ジャッキー・チェン年表

ジャッキー・チェンの歴史

I AM JACKIE CHAN―僕はジャッキー・チェン 初めて語られる香港帝王の素顔

ジャッキーが生まれてから偉大な世界のアクション・スターになるまでの歴史で主なことを取り上げて略年表にしてみました。年代などは参考文献などにより多少前後していますが、近代映画社の「I AM JACKIE CHAN ジャッキー・チェン著」を主に熟読してまとめました。

なお、このページは現在執筆途中です。

ジャッキー誕生

1954年

4月7日、チャールズ・チャン(陳志平 家系図上では房道龍 国民党軍の退役軍人で大使館の料理人)とリーリー・チャン(陳莉莉 家系図上では陳月榮 同じく大使館の家政婦)の間に香港で生まれる。港生(コンサン)と名づけられる(家系図上では房仕龍であることが後に分かる)。母胎の中に12ヶ月もいたため、12ポンドもある巨大児だった。そのため、両親からはポーポー(大砲という意味)というニック・ネームで呼ばれる。中国大陸の共産主義革命から逃れるために英国の植民地である香港にやってきた家族にとっては、決して楽とは言えない極貧の酷い生活だった。

わがままと喧嘩の毎日

幼少期

苦労と規律を重んじる父親から、幼少期より訓練を受け、クンフーを学ぶ。父親の思惑とは裏腹に、強く傲慢になっていった港生は喧嘩ばかりしていた。ナンホア・アカデミー小学校へ行ってはみても勉強は全くせず、落第、退学。これがジャッキーの最終学歴である。

中国戯劇学院に入学

1961年

7歳の時、父親がオーストラリアのアメリカ大使館でで料理人の職に就くために学院にあずけられる。過酷な訓練が始まり、10年間を過ごすこととなる。ここで恩師のユー・イェムユン(于占元)や兄貴分(ビゲスト・ブラザー)のサモ・ハン・キンポー(洪金寶)、弟分(リトル・ブラザー)のユン・ピョウ(元彪)たちと出会い、侵食を共にする。サモ・ハンやユン・ピョウらと共に「七小福」というグループに属し、京劇の巡業をする。

映画初出演

1962年

8歳の時、台湾の女優リー・リーファと共演。

初恋

1970年

学院の代表として参加したイベントで、同じ舞台に立つオー・チャンという女の子に恋をする。ジャッキーのとって彼女は特別な人であり、何十年も経った後も、彼女の幸せのために影ながらの応援をした。

中国戯劇学院を去る

1971年

京劇の時代は終わり、学院を去ることを余儀なくされる。そして仕事もないまま映画界へ。

スタントマン

1971年

サモ・ハン・キンポーの助けもあって、スタントの仕事をする。オー・チャンとの別れを機に、危険なスタントにも果敢に挑み、スタントマンとして認められていく。サモ・ハン・キンポーやユン・ピョウたちとも時々交流を重ね、仕事にありつけない日々も夢を語り合う日々を送る。

最初の主演、そして最初の失敗

1971年

同じく学院から映画界へ入った先輩(ビゲスト・シスター)の紹介で、「廣東小老虎」(タイガー・プロジェクト)の主役として出演するが、ギャラも出ない低予算のひどい映画だった。この時のクレジットは陳元龍。

ブルース・リーと共演

1971年

ブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」で悪役ミスター・スズキのダブル(スタントマン)として出演。顔が映るのはオープニングの一瞬のみ。同じ学院のユン・ワーはブルース・リー自身のダブルを行っている。

最初のスタント・コーディネーター

1971年

「The Heroine」という映画で初めてスタント・コーディネーターを務め、日本人の悪役を演じる。初めてロー・ウェーと会った作品でもあり、この後の「ドラゴン・ファイター(1972)」共々、大失敗に終わる。

燃えよドラゴン

1973年

ブルース・リーの「燃えよドラゴン」でスタントをする。サモ・ハン・キンポーはオープニングでブルース・リーと闘っている。

クンフー映画が下火に

1973年

ブルース・リー(享年32歳)の死亡を機に、アクション映画界が下火になる。

一文無しに

1973年

仕事もなく、わずかな貯金も酒と博打に使ってしまい、泣く泣くオーストラリアの両親の元へ行く。

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