ナツノヒト
今日は前々から約束していた"G党海の日"。男3人+女の子のちょっと変わった組み合わせのおれ達が初めて海に行く。勿論それは水生ちゃんが名付け親だ。今回の待ち合わせはいつものいせや前ではなく、水生ちゃんの部屋の前になった。お弁当を作ってくれる水生ちゃんに莫大な量の荷物を持たせるなんて出来ないからだ。なのでおれは原付をハイツの駐輪場に停めさせてもらって部屋まで迎えに行った。チャイムを押すと、まだ眠そうな水生ちゃんが出てくる。
「おはよう」
「おはよー。まだちょっと時間あるよね?あと少しで完成なんだけど、良かったら座って待っててくれる?」
「あ、じゃあお邪魔します」
おれは素直に部屋に上がらせてもらって、窓のそばのベッドにもたれてフローリングに腰を下ろした。冷蔵庫から出した冷たいお茶とグラスをおれに手渡してまた作業に戻る。その柔らかい手が作るおにぎりを眺める。器用なもんだ。おれなんてまともな形のおにぎりができあがる前に放棄して、口の中にほおりこむ方が多い。手づかみでご飯を食べているのと同じということだけど。あくせく働く水生ちゃんの観察をしていて、つい悪い気になってしまう。
「良かったら何か手伝おうか?」
「ありがとーすごい助かるー!じゃあこの揚げ物を移していってもらえる?あたしこれでも早起きしてやったつもりなんだけど全然時間足りないよ。10人分位作ったかも。でもね、なんかすごい楽しい!」
おれの方を見て喋りながらも手は決して止まらない。何だかいつもとは違う雰囲気の水生ちゃんを知ったような気がして、少しの戸惑いと優越感を覚える。全部の作業が無事に終了した頃には約束の時間をオーバーしていた。テキパキと動く水生ちゃんのようにおれがもっと働いていたら、時間は守れたのかもしれないけど。荷物を8:2位の割合で持った時、チャイムが鳴る。
「ハーイ!今から出るー!!」
水生ちゃんは叫んで鍵とバッグを抱えてドアを開けた。立っていた酒井にお弁当@を持たせて、おれが出てすぐ施錠した。キーホルダーを掴んでバッグにしまう。酒井はただただそれを見ていた。
「おはよー!遅くなっちゃってごめんね!カオル君は下?」
「おう」
「はい出発ぅ!」
酒井は少し眉間に皺を寄せて不機嫌そうに水生ちゃんの後ろについて階段を降りた。どうしておれが一緒に出てきたか訊きたいけど聞けないといった表情だろうか。酒井はある意味優よりも判りやすい時がある。素直じゃない酒井の、唯一隠せない正直な答え。
「お弁当すごいんだよ!酒井いつもいっぱい食べるからめちゃめちゃ沢山もー絶対作りすぎっていうくらい作ったの。だからおなかいっぱい食べてね」
「おう」
「嬉しくない?嬉しくない?」
「有難いです」
コンクリート色の無機質な階段を水生ちゃん酒井おれの順番で降りる。振り返り振り返り話す水生ちゃんはとても嬉しそうだ。酒井はどんな顔をしているのだろうか。思えば随分、見違える程酒井は丸くなった。理由は他でもない水生ちゃんだ。人間こんなに短期間で変わってしまえるのかと笑ってしまう程、部室もおれ達もたった一輪の花にいい意味振りまわされている。実にいい傾向。
地上ではカオルさんが車から出て、深緑のそれにもたれていた。おれ達を見て笑顔になる。
「おはよう」
「おはよー!今日のお弁当は超力作なのー」
「楽しみだね、朝早くからご苦労さん。先乗ってて」
トランクを開けると、パラソルやボードのカラフルな夏の代名詞たち。お弁当が途中で傷まないようにクーラーボックスに詰めていく。準備は全て整った。これで楽しくない訳がない。いつものように座席に座って出発する。スーツ姿のサラリーマンが横を歩く。いかにも行楽前のおれ達を目の端で見て駅までの道を急ぐ。こうなる前におれ達は目一杯遊ぼう。
「疲れただろう?寝てていいよ、ちょっと時間かかると思うから」
「うん、サンキュ。おやすみぃ」
軽くシートをリクライニングして水生ちゃんは眠る体制に入ったようだ。一言も喋らなくなる。車内には夏らしい音楽と軽いDJの声。間もなくカオルさんはフロントスピーカのヴォリュームを落とした。アンバランスな音量は水生ちゃんが寝た証拠。クーラーの音がやけに大きく聞こえる。幾つかの信号を超えて南下する。見慣れない景色が窓の外を高速で走り抜けている時に、酒井が後ろの荷物に当たらないようシートを倒した。両手を胸の上で組んで目を瞑る。何だか不吉な寝姿だと思っていたら、今度は両手を頭の下に敷いて眠った。手探りでカーテンを閉じて、また同じ格好に戻る。起きているのはどうやらドライヴァのカオルさんとおれだけになったらしい。何となく時間を持て余して、おれは当り障りのない話題を選んで話し掛ける。
「今日晴れてよかったよね」
「そうだね、日頃の行いがいいと言いたいところだけど、おれに限ってそうは断言できないかな」
「・・・続いてるの?年上のヒト」
考えなしについ訊いてしまったことにカオルさんは気を悪くした風でもなく、でも少し言葉を選んだ素振りで言う。
「一応はね、つかず離れずという感じ。オーナーだし、まあ居心地いいから」
「年取るまでにはおれもそういうのやりたいなぁ」
ルームミラーのカオルさんは何も言わずに口元だけで笑った。今バーテンのバイトをしていて、そのバーのオーナーと毎週決まった日に会って"報酬"を貰っているらしい。所謂愛人契約。バーテンの時給の何倍ものお金を得てはいるけど、世の中にはそんな形でしか表せない恋人もアリだ。何となく雰囲気が重くなる前におれは軽く訊く。
「また今度飲みにいってもいい?」
「いつでも。といってもおれ自身いつまでいるかは判らないけど」
「辞めるの?」
「まあ未定。これじゃダメだと思う時も一応はあるからね」
「おれはそういうのも経験だと思うんだけど・・・」
カオルさんはまた少し笑う。そんな話をしながら、カオルさんと知り合ったばかりの頃をふと考えていた。おれにそのケはないのを前提に、カオルさんの人柄も生活もおれには憧れだらけだった。いつでもカオルさんにくっついてあちこち飲み歩いた。知らない女の人と一緒に飲んだり寝たりすることだって平気になった。むしろそれを覚えてしまえば、決まった相手とだけ付き合っていくことが段々不可能になってくる。一ヶ所に落ち着きたくないし、落ち着けなくなる。煩わしく感じるのだ。ハジメマシテからキスやその後のプロセスさえ面倒になって気がつけば判らなくなる、本当に好きな女の扱いが。
会話が途切れる。
朝っぱらから何て話になってしまったんだろう。だからおれは自分から話したりするのが苦手だ。まともな口火を切れたことなんて多分一度もない。いつもこんな風に過ぎた時間と共に沈黙と思い空気がある。ルームミラーを伺っても、カオルさんは何一つ変わらない表情でいる。別にそんなことには全然構っていないような、いつも通りの注意深い運転を続けていた。
ああもう、何もかもこの人にはかなわない。
おれも何だかどうでもいいような気がしてきてシートを酒井と同じ角度に倒して目を閉じた。特に眠りたい訳じゃないけど、強い朝の日差しから目を覆うと体が楽だ。そうして少しずつうとうとしていくうちに、隣りの酒井がうめきながら体を起こす気配がする。
「どうかした?」
「いや、頭の下にこう手を敷いて寝てたらすごいビリビリで感覚が死んだ」
「・・・ステアリングを握っていなかったらイジワルするんだけどね」
カオルさんのからかうような口調に酒井は小さな溜め息を漏らす。目を開けてみると、何やら難しそうな顔でストレッチしていた。
「水生寝てる?」
誰に訊いたのか、酒井はひそめた声で問うた。少しの間の後にカオルさんが助手席の様子を確かめて答える。
「もうぐっすりだよ、イタズラしたくなる位」
「・・・・・・。ヘンに慣れたと思わない?4人で出掛けること」
「そうだね」
言葉少なにカオルさんは答えた。可もなく不可もない。多分酒井には物足りないだろう。また横になる。何だか子どもが不貞腐れているようだ。そう思って口元がほころびかけた時、首を捻った酒井と目が合う。
「おう」
「うん」
何がうんなのか判らないけど、おれはそう言って酒井の次のアクションを待った。
「男同士が向き合って寝るなんておかしいな」
神妙な表情で酒井は遠くない天井を見た。おれも天井を見る。少し暑い位の車の気温を感じながら、今度こそうとうとと眠りに入る。
車の発進するディーゼル音で目が覚める。窓には知らないおとなしい街並みが流れている。リクライニングを戻すと、ルームミラーのカオルさんと目が合う。
「もうすぐ着くよ」
「・・・うん」
首や腕に汗が滲んでいた。ラジオはいつのまにか絞ったヴォリュームのおとなしい洋楽、カオルさん好みの。エンジン音がよく聞こえる訳だ。
車は間もなく海辺の駐車場に滑り込む。いいタイミングで酒井が起きた。大きく伸びをしてまたストレッチを始める。小気味よい音で関節が鳴る。
海は地元のビーチという感じだった。斜めになったやけた砂浜に、今にも崩れそうな海の家。無造作に詰まれた浮き輪たち。寂しい風景というよりは平穏でありふれた田舎の日常的なそれ。駐車料金も西側に比べたら驚くほど安い。カオルさんが車を停めてサイドブレーキを引くと同時に、待ちかねたように酒井が飛び出した。おれも外に出て体を伸ばす。酒井は乱暴に助手席のドアを開けて、水生ちゃんを揺り起こした。
「起きろよー、着いたぞー」
「・・・んー?あーわー海だー!すごいよく寝たー!」
カオルさんはカーシェイドを付けてトランクを開ける。重い荷物を手分けして運搬する。水生ちゃんの短いスカートが海によく映える。頭上の太陽は思ったよりも強い日差しを投げかけてくる。Tシャツの下の肌までもが見透かされるように焦げていく。
「カオル君運転お疲れさまー!」
「ありがとう」
水生ちゃんが手渡したアクエリアスのペットボトルが汗をかいて、手を伝って流れるがそれもすぐに蒸発してしまう。
暑い、今日も。
水生ちゃんは自分の荷物を抱えて海の家有料脱衣所に入って行った。その間におれ達は車の中で交代で着替えて、浮き輪とボードに空気を吹き込む。これは思ったよりもかなりの重労働だった。ドライヴァのカオルさんは当然免除で、おれと酒井が順番に黄色のポンプを踏む。広げたパラソルの下、カオルさんは横になる。少し疲れているようだ。
漸く膨らんだビニールのボードと浮き輪をそれぞれ枕にして、日光をさんさんと浴びて横になる。目なんて開けてられない。暑い、でもそれが気持ちいい。
「お待たせー。ねえなんかみんなへばってない?」
腕でひさしを作って目を開ける。漸く目が慣れた頃、大きいTシャツに高いサンダルの水生ちゃんが、砂に足を取られて立っていた。シートの上に膝をついて、日陰の下にバッグを置く。カオルさんは完全に眠ってしまったのか動かない。
「暑いねー!着替えただけなのに汗だく」
「よし、俺は泳ぐ」
酒井は額に浮いた汗もそのままに、立ち上がってビーチサンダルを揃えて脱ぐ。やけて熱い砂の上を海に向かって一直線に走り出した。あっという間にブイの横に浮かぶ。海には殆ど誰もいない、特に沖の方なんかは。
「酒井すごい!あたし泳げないのに・・・」
おれはミッキーのイラストの浮き輪を水生ちゃんに渡す。それを大事そうに抱きしめて、水生ちゃんは日差しに目を細めて笑った。
「あたし達もいこうよ」
水生ちゃんはTシャツを脱いで緩くたたんでバッグの上に置く。夏の太陽のようなハッキリとしたオレンジのビキニの水着に、思わず視線が漂う。ふと見ると肩のところに日焼け止めクリームのだまがある。それを指摘すると水生ちゃんは自分でやろうとして手を伸ばしたが、簡単に諦めたようだ。
「ごめんね、テキトーに伸ばしてもらえる?やっぱ自分では無理だね」
少し躊躇いながら指で広げる。熱い、白い肌。緊張してしまったような、いつもとは違うテンションに流されてしまわないように、機械的に指先を動かす。
「どうもありがとー!あれ、カオル君熟睡だ。寝てる顔初めて見たー、無防備でなんかカワイイね」
「腹の上に砂で絵を書くとか」
「だめだめ、そういうのは酒井ならいいけどカオル君にやっちゃだめ」
「はは、酒井ならいいんだ?」
「うん。何書いてもいいし、更に写真撮影もOKなの。ねえ酒井が寝たら後でやろうよ」
水生ちゃんは顔がほころぶのを抑えきれない様子で、本当に嬉しそうに笑った。カワイイ笑顔。つられて笑みになる。
サンダルを酒井のビーチサンダルの隣りに並べて脱いで、足先でそっと砂に触れる。
「スゴイ熱いよ、全力ダッシュしなきゃ」
浮き輪を両手で抱えて走り出す。大きなインターバルの小さな足跡が波打ち際まで続いて、やがて水の中へと消える。おれもその横を走って水に飛び込む。思ったよりも水は冷たかった。水生ちゃんは岸近くで浮き輪にぶら下がって瞳を閉ざしていた。波に揺られて、顔や腕の雫が反射して光る。おれは水中で所在なげに翻弄される髪に触れてみた。リンスしたてのような柔らかな細い髪は糸のようだ。
「あー・・・ホント気持ちいい」
「うん」
またそのまま寝入ってしまいそうな心から安堵したような表情。おれはなりふりかまわず少しだけ水生ちゃんに見とれた。ノーメイクの素顔も素肌も、強く惹きつけて放さない。夏の暑い熱い日差しが何て似合うんだろう。
誰にも見つからないようにそっと手を離す。ああ判らないよ、本当に好きな女の扱いなんて。
「ふー、もう帰りたくないねー。千倉に永住しちゃいたい」
「お―――い水生―――!」
遠くで酒井の声がする。水生ちゃんはまだ気づかない。このまま教えたくない、でも。
「・・・呼んでる」
「え?」
おれの方を向いて、水生ちゃんはまた目を閉じて俯く。おれの頭のずっとずっと向こうの太陽にその目を射貫かれたように。
「酒井が呼んでるよ」
「あー、今ホントに寝ちゃいそうだった」
両手で額を覆ってひさしを作る。小さな影の中はにかむ。その後ろを派手な水しぶきをあげて酒井が泳いでくる。水生ちゃんの浮き輪に頭突きした。流された水生ちゃんと浮き輪を支えてやる。
「おまえら何をこんなところでチンタラやってんだよ」
「うるさいっ。バカンス!ホリデイ!!子どもじゃないんだからやたらと泳ぎまわったりしないのー!泳ぎたいならひとりで泳いで」
「子どもだと?こんなのに乗っかってるおまえの方がガキだろうが」
酒井は水生ちゃんの置き輪をとりあげて後ろにやる。そして簡単に水生ちゃんを抱き上げて水の中に勢いよく投げた。悲鳴と共に上がる水柱、撒き散らされる飛沫。一瞬の出来事にフォローの余地もない。やがてずぶ濡れになった水生ちゃんが半泣きで立ち上がって、怖い顔して酒井を睨んで太腿を蹴飛ばした。
「痛ー。野蛮人だな」
「野蛮なのはあんたでしょー?!信じらんなーい、酒井キラーイ!」
「あぁあぁもう悪さしないから、とりあえず沖の方行こう。凄いキレイだから、マジで全然違うって」
「信用できんのー?」
「はい、ごめんなさい」
酒井は水生ちゃんに浮き輪を輪投げのように頭からかぶせて、両手を軽く揚げてみせた。水生ちゃんは髪をかきあげて何度か頭を振る。髪が波打って雫が舞う。
「ハイ決まり」
「陽一君ついてきてね。あたし酒井に置き去りにされるかもしれない」
「しねーよ」
酒井が嫌そうな顔で振り返る。水生ちゃんは両手で水をすくって、投げた。光が当たってひときわ輝いてから大きな海に還る。
3人でゆっくり泳いでブイを目指す。遠くに船が通過する度に波が高くなる。 それをおれと酒井は水生ちゃんの浮き輪につかまってやり過ごした。水藻だらけのブイまで辿り着いた時は、波に負けないよう上手に泳げるコツを掴んでいた。上下するのがむしろ気持ちいい。
外海は未踏の地のように美しい。濃い海色が太陽を受けて眩い光を投げかける。カオルさんのパラソルが遠い記憶のように小さい。いつの間にか3人共無言だった。
暑い。
太陽がじりじりと体を焼いているのが判る。何度潜って髪を濡らしても、気づかぬうちにすぐ乾いてぱさぱさに仕上げてしまう。普段ろくに使わない筋肉がリラックスして伸びやかに動いている。
「な、ここのがいいだろ?」
「でも・・・あたし何だかコワイよ。足が着かないのも人がいないのも、見晴らしよすぎるのも」
水生ちゃんは頑なに浮き輪を掴んでいた。気持ちは判る。それも、ついこ のブイの外に出てみたくなるような意味不明の衝動の恐怖も。
「でも水温低くて気持ちいい。サカナとかいるのかなぁ?」
「・・・どうだろう、さすがにそこまではいないんじゃないか。もう戻るか?」
「ううん、もう慣れたから大丈夫」
水生ちゃんはさっきと同じように目を閉じて浮き輪にもたれた。濡れた髪が額にはりつく。小さなかすれ声がハミングする。太陽とシスコムーンだ。
酒井はゴーグルの曇りをなおしてからその場に深く潜っていった。瞑想する水生ちゃんの邪魔をしないように飛沫を飛ばさないことが窺える。文字通り水を得た魚のように酒井は活発になっていた。面白い。海は水生ちゃんをおとなしくさせ、酒井を子どもに変える。
「何かたまにはこう・・・ぼけ――っとするのもいいよね。南の島に行きたいなぁ」
「・・・うん」
「ここの海いいよね、なんかバカみたいな音楽一切ないもん。波の音っていい夢見れそうだし」
「うん」
「海で遊んだこととか思いだすんだろうね、冬になったら」
おれの方を見て水生ちゃんは笑った。眩しくて目を上手に開けられないまま。このままどんどん深みにはまりそうで、おれは少し恐かった。判らないよ、本当に好きな女の扱いなんて。
「ちょっとおなかすいたね、酒井は?」
「いや、さっき潜ったまま」
水生ちゃんは酒井が潜ったところを見つめた。海はきれいでも酒井は見えない。少し不安げな表情でおれを見る。
「死んじゃった?」
「いやまさか」
「でもいくらなんでも息長くない?」
水生ちゃんがまた海を見た。その途端水生ちゃんの後ろから酒井が海面に飛び出してきた。必死の形相をしている。ゴーグルを外して浮き輪に置いた。
「あ――しんどい」
「もう心配するじゃない。ねぇ戻ろうよ、ゴハン」
「疲れた・・・連れてってくれ」
水生ちゃんの浮き輪に掴まって頭を預ける。水生ちゃんは水をかいて振り落とそうとしたが全然無駄だった。
「重いー重いー」
「手伝ってやるから、ほら漕げ」
酒井がバタ足を始めると、諦めたように水生ちゃんは手と足を使って泳ぐ。ベクトルが上手くかみ合っていないのか前へ進むのは難しいようだ。
「しんどいー!酒井邪魔しないでよぅ」
「効率よく泳げよ」
「そんなの判んないよー」
水生ちゃんがあまりに一生懸命なので、おれも手伝うことにした。酒井は動くのをやめて、ひとり口笛でも吹きだしそうな涼しい顔をしていた。
やっとの思いで岸に着く。熱い砂の上を全力で走ってシートに戻った。体が水に慣れ過ぎていてやけに重い。
カオルさんが目を覚ました。水生ちゃんの水着を誉めたが、水生ちゃんはTシャツを着てしまった。テーブルの上にお弁当を広げて、割り箸と紙コップを配る。水生ちゃんの隣りに酒井、その正面にカオルさん、隣りにおれが座る。
「いただきまーす!」
おてふきで手を拭くのももどかしく、酒井がおにぎりに手を伸ばした。おれはスティックのマヨネーズを皿の端に少し出してブロッコリをいただく。冷たくて美味しい。水生ちゃんはみんなのコップにお茶をついでからおにぎりを皿に取り分けた。
午後からはカオルさんも加わり、再び沖でバカンス・ホリデイする。水生ちゃんの命により酒井は浮き輪に体を通して爆笑を買った。おれ達3人はボードに並んで掴まってクラゲのように浮く。
夕方前にバーベキューの用意を済ませて、昼寝をすることになった。カオルさんは持ってきた釣り道具を抱えて岩場に行く。そんな趣味があったなんて知らなかったので、おれはちょっと意外だった。足を伸ばして寝たいと言った水生ちゃんを真ん中にして、3人でシートを倒しただけの簡易ベッドに横たわる。すぐに寝息に変わった水生ちゃんをよそに、当然おれと酒井は眠れない。このまま寝付けそうもなかったが、じっとしているのは得意なので目を閉じている。間もなく酒井が大きな溜め息を吐いて出て行った。
このワゴンには水生ちゃんと二人きりだ。だからといってどうとかじゃないけど。定期的な吐息が優しく耳に届く。クーラーの音がうるさい程でも、不思議と聞き分けられる。
まだまだ強い日差しをガラス越しに浴びながら、初めて会った5月のことを考える。緩いパーマのかかった茶色の髪。強がって無理にハキハキと喋っていた笑顔。仲が良くなっていくうちに惹かれていった。理由は判らない、今まで遊んできた人と何が違うかなんて。会合の後はいつも同じ電車、二人きりの帰り道。特別何も(トラブルも)なかったけど、少しずつ薄くなっていく服に夏と夏の到来を感じた。わざとに履かない高くない靴のせいの身長の差で右斜めのおれを見上げて話す。波の音が聴こえる。
砂浜の上を犬が走っていた。テトラポットに登ってそれを眺める。遠くからコートを着た那沖君が犬を追いかけて、砂に足を取られて派手に転んだ。おれはテトラポットから飛び降りてそのまま動かない那沖君に手を伸ばして、 目が覚めた。
車の中。倒したシートの上で寝ている。夕方。
一瞬で目が覚める。
利きすぎた冷房が水生ちゃんをおれの方へ押しやる。ぴったりと寄り添う体温。突き放せる訳がない。抱きしめたい、今すぐ。
無造作にうねを作る髪と穏やかな寝顔を見つめる。できる訳がないそんなこと。判っている。閉じられた瞳が自然にゆっくりと開くまでの時間、おれはせめて一方的な視線を送り続けていた。
「・・・おはよう」
「おはよー・・・、ちょっと寒いね。うーんよく寝たー」
水生ちゃんは寝転んだまま大きく伸びをして、暫く天井を見ていた。何を考えているのだろう?
予告なしに起き上がって冷房を切る。途端に静かになる車内。聴こえるのはディープグリーンのステップワゴンの息遣いと、遠くて微かな波の音。
「カオル君と酒井はどこなのかなぁ」
「まだ釣りしてるのかな」
「あたし達も行ってみようよ」
水生ちゃんがドアを開ける。昼間たっぷりと蒸された熱い空気が涼しい空気を蹴散らす。運転席に手を伸ばしてキーを抜く。外に出て、初めてキーレスエントリーでドアをロックする。気持ちのいい音がする。太陽の沈む方角へ歩いていく水生ちゃんの少し後についていく。細い体の影がオレンジになりかけた風景に馴染んで、とても幻想的に映る。ゆっくり振り返っておれが追いつくのを待っていてくれる。よく見えないけど、きっと笑顔なんだろう。ああもう。かなわない、何もかも。
判らないよ、本当に好きな女の扱いなんて。
第一章 SOUL MAN
第二章 GOD BLESS YOU
第三章 今日が終わる前に
第四章 それでも恋はやってくる
1 夏祭ナツマツリ
2 なつのひと
3 夏の神
4 ナツノヒト
5 夏の男
6 夏の女
7 サマーピープル
8 サマーバケーション