夏の神
沖縄の神様が女だということを、俺は長い間信じていた。夏がくる度に何気無く思い出す。何気無く考えている。
もしかしたらそれは何かの比喩だったのかもしれない。猫と遊んだとか現地の女と寝たとか、些細な旅の出来事の。それでも原色の着物を着た目の大きい女の姿は、夏が来る度に、まるで那沖が体験したように俺のそばに漂う。
「陽一君、ぼくはねぇ沖縄で神様を見たんだよ。ぼくが滞在している間中ずっと、彼女はぼくのそばにいてくれたんだ」
那沖は深酒をするといつも誰かにそれを話して聞かせる。クセといっていい位だ。でも不思議なのは那沖は誰に話したかをちゃんと覚えていて、二度と同じ話を同じ人にしないということだ。
酔って益々声の低くなった陽一はピーナッツを口に幾つもほおりこんで、年寄りみたいな喋り方で尋く。
「沖縄の神様って女なんだ?」
「うん、そうだよ」
「キレイな人?」
陽一の素朴な疑問に答えていきながら、赤い顔の那沖はロックの泡盛をまた一口飲んだ。
「ぼく将来は沖縄関係の仕事をしたいんだ」
「沖縄関係・・・・・・」
呟いてみても、那沖の言う沖縄関係の仕事というのが具体的に何をするものなのか酔った頭には何も浮かばない。
「ユーちゃんは?将来何になるの?」
子供の頃、学年が終わる度文集に書かされた言葉だ。いつもあまり明確なイメージはなくて、お店屋さんだとか広い範囲のことを適当に書いてお茶を濁していたのを思い出した。
「先のことはまだだな」
「就職浪人しちゃったら、ぼくの仕事一緒にやろうよ」
「おう」
ユメのような穏やかな話。
TVでしか知らない青すぎる空色と緑の強いマリンブルーの海。赤い瓦の家々。白い砂浜、白い入道雲。
辛かった夏が去って間もないのに、そのイメージのせいで身体は夏を求めている。
暑い日々を思い出している。 ああ、悪くない話だ。
そうして泡盛もつい進む。濃いアルコールが身体中の夏の感覚をゆっくり確実に思い出すが、それもやがて、指の隙間を流れる砂のように形を失う。瞬く間に血中沖縄濃度が下落する。
残ったのは陽一の持ってきた古いジャズと泡盛の空き瓶、それに酔いに酔った那沖だった。壁にもたれてうとうとする那沖を揺すって起こす。
「おい、帰れるか?」
「んー大丈夫」
「駅まで連れてってやる。顔洗ってこい、支度しろ」
「うん・・・・・・」
大きく伸びをして、那沖は緩慢な動作でユニットバスに入る。陽一はコンポからCDを取り出して、自分の鞄に仕舞った。対照的でおもしろい。もうそろそろお開きの時間。那沖がひとりで電車に乗って家まで帰れるか心配になるが、いくら何でもそこまではしてやれない。陽一はこの近くからバスで一本。吉祥寺駅からは原付。大して酔っている様子もないので問題はないだろう。
「那沖、帰るぞ」
「うん」
スニーカーを履いて立ち上がる。ドアに頭を打ち付けそうになりながら、鞄を抱えて外に出る。陽一はドアの横にじっと立って待っている。戸締まりをして三人並んで歩き出す。性格に比例しない、那沖が一番長身でガタイもいい。
「ぼくらとゆうちゃんの四人で、沖縄行こうよ」
那沖は俺のことをアクセントなしでユーちゃん、優のことをゆうちゃんと呼ぶ。いつからかそうなっていたので、俺も優も抵抗はなかった。那沖と知り合ったのも、優の紹介だったか。今では俺と那沖の方が仲がいい。
「んー、そうだな」
「色々連れてってあげるからさぁ」
「バイトの休み取れたらな」
「えー?陽一君もねぇ」
「うん、考えとく。じゃあバイバイ」
「ばいばい」
へらへら笑って那沖は手を振る。陽一も軽く手を上げて、バス通りの方に折れた。暗い道を二人で歩く。等間隔の街灯は古くなって、切れているのが幾つもある。
「あのさー、今日ぼくの誕生日なんだ。だから四人で飲もうって誘ったんだよ。ゆうちゃんはバイトで来れなかったけど」
「そういうのはもっと早く言えって」
「いやー、だって恥ずかしいじゃん。22にもなってお誕生会なんてさ。だからこれでいいんだよ」
「そうか?」
「じゃあさ、ぼくの言うこと一つきいてくれる?」
那沖は笑って指を一本立てた。路地の街灯が点滅していて、目障りだった。涼しい風が吹き抜ける。
「ユーちゃんとキスしてみたい」
「え?は?あー・・・・・・いいけど」
「マジで!?わーいっ!」
那沖は俺とは対照的に大リアクションで、その後少し笑った。おかしな奴だ。身を少し屈めて那沖の顔が近づいてくる。それに合わせて上を向いてやると、長めの茶髪が揺れて唇が触れた。
目を閉じるタイミングを逃して、超アップの那沖の睫を見る。
軽くて短いキスが終わる。
どうしようもなくてただ笑うしかない時のような笑顔の那沖。おかしな奴だと、改めて思う。
「そういえばさ、ゆうちゃんて別れたんでしょ?凄いよね」
「あぁ、凄いって何が?」
「だってさ福岡に彼女いたなんて誰も想像できないじゃん?何年もほったらかしになってたのに一秒でヨリ戻っちゃうのも凄いし、あんなにラブラブだったえっとナントカちゃんとアッサリ別れちゃったのも凄い。ゆうちゃんがもっと偉いのは福岡の彼女にナントカちゃんのことを話して、許してもらっちゃうのも凄いよ。ゆうちゃんのこと見直した。潔くてカッコイイよねぇ」
頭が痛い。自分の耳を疑う。ショックとインパクトで泡盛の酔いが一発で覚める。何だって?
「全部マジ?」
「・・・・・・え?もしかして聞いてなかった、とか?」
青くなる那沖に、俺の語彙が荒くなる。こんなふざけた話をG党の仲間にどこのバカが話すっていうんだ?
「知らねぇ」
「嘘…ねぇちょっとケンカしちゃ駄目だよ」
「・・・・・・ひとりで駅行けるか?俺帰るわ」
那沖の返事すら待てずに、背を向けて元来た道を歩いていく。何もかも頭にきて、手当り次第目についたものを蹴飛ばしたくなる。いやそれだけじゃ済まない。ベッドに入っても一睡もできずに朝がくる。どれだけ夜が長かったか、語り尽くすことは出来ない程の、暗黒の数時間。
トースト二枚とコーヒーを事務的に流し込み、歯を丁寧に磨いてヒゲを剃る。顔を洗う。着替ても、時間は一向に進まない。いてもたってもいられなかったので、家を出て駅を幾つも延々と歩いた。額に汗がにじんでも、やがてそれが流れてきても、まだただひたすら歩く。何も考えずにいられて早く時間が過ぎるものならば、今なら何だってやってやる。
いい加減歩く行為に飽きて疲れを覚えてから、目についた駅前のミスタードーナツで、一番甘そうなドーナツ二つとコーヒーを注文した。長細い大して広くない店内は中途半端な時間にも関わらず、人がごった返している。
何処に入ったか判らないドーナツの後、ゆっくりとコーヒーを飲む。自分で頼んでこんなに甘いものを食べたのは随分と久しぶりだった。その時ふと、捨てるつもりで
よけてあった靴を履いていることに気付いた。ボロボロのスニーカーには泥がこびりついている。紙ナフキンを何枚もかけて拭き取っているうち、結構きれいになってくる。もう少し歩けそうだ。コーヒーのおかわりを頼んで、山積みの紙ナフキンも一緒に片付けてもらう。ウェイトレスは特別嫌な顔をしたり何か言ったりしなかった。
熱くて濃いコーヒーを最後まで飲み干したその時、ケイタイがポケットの中で暴れ出す。ディスプレイには陽一の名前。
「もしもし」
「おはよう、おれだけど」
「あぁ、何?」
昨日以来の人の会話。思ったよりも他人への警戒が残っている。陽一にすら、言葉に刺ができてしまう。陽一に罪がないことは承知している。判っている。
「あのさ、今日おまえ授業なかったよな?ちょっと付き合って欲しいんだけど」
「悪い。用あるから」
らしくない陽一の言葉の裏に那沖の差し金を感じとって、俺は一方的に電話と電源を切った。判っている、陽一は悪くない。むしろ被害者のひとりだ。
ポケットにそれをねじ込んで店を出る。いつもは通過するだけのその駅から初めて電車に乗って、学校へ向かった。
正門のすぐそばの時計を見ると、間も無く二限が終わろうとしていた。小走りに先を急ぎながら、優の授業の教室を思い出して一気に階段を駆け上がった。
幸い終わったばかりだったようで、その教室からちらほら人が出てきた。それでももう何人かは廊下を歩いている。覗いて見ると、優は数人のグループの中で笑っていた。思わず頭に血が上るのを押さえきれずに、早足で優のところにいく。
「ちょっと来いよ」
「あれ雄二、何?どうしたの?」
「おまえに用があるんだよ、ちょっと来いって!」
相変わらず能天気そうな口調に、カッとなって声が大きくなってしまう。冷静に話をしなければ。冷静、冷静に。
「・・・・・・うん」
周りは少し静かになる。何人もの視線を感じるが、構っている暇はない。
「先行っててくれる?後で電話するから」
何も判っていないであろう優の言葉が合図になったように、再び白々しいまでの騒がしさが戻ってくる。優を連れて、部室に急ぐ。今二人でゆっくり話せる場所を俺はそこしか思いつかなかった。
鍵を差し込むとそれは開いていた。てっきり陽一がいるものだと思って、勢いよく扉をスライドさせる。しかし中にいたのは、雑誌を手にしたまま驚いてこちらを見ているカオルだった。どうしてこんな時間にここにいるのだろう。
「どうかしたのか?そんなに血相変えて」
「いや…カオルさんは何も言わないでくれ。頼むから」
「・・・・・・出て行った方がいいなら、そうするけど?」
「いてもらった方がありがたい」
「・・・・・・」
無言で頷いて、また雑誌に目を落とす。優がドアを閉めるのを背中で確認して、密かに大きくゆっくり深呼吸した。なるべく冷静に話をしよう。
「那沖に昨日聞いた。何の話か判るだろ?」
「・・・・・・うん」
「おまえ一体どういうつもりなんだよ、それ」
「・・・・・・」
優は黙って俯いた。まるで子供がひどく叱られた時のような雰囲気になってきたので、俺は優を突き飛ばした。
「何か言えよ!!おまえこの夏水生がどんな風に過ごしたか知らないだろ?知る訳ないよな、福岡に女って何だよそれ。どういうことだ?それでなかなか帰って来なかったのかよ?ふざけるなよ、おまえいい加減にしとけよ、なぁ。おまえが帰ってこないから水生倒れたんだぞ?おまえに心配かけたくないから言うなって、そこまでおまえのこと考えてる奴に対して、そんな仕打ちはないだろ。おまえは田舎で呑気に地方妻かよ?いいご身分だな」
「・・・・・・」
それでも優は何も言わない。ますます頭に血が上って、並べてあるパイプ椅子を力任せに蹴飛ばした。足に痛みが走る。しかしそれはほんの一瞬で後には横倒しになった椅子が無記名に散らばるだけだ。
「・・・・・・言い訳はしない。ナミのことは本気だ!でも水生ちゃんのことだって本気で好きだったよ!!後悔はしてない。悪いと思ってる…水生ちゃんには、本当に」
優は何か苦いものを精一杯吐き出すように、大声で叫んだ。その時カオルが時計に目を走らせ、鞄を抱えて教室から飛び出る。廊下で一瞬止まり、走り出す。
「水生ちゃん!!待って!」
何だって?水生・・・・・・?
急いで廊下に出てみると、走ってどんどん遠くなる水生と、もう少しで追いつけそうなカオルがいた。頭がガンガンする。何だって?何だってこんなことになったんだ。
だいぶ遅れて俺も後を追った。二人の姿はもうない。カオルは水生に追いついたんだろうか?水生は独りで泣いているんだろうか?どこから話を聞いてしまったんだろうか?
幾つも浮かんでくる疑問とたったひとつの明確な事実が交替で脳裏をかすめる。
俺が、水生を、傷つけた。
迷路のような学舎を走り、ふと一番奥の教室の前に置かれた古いロッカーの陰に、カオルの姿が見えた気がした。ゆっくり戻って、足音をたてずに近づいてみる。押し殺すような女の泣き声が小さく小さく聞こえてくる。声をかけるべきかどうか迷っているうちに、ロッカーのすぐ近くまでたどり着いた。二人を見た途端、俺の表層が凍りついた。傍目にも固く固く抱き合っているのが判
る。カオルが俺に気付いて、軽く首を振って目で制する。茫然と頷いて、俺はとりあえずその場から遠ざかった。嫌でも焼きついた、カオルの背中に強くしがみついた水生の腕が、何度も何度も頭の中で上映されて気が狂いそうになる。行く宛もなく部室に戻ると陽一と那沖が無言で座っていた。優はもういない。もう、いない。
全ては今最悪の形で幕を降ろした。
陽一は俺を真っ直見て、言いにくそうに告げる。
「今優に聞いた」
「うん」
「・・・・・・ユーちゃん、足から血が出てる」
那沖が俺の靴を指差す。パイプ椅子を蹴飛ばした時に感じた一瞬の痛みの原因。不憫な椅子達のひとつを起こして座る。靴と靴下を縫いでみると、親指の爪の端が割れて少し刺さっていた。そこからかなり出血している。靴下を通って、スニーカーにまで染みついている。
「ユーちゃん大丈夫?」
「おう」
「消毒した方がいいんじゃないか?」
落ち込みを隠せない様子で、陽一が気遣ってくれる。今回陽一には本当に悪いことをした。
「悪かったな、電話切って」
「…あぁ。いや」
那沖がくれたポケットティッシュで、傷に触れてみる。もう殆ど渇いていたので、ティッシュに血はあまりつかなかった。気を付けて歩けばすぐ治る。身体の傷は気付かないうちに治ってしまう。そう、案外簡単に。
「・・・・・・。じゃあ俺帰るわ」
「うん、ばいばい」
何だか泣きそうな顔をしている那沖に、ティッシュの残った分を返して部室を出ていく。改めて意識してしまったからだろうか、足の指は鋭い痛みを伴う。変な歩き方にならないよう気を付けて先に進む。
まだ日差しの強い秋の光の満ちる中を歩いて、建物沿いに並ぶベンチの横を通り過ぎる。目に飛び込んでくる自販機のココア。水生の大好きなそれを反射的に買って、道を引き返す。多分水生はまだあそこにいるだろう。古いロッカーに隠れて泣いているのだろう。
遠くから様子を伺ってみると、二人はまだ同じようにそこに立っていた。そっと近寄ってカオルの足元にココアの缶を置いて、立ち去ろうとすると水生が何かに弾かれたように顔を上げた。目が合ってしまう。
水生の顔にはうっすらと汗がにじんでいた。瞬きする度に跡を辿って涙か流れる。半開きの唇が微かに震えている。
「ココア、後で飲めよ」
辛うじて口から出たのはそれだけの言葉。カオルはただじっと水生を見ている。情け無かった、自分がとても。今度こそ帰ろうと思って水生から目を逸らすと、水生は寝起きのようなくぐもった声で叫ぶ。
「待って!あたし、誰のことも嫌いになんてならないから…気にしないで。必要以
上に考えたりしないで・・・・・・お願い」
「・・・・・・おう」
「一緒に帰ろう?」
救われる、というのはきっとこういうことなのだろう。沈んだり急に浮いたり、気が付いて残っていたのは絶大な疲労感。歩き回ったり怒鳴ったり蹴ったり反省したり人間らしい一時だ、全く。
「送っていこうか?」
「ううん、電車で帰れる。ありがとう、カオル君。あたしもうホント大丈夫」
「・・・・・・うん」
そっと離れて、白いカーディガンの袖で目をこする。両手で頬を押さえて深呼吸。泣き顔のまま少し笑う。
「カオル君、このあと授業?」
「そう、恐いセンセイのね」
「わー頑張ってね。あ!CDありがとう、長い間ごめんね。何の為に今日待ち合わせたか判んないよね」
足元の鞄を拾い上げて紙袋を手渡す。クラフト紙の端にスヌーピーのシール。代わりにココアを鞄の中に仕舞って、何を思ったかまた出してプルトップを引いた。一気に景気良く飲み干して、唇の端を舐める。
「オナカすいたよ、酒井ゴハン食べよう」
「おう」
「じゃあカオル君、ごきげんよう」
丁寧にお辞儀して、水生は微笑しながら軽くターンして歩いていく。大きな何かを丸ごと飲み込んでしまったのに、水生はオナカすいたと言う。女は何が栄養なんだろう?
「俺今日G党パスするから」
「OK」
「サンキューカオルさん」
カオルのジャケットには水生の汗と涙が大きなプールを作っていた。幸い濃い色なので、よくよく見ないと気付かない。
ふと気付くと水生はどこにもいなかった。小走りになって角を曲がるとすぐに、水生が体当りしてきた。
「探した?びっくりしたでしょ?」
「いーや」
「嘘つき!今走ってたよ」
悪そうな顔が俺を見上げる。涙の跡が生々しい。目の周りを赤が縁取る。
「うるせー。俺ちょっと顔洗ってくるから、待ってろ」
「あ、あたしもー」
二人同時に別の扉に入る。勢いよく水を出して、何度も何度も顔を洗う。冷たい水が袖の中から入ってきた。少し気持ち悪いけどほおっておけばそのうち渇くだろう。そういえば今日は手ブラ。タオルなんてある筈がない。仕方なくそのまま出ると、水生も濡れたままの情け無い顔で、インドの子供のように手を延べた。
「タオル」
「走ってりゃそのうち渇く!」
その手を強く引っ張って、一緒に走る。午後一番の授業開始のベルが鳴る。晴れた青空からの光を受けて。そう、こんな靴でも足でもちゃんと走れる。
第一章 SOUL MAN
第二章 GOD BLESS YOU
第三章 今日が終わる前に
第四章 それでも恋はやってくる
1 夏祭ナツマツリ
2 なつのひと
3 夏の神
4 ナツノヒト
5 夏の男
6 夏の女
7 サマーピープル
8 サマーバケーション