残してぃる。
一敗地にまみれ夕日の唐辛子
(令5,2月号に掲載)
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―――――――――――――――・まぼろし
いま、わたしの眼前に銀?色をした円筒状のものがおかれてある。
「偕老同穴」だという。いままで単に「ことば」だとのみ思い込んでいた自分は咄嵯に、まぼろしの正体をつかんだ感じだ。格子状に正確な網目をもつ絲瓜のような海綿動物。おそるおそるその円筒に触れてみると、かなりの硬度と弾力性があり、その中に赤茶けた中指大のものと、小指大のものが、ぴったり添っているのが透けてみえる。ドウケツエビと言うのだそうだが、この雌雄にカイロウドウケツとは、つけもつけたりの呼称。立派な桐の箱に「偕老同穴」と達筆で誌されてある。見せてくれた従兄弟の話によると、この採集に懸命なご仁がいて、二十数年もかかって何匹かを獲た、その最たるものの献上品だとのこと。深海にいる海綿の類だというが、大夕立のあとの?しぐれの中で、自分も深海にいるような錯覚にとらわれた。
石清水八幡宮の応接室でのことである。
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―――――――――――――――・みつばの花
「あれが三文詩人の花だ」と私は庭の一隅を指した。十数名が茅屋に集まったときのこと。たちまち数名が庭へ下りて行って、しげしげと見ていたがその中で「ほんとに身につまされる思いだ」と言う男の声を聞いた。
わたしが昼間、家にいることは稀だ。日曜、祭日も殆どいない。たまたま在宅とあればこのような集いのある時だけ。でも出掛ける前に狭庭をみてあるくのを楽しみにしている。ある朝ふと佗びしい花が咲いているのを見つけ、家内に聞いたら三葉だという。葉を見直してなるほどだと合点した。大根、人参、馬鈴薯の花など、みんな地味で俳人好みだが、この風にでも消えそうな白色五弁の三葉の花は、茅舎にもまた老俳をかこつ憲吉にも、まことに似つかわしい。発見したその日の句会で
三葉の花さかせ三文詩人たり 憲吉
と詠んだのが、そもそもの始まり。今後も仲間からこの三葉は花が咲いても咲かなくても「三文詩人」と呼ばれることになりそうだ。
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―――――――――――――――・明治はまだ健在
二月十七日は雨。寒い日であった。「早春」の南畝主宰の葬に池田の法円寺に馳けつけた。一月の秋田行の風邪をこじらせていた最中である。寺苑で樹下に杖をつきながら焼香を待っておられる古瓢主幹とその傍の草風氏に出会った。霊前へは階段を上らねばならぬが主幹のあの大体躯軀を支えるには脚が弱っていて叶わない。幸い喪主側の藤本阿南先輩の計いで魁けて焼香をさせてくれるというので、草風氏と自分が介添してともども焼香を上げた。
また二月二十日「くれなゐ」「ひこぼえ」の合同句会。場所は西宮戒神社境内の旧、岩倉具視邸。この日も風邪に加えて目を患っていたが、無理を押して出席した。「くれなゐ」の大川主宰の極度の眼疾は周知の事だが、当日はさらに片方に眼帯をかけておられた。
葬式と言い、句会と言い、若しも自分が義理を欠いていたら、既に傘寿を越えた両先生に対し、とんだ恥をかくところだった。
気骨、義理、人情、明治はまだ健在だなァとおもつたことである。
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―――――――――――――――・旅 愁
この四月、群馬からの帰り、上野の駅頭で雨の中に明滅する「須田町食堂」のネオンを見付けた。場所が違う。はてなこんなところにと思ったが、大東亜戦争を挟んで茫々五十余年。ここにあるのはあの須田町食堂なのか或は分店なのか。
もとは万世橋のほとりにあつた。そこへ学生がよく出入りした。カレーが三銭、ビフカツが八銭。いつも満員だった。わたしらも広瀬中佐の銅像を見ながら学帽を小脇にかかえながら、よく飛び込んだものだ。
そんな事をおもいつつネオンを見ていると銀座の「カフエーパウリスタ」が目に泛んで来た。開店早々のそこで、 エプロン姿のウェイトレスに囲まれ、 ハイカラな椅子にかけて生れてはじめて焼林檎というものを食べた。
一滴も飲まないわたしには、その味もまた索漠たるものであった。この「パウリスタ」がカフエーのはしりになったとか、また鹿鳴館は別として民間のダンスもここから流行したとはあとで知った。
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・湯豆腐
例の寿司屋でのこと。文学関係の予て顔見知りの人が帽子を冠ったまま、枡酒を飲んでいる。今日は一人らしい。見ると枡酒の隅に塩が盛られている。これは通だと思っていたら、U字の向う側から会釈された。そして何やら書き出したが、やがて「小生、散文のみで、めし喰ろうていますが、先生の本の俳句表現が旧来の概念を越えて、ひと つの短詩なのです。秀れた短詩、サンボリズムなのです。「父の日の父とまり木にゐてひとり」などとやられては散文家はかなわんです。こんな走り書が、止り木の向うから届いた。返書をと、おもっていたら丁度隣席が空き、さっさと彼氏が移って来た。「正直なこと、あの句を見せられたとき、腹が立って夜も寝られなかった。散文が軽蔑さ
れたようで」と言った。
私は湯豆腐をつつきながら「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の句をメモに、晩年の万太郎の話をした。彼氏大いに感激し、これから俳句を勉強すると言いだした。早大の文科出というから、期待してもよさそうだ。
(令4,12月号に掲載)
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―――――――――――――――・友 情
奥仲不及(後・旻天)この人との初対面は昭和5年。東山東風子の紹介である。恰も長谷川零余子の長逝直後で、この年に後継誌が二つに分れた。「大阪枯野会」は「ぬかご会」として活動していたが、分裂を機に「河骨」を拠り処にした。私が東京で句会報として大正十五年に出した小冊子。東風子、松野黄楓、鳥越潤郎、中村天仙果、滝天ぴょう、佐々木句魂など月々三四回は集まったものだ。かくして東風子門の面々も加わって来たが、女流の守都千賀女(水明同人)と旻天を除いては皆故人となった。「河骨」が新興俳句勃興時一時逡巡していた。その時、東風子を主宰に旻天、射干子、鳴潮らが「潮騒」を出した。
これも暫くして廃刊。私が蛇笏門に入り終戦直後「鷹之巣」を出したわけだが、その時彼は快く参加「ひこばえ」へと移行した今日まで絶大な協力をしてくれている。
「しんがり旻天」という愛称の通りおっとりしているがダメは必ずこの人のお世話になる。
万事控目ながら芯が強く、曽て愚痴を聞いた事がない。凡愚憲吉、多くの人材に恵まれているがその中の彼も古稀を越した。
(令4,11月号に掲載)
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――――――――――――――――・龍 胆
今日は午后から句会がある。席をしつらえてからベランダで秋の日を浴びていると、突然「龍胆が咲いている」と家内のこえがとぶ。そんな筈はないがと庭へ下りてみたら、たしかに咲いている。きっと吟行の折どこかで採取して来たものだろう。
もう一年半経つと私は満七十才になる。これを機に会社を引退する覚悟でいる。すでに秒読みに入ったわたしの生涯、なんとかして一日も早く俳句三昧に入りたいものと希っている。そんな矢先、またどっと仕事が持ち込まれた。幸い、人が驚くほどのタフだが、文字通り阿修羅の中にいるおもいだ。
秋の午後、その日ざしを、茶道ではもっともいつくしんでいると、その道の人から教えられた。なるほど「和敬静寂」だな、と合点したものだが、ふと、われにかえると、陶卓に植物図鑑をひろげている自分は忙中閑。貧しい庭、乏しい生計ながらその中に贅沢をつくしていることを思い、しみじみと有難さを知らさせられたことだ。
(令4,9月号に掲載)
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―――――――――――――――・六月の軸
龍の下に天と書いて、この一字が「えん」その下に以という字がつづいて「えんい」となる。もとはと云えば「将来代議士にでも」と言って命名下さったのだが、昭和十四年当時でも読める人はいなかった。漢和大辞典でなければ載っていないが「明らかなることこの上なし」という意とは後日先生から教えられた。奉書に筆太で「千鶴万亀」と達筆である。それに極上の反物を添えて蛇笏先生から祝わられたという、由緒正しきものだ。
最近、謄本をとって、この名が誤って登記されているのを発見した。さて、それを訂すためには裁判所に手続きをせねばならぬ。さすれば先師にはまことに申訳けのないことだが、これを機に音は違っても意味を尊重した当用漢字に変えるも、強ち悪いことではない。
名刺を刷るにも字がないし、だいいち書いても通じない。こんな悩みも解消するためにもーーと不遜なことに考えついた。蛇笏の書はそのまま軸にしてあるが、次男の処へはわたさず、毎年誕生日に掛ける。その六月を前にして何とも割切れぬ心地である。