なつのひと
やっと試験が終わったので、僕はG党活動日以外の日を殆ど居酒屋のバイトに充てた。暑い夏の間しっかり働いて稼いで寒くなってからじっくり冬眠する動物達のように。その矢先、突然福岡の実家から電話があって、僕は冬眠計画をキャンセルして田舎に早い目の帰省をした。店長には大荷物を抱えて説明しにいくと、すぐに判ってくれて戻ってきてからバイトに戻ってきてくれればいいと言われた。理解のある人で良かったと思いつつ、新幹線に乗る。そう、同年代の親戚が交通事故で亡くなったという。水生ちゃんに会って話が出来なかったことを除けば、急に決まったこととはいえ円滑に進んだと思う。小倉駅に着いてからケイタイにかけたけど、話中だった。諦めて僕はモノレールに乗って家に帰った。疲れた顔をしている母親と一緒にすぐにでも会場に向かう。僕と同年代の彼の速すぎる死は、誰の心にも深い陰を落とす。無論あんまり付き合いのない僕も例外ではない。周りの雰囲気に呑まれて、何だか失恋してしまった時のような喪失感に苛まされてすっかり落ち込んでしまった。
式が終わっていきなり暇になってしまったので、不謹慎だとは思うけど僕は高校時代の友達に早速電話をかけてみた。喪服を着た血縁者達が騒ぐのと、血よりも濃い絆を持った僕達が集まるのとではどんな違いがあるというのだろう?というのが僕の一応の言い訳だったのだけれど。母親は疲れた顔をして、前僕が使っていた鍵を渡してくれた。ビニールのペタンコのミッキーマウスのキーホルダーまで同じだ。二人の兄達も何時の間にか出掛けていなくなっていた。出掛けるまでには時間があったので、僕は兄のベッドに横になった。思ったよりも疲れていたのか、2度の瞬きの間に眠った。
寝汗をタップリかいて目覚めると、日が幾らか緩くなっていた。時計を見ると待ち合わせの時間に近づいている。急いでシャワーを浴びて走って出掛けた。居酒屋に着くと僕が最後だった。
「ユタカ君遅いー!」
一番仲の良かったタカが女の子の真似をして言った。サッカー部の仲間が10人程と知らない女の子が何人か、僕が自分の中で言う福岡時代の彼女のナミ、そして僕。僕らの間で地元を離れたのはほぼ僕だけだった。だからこんなに集まりがいいんだろう。
「ユタカ帰還にカンパーイ!!」
タカは乱暴にビールを僕に手渡すと音頭をとった。何人かとグラスを合わせて冷たいビールを一気に飲み干す。隣りに座った人から沢山の情報をもらううちに、何杯ものジョッキが空になる。気分も段々良くなってきて、隣りに座るメンバーも目まぐるしく変わる。その度にサッカー部のマネージャー花田の『出来ちゃった結婚』の話になった。余程のビッグニュースらしくてみんな子どものかわいらしさを熱烈に語る。
メンバーの顔を見てニックネームを思い出していくうち、高校のこと試合のことつまらない小競り合いをしたことなどが次々頭の中で上映される。こういう感情を懐かしいと言うんだろう。
酔いも回って何人もが入れ替わる中、ふと見るとナミが膝を抱えた格好で鮮やかな色のカクテルを飲んでいた。
僕は人の足を踏んでしまいそうになりながら、ナミの隣りに座った。苦くなり始めたビールを廻してもらう。僕を見てナミはカクテルを飲み干した。
「ナミ、元気だった?」
「・・・・・・元気だったよ」
「お酒飲めるようになったんだ?」
「お付き合い程度には」
そっけないナミの態度に僕は困惑した。どうしたというのか見当もつかずに、かといってまたすぐ席を変わるのも憚られたので当り障りのない話をしながら打ち解けていくように努力する。
「変わりない?」
「変わり?何で平然とそんなこと訊けるの?今まで連絡くれなかったのはどうして?わたしずっと待ってたのに」
ナミはそう言って泣きそうな目で僕を見た。その視線を真っ向から受けて、僕は愕然とした。
待ってた?僕を・・・・・・?
信じられない話だった。僕はナミにからかわれているんだと思いたくなる程、僕にとってもナミにとっても酷い話だ。僕の中では僕が新幹線に乗った時点で終わったものだと思っていた。愛情が冷めたとかそういうんではなくて、遠距離になってしまったから。物理的に僕らは離れてしまったから。
「・・・・・・ごめん」
「わたしとユタカ、まだ別れてないよね?東京に新しい人いないよね・・・・・・?」
「・・・・・・」
僕はまともに答えられずに、目を逸らして俯いた。何を言えばいいのだろう?判別がつかないまま黙っていた。
「もういるの?」
「・・・・・・いる」
もうこれ以上の何が僕らを救えるだろう?
嘘はつけない。僕は素直に頷いた。ナミの瞳が悲しげに歪む。そしてふと思い出す昔のナミのこと。ハッキリとした性格、豊かな表情、それは僕がナミに惹かれていった理由だ。祭りの帰りにキスしたこと。僕の誕生日、お互い初めてだったこと。ぎこちなく彼女を抱いたこと。
水生ちゃんに好きだと告白して付き合い始めた6月、ナミのことなんて完全に忘れていた。それ以前も何人かと付き合ったけど、その誰ともしっくりいかなかったのは僕の中でナミのことを考えていたからではないだろうか。夜見た夢を朝になったら覚えていられないのと同じで。どちらにしろ、それはあまりにも勝手だしナミを上機嫌にさせることはない。
「このままずっと顔合わせないでいれば忘れられると思ってた。もしかしたらもう少しで忘れられたかもしれない。今日だってホントは来たくなかったんだよ・・・・・・わたし大学の同じ学部の子に告白されたの。今保留中で、ユタカと会って少しでも忘れられてたらOKしようと思ったの。やっぱりわたしユタカのこと今でも好きだよ。他の人と付き合うなんて考えられない・・・・・・」
ナミは少し青い顔して鞄を持って立ち上がった。タカにだけ挨拶してそのまま居酒屋を出て行く。
「今誰が帰ったの?」
誰かが一度そう言ったきり、ナミの話題は持ち上がらない。いれかわりたちかわりしていたせいで、アルコールが充分入った頭には気にならないらしい。僕はタカの所に行って成り行きを話した。難しい顔をして、タカは腕を組む。
「そりゃどう考えたっておまえが悪いわな。とりあえずおまえは今回の主役だから途中で抜けるのはマズイから最後までいろよ。もうすぐお開きだから、それから弁解しに行け。判ったな?話の途中でナミが帰ったんなら、少し時間をおいていいんじゃないか?な?」
「うん・・・・・・」
「何て顔してんだよ、まだ忘れられないってナミが言ったんなら修正の可能性は残されてる。もうおまえのこと何も思ってないならここには来ないだろ?おまえ逢いに行くつもりならそれ相応の覚悟はしろよな、東京のナントカちゃんと別れる覚悟あるんだろ?」
「そうだね・・・・・・」
「男として優しいのは一向に構わないが優柔不断は駄目だぞ」
「オッス」
タカは黙って頷くと僕に誰のか判らない生ビールを勧めてきた。温くなって少し苦いが文句は言わずに飲み干す。タカは満足げに笑って生中を二杯注文した。
それから密かに競い合うようにして、二人で黙々とビールを流し込んではトイレに通う。どれだけ飲んでももう酔わなかった。心の中でナミのことばかり考えている。今どこにいるんだろう。誰といるんだろう。本当にまだ僕のことを想ってくれているんだろうか?ナミに逢いたい。僕は無意識に時計ばかりを眺めていた。
ふと水生ちゃんのことが頭をよぎる。まだ僕が福岡にいることも知らない。こんな事後報告をどう思うだろう。どう思うだろうだって?誰だっていい気がするものではない。それを判って僕は平然とやっているように見えるのかもしれない。どうやって謝れば、いやそれ以前にどう別れを切り出せばいいんだろう。だめだ、今は水生ちゃんのことは保留しておこう。これを同時進行で片付けられる程僕は器用にできていない。それに今は頭が上手く働かない。アルコール漬けの脳が思考を拒否しているように。こんな『ドラマによくある話』が自分の身に降りかかるとは思いもよらなかった。
「さあそろそろお開きにしようか」
タカの一言でテーブルはざわめく。二次会に誘われたが僕は断ってタカからナミのケイタイを聞き出した。店の前でカラオケ屋の相談を始めた彼らを残して、歩きながら電話する。バッテリーが切れそうだった。雲行きが怪しい小倉の空。早くナミが出ることを願いながら、自然と早足になっている。モノレールの駅前に着いた頃、ナミは漸く電話に出た。
「もしもし・・・・・・」
「もしもしナミ?ユタカだけど」
「・・・・・・うん」
「今から逢いたいんだ。片野駅にいるんだけど、交番のある方」
「じゃあ迎えに行く。15分以内は行けるよ」
「・・・・・・ありがとう」
「じゃあ」
ナミが切るのを待ってから切って、ハーフパンツのポケットに仕舞う。ふと、思い立って来た道を戻ってコンビニに寄った。ヒロタのシュークリームを二箱買う。ナミはこれが大好きでしょっちゅう買って食べては"明日からダイエット作戦"を宣言していた。かわいいセーラー服姿のナミ。駅に戻りながら、高校時代の幼いナミを幾つも思い出す。
控えめに雨が降り出したので、思わず空を見上げた。速い速度で灰色の雲が流れていく。この雲は遠い東京まで雨を運ぶのだろうか。僕は屋根つきの陸橋の中程に腰掛けた。シュークリームを横に置いて、ひっきりなしに通る大通りの車をぼんやり眺めた。ヘッドライトに雨の小さな粒が吸い込まれていく。飽くこともなく見ていると、足音が上から聞こえる。条件反射で立ち上がって振り返ると、ナミが傘を2本持って歩いてくる。膝丈のワンピースを着ていた。さっきとは違う格好。蛍光灯の下、焼けた脚が伸びる。底の厚いサンダルが一歩また一歩と僕に近づく。僕より二つ上の段で止まって、ナミは僕を抱き締めた。視界がナミで遮られる。紺のチェックが優しい綿の肌触りを伝える。モノレールが着いたのか人が僕らの横を通り過ぎていくけど、僕らは構わず抱き合っていた。
言葉がない。
がむしゃらにナミを抱き締める。ダイレクトに心音が聞こえる。一通り人通りが途絶えるまで、僕らはお互いを固く抱き締め合っていた。
「わたし今家出てるの」
ナミの声が身体と耳の両方に届いた。それ以上言わなくても判っている。
歩いて10分弱のマンションの5階で、僕らは畳の上で服を脱ぐ時間も惜しんで肌を重ねた。久しぶりの女の匂い、体。何度も暗がりの中で確認するようにナミを抱く。この声も髪もナミのものだというのを感覚で思い出して、不思議な気分になった。
あっという間の出来事に寝転んだまま、半ば放心してしまう。また昔のように僕を優しく暖かく受け入れてくれるとは思わなかった。ナミは僕の頬にキスをして、僕のTシャツに袖を通して台所でやかんを火にかけた。それを眺めて脱ぎ捨てたズボンのポケットからタバコを出して火を点ける。
「灰皿になるものある?」
「ベッドの横にあるよ」
「え?ナミが吸うの?」
僕は自分のことを棚に上げて思わず大きな声で訊いた。ナミは台所から戻ってきて灰皿を渡して隣りに座る。ナミは子どものような目で僕を見て頷いた。
「だめだよ、女の子は喫煙しちゃあ。絶対吸わない方がいい」
「だってユタカも覚えちゃってる」
「僕は男だから・・・・・・ああ!じゃあこうしよう。一緒に禁煙!これが生涯最後の一本!!」
「・・・うん、最後の一口ね?」
ナミは僕の口からタバコを取り上げて、ゆっくりと吸った。草原で深呼吸するように深く息を吐き出す。煙が風のない部屋に飛行機雲を走らせて、やがて空気に混ざり消える。笛吹きケトルが声を上げだしたので、ナミは僕の口に咥えさせて止めに走る。
僕は灰を灰皿に落としてから下着を穿いて、窓を開けた。小倉の夜景が見える。無論東京のそれとは比較にならないけど、僕は今この目に映る風景が大好きになる。
「泊まってくよね?」
コーヒーカップを二つ持ってきて、心なしか俯き加減で問う。僕は一瞬暗く射す影を追い払ってカップを受け取った。深いこげ茶色の液体が熱い湯気を放つ。
「今日は朝まで飲むつもりで来たから。ずっと一緒にいられる」
「ねぇ・・・・・・いつ戻るの?」
「ここに来たのが急だったからまだ決めてないけど・・・あと一週間はいようと思ってる」
「ホント?」
ナミの顔が嬉しそうな笑顔になる。五感全てが明るい光を振りまいているような、子どもみたいなナミ。いつかは帰らなきゃならないのが辛くなるだろう。それでも片時でも離れるのは嫌だった。
「じゃあその間ここにいて?一緒にいたい」
「うん、じゃあ明日実家に戻って荷物取ってくる」
「嬉しーい!!」
ナミは僕の首に飛びついて頬に口付けた。僕は慌ててタバコを遠くにやる。ナミは急に何かを思い出したように立ち上がってクローゼットから鍵を出して見せた。小さなハローキティのキーホルダーのついたそれを投げる。鈴のような澄んだ音を鳴らして僕の手に収まる。寝転んでそれを眺めると、ナミも僕の隣りに寝て腕に頭を乗せた。涼しい風が走り抜けて、タバコの煙をさらっていった。
僕はそのまま何日もナミとの束の間の暮らしを続けた。短期でバイトも始める。駅前の雑貨ビル屋上のビアホールのボーイ。東京では居酒屋でバイトをしていたし、何となく近しいものも感じる。野外というのが気持ちいい。人々が陽気に酔う姿は僕を福岡に引き止める。
相変わらずナミは無邪気でかわいい。僕は毎日幸せだった。バイトも僕に合っていたし、周りにもすぐ馴染めて順調だった。何も心配のいらない平凡で愛しい日が過ぎていくだけの毎日。
ある時僕はいつもより早めに家を出て、大きな本屋に寄った。雑誌を幾つか立ち読みして、ふと、公衆電話に目が止まる。財布を見ると、20度そこそこのテレカが一枚入っていた。ケイタイを持ち始めてテレカで電話をかけたことはない。少し躊躇った後、僕はうろ覚えの水生ちゃんの番号を押してみた。もし繋がらなかったり間違ったりしたら帰る日まで連絡は取らないでおこう。
そう思った矢先繋がって水生ちゃんの声がした。
「もしもし」
「あ、僕優です」
「・・・・・・あ、元気?今何してるの?」
取り繕った笑顔が浮かぶ。無理して元気な振りをしてしまう自分を発見して強い自己嫌悪を覚える。『東京での自分』『地元での自分』二つの異なる人格がハッキリ分かれてしまったようで悲しかった。
「久しぶりに帰ったからゆっくりしてる。元気?」
「元気だよ、別に変りとかないし」
「電話できなくてごめん、ケイタイのバッテリー切れちゃってて」
「あーそうなんだ・・・ほら小倉のお祭りって今位の時期って言ってなかった?」
「あぁ今週末」
いつかの約束を覚えてくれてたんだろうか。でも僕は守れない。守らない。
水生ちゃんは多分演技なしに元気なんだろう。"帰ってきて"を言ってくれないことを考えると、何だか僕は誰からも必要とされていない人間のように思えてくる。東京にもう僕の居場所はないのかもしれない。少し寂しい気分になる。
ナミに逢いたい。
いつの間にかテレカの残りは2で、すぐに1になった。
「ごめん、テレカなくなりそう。お盆過ぎて新幹線を空いてから帰るよ」
「じゃあまた、ばいばい」
切れる直前にカオルさんの声が聞こえる。何を言ったかまでは判らないけど、確かにあれはカオルさんの声だった。
多分東京の人は僕ら地方都市の人間とは構造が違うんだろう。後ろに人が並んでいるのに気づいて、僕は無機質な音を投げかける受話器を置いた。出てきたテレカを回収箱にいれて立ち去る。すっきりしない心を抱えて巣とし早いがバイト先へ向かう。ここで時間を潰せる程、今の僕には余裕がなかった。
開店前、まだ日差しが眩しい炎天下のビアホール。チーフがひとりで掃除をしていた。
「おはようございます」
「お?早いな」
「たまには」
僕はまだ上手く笑えないで顔がひきつるのを感じた。チーフはモップを置いて僕のタイムカードを押すと、中ジョッキにビールを注いで僕に手渡す。
「早起きは三文の得。みんなには内緒だぞ?今日も暑いな」
「いただきます!」
僕は本当に嬉しくなって、一気に半分まで飲んだ。大きく息を吐くと一緒に涙もあがってきそうになる。
優しい人達、優しい土地。
今はこのビールと共に問題を飲み込んでしまおう。僕はナミのことを想って残りを飲み干す。額の汗が玉になって、一筋流れた。
第一章 SOUL MAN
第二章 GOD BLESS YOU
第三章 今日が終わる前に
第四章 それでも恋はやってくる
1 夏祭ナツマツリ
2 なつのひと
3 夏の神
4 ナツノヒト
5 夏の男
6 夏の女
7 サマーピープル
8 サマーバケーション