GOD BLESS YOU
優は奇跡的に一日で回復してしまった。誰もがその無邪気さに微笑まずにいられない。嫌味なくそういうことをしてしまう優を、水生には余計愛しく感じさえする。定期的にG党を訪れるようになって、段々メンバーとも仲良くなってくる。それがとても心地好い。
授業が終わった後、教室を出るといる筈の優がいなかった。いつも授業が終わると外で待っていてくれる。それから二人でG党に行く、というのがここ最近の二人の行動パターンだったのに、どうしたのだろう。
ひとりでG党の部室を訪れる。カーテンが全部しまっていて、中は夕方のように薄暗い。電気をつけてみると、隅の机で雄二が寝ていた。反射的に電気を消して、そっと近づいてみる。定期的な寝息が穏やかに聞こえてくる。
こんなにおとなしい雄二を見たのは初めてだったので、水生はつい悪戯をしてやりたくなる。押さえられない微笑みが顔のあちこちに浮かんでくるのを必死に堪えて、水生は深呼吸した。大きく息を吸って、大声で雄二のフルネームを叫ぶ。
一瞬背中が大きく波打った後、ゆっくりと身を起こす。いつもよりもずっと目が薄い雄二が極上の不機嫌さで水生を見据える。
「おはよーございまーす」
わざと明るい声で絶叫してまわって、カーテン全てを開けた。一瞬で昼夜が逆転したように、光に満ちる。
「麻垣水生ちゃんでーす!ご存じ」
「あーもう起こすんじゃねーよ。人が気持ち良く寝てるのに・・・・・・」
「だってこんな暗い所で起きるの待つのイヤだもん。公共の場所で寝る人が悪いんだよ」
水生が負けずに反論すると、やがて雄二は黙りこんでしまった。まだ不機嫌そうな表情のまま肩のストレッチを始める。
「怒ってる?」
「いーや別に」
「ホントに?じゃあお詫びにガムをあげます」
自分の鞄からミントのガムを取り出して、雄二に差し出す。水生は包み紙を破らないように丁寧に開けて自分の口へ入れた。雄二は受け取った時と同じポーズでガムを見つめたまま微動だにしない。
「ミント嫌い?」
「いや、目を覚ましたくない」
雄二のガムを取り上げて、強引に口の中に押し込んでやる。細い目が水生を睨むが水生は動じなかった。
「おはよーございまーす!」
「・・・・・・」
水生は隣の机に座った。書き殴ったような譜面が何枚も置いてある。雄二のものだろうか。許可を求めず勝手に読んで、ハミングで歌う。
「触るなよ」
「いいじゃない、ねぇ小倉ゐゑをって誰?凄い名前だね」
右隅に走り書きされたサインに水生は着目する。ゐゑを。ペンネームにしてもおかしな名前だ。
「キーボード借りていい?弾いてみたい」
「これを?おまえピアノ弾けんのか?」
「うん、高校の時辞めたけど」
陽一のシンセサイザーを勝手に使うことにして、コンセントを差しこみ、セッティングしてやる。椅子に浅く座って、水生は弾き始めた。控え目なピアノの音が優しく踊っている。
「凄ーい!キレイな曲だねぇ」
「上手いな、なんで辞めたんだよ」
「えーイヤな思い出があるの。聞かないで」
「そうやって隠すからいつまでもイヤなままなんだよ。笑って喋ればコワイモノナシ」
「えーじゃあココア買ってくれたら言う」
「結構」
雄二は速攻で切り返してくる。思わず笑って、水生はピアノの音を突然止めた。ガムを包んで捨てて、足元の鞄からミニペットボトルのお茶を出して机に置く。
「おまえそれがあるだろ」
「でも飲みたいのはココアなんだもん」
「また今度な」
「ずっと覚えてるからねー!」
「いいから、話せよ」
水生のお茶を横取りして先を促す。水生も一口飲んで喉を潤した。ぬるいお茶は心地好く喉を滑り落ちる。
「・・・・・・なんかみんな今日は遅くない?」
「水生!言うって決めたら言え」
水生はふと初めて雄二に名前を呼ばれたことに気付いた。恐らく雄二もそれは判っている筈だ。もし今冷やかしたら一生名前は呼んでもらえないだろう。初めて雄二に仲間として認められた気がした。純粋にとても嬉しい。
「うん、すっごいかっこいい先生がいたのね。あたし中学生の時から憧れてて、この先生に代わればいいなーってずっと思ってた訳。そしたらあたしの担当してた人が寿退社しちゃって、その人に代わったのよー!毎週レッスン通うの嬉しくて嬉しくてメキメキ上達したんだけど、まぁ目的が目的よね。それで高校二年の時のバレンタインにチョコレートあげたの。婚約者いるからってあっけなくふられちゃって、まあそれは仕方ないじゃない?でもある時、時間遅らせてもらって、遅くなっちゃったから駅まで送ってもらったの。でね、駅についたのに先生は電車に乗らないのよ。ヘンだなーって思ってたら、なんか友達と待ち合わせしてたみたいで、強引に一緒に待ってたんだけど、そしたら先生と同じ指輪を薬指にした男の人がきたのね。判る?先生ゲイだったの」
「確かめなくても同じ指輪って判るのか?」
「判るよー!絶対判るの。好きな人のなら絶対!」
「あぁそう、そりゃ辞めるわな」
「うん、それでレッスン終わったら自動販売機のココアを必ず買ってくれた訳。後に残ったのは沢山の楽譜とココア好きのあたしだけ。ココア漬けにされちゃった。初めて人に話したんだよ、誰にも言わないでよね」
残っていたお茶を一気に飲み干す。狙い定めて、ゴミ箱に投げる。それは緩い弧を描いて見事に収まった。
「さて」
改まって雄二に向き直って、水生は真剣な顔をした。
「次は酒井の番だからね。なんかとっておきのやつガーンと!」
「・・・・・・」
水生を一瞬見て、酒井は黙って俯く。真剣な目を机の上のタオルに向けたまま、やがて動かなくなった。暫く間をおいてゆっくりと話し出す。
「じゃあ俺も初めて人に話す話をしてやる。俺の前の部屋は駅から、かなり離れた所にあったんだ。それで夏なんかは暑くて暑くて途中で喫茶店に入って涼みたくなるんだよ。そんな風に暑い時期に通い詰めて、その店の常連になった。俺女の人の年齢とか見ただけじゃ判らないんだけど、まあきれいな人がいたと。割と趣味が合ったんで、映画の話とか音楽の話とか色々しててな、コンサートのチケットを俺が取って彼女誘ったんだよ。そしたら軽ーくOKで、そんな風にまあ付き合うようになって、半年位経った時に、何気にまた喫茶店行ったんだ。そしたらカウンターの中に男がいて俺は最初彼女の父親かオーナーだと思ったんだよ。彼女と年離れてたからな。なんか彼女俺が店にいたの気付かなかったらしくて、オーダー取りにきたのもその男だったんだけど。で、いつものようにコーヒー頼んで待ってる間、彼等の話聞いてて、どうやら単身赴任の夫だったようで、俺は年下の愛人だったと。落ち着いた感じの小さな店だったし、俺はもうコーヒー来る前に伝票に札置いて黙って出てきたから、何せもう会ってないし詳しいことは判らないけど、そういうことだった、と。別に俺のことを瞞していた訳じゃないだろうが、言い出せなかったんだろう。俺も若かったから。その日のうちに不動産屋に行って、今の部屋を借りてきた。次の日に引っ越し。二年が経つんだな・・・・・・終わり。喉渇いた。お茶もうないのか?」
いつもの雄二らしくない、歯切れの悪い言葉。消化するのにどれだけの時間と季節が必要だったのか、水生には想像もつかない。
「・・・・・・酒井、あたしココア自分で買うことにする」
「何でだよ、自販機行こうぜ」
雄二は立ち上がって、もう歩き出している。財布だけポケットに入れて、水生は慌てて後を追った。
ドアの前でカオルに会う。感じのいい笑顔をすぐに浮かべて、軽い挨拶をした。
「何処行くんだい?」
「ジュース買いに行くの。カオル君何か飲む?」
「いや、ありがとう。マイ午後ティーがあるから」
「うん。行ってきまーす」
カオルと入れ違いに廊下に出る。お互いの過去の話をして気まずくなるのはどうしても嫌だったので、水生は小倉ゐゑをのことを話題にした。
「誰なの?ゐゑをさんって」
「秘密。教えられない」
「この大学に通っている人?」
「そんなこと知ってどうするんだよ、会いたいのか?」
「別に会いたい訳じゃないけどね、凄くいい曲でしょ、感動したの!もう超ファンになったのーだから色々知りたいのー!他にも曲とかあるの?」
「ある」
「後で見せてね!また弾いてみていい?」
階段を降りて、外に出る。ベンチが幾つも並んでいる、その向こうの自動販売機に缶のココアが売っている。ベンチは全て埋まっていた。今日も天気がいいせいだ。
「そういえば優がいないの。知らない?」
自動販売機にお金を入れながら、水生は問うた。勿論ココアのボタンを押す。酒井は無糖のコーヒーとココアを買う。そしてそれを水生に手渡した。
「約束のココア。冷蔵庫入れればいい、次買いに走らなくていいだろ?」
「・・・・・・ありがとう」
「優のことだけど、前も言ったと思うけど、俺より絶対おまえの方が詳しい。従ってそのおまえが知らないものは俺も知らない。電話したのか?」
「・・・・・・ケイタイ貸して?」
呆れたような表情で優の番号に発信してから手渡した。ココアを一つ持ってやる。
暫く呼び出し音が続いて、やがて留守録へと代わってしまう。
「優出ないよ。あ!もしもし水生でーす。また電話してくださーい!」
「・・・・・・緊急でバイト入ったのかも知れないな、前にもそんなことがあった」
「そうなの?じゃあ仕方ないよね」
「そうとは限らないけど」
「・・・・・・。酒井冷たい」
溜め息吐いた不満顔で水生は雄二を見上げる。リアクションのしようがなくて雄二は歩き出した。雄二のケイタイに何やら入力しながら、後を歩いていく。
「酒井だけだよ、あたしにケイタイの番号尋かなかったの。入れといたからね、一番前に!」
「マイドアリ」
「変なのー!酒井って変だよね?よく人に言われるでしょう?」
「言われないな。今初めて言われた」
「嘘つきだー!」
「いーい天気だな」
建物のなか入る前に、ふと空を見上げて伸びをする。つられて空を見た水 生を置き去りにしてそっと先に行く。それに気付いて水生は走って追いかけた。その背中を景気良く叩く。
「ばかー人でなしー!」
「いってー!おまえ力強いな、折れてたらどうしよう」
「・・・・・・酒井のばかーばかー超ばかー大ばかー!」
部室に戻ってくると陽一が来ていた。カオルと二人で一台のノートパソコンを覗き込んでいる。カオルは顔を上げて、柔らかく微笑む。
「おかえり」
「あぁいい曲だ。ゐゑをちゃんに編曲を頼もう」
「ズルイ!お願いやめてよー卑怯者!カオル君酒井が意地悪するー!」
「君達、ちょっと見ない間に仲良くなったね」
カオルがキーを叩きながら評する。水生は膨れて酒井を睨みつけた。陽一は何も言わずに軽く微笑んだ。
「ねぇ優何処にいるか知らない?」
カオル達の近くの席に座りながら問う。酒井は冷蔵庫に水生の分のココアを仕舞って先刻寝ていた座席に付いた。プルトップを開けてコーヒーを一気に流し込む。
「いつもあたしの授業が終わる時間に教室の外で待っててくれるんだけど、今日はいなかったの。電話しても出ないで留守録になっちゃうし」
「・・・・・・僕は何も聞いてないけど。どうしたのかな」
カオルが手を止めて首をかしげた。陽一も知らないのか、首を横に振る。鞄に財布を入れて、ケイタイを取り出す。案の定メッセージはない。マイメロディーの赤のストラップが悲しそうに揺れた。雄二が空の缶をゴミ箱に投げる。
「ごめんね、あたし帰る。お邪魔しました」
「来たら電話するよう言っておくから」
「うん、カオル君ありがとう、それじゃあごきげんよう」
水生は少し寂しそうに部室を後にする。棟を出て校門に向かおうとすると、後ろから雄二が追いかけてきた。水生は立ち止まって雄二を待つ。息を切らして、水生にココアの缶を突きつける。
「忘れ物」
もうぬるくなりかけたココアの缶を受け取って、水生は泣き笑いのような笑顔を浮かべた。何気無い優しさがとても胸に染みる。
「・・・・・・いいのに。わざわざありがとう」
「だって今飲みたいのはココアなんだろ?身体の欲求には従え」
「あはは、いただきます!」
水生は花壇のブロックに腰掛けた。プルトップに指をかけたところで、雄二が妙案を思いついたように表情を変える。
「そこで待ってろよ、俺も荷物取ってくる」
「え、ちょっとっ!」
水生の返事を聞かずに、雄二はまた全力疾走で戻った。あっけに取られてココアを持ったまま見送る。
また暫くすると雄二は走ってきた。重そうなオニールの鞄はとても走りにくそうに
見える。我に帰ったように、水生はココアを鞄の中にしまった。
「自分勝手に帰っちゃってもいいの?」
「別に俺は自分勝手に帰るって言ってる訳じゃない。今陽一の課題をカオルが見てたんだ。今日はあのまま何もしないだろう。だから帰ろうかなって思ってたとこなんだ。優もいないし」
「ダシ?」
「だし!」
大袈裟に肩をすくめてみせて、雄二は歩きだした。よく判らないといった表情で水生は急いで隣に並んだ。
「なんか共通の意識みたいなもの、芽生えてると思わない?」
「・・・・・・そうだな」
「変わったよね、酒井。あたしに対する態度とか。初めて会った時なんてホント嫌な奴だった」
意地悪そうな目で雄二を垣間見て、水生は言った。同じように水生を垣間見て、雄二も言う。
「おまえも随分変わったよな、化けの皮が剥がれてきたというか」
「違うよー!緊張してたんだもん。今はもう慣れたんだもんね」
「まぁ俺は、悪かったと思う。俺はこの目と声で今まで散々大誤解を受けてきたんだ。だから他人の俺に対するイメージ・レッテルを決めつけさせないように、わざとやってきた。ガツーンとイメージ崩しておいて、イチから酒井雄二という人間の本質をご理解いただく為にな。判ったな、俺の言いたいこと!」
「あーそうでしょうね、誤解されまくられそうだよね。声キレイだもん。第一印象も声のキレイな人だなって思ったよ」
「嫌だな、そういうのも」
不満顔の雄二は子供みたいな声で評した。水生は初めて雄二の素を見せてもらった気がする。それだけで得した気分になってしまう。
「でも、やっぱり酒井って変わってるよ。いい人風と変な人風どっちがいい?」
「変な人風」
「ね?ほら」
水生は嬉しそうに笑って雄二の顔を指差す。真顔で雄二は人差指を繋げる。
「E.T.」
水生は一瞬ひどく動揺した表情で手を下ろした。優以外の人とこうやってふざけ合うことについて、強い罪悪感がよぎる。同時に別な感情も芽生える。自分で先程言った共通の意識が裏目に出そうで恐くなる。優を失ったら仲間も失ってしまう。
「ベタ過ぎるよ、それ」
「・・・・・・。そうか?」
「そういえばあたし、まだココア飲んでなかった!せっかく持ってきてくれたのにごめんね、いただきます」
鞄からココアを出しガードレールに寄りかかって、水生は強く振ってプルトップに指をかける。伸ばした爪が邪魔してなかなか開いてくれない。それを見かねた雄二は水生に持たせたまま、片手で開けてやった。
「ありがとう」
「大変なんだな、長い爪」
「うん、あと塗り薬塗れないの。爪の間に詰まっちゃって」
苦笑いして、水生はココアを飲む。自分が優と少しすれ違って、弱っていることを考える。だから雄二の何気無い仕草が気になったり、優しさが強調されるだけだと。
でも実際雄二と二人で他愛ない話をするのは本当に楽しい。何でもないことが新鮮に思えたりもする。きっとそれは雄二の話術だということにしよう。しておこう。
大丈夫、ここはもう駅。
改札を通って階段を上がってホームに向かう。途中のゴミ箱に、ずっと持ったままだったココアの缶を捨てた。
「ねぇ、もう一つのゐゑをさんの楽譜見せて!」
雄二が鞄を開けると、タイミング良く電車が減速しながら入ってくる。クリアファイルを手渡して電車に乗り込んだ。そこそこの込み具合。座席は既に埋まっている。
一通り目を通して、水生は雄二に開いたファイルを見せた。隅に書かれた犬の絵。
「凄いカワイイ!何これ、何て名前?」
「負け犬」
場所をあまりはばからず水生は大爆笑した。身体を二つに折って、目に涙を浮かべて笑う。その犬は直立して拳を握り締めている。額にはハチマキ。
「何で?負けたの?カワイすぎー!もうどうしようこんなの!」
「負けて悔しい犬、の省略。負け犬」
「意味が違うじゃない。ゐゑをさんておちゃめな人なのね」
ファイルを返して、水生はまた笑い出した。やれやれ。雄二は呆れた顔でファイルを鞄に仕舞う。
アナウンスが流れて、電車が駅に入りやがて止まった。ここから水生は中央線に、雄二は西武新宿線に乗り替える。まだ少し笑いながら水生は雄二と別れた。ホームで電車を待っていると、ケイタイが鳴り出す。見ると雄二からのメールだった。画面一杯に負け犬の文字がひたすらに並ぶ。思わず吹き出して、水生は俯いた。深呼吸して
心を落ち着かせる。そうやっているうちに電車が定刻通りに到着した。各駅停車だったが、水生は乗り込む。別に焦って帰る必要はない。
車内ではブレザーを来た高校生が教科書を何人かで覗き込んで、試験のヤマを張っているようだった。水生も人ごとではない。授業でもそろそろ試験対策が練られる頃だ。憂鬱な気分になる。G党も活動休止するだろうし、何よりこれからだというのに優に会えなくなるかもしれないというのが辛い。電車は水生の気持ちも揺らしながら走る。今優はどこにいるのだろう・・・・・・?
優は図書館の閉館時間まで爆睡していたらしい。何回か無意味なすれ違いをしてしまった後、水生の気分が晴れないまま遂にテスト期間へと突入した。集中できない。せっかく同じ学科だから一緒に勉強できると思って優を誘ったら、その殆どの日々をバイトに当てていた。貴重な接点はたまに試験の教室で顔を合わせることと、ケイタイで交わすメールくらいのもので、フラストレーションと焦りだけがじわじわと、でも確実に積み重なっていった。無機質な文字は水生の心を満たしてくれない。ろくに会っていないのに、付き合って何日という重みのない空の歴史だけが綴られる。
そして漸くテスト期間が明けるという時に、あっけなく優は福岡の実家に帰ってしまった。親戚に不幸があったのだ。恐ろしい程嫌なタイミングに、水生は心から落ち込んだ。しかも優が福岡入りしてからの事後報告だったので、それは余計に。
「いつ帰ってくるの?」
水生は感情を精一杯押さえて、辛うじて問う。この一月弱どんな想いで毎日を過ごしたのか、本当に優は判らないのだろうか?失望と落胆が混ざって、また別な感情が生まれてしまいそうだ。
「うーん・・・・・・去年の夏も今年の正月も戻ってないから、もう暫くはいてあげようと思ってるんだ。勿論もう帰れって言われたら戻るけどね。だから・・・・・・未定かな」
「そうなんだ。また電話してね」
「うん判った。ばいばい!」
あくまで明るい優。水生は電話を切って、初めて優のことで泣いた。明るくて一緒にいて楽しいという理由だけで、告白に気軽にOKしてしまったことも初めて悔やんだ。それでも優のことを嫌いにはなれない。むしろまだ好きという気持ちが沢山残っているから涙が止まらないのだ。
その夜ぐっすりと眠れなくて、つらつらと見た夢には全て優が出てきた。朝起きると瞼は重く、夢を見てまた泣いたのか涙の跡が肌の上に幾つも走っていた。
それでも今日は出掛けなければならない。
テスト明けの第一回目のG党会合のある日なのだ。少し前雄二にメールで知らされていた。やっと優に会えると思って、喜々として出席のリプライをしてたので、急に休んではみんなを心配させるだけだ。優が暫く帰ってこないことも、ちゃんと伝えなくてはならない。
きれいに浴槽を洗って、水生は久しぶりに湯を張ってゆっくり風呂に入った。窓がないバスルームは時間の感覚をずらす効果があるようだ。今が朝なのか夜なのか、そのうちどうでもよくなってくる。ぬるめの湯にパックをしながら浸かって、鼻歌を歌う。口を突いて出たのは小倉ゐゑをの曲。陽一のシンセサイザーで弾いたピアノの優しいフレーズだった。何回も何回も繰り返し最初のフレーズだけハミングする。更に記憶に刻むように、癒しを求めて。
水生はルームウェアを着て、料理の本を出した。差し入れにクッキーを焼くことを思いついたのだ。少し前にも作ったので、材料は揃っている。生地を寝かせている間トーストとヨーグルトを食べた。クーラーをつけないで窓を開ける。夏の風が吹いてオーブンの熱気を中和する。手間暇かけていない割には、クッキーは上出来だった。プレーン、ナッツ、ココア、ココアとナッツの四種類。量だけは沢山ある。五人で食べても−−違う。四人で食べても充分だろう。
中が透けているかわいい袋にそれぞれを詰めて、鞄の一番上に入れる。ふとケイタイを見ると、ディスプレイにはチャクシンアリと書いてある。番号履歴を調べても、何も出なかった。誰かが公衆電話からかけたのだろうか。もしかしたら優かもしれない。でも用があるならまた電話をかけてくれるだろう。そう悲観的には考えず、水生は出掛ける用意を手早く済ませて、家を出た。
夏の日差しは容赦をしない。眩暈を起こしそうな強い光が辺りに分け隔てなく散らばり、明暗を一層濃くする。誰もが眩しげに目を細めて、ゆっくりと道を行く。水生も少し俯いて歩く。自分の影だけがいつまでもいつまでも足元に沿う。ふと顔を上げると、視線の先に陽一が立っていた。交番の隣の、駅舎の壁にもたれて文庫本を読んでいる。水生は小走りに駆け寄って、そっと声を掛けた。自分を待っていてくれたと思うと顔一杯の笑みになる。
「あ、おはよう」
「おはよー!待っててくれたの?嬉しーありがとう!」
「うん、この位に出てくるかなって思ったから」
ふたりで連れ添って歩く。元気が出てきたので足取りが軽くなる。とりとめのない雑談が続く。散々だった試験の結果が恐い話や、バイトの話。そしてこの間オープンした店の話をしながら電車に乗り込む。
「知ってる?丸井の裏の向かいの変なお店」
「うん、この前行った」
「あれと同じようなお店をね、神戸行った時に見たの。コメントとか、神戸の方がマニアックだったよ」
「吉祥寺の方が後なんだ?」
「そうみたいだね。ねぇっ!あたし今日クッキー焼いたの!!」
水生は鞄の一番上にそっと乗せてある、自慢のクッキーの袋を陽一に見せた。いい具合に焼けているハート型が覗いて、水生はまた嬉しくなった。早くみんなでお茶会をして感想を聞きたい。
「うまそうだね」
「一個ずつ食べてみよっか。どれにする?」
陽一が選んだのはナッツだった。リボンを解いて一つずつつまむ。水生は陽一の表情をじっと観察した。眼鏡の奥が優しく微笑んで、OKサインを出す。
「凄い、うまいよ。上手なんだね、よく作るの?」
「ううん、あー嬉しーい!美味しーい」
こういう些細なことで幸せになれるので、自分が単純で良かったと思う。多くは望まない。ささやかな幸福が毎日少しずつあるだけでいい。それでいいのに。
ふと沈みかけるネガティブな自分の割合が多くなってきているような気がして、水生は優が帰ってくるまでをどう過ごせばいいのか、不安にかられる。優しい仲間がいることは判っていても、どうしても重荷にはなりたくなかった。いつまでも対等でいたい。
「・・・・・・、降りよう」
「え?」
気が付くと駅についていて、陽一は水生の肩にそっと手を置いた。スリーブレスの日に焼けかけた肌に少しの痛みを感じながら、大勢の人の流れに従う。
「もっと学校に近かったらいいのに。でも吉祥寺は大好きだから、他に住むのは嫌だし・・・・・・そう思わない?陽一君はどうして吉祥寺に住んでるの?」
「ジャズの街吉祥寺」
「そっか、ジャズ好きなんだ。なんか頷けるよね、陽一君とジャズ」
「そうかな」
呟くような低い声が嬉しそうに笑う。陽一の笑顔にはその人柄の良さが出ていて、水生は普段はおとなしい陽一の笑う姿が大好きだ。
また電車を乗り替えて、灼熱の夏を歩く。正門の前のファミリーレストランは熱を凌ぐ学生で一杯だった。大学はテスト期間が明けて実質夏休みの今、学生の数は極端に少ない。そのせいでやけに涼しげに見える廊下を歩いて、部室に向かう。
扉を開けると、空気は冷んやりしていた。その中にはカオルがノートパソコンに向かっていた。眼鏡を外して顔を上げる。
「カオルくーん!ごきげんよー!」
「久しぶり!テストどうだった?」
「やだー聞かないで」
「はは、おれもだよ」
机の上に鞄を置いて、クーラーの吹きだし口に顔を近づける。冷たい風が汗をかいた肌に心地好い。
「酒井は?」
「珍しく、まだだよ」
「そうよね、いつも早いよね」
優の話題が出てしまう前に、あの話を早くしてしまいたい。水生は落ち着かない様子で、気持ちを切り替えるように自慢のクッキーを出した。
「じゃーん!水生ちゃんの手作りクッキーでーす!」
「え?見せて見せて」
カオルは嬉しそうに袋を持ち上げてみた。キツネ色のハートや星型が透明な部分から覗く。
「凄い!かわいいね、水生ちゃん料理の趣味あったんだ?」
「んー、クッキーとケーキだけだよ。他作ったことないもん」
「おれも料理は好きだし、結構するんだよ」
「ホントにー?カオル君の手料理食べたい食べたい!」
「夏のイベントが増えたね」
いきなり扉が乱暴に開いて、水生は驚いてそちらに注目してしまう。息を切らして汗だくの雄二が雪崩れ込むように入ってきた。
「あっつー!腹減ったー。お、水生それくれよ」
目敏く水生のクッキーに目をつけた雄二は、鞄をほおりだして走ってくる。袋全部を確保して、水生は激しく首を振った。
「駄目駄目ーみんなでお茶するの!酒井の昼ごはんじゃないもん!」
「何て心の狭い女だ!」
「優が来たら、ごはん食べに行こう」
カオルが雄二を諭すように告げる。水生は密かに溜め息を逃がして、優からあった電話の話をした。心に暗い陰が差すのを押さえるのに相当骨が折れる。
「帰ってくるのも未定なんだって、優って以外と親孝行だよね」
「そっか。じゃあ行こうか」
カオルの反応が案外素っ気無かったので、水生はまた密かに安堵の息を漏らした。跡引くような会話になっても、きっと動揺を悟られてしまうだけに違いない。
「お茶会はその後ゆっくりしよう。楽しみだね」
「うん!」
「あー目が回る」
ふらふらと立ち上がって、雄二は一番に教室を出た。陽一と水生もそれに続き、最後のカオルが戸締まりをする。帰ってきた時の為にクーラーはつけたまま。
水生は雄二の隣に並んで腕を小突いた。不機嫌そうな目で水生を見下ろす。
「何でそんなに空腹魔人なの?」
「寝坊。目覚まし時計が朝起きたらぱったり死んでた。供養してたらギリギリの時間になってしまったと」
「供養?供養って何するの?」
「合掌して・・・・・・駄目だ、秘密。信者以外には言えない」
水生は吹き出して、雄二の背中を何度も叩いた。この独特の世界観、どうにかならないだろうか。本当にいい気分転換になる、優のことを忘れられる位に。
「痛い痛い!骨折するから止めろ。それでヒゲもそらずに飛び出してきたんだよ。故に空腹」
「えー不潔ー!」
「一日そらない位で死なない・・・・・・いっそこのまま伸ばそうかな」
「やだやだ!無精者ー」
「似合うと思うんだけど・・・・・・」
自分の顎をしきりにさすって雄二は呟く。水生は重ねて非難した。
「物好きなゲイに狙われるよー?」
「なんだよ物好きって」
「・・・・・・あたしの口からはそんなっ!」
「あーかわいそうな俺。コテンパン。腹減った」
後ろではカオルと陽一が音楽の話をしている。雄二がおとなしくなったので少し聞いてみるが、洋楽に疎い水生にはサッパリの内容だった。
大学から少し歩いて蕎麦屋に向かう。ラッシュの時間からは少しずれていた。座敷に上がって静かに待つ。奥では気難しそうなご主人が四人分の蕎麦の用意をし、その奥さんは浅く椅子に腰掛けてTVを見上げていた。ぱりっと糊のきいた白い割烹着がとても夏らしい。
やがて運ばれてきたざる蕎麦はあまり食欲のなかった水生にも、とても美味しくいただけた。酒井はおにぎりとおかわりを食べて、満足そうだった。あぐらをかいて壁にもたれる。わさびを入れ過ぎてしまった陽一は、少し潤んだ目でゆっくりと口に運んでいく。
「御馳走様でした」
カオルが伝票を持ってカウンターの向こうに声を掛ける。いつの間にか奥さんはいなかった。ご主人がゆっくり出てきて、それを受け取り紙を睨んで計算する。
「先生や奥さんは元気かい?」
「・・・・・・元気ですよ。昨日名古屋から戻りました。寄るように言いましょうか」
「いやいいんだ。用がある訳じゃないからな」
「御馳走様でした。また来ますね」
木の引き出しからお釣りを出して、カオルの手に握らせた。その動作は何故かカオルを小さな子供に見せる。
「ありがとう」
「御馳走様でしたー」
店を出る前に水生は軽い会釈をする。ご主人は不器用そうににこりともせずに頷いただけだった。隣のカオルに素朴な質問をしてみる。多分他の二人も思っていることだろう。
「知り合いなの?」
「うん、今の人の先代とおれのじいさんが友達で、おれの親父が小さい時によく連れていってもらってたらしいんだ。それでおれも親父に小さい時からね。同い歳の子供がいてよく遊んだよ。今は・・・・・・何してるんだろう。前は四国を放浪してるって」
「放浪・・・・・・」
「いいなぁ、おれも外国を旅してまわりたい」
「意外!ホントに?」
「六月に自己紹介した時に気付かなかったかな、おれ二十二歳で三回生って言ったよね?二十歳の時に休学して留学してたんだ」
少し恥ずかしそうにカオルは自分のことを話す。水生はG党以外のカオルの素顔に触れるのは初めてだった。そういえばあまり知らないかもしれない、党首じゃないカオルのことは。
「へー、何処に?アメリカ?」
「アイルランドだよ、マイナーなところがいいと思って。アメリカやイギリスだと日本人が多いよね。せっかく行くんだから、日本人じゃない人とつれになりたかったから」
「凄い!じゃあ英語話せるの?」
「半分忘れたかな、やっぱりいつも使ってないと駄目だね。だから本なんか はなるべく英語のを読むようにしてる。あとマメにEメール書いたり」
「すごーい!カオル君かっこいいよ、知らなかったー」
G党のメンバーの中で一番大人っぽいというのが、水生のカオルに対しての第一印象だったのを思い出した。そういう経歴がカオルを大人に見せるのだろう。
涼しい教室に戻ってきて、カオルは思案しているようだった。優がいないのなら練習にならない。いつもG党がコーラスやハーモニーの練習をしている時、水生は邪魔にならないように席を外して図書館に行ったり、必要な時はピアノで伴奏を弾いたりしているのだが、今日からはどうなるのだろう。
「・・・・・・合宿は中止だね、学祭までにしっかり煮詰めておきたかったんだけど仕方ないな。今日から暫くは個人練習と曲作りを主体にやっていこう。会合の日数ももう少し減らそう、今日中に日程作り直すよ。じゃあ始めて」
カオルはノートパソコンを取り出して、夏休みの予定表をリテイクする。画面を見ながら眼鏡を掛けた。真剣な表情なのでそばに寄りにくい。
水生はいつものように手持ち無沙汰で隅に座り、一番近くにいた雄二に話かける。
「合宿なんてやるの?」
「カオルさんの家で。唯一実家通いだから」
「・・・・・・何するの?」
「合作やったり、打ち込みやったり・・・・・・普段とそう変わらないけど、まぁ気合い入れろよって感じで」
「ふーん、なんか君達って仲良しだね」
「君達?おまえもだろ」
雄二はいぶかしげに断言する。水生はまた少し嬉しくなって独り笑みをもらした。
仲間と過ごす時間が嬉しくて楽しくてしょうがない。当然のように扱ってもらえるのがとても心地好い。女だからだとかサークルに入っていないからだとか、そんな区別は皆無だし無意味なことなんだろう、彼等にとって。
陽一はロッカーからヘッドフォンを出してきて、シンセサイザーのセッティングを始めた。五線紙を隣の机の上に置いて左手に鉛筆を握る。ヘッドフォンをして、右手が鍵盤を滑りだす様子を水生はじっと観察していた。顔をあげた陽一と目が合う。
精一杯の笑顔で小さく手を振ると、陽一は照れたように笑った。すぐ俯いてまた作業に没頭する。
「陽一君って仕草がプロっぽいね、見て見て!」
「どのように」
雄二は陽一の方を興味なさそうに一瞬見るが、また自分のしていることに戻る。コピー紙を緻密に丁寧に折っている。
「・・・・・・で、酒井は何やってんの?」
「おまえの話し相手。折り紙。それらの同時進行」
それがゆっくりと形になっていくのを水生は黙って見守った。やがて出来上がったのは紙ヒコーキだった。鼻歌を歌いながら翼に何やら走り書きする。
「カオルさーん、パス!」
一直線にカオルの元に飛んでいく。それを左手で軽くキャッチして、紙ヒコーキの運んだメッセージを読む。
「何て書いたの?」
「ヒマなのでパシリます、水生」
「何それ!あたしそんなこと言ってないじゃない」
「顔に書いてある」
「水生ちゃん、返事」
カオルは席を立ってわざわざ手渡してくれる。左側の翼に右上がりのカオルの字が並んでいた。
『いつもご協力ありがとうございます。今段取りをつけますので、少々お待ちください』
「良かったな、暇から解放されて。解放軍万歳!」
「いいもん、カオル君の言うことならちゃんと聞くもん」
「分け隔てなく人と接しましょう・裏表のない人生を送りましょう」
「なんか酒井今日はいつもより変だね。暑いから?」
「こんなにクーラーきいてて暑いとは、はて面妖な」
そっぽ向いて、水生は雄二から席を離した。長い会議机を引きずるがびくともしない。おかしいと思って机の足を見てみると雄二が掴んでいた。
「おお残念」
「もしもしカオルです」
片手でキーをせわしなく叩きながら、左手にケイタイを持って話す。リラックスした柔和な表情になっている。相手は誰だろう。
「うん、とりあえずメール送ったから読んで。今から取りに行ってもらうから」
「ははーん、読めたぞ」
雄二が苦い顔をして呟いた。水生には何のことだか判らないまま雄二の顔を見る。カオルも雄二の顔に視線を走らせる。雄二は手元のコピー紙にパシリと書いた。隣に水生、そしてそれを矢印で繋いで工学部黒沢教授と続けた。
「女の子と、もうひとりは知ってると思う。じゃあお願いします」
カオルは笑顔のまま電話を切り改めて雄二を見た。雄二は真剣な顔して両手を上げる。この二人は何を共有してこんなに通じ合っているのだろう。水生は益々不思議に思って二人の顔を交互に見た。
「水生ちゃん、雄二に付いて行ってもらえるかな。帰ってきてからお茶しよう」
「うん。行ってきます・・・・・・?」
教室を出る前にちらりと陽一を見たが、彼ひとり何にも属さずに黙々と仕事をこなしていた。生真面目さがよく伺える。
「どうしてそんな顔してるの?いいじゃないヒマしてたんだから、お使いくらい」
「遠いだろ、工学部まで。暑い。見ろこの炎天下」
「夏なんだもん暑いの当り前でしょ」
外に出るとなるほど暑い。コンクリートの照り返しに見舞われて、雄二の意見に反論したものの水生も思わず押し黙って溜め息吐いた。かかとの低いサンダルにも容赦なく太陽が照り付ける。今日はまた特別暑く感じる。
汗を拭いながら無言で工学部を目指す。せめて同じ敷地内にあったならと、今更ながら思う。そう今更ながら。何も知らずに了承してしまったことを、カオルに見事に
やられてしまったことを、暑いことを考える。熱にうなされたような頭で、水生は隣で玉の汗を流す雄二に尋いてみた。
「工学部に何の用?」
「カオルの作った夏休みG党活動予定表を親父の元にメールで送信した。それを取りに行かされてる訳だ。こんな小さなサークルには大学から予算は出ないだろ?貧乏な俺達からお金を取らずに運営していくには、工学部黒沢教授サマのバックアップが必要なんだよ。つまりカオルの親父。研究室にはデスクトップのパソコン何台も最新のレーザープリンタもコピー機も何でもあるからな」
「じゃあもっと精力的に部員募集したらいいじゃない」
「いや、性質的にそれじゃあやりにくいんだよ。組織化する上では人数は不可欠だけど、オーケストラみたいに集まれば集まる程いいものができる訳でもないし、クオリティを考えたら気心の知れた仲間だけでいい。ユウレイ部員がひとりもいないのはそういうややこしいことを排除する為だ。淘汰されて今の姿になってる。バランスいいだろ?」
「うん。ちゃんと考えてるんだね、酒井でも」
少し見直したように、水生は言った。雄二は何か言いたそうに一瞬水生を見たが、結局止めた。肩をすくめて軽い溜め息を吐く。
「しっかし暑いな。オブライエン転送!」
「え?何、オブライエン転送って」
「おまえスタートレック知らないよな。オブライエンは人の名前」
「たまにそんな訳の判らないこと言うよね、酒井は」
あれこれと話しながら、やっと工学部の研究棟が見えてくる。中に入るとはここも人が少ないせいで涼しい。日が高いので日光が直接入らないせいもあるだろう。雄二はとにかく一直線に黒沢研を目指した。エレベーターに乗って五階の一番端の部屋。
「よく知ってるのね」
「前授業取ってた」
「あー以外に理系なんだったっけ、そっか」
「失礼しまーす!」
水生が話終わらないうちに、雄二は木の扉を叩いた。ややあって入室許可の返事がある。中に入ると教授ひとりだった。
「あ、坂口君だったっけ?」
「酒井です」
「そうだった、ごめんごめん。君は?えーっと誰だったかな・・・・・・」
「麻垣です」
「うん、麻垣さんだったね」
黒沢教授は何度も頷いて椅子を進めてくれる。麻垣さんだったも何も、水生は当然初対面である。工学部に縁はない。誰かと勘違いしているのだろうか。
「夏休みなのに偉いね、何を尋きにきたのかな?」
穏やかな物腰の黒沢教授はよく見ればカオルによく似ていた。カオルがもっと歳を取ればきっとこんな感じになるに違いない。しかし全くといっていい程黒沢教授は年齢不詳だった。教授という立場上四十歳は越えているだろうが、それにしてはいやに若く見える。もし夜会ったら服次第で同年代に見えなくはないだろう。
「違います、G党のカオルさんに頼まれました」
「ああそうなの、ちょっと待ってね。カオル君のお使いか・・・・・・」
黒沢教授は山積みになっているファイルをよけて、プリンタとパソコンのスイッチを入れた。今やっとメールをチェックして、日程表をプリントアウトする。機械が奏でる単調なノイズ。無機質な夏。
「夏は蕎麦だね・・・・・・おなかすいたなぁ」
「さっきみんなでお蕎麦食べに行ったんですよ」
「え?あそこの店行ったの?美味しかったでしょう、君達もロッテリアばかり行ってないでもっと蕎麦やうどんを食べるべきだね。粋っていう名前だったかなぁ、ぼくの父親の友人の…あのおっかなそうなご主人の先代が飼ってた猫の名前を店の名前にしたんだってさ。ぼくも小さな頃父親によく連れていってもらってね、カオル君が生まれてからはよく連れていったもんだよ。カオル君かわいかったんだよ、女の子みたいでさ、写真見たい?今じゃあんな、ぼくより余程しっかりしちゃって、毎朝ヒゲそるような大人になったけど。御飯が嫌いで麺類ばかり食べてた。うどん食べて育ってるんだよ、カオル君は。あ、カオルって名前ぼくがつけたんだけどいい名前でしょ?男でも女でもOKなようにね。結局漢字が決められなくてカタカナにしたんだけど、シャープでカオル君のイメージにぴったりだと思わない?あれ、えーっと何だっけ。日程表だったね、うん。暑い中ご苦労様」
「・・・・・・ありがとうございました」
雄二はゆっくり頭を下げて日程表を受け取る。何故か表彰状を授与される 時のような姿勢。黒沢教授は傍らの煙草に手を伸ばして雄二に勧めた。丁寧に断って、雄二は席を立った。水生も続く。
「あ、お蕎麦屋さんのご主人が元気かって言ってました」
「そう?今から行こうかな」
古いジッポーで火をつけて、煙を吐きながら喋る。煙草の匂いが水生の鼻に微かに香って、自分の父親のことをふと思い出した。同じ銘柄。
「また遊びにおいで」
「失礼します」
同時に言って部屋を出る。また暑い中をとぼとぼ歩いて帰る。黒沢教授の不思議な魔術にかかったままのように、来た時程の暑さを感じない。暫く無言で歩いて唐突に雄二は口を開いた。
「いいよな、ああいう人」
「・・・・・・うん」
「黒沢親子にはかなわねーって感じ」
「年齢不詳だよね、全然判んなくない?」
「いや、俺人の歳とか判らないんだ。例えばおまえを見て誰かが二十五歳には見えないと言うだろ?そしたらああそんなもんかと思うし、別の誰かがどう見ても十八歳だと言えば、十八歳なのかと思う。自分の中に基準がない」
「何だろうね?カオル君なんて絶対二十二歳には見えないよね、まぁ陽一君と酒井は歳相応だけど、優も絶対二十一には見えない。もっと若く見える」
自分で優の名前を出しておいて、水生は少し焦った。胸が痛くなる。いつ会えるのか判らないのが本当に辛い。帰ってくる日を知っているなら、指折り待っていられるのに。それすらもさせてくれない、優。
「暑いな」
「うん」
「クッキーいつ焼いたんだ?」
「今日。早く目が覚めたから、焼こうかなと思って」
「全部食べていい?」
「駄目!みんなで食べるって言ったでしょ!」
水生が顔を上げて文句を言うと、雄二はやけに真剣な目で水生を見ていた。日程表を丸めて、水生の頭に軽く当てる。
「あのなぁ、そんな泣きそうな顔されたらリアクションに困るんだよ」
「別に泣きそうじゃないもん。優が帰ってこないのは仕方のないことだし」
「電話したらいいだろ。帰ってきてくれって言えばいい」
「そんな勝手なこと言えないよ、言う権利ない」
「おまえに権利がなかったら誰が言えるんだ?」
「・・・・・・判んない」
水生は俯いて涙声でやっと言う。雄二は急に困った顔をして、水生の腕を引いてとりあえず近くにあった花壇に座らせた。スリーブレスの肩が細かく震えて、たまに上下する。どうしたらいいのか途方に暮れながら、雄二は丸めた日程表を伸ばして水生の頭の少し上に掲げた。直射日光を遮ってやる。それくらいしか思いつかない、泣かせてしまったことの償いは。
「ごめんね、酒井」
「何が?」
「判ってるよ、自分が馬鹿だってこと。優って凄く自由でしょ?行動をあたしが制限していいのかなって思っちゃうの。それで気付いて欲しいとか都合いいこと考えてるの、おかしいよね、こんなの」
「・・・・・・俺には判らない。歳の話と同じで、自分の中に基準がない」
「うん、ごめん。もう大丈夫になった」
手の甲で涙を拭って、水生は立ち上がった。雄二の手に頭をぶつけてしまう。水生は今初めて気付いて驚いた表情で雄二を見る。
「ありがとう、全然気付かなかった」
「ん?あぁ・・・・・・」
「酒井って」
優しいと続けようとして、水生は止めた。話を聞いてもらうのもいつも雄二。何かあったらすぐ雄二に頼ってしまう。頼りたくなっている。高校の時のピアノの話も雄二の前の彼女の話も、そうお互いしか知らない。
これ以上考えを煮詰めてしまうと色々なものを失ってしまうことが頭をよぎる。優がいないことで必要以上にナーバスになっているだけだ。ただ、それだけ。
「やっぱいいの、行こう。お茶会だよ」
「おう」
ハーフパンツの泥を払って、雄二は水生に続いた。手持ち無沙汰に日程表を弄ぶ。何回も丸められたり伸ばされたりしたので、日程表はもう随分前に製作されたように古くなっていた。
少しお互い気まずくなったように、それからは何も言わないで部室に戻る。眩暈がする程涼しい。
カオルは電気ポットのコンセントを抜いて、会議机の上に置いていた。お茶会の準備は少しずつ進められている。
「やぁどうもお疲れ様。ありがとう」
「オブライエンに転送してもらったから」
「そうか、じゃあまたよろしく」
カオルは笑って日程表を受け取る。『オブライエン転送』の意味が判らないのは、この中ではどうやら水生だけらしい。もう深く追求しないまま席につく。
何枚かのコピー用紙の上に水生のクッキーを種別に並べて、コーヒーを煎れる。その席上でカオルは日程表を配った。勿論水生にも。
「見てもらえば判ると思うんだけど、ここに集まるのは月曜日だけだ。時間は一時半から五時位まで。木曜の会合は自由参加で、せっかく夏休みだしどこかに遊びに行こう。待ち合わせは随時変更ということでどうかな。まぁとりあえずこの日程表の有効期限は優が帰省するまでだね」
しわだらけの日程表を隅々までチェックしながらクッキーを一つ取ると、カオルがクリームを二つ手渡してくれる。
「せめて木曜日だけは絶対空けておいてくれるかな」
「うん、超空けとく!」
「超空けとく?何語だそりゃ」
雄二が機械のように規則的にクッキーを口の中に運びながら、呆れ顔で評する。水生は無視してクリームを二つ共コーヒーに入れた。
お茶会が終わってから、水生はみんなより先に帰った。昨日ゆっくり休んでいないせいで身体が重い。電車が少しでも込んでいない時間帯に吉祥寺に着いておきたかった。途中バイト先に寄って、社長に出勤日数を増やしてもらう。漸く部屋に戻って、水生はそのままベッドに倒れ込んだ。あれこれと長い一日でとても疲れていた。思いたって優のケイタイに電話してみる。何回かの呼び出し音の後に、留守番電話になったのでメッセージを残す。声が聞きたい。会いたい。
また少し泣いて、水生は早目に眠った。早く優が帰ってくる日がくるように。
記録的な猛暑がここ何日も続いている。
水生は朝から生理が始まってしまって、憂鬱な気分のまま陽一と待ち合わせている吉祥寺駅に向かう。食欲もまともにないので、とりあえず自販機でフルーツジュースを買ってその場で飲んだ。太陽に強く照らされて誰もが不機嫌そうに駅に向かう。甘いジュースのせいか体調のせいか、少し気持ちが悪い。陽一に電話して帰ろうかとも思ったが、部屋で独りでいる方が気分が滅入ってしまうだろう。また悲しくなるのももう嫌だった。ずっと電話もない。鳴らないケイタイを見つめて何度泣いただろう。雄二達が一緒にいてくれるのが唯一の救いになっていた。誰も優の名前を出さない。そのさりげない優しさに頼りきっている。
いつものように陽一は壁にもたれてじっと水生を待っていた。今日は文庫本を読んでいない。
「暑いね」
「超暑いよね、死にそう」
どれだけ拭っても汗は次から次から出てくる。ろくに会話が出来ないまま、大学に到着した。でも一緒にいてくれるだけで随分と心強い。何とか立って歩いていける。
「はー、あっつー・・・・・・」
やっと辿り着いた部室はいつも通り涼しい。一気に汗が引いて、気分の悪さが幾らか和らぐ。冷蔵庫に直行して買い置きしておいたココアを飲む。
「やあ、今日も暑いね」
カオルがいつものようにノートパソコンから顔を上げて、それから手を止めた。水生の前の椅子に座る。
「水生ちゃん顔色良くないよ、大丈夫?」
「うん平気。ちょっと夏バテしちゃっただけ」
「送っていこうか?」
「大丈夫だよ、ありがとうカオル君」
その時雄二が走って部屋に入ってきた。ジュースの缶を幾つも抱えている。冷蔵庫に直行して、全部入れ終わってもまだその前にじっとしている。冷凍庫からの冷気を浴びているらしい。
「酒井何買ってきたの?アイスは?」
「アイスはない。缶ジュースだけだ」
「アイス食べたーい!買ってきてよ」
「自分で行ってこい」
雄二はコーラの缶を手にもっていつもの席につく。プルトップを引くと泡が弾けて飛ぶ。走って帰ってきたのだから当り前の現象である。それでも顔色変えずに飲み干す。大きく息を吐き出した。
「あーうまい」
水生は何気無く言ってみたアイスが本当に食べたくなってしまったので、諦めて買い出しにいくことにした。
「じゃあちょっとコンビニ行ってくるね、カオル君何かいる?」
「いや、ありがとう」
「陽一君は?」
「酒井のもらうから」
「ん。いってきまーす」
財布だけをポケットに入れて立ち上がる。軽い立ちくらみに襲われるが、一息つくと普段通りの視界が戻ってくる。
部室から出て少し歩くと、雄二が後ろから追いかけてきた。額に浮かんだ汗が玉になって流れ出すのは時間の問題だろう。水生の隣に並ぶ。
「何かいるの?」
「いや」
雄二は言葉少なに告げて無表情に歩く。少しずつ雄二の優しさが見えてくる。暑いのが苦手で滝のような汗をかきながらでもついてきてくれる。いつもはからかったり意地悪ばかりするのに、どうしてこんなに優しいのだろう?優しくなれるのだろう?
それでもやはりふと優のことを考えてしまう自分がいる。こんなに仲間に恵まれているのに、どうしてそれに安心して満足していられないのか。そうできたらどんなに楽だろう?
「顔色悪いぞ。ちゃんと食ってんのか?」
「・・・・・・あんまり」
「夜寝てるのか?」
「・・・・・・あんまり。電話がね、もし電話が鳴ったらとか考えたら眠れなくなるの。ケイタイにかけても呼び出し音無しで留守録になっちゃうから、電源切ってるのかもしれない。電話もないし、もう駄目なのかな・・・・・・」
水生は力なく笑う。もうどうしたらいいのか判らない。益々強くなる優への猜疑心と比例して記憶の中の優が微笑む。水生を捕らえて離さない。
「・・・・・・ごめんね、あたしこんな話ばっかりしてるよね」
「・・・・・・」
一瞬水生を見て、雄二は黙ったまま僅かに俯いた。
何も言わない雄二に対して、何も言えない。水生から優を切ることができたらいいのに。新しい何かを求められる状態になればいいのに。
夏は永い。
いつまでもいつまでも発狂寸前の暑さを伴って、絶大な存在感でそこにい続ける。流れる汗にも涙にも終わりがないのに、いつまで無駄な消耗が存続するのだろう?
買物を済ませて無言で歩く。直射日光とコンクリートの照り返しで、栄養の足りない身体は少しずつ悲鳴を上げる。手足が機械のように無暗に正確に動く。こめかみを汗が滴る。ふと気を緩めたら、力を抜いたらどうなるのだろう?揺らぐ意識の中で考える。ここがどこだか判らなくなる。
「おい、水生!」
雄二の声に少しだけ自分の手応えを感じる。手からコンビニの袋がすり抜けて道に転がった。強く太陽に射抜かれる。もう溶け始めているだろう。
優のことを考える。
そばにいる。力の入らない身体を抱きとめてくれる。白いTシャツによりかかると夏の、汗の匂いがする。背中に腕を回す。強い存在感。汗で濡れた腕。
「優・・・・・・」
涙が溢れてくる。熱いコンクリート。少しずつ素肌が焼けていく。初めから液体であったような溶けきったアイスクリーム。
隣で誰かが大声で電話しているのがぼんやりと聞こえる。誰だろう。別に誰でもいい。
身体が軽い。歩く振動が伝わる。薄く目を開けると視線が低い。影になった顎の向こうに太陽。その胸に頬に当てると、強い鼓動。温かい穏やかな気持ちになる。落ち着く。とても安定する。また意識が揺らいで、まどろみに支配される。簡単だった。あとはその波に身を委ねればいい。じっとしていればいい。頬に涙が一筋伝う頃、雄二に抱き上げられて少しずつ意識を失う水生が眠ったように目を閉じていた。うなだれる水生を抱き上げて、カオルの車の方に慎重に歩いた。華奢な腕がTシャ
ツを掴む。まるで最後の力を振り絞るように強く。
幸せな夢を見ている子供のように、水生は穏やかな顔をしている。混濁する意識の中優と間違えてしがみついてきた時、抱き締めてやるべきだったかどうかをずっと考えていた。そういう風に優しくだましてやることも、今の水生には必要なことだったかもしれない。
遠くからカオルと、少し遅れて陽一がみんなの荷物を持って走ってくる。車に乗り込んで、シートを倒して水生を寝かせる。クーラーを全開にして陽一がサンシェイドを張りつけた頃、やっと雄二の服を水生は離した。血の気がない白い顔。涙の跡。頬にかかる髪をそっと払ってやりながら、雄二は呟く。
「メシもろくに食えない、夜も眠れないじゃ倒れて当然だろうな」
「やっぱり原因は・・・・・・ケイタイ通じないのかな?」
「留守録に直通だから電源切ってるんじゃないかって。かかってもこないらしい」
「・・・・・・どうしたんだろう」
心配そうに陽一が水生の様子を伺う。カオルだけが無表情に先を急いでいた。少しの渋滞を通って、大きな病院のロータリーに車を入れる。庭には誰の姿もない。陽一は受付で手続きをする。時間外の待合室は不気味に静かだった。クーラーのきいた院内の椅子にそっと横たえた時、水生は目を覚ました。起き上がろうとする身体を押し留める。
「・・・・・・ここ何?」
「病院。おまえコンビニの帰りに倒れたんだよ」
「あー・・・・・・あたし夢見てた」
「どんな?」
「抱き合う夢。もっとぎゅっとして欲しいのに、なんか手応えがない感じ・・・・・・」
陽一が戻ってくるのとほぼ同時にカオルがやって来る。二人共水生の顔を見て、心底安心したように、でもどこか力なく微笑んだ。
「ホントごめんね、心配かけちゃって」
「気分はどう?落ち着いた?」
「うん。あたし的には大丈夫の範囲なんだけど」
「麻垣さん、こちらにどうぞー」
話を遮るように看護婦の声が飛んできた。雄二に助けられて起き上がる。強い力に少し意識してしまう。三人を残して水生は診察室に入る。
貧血と睡眠不足からくる夏バテという診断。腕に注射をされ、食事をちゃんとすることをきつく言われて診察室を後にする。
「痛い・・・・・・」
注射の跡を見ながら、水生は涙声で訴える。カオルは優しく微笑んで髪を撫でた。漸く全てから解放されて、車に乗り込む。
「水生ちゃんの為に貧血対策夏バテ防止メニューを作るよ」
「ホント?あたし納豆以外なら何でもOKだよ」
「判った。納豆以外だね」
カオルは何度か頷いた。表情は穏やかで優しい。他の二人も気が抜けたみたいに素になっている。水生は窓にもたれてそっと目を閉じた。優にこれを言えば、すぐにでも飛んで帰ってきてくれるだろうか。
クーラーのききすぎた車内で浴びる日光は嘘みたいに丸く柔らかい。四月に出合った優のようなイメージ。すぐ笑顔になる人なつっこい話し方、豊富な話題。いつも優の周りは人で絶えない。幼い子供のような優を誰もが好きだった。自分の家に帰る時は名残惜しそうにいつも抱き締めてくれた。柔らかい唇のキス。やっと来た夏なのにどうして優はそばにいないのだろう。今何をしているのだろう?
目まぐるしく車窓の景色は流れる。
素直になれない自分が嫌いだった。どうして言えないんだろう?何に対して虚栄心が働いているのだろう。こんなに優のことを考えているのに、優は自分のことなんて考えてくれないのだろうか。やがて誰も答えをくれない疑問は水生の中で渦を巻いて回り、完全に溶けて一つになる。
優には言わないでおこう。ささやかな反抗のつもり。
固い決心をして、三人に口止めする。誰も何も意見を言わなかった。そう、これでいい。間違っていない。暫く走ってカオルの家に到着する。周りは静かで、住宅以外あり何もないような所
だった。門を開けてバックで車庫入れして外に出る。家族の誰かにガーデニングの趣味でもあるのか、花や緑が沢山ある。心地好い空間だった。
「どうぞ、入って」
「お邪魔しまーす・・・・・・わー広いー」
玄関に吹き抜けがある。解放的で広い。出されたスリッパに履き代えて二階のカオルの部屋に行く。雄二は勝手にローボードの中からゲーム機を出して、陽一と対戦を始めた。カオルがお茶を持ってくる。
「今から買物に行ってくるけど・・・・・・誰かアシスタントをしてくれるかな」
「あたし行く!」
水生は小学生のように高く挙手した。それをカオルは優しい先生のような口調で制する。
「君はお留守番だよ、水生ちゃん」
「じゃあおれ行こうかな」
案の定陽一が立候補した。こういう時に雄二が率先しているところを水生は見たことがない。でもゲームをする目は真剣そのもので、いつもの無気力そうな雄二はどこにもいない。
「じゃあ行ってくるよ、ゆっくりしてて」
「はーい、いってらっしゃーい!」
水生は手を振って見送った。雄二は相変わらずウンともスンとも言わないまま、画面を見つめ続ける。暫く雄二の観察をする。真横に座ってその横顔を見つめ続けると漸く雄二はゲームをする手を休めて、横目で水生を睨む。
「何?」
「退屈だなーと思って酒井の観察してたの。ねぇゲーム好きなのね。あたしにもやり方教えて」
「おまえには無理だって。それよりあれ何だよ、優に言うなって。何を隠す訳?」
コントローラを置いて、水生の方に向き直って話す。水生は思わず目を逸らした。
「いいじゃない。変な心配させたくないもん」
「じゃあもし今優が福岡で入院してて、おまえそれ知らされなかったらどう思う?何で教えてもらえなかったか、単純に考えるだろ?同じじゃないかよ」
「・・・・・・わざわざ言うのもおかしな話じゃない、いーの!優は知らなくて」
「じゃあ俺が言ってやる」
「余計なことしないで!」
「どう余計なことなんだよ!」
雄二は思わず声が大きくなる。水生は怯えたような目で、無言で雄二を睨んだ。目に涙が溜ってくる。
「いいじゃない、言わないって決めたの!」
水生はベッドの上に移動して、膝を抱えて本格的に泣き出した。どうして雄二に怒鳴られなくてはならないのか、どうしても理解できない。小一時間後にカオルと陽一が戻ってきても、まだ水生は同じ姿勢で泣いていた。先に部屋に入った陽一はぎょっとした顔で、それでも何も言えずに交互に二人を見る。どうすることも出来ずに部屋の前で立ち尽くす。そのうちカオルが二階に来て、
グラスに入ったココアを水生に差し出した。何かを察したのか、何も尋かない。
「水生ちゃん、ピアノ弾く?」
「え?ピアノあるの?」
真っ赤になった目でカオルを見る。幾つもできた涙の跡。長い間泣いていたことがよく判る水生の顔。少しだけ口を付けたグラスを持って、カオルは水生の手を引いてベッドから降ろした。
「こっちだよ、ついてきて」
隣の部屋に連れていく。グランドピアノとシンセサイザー、ギターがある。壁面一杯の本棚には様々な種類の本が並んでいた。楽譜専用の棚があって、クラシックの古い楽譜が沢山納められている。
「凄ーい。これ全部カオル君の?」
「いや、母親のなんだよ。でも気にしないで使って」
「いいの?」
「どうぞ。晩御飯作ってくるから、何かあったら下においで。楽しみにしててね」
「うん、ありがとう」
サイドのテーブルにココアを置く。汗をかいて、水滴が落ちてテーブルにプールを作った。カオルが出ていった後、入れ替わりに陽一が入ってくる。
「聴いていい?」
「えー恥ずかしい。あたし下手だから、期待しちゃだめだよ」
ソラで弾けるのは、最後にコンクールに出た曲だけだった。もうかなり忘れていて指が思うように動かなかった。一曲弾き終わって、陽一が拍手をしてくれる。久しぶりに弾いて未完成なもののやはり嬉しい。小倉ゐゑをの曲の最初のフレーズを弾いてみて、タイトルを陽一に尋ねる。
「t.4.2.」
「Tea for two?どういう所以で?」
「・・・・・・酒井に尋いてみたら?」
「酒井は知ってるの?」
「・・・・・・まぁ作者だから」
水生は虚を突かれた顔で陽一の目を見た。小倉ゐゑを=酒井雄二という図式が咄嗟に浮かばない。鍵盤を見つめて、もう一度弾いてみる。あの負け犬のイラストも雄二が描いたのだろうか。どうしてすぐばれるような嘘をついたのだろう。でも怒る気にもなれなかった。むしろあの曲が雄二から出たものだということの驚きの方が、ずっと大きい。いつもどんなことを考えていれば、あの曲を思いつくことができるのだろう。もっと知りたい、雄二のことを。
そう考えて、水生は少し焦った。前二人で帰った時と同じ罪悪感。どうして雄二に怒られて涙が止まらなくなったのか、どうしていつも雄二についてまわったのか、どうして雄二のことに強く興味を持つのか、今やっと理解した気がする。
惹かれている。雄二に、強く。
愕然としてしまう。たった今優のことで生活が狂ったばかりなのに。あんなに優のことで悩んだのに。あんなに優のことで泣いたのに。あんなに優の電話だけを待っていたのに。
「どうしよう・・・・・・」
「ん?」
思わず口に出してしまって、水生は強く動揺した。打ち明けてしまいたい。陽一なら判ってくれるかもしれない。
「あの、あのね・・・・・・・」
「あれ?」
不意に遮るように扉が開いて、ドアのそばに立っていたのは黒沢教授だった。若草色の作務衣を着ている。
「カオル君からピアノをやっているって聞いたんだけど、もう止めたの?」
「今から再開です」
黒沢教授のリクエストも交えて演奏する。そのうちカオルが呼びにくるまで陽一と二人になるチャンスは無かった。カオルの母親は旅行中らしくて、黒沢教授を含めた五人で食事する。
「あまり時間取れなかったからね、簡単なものばかりだけど」
カオルがそう前置きした割に料理は六品ある。久しぶりに食べる和食中心の手作り料理。食後に出てきたプルーン入りのフルーツポンチは絶品だった。水生の身体を気遣って食後すぐに解散になる。送ってくれるというカオルの好意を辞退して、三人でバスに乗って帰る。
最終間際のバスは結構込んでいて、離れた席に陽一がひとりで座り、水生は雄二と隣合わせになってしまった。バスが揺れる度、肩先が触れ合う。今まではなんでもなかったことなのに、強く意識してしまう。動悸が速くなるのを感じて、水生はしなだれるように窓にもたれた。見るともなしにそれを眺める。速い速度で景色が流れる。雄二が狭い中を動く気配がする。まともに雄二と話せない。まして顔なんて見られる筈もない。水生はバスが早く終点に着くことだけを祈る。溜め息を吐く音が聞こえる。それだけでもう水生は穏やかではない。
雄二がぶっきら棒に呟く。
「・・・・・・悪かったな」
「あ・・・・・・・うん、ううん」
水生は俯いてとりあえず正面を向く。こんな態度は、雄二にはどのように映るのだろう?このまま会話を終わらせてしまいたくはない。でも何を言えばいいのだろう。加害者被害者という上下関係をどうやってフラットにできるだろう。とにかく素直に謝ってみよう。多分そこから始まる。
「あたしも・・・・・・ごめんね。なんかムキになっちゃって。酒井は心配してくれてたのにね」
目の前の障害が一瞬にして消えてしまったように、心が軽くなる。優に対してもこんなに素直でいられたら良かったのに。もっと素直でいられたらいいのに。悔やんでも仕方ない。雄二が好きだという気持ちは消えない。色々失ってももう消せない。
「あぁ・・・・・・よく考えて結論出せよ。隠し通せるものなら言わなくていいだろうしまぁ俺が首突っ込める問題じゃないけど」
「うん、でも今なんかもう混乱してる。あーどうしたらいいんだろ」
「おまえちょっと疲れてるんだよ。ゆっくり風呂入って寝ろ」
「ふふっ、そうする」
心配されているという事実だけで嬉しくなる。なんて幸せなんだろう。久しぶりに満たされたような気持ちになる。でも優のことを考えると、手放しでは喜べないのが現状だった。どうしたらいいだろう。誰も傷付かずにハッピーエンドになれるとは思わない。それでも優が帰ってこないことには話は始まらない。
間も無く吉祥寺駅に到着する。細いギリギリの路地をバスが走る。雄二はここからバスを乗り次いで家に帰る。離れてしまうことを少し寂しく感じてしまう。
「じゃあな」
「ばいばい」
結局そのままバス停で別れて、やっと陽一と二人になる。陽一は駅からいつも水生の部屋の前まで送ってくれる。その短い時間に話せる自信がなかったので、水生は近くのクリーニング屋の前の何も植わっていない花壇に腰掛けてじっくり打ち明けることにした。途中で缶ジュースを買う。陽一は何も尋かずについてくる。
「あのね、単刀直入なんだけど・・・・・・」
うまく言葉を探せないまま、前置き通りに水生は陽一に話す。まるで陽一自身に告白をしているような緊張感。
「あたし酒井のことが好きみたい」
「・・・・・・何となく、そうじゃないかって思ってた」
「ホントに?今日、自分で判ったって感じなんだけどね・・・・・・」
言ってしまえば多少楽になる。プルトップを開けて、半分位一気に飲み干す。ふと気付けば朝飲んだものと同じだった。蹴飛ばさないように注意して、陽一も沢山飲んで足元に置く。
「・・・・・・だから何?って感じなんだけど、誰かに聞いてもらいたかったんだ」
「うん。優のことは・・・・・・どうするつもり?」
「多分今すぐ優が帰ってきてももう駄目だと思うの。遅かれ早かれこうなってたんじゃないかな・・・・・・判んないけどね、先のことなんか」
「そっか、じゃあ頑張らないと」
陽一を見て微笑んで、水生は首を横に振った。陽一はその仕草を静かに見つめる。水生はそっと溜め息を吐いてまたジュースを口に運ぶ。
「最初から諦めてるから。そのせいでみんなが気まずくなるのも嫌だし、あたしもそんな次から次へといい加減なことしたくないし」
「大丈夫だよ、おれ達そんなことで仲悪くなったりしないから。それにいい加減なことだとは思わないけどな、好きな人と付き合いたいって思うことは。おれはむしろ仕方ないと思うよ、そりゃ誰だって寂しいよね」
「かなわないなー・・・・・・もう」
水生はそう告げてまつげを伏せた。ゆっくり目が潤んで、やがて一筋涙が頬を流れる。陽一は控え目に頭を撫でてくれた。残りのジュースを全部飲んで、水生は笑ってみせる。つられて陽一も笑う。
「なんとかなるよね?もう考えるの止めた。ありがとう、話聞いてくれる人がいて良かった」
「うん、だから頑張って。おれで良かったらいつでも相談乗るから」
水生は飛び跳ねるように気丈に立ち上がって、陽一の分の缶と一緒に自販機の隣の空き缶入れに捨てた。缶のぶつかる軽い音がする。
「ありがとう。今日は時間早いしここからひとりで帰るよ」
「おやすみ、気を付けて」
「うん、おやすみ!」
かかとの低いサンダル。背の高くない優の為に今年買ったばかりだったが、明日からは去年と同様高いサンダルを履こう。左に鞄を持ち直してひとりで歩く。みんなに庇われてばかりいる自分。もっとしっかりしよう。強くなろう。陽一が応援してくれるのは純粋に嬉しかったが、水生は諦めていた。あんな寂しい想いをする位なら、独りでいい。友達のままでいい。
雄二に言われた通り、熱いシャワーをゆっくり浴びて、充分リラックスしてベッドに入る。いつもより早い就寝時間に、なかなか眠りは訪れない。嫌でも考えてしまう雄二のことを。記憶の中の雄二が水生に優しくする。小倉ゐゑをのt.4.2.をハミングで歌う。水生は優に何と切り出そうかを考えながら、やがて後ろから眠りの波に抱き止められた。
第一章 SOUL MAN
第二章 GOD BLESS YOU
第三章 今日が終わる前に
第四章 それでも恋はやってくる
1 夏祭ナツマツリ
2 なつのひと
3 夏の神
4 ナツノヒト
5 夏の男
6 夏の女
7 サマーピープル
8 サマーバケーション