今日が終わる前に
優は何も知らずに、本当にこの夏のことを何も判らずに帰ってきた。反町、とニックネームがつけられそうに真っ黒に日焼けした優。学祭に向けてG党の練習に熱が入る。帰省中キャンセルしていた分バイトにも詰めて入る。勿論それは生活費なので、水生は無理に会おうとは言えなかった。帰ってきて半月がくるのに一度も二人きりでデートをしていない。
漸く二人で会う機会が訪れたのは、9月に入ってからだった。優はバイトを休んで会う時間を作ってくれたので、水生は封印した筈のかかとの低いサンダルを履いていく。昼に吉祥寺で待ち合わせて、一緒にランチを食べる。サンロードのインド料理屋。
「久しぶりだよね、二人で会うのって」
責めるつもりはなくても、そんな切り出し方はしたくなかった。水生は意識できないところでフラストレーションが蓄積していたことを、改めて感じる。
「うん、ごめんね水生ちゃん」
「えー謝らないで、そんなつもりじゃないんだから」
「友達に戻ろうよ」
水生の笑顔が自然に消えて、優の目を見つめた。視線すら合わせずに、優は組んだ指先を見ている。いずれこうなることは判っていたものの、優からそれを突きつけられて、正直水生は強いショックを受けた。言葉が出てこない。全て見透かしたような優の態度にも、都合のいい自分にも。ど
うしてショックを受ける必要があるのだろう。世間的に見て新しい恋を始め易い立場になったというのに?どろどろのカレーとナンが運ばれてくる。口を付ける気にもなれない。機械的にそれを食べる優を見ながら、水生の中では考えがうまくまとまらないでいた。目を伏せた優が冷たく見える。これ以上ここにいるのが辛くなってきて、水生は席を立つ。
「判った・・・・・・今日は帰るね」
「・・・・・・うん」
優は手を止めないで、低く言った。水生と入れ違いで通ったインド人のウェイターが一人分オーダーを間違えたかと尋いてくる。無表情のまま否定すると何事もなかったように立ち去る。散々迷ったが、水生の分は手を付けないで帰る。食べようと思っても気が進まない。胸が一杯で。
迷子になった子供のように、水生は商店街のアーケードの下を宛もなく歩く。鞄からケイタイを出して陽一にかけても、陽一は出ない。臨時のバイトにでも入ったのだろうか。メッセージを残さずに電話を切る。
何もかもを軽く考えていたことに茫然とする。頭の中で何度かシミュレイションしたものとは、空気の重さに違いがあり過ぎる。食べ物のいい匂いがあちこちでする。空腹を感じるものの、気持ちが悪くて食事を摂ることなんて考えられなかった。そのうち人込みにも酔ってくる。何度もからっぽの溜め息を吐いて、部屋に帰る。 街の中に水生の居場所はない。無気力のゼリーにすっぽり包まれて、水生はベッドに横たわった。心から落胆している。まだ優に気持ちが残っているということだろうか。判らない、自分では何も判らない。もし今だれかにそれを肯定されたら、素直に納得してしまえそうだ。明日にはG党にこの話は行き届く。水生がG党通いを止めた
ところで、優しい仲間達はいつものように何も言わないだろう。そうこうしているうちに授業が始まって、辛かった夏のことも楽しかった夏休みのことも体よく思い出という名前の記憶になるだけだ。
電話が鳴り出す音で目が覚める。いつの間にかうたたねをしていたようだ。西日が傾く時間になっている。暫くカバンの中で鳴り続けて、突然死んだように止まる。時計を手に取って時間を確かめると、また電話が鳴り始める。陽一からだった。昼間電話をしたことを忘れて、ケイタイの通話ボタンを押す。
「もしもし」
「あ、陽一です。電話くれたよね?」
「え?・・・・・・あ、うん」
「どうかした?」
陽一の低い声に泣きたくなってくる。先刻より更に重くなって、別れた事実が肩にのしかかる。ここで陽一に甘えるのは簡単なことだった。それでは駄目になる。これから独りで歩いていけない。でも−−手を差しのべてくれているのに、断ることができるだろうか。人間は崇高な理想だけで、独りで生きていけるだろうか?なるべく客観的に簡潔に陽一に話すことだけを固く決める。被害者も加害者もいないように。
「今日ね、優と別れたの。案外早かったかなって、うん・・・・・・もう少し持つかなって思ってたんだけど」
「・・・・・・そっか。あ、晩御飯食べた?おれ今バイト終わったばかりなんだ。良かったら一緒に食べに行かない?」
「うん」
「今からそっち向かうよ。下に着いたらまた電話する」
「うん」
「じゃあ、後で」
「うん」
ケイタイを置いて、頬に触れてみる。おかしい程一滴も涙が出てこない。あれだけことある毎に泣いていた自分が信じられなかった。アスファルトの上で転んだ時のように身体のあちこちに熱い痛みは残っている。濃縮された眠りの中で何かが削ぎ落とされたのだろうか。自分が自分じゃないみたいな妙な違和感。とりあえず髪をセットし直して、鞄を持って表に出た。集合郵便受けにもたれて陽一を待つ。原付に乗った陽一はすぐに来た。厳重にロックして漸く合流する。
「信号という信号全てに引っ掛かっちゃって、本当はもっと早く来れる筈だったんだけど」
「あたしも今出てきたところだよ、全然待ってない」
「ならいいんだけど。行こうか」
「うん」
細い路地を通って表通りに出る。頭がスッキリしない。夜になっても減らない人込み、みんな何処に行くのだろう。
陽一が連れてきてくれたのは、松屋だった。水生はそこで初めてつゆだくという言葉を覚えた。牛飯屋に来たのも初めてだった。その後はワインバー。何の話をするにも、陽一は優のことには触れない。それで水生は随分と救われる。ワイングラスを傾けて少し飲んでみる。飲み易いと勧めてくれた銘柄だったが、水生にはきつすぎるアルコール。ほろ酔いになったお陰で、漸く優のことを話すことができる。
「今日ね、ほらサンロードのインド料理屋さんで言われたの。友達に戻ろうって。すっごいショックでー・・・・・・別れるって決めてたのにね?ヘンなの。それからすぐうちに帰ってぐうぐう寝ちゃって、陽一君の電話で起きたの。自分が電話したことを忘れちゃってた位、よく寝たよ」
「・・・・・・そっか。友達か」
「うん、当分G党には行けないかなって。優もあたしに会いたくないだろうし、みんなも余計な気を使っちゃうでしょ?優しいから」
「理由は尋かなかったの?」
「うん、なんかショックでそんなこと考えつかなかったの。尋く余裕もなかったしすぐ帰ってきたから。ナン食べそびれちゃった」
「ひとりは何かと気楽だよ」
陽一は言葉少なにそう呟いた。ゆっくり味わってワインで喉を湿らせる。
隣の席はグループで、ボトルを何本か頼んで飲んでいた。もうあんな風に五人で集まったりすることもなくなるのか。そう考えると急に寂しくなる。その時ふと、優を失ったことよりむしろ仲間を失ったからこそショックが大きかったという思いが脳裏をかすめていった。でもそうは言い切れない。初めてできた彼 氏に水生の胸は躍ったし、何よりその間優のことが大好きだった。楽しかった。後悔しかけたこともあったけど、得たものは大きい。今はどんな顔をして会えばいいのか判らないけど、完全に絶交してしまいたくない。お互いの葛藤は時間と共に薄れていくだろう。また前みたいに自然に笑い合える。今はそう信じたい。
「嫌われたんじゃないなら、また仲良しに戻れるよね?」
「大丈夫だよ、絶対」
「カオル君も酒井も驚くだろうね、ふふっ。心配しないでって言ってね」
「うん」
「陽一君も心配しないでね?あたし多分全然大丈夫だから。ホントに」
「判った」
少し笑って、陽一はグラスの中のワインを飲み干す。そんなに年齢の変わらない陽一やカオルが大人っぽく見えるのは、きっと人には言えない色々な経験があるからだろう。水生は陽一がワインの追加を頼んでいる姿を見て、ふとそう思った。こんなグラスのワインさえ持て余す、水生はまだまだコドモだということだろう。少しずつ慣れて飲めるようになったなら、それでいい。急がなくても。陽一が二杯目を空ける間に水生はやっと一杯を空けた。陽一の白ワインを飲ませてもらって、初めて水生の飲んでいるワインが飲み易いということを理解する。陽一やカオルに教わることは多い。そうして少しずつ大人になる。
合計三杯のグラスワインを飲んで店を出た。
顔色ひとつ変わらない陽一と赤い水生。飲み足りないだろう陽一には悪いが、水生は早く高い靴を脱いでベッドに寝転ぶことを考えていた。思ったよりも足にくるようだ。途中何度も転びかけて陽一に助けてもらいながら、漸く部屋に辿り着く。
「陽一君、原付乗って大丈夫なの?」
「法律的にはヤバいけど、全然平気」
「頼もしいなー。うん、じゃあ気をつけてね」
「おやすみ」
「おやすみー!」
厳重なロックを解いて、陽一はヘルメットを被った。控え目に手を振って、原付にまたがり発進させる。夜の街に溶け込んで、あっという間に見えなくなる。ワインのせいで心が軽い。鼻歌を歌いながら階段を上って、鞄の中のスヌーピーのキーホルダーを引っ張り出した。半周回して扉のすぐ横のフックに掛けて、また鍵を掛けてチェーンを確認して、水生はベッドに倒れ込んだ。このまま今すぐ眠ってしまいたい。もう眠ってしまおう。電気すらつける暇なく、水生は液状の眠りの海に身を投じた。
水生は朝から夜まできっちりと根を詰めてバイトに入った。旅行社の雑用で、若い社長は水生に秘書と肩書きがついた名刺を作ってくれている。電話番、外回りでのパンフレットチェック、お茶、買い出しなど細々とした雑用一般なので、一日中仕事はそこそこある。ペイもかなりいい。週末八時間働いただけで、家賃と少しの仕送りを別とした生活費は賄える。
部屋には帰って眠るだけの生活だった。優と別れてからやたらとよく寝るようになった。部屋で独りでいると条件反射のようにすぐ寝てしまう。身体だけは健康になった。そんな生活ももう終わる。が授業のない日はバイトをした。何もしていない時間が少しでも早く過ぎるように。後期の授業は見事に優とは別々で、水生は安心してその場所にいることができる。新しい友達もできた。順調な日々。
夏はいつの間にか終わって、季節は正に秋になる。サンダルももう履かない。やたらと短いスカートもキャミソールも次の夏までは封印する。楽しい夏の記憶は思い出という名前に変わる。G党の誰とも陽一と飲みに行った翌日から会っていない。ごくたまに雄二から無意味なメールがケイタイに入るだけで、それ以外の繋がりはなかった。
そんなある日、バイト中にカオルから電話が入る。久しぶりに聞く声。どの位連絡を取っていなかったか、厳密には覚えていない。夏の暑さ位しか。お互いの近況などを話合って、当たり障りのないところからカオルはまた水生の生活に入ってくる。勿論嫌な気はしない。
「今度おいでよ、そうだね木曜日はどう?」
「うん・・・・・・行こうかな。久しぶりだもんね、お邪魔します」
「待ってるよ、おれも今からバイトなんだ。じゃあ」
「ばいばい」
やはり最後は笑顔になる。にこにこした顔でケイタイを仕舞うと、マキ社長が嬉しそうな顔してボールペンで指して冷やかす口調で言う。
「水生オトコできたなー」
「できてないですー!カオル君友達だもん。彼氏とは夏別れたよ。あたし振られたの」
「え!?知らなかった。どうして言わないんだい?」
「マキちゃん優しいもん。なんか気とか遣わせちゃいそうだから」
「よしよし。だからこんないい季節だっていうのにバイトばっかりしてたんだね?かわいそうな水生。お兄さんが美味しいごはん食べさせてあげるよ」
「マキお兄さんありがとう」
「今度からそういうことはもっと早く言うんだよ?おもしろい人のところ連れていってパッと忘れさせてあげるからね」
「うん・・・・・・最近かもしれない、言えるようになったのって」
「ああーいーなー恋人欲しいー!!」
男か女かどちらでもいいのか、水生は考えながら鳴り出した電話をとった。ゲイであるらしい。マキ社長の言うおもしろい人達と飲みに行った時、ニューハーフの一人が酔ってそんなことを言っていた。正直驚いたが、よく考えるとどうでも良かった。水生も酔っていたからだろう。マキ社長も仕事に戻って電話に真面目に受け答えする。気が緩んだのでまた少し眠たくなる。心待ちにしてもいつも通り生活しても木曜日はくる。
どんな顔して優に会えばいいのかを考えながら、G党の扉をそっと開ける。
「こんにちはー・・・・・・」
中に入るとカオルと雄二がいた。日当りのいい部屋の空気が懐かしく思える。カオルはいつも通り笑って迎えてくれる。雄二は驚いた顔で水生を見る。カオルから知らされていなかったようだ。それがよく判る雄二の表情。
「酒井ヘンな顔ー!」
「なんだ、入部希望か?おまえ音痴だから入れてやらない」
「余計なお世話ですー!」
わざとにそっぽ向いて定席につく。ここからの眺めも誰かが貼った海のポスターも変わらない。陽一と優がいない理由が気になったが、授業か何かでまだ来られないだけだろう。とりあえず陽一には会いたかった。この前のお礼もいいたいし、元気な姿を見せて安心させてあげたい。きっと気にしてくれているだろうから。カオルは優の来られない木曜日を選んで、誘ってくれたのかもしれない。なるべく自然な形で迎えられるよう、雄二にも内緒で。
「学祭でステージやるから、見においでよ。日程決まったらまた教えるから」
「うん、ありがとう」
いつ優がその扉を開けて入ってくるかと思うと、緊張はなかなか抜けない。雄二が冷蔵庫からココアを出してくれる。永い夏が終わったことを知らないように、一気飲みできない程よく冷えている。長い間水生を待っていたように。
雄二の机の上には負け犬印のファイルや書きかけの楽譜、何かの進行表みたいなものが無数に散らばっていた。これも学祭の準備なのだろうか。
「見ていい?」
「いいけど」
小倉ゐゑをのあの曲が演目の中に入っていたらと思って調べてみたが、今回はないらしい。どうせならライブで見てみたい。ふと見覚えのある癖字、案の定作詞曲は優だった。名前の横の日付は九月の始め頃の数日。ちょうど別れた日位だ。興味に背中を押されて、水生は歌詞を読んだ。God
Bless Youというタイトル。中学生の時英語の時間に習った言葉だ。くしゃみをした時に言うオマジナイ。最後のフレーズが"さよならじゃなくてGod
Bless You"優も最後の言葉通り、水生と友達になりたがっているのなら、時間を置いた今ならうまくいくと思う。もし優に新しく恋人ができても、心から笑ってからかって祝福してあげられるように。再開さえ軋轢がなければ。優に嫌われて別れたんじゃないということが、歌詞からもよく感じとれる。それだけ判ったらもう充分だった。来た甲斐もある。水生はもう帰ることにした。だいぶ素直になれた気がする。だから今日会えても会えなくても大丈夫だろう。ただ、学祭前に優に悪戯に動揺は与えたくなかった。実際どうなるかは想像できない。もしかしたらもう暫くG党にこない方がいいのかもしれない。あまり深く考えないで、成り行きに任せてみよう。
「練習の邪魔したくないから今日は帰るね」
「うん、楽しみにしてて」
カオルは少し何か言いたげに、それでも笑って見送ってくれる。部室を出てすぐに雄二が追いかけてきた。負け犬印のファイルを鞄に押し込みながら並ぶ。
「飯行かねぇ?」
「それはいいんだけど、抜けて大丈夫?」
「あぁ、陽一も途中で帰ったし、今日くらいはいい」
しれっと答える雄二に、水生はまだ未練があることを改めて感じた。そう簡単には忘れられないのだろうか。いっそ諦めてしまえたらどれだけ楽だろう。
「なんか色々あったな、夏の間」
「うん、そうだね」
「元気してたか」
「うん、元気だよ」
「そうか。俺も元気だけが取り柄みたいなもんだ」
ぶっきら棒に雄二は誰ともなしに言う。気を使って優しく接してくれているのが痛いほどよく判る。涙が出そうだった。でもここで水生が泣いてしまえば、いい位置関係が崩れてしまうだろう。危ういバランスの上に成り立っている。何度も雄二と二人で歩いた学舎の横を通って、駅へと向かう。狭い歩道には学生達があふれていた。
「あの後、どうだった?」
「・・・・・・別に普通。カオルさんなんか他に言うことないのかっていう位練習練習言ってたな。陽一はいつもの通りマイペース、優も少しおとなしいくらいでそんなに変わらない」
「酒井は?」
一瞬虚を突かれたような表情を見せて、それから溜め息吐いて黙り込んでしまう。少しの沈黙の後に、無表情に呟く。
「判らないな、自分のことは」
「うん、ごめんねヘンなこと聞いて」
「いや」
気まずい雰囲気になってしまう。そのまま当たり障りのない話だけを選んでして、食べ放題の寿司屋に入る。混雑を予想してか、カウンターの隅の席に通される。膝の上と足元にそれぞれ鞄を置いて、酎ハイレモンと生ビールを注文した。正面のお品書きを鋭い目つきで見つめて、唐突に雄二は話だす。指を軽く組んで報道番組のアナウンサーのようだった。
「また前みたいに毎日来いよ。仲良くやりたいし、希望的観測で優とも仲良くして欲しいとカオルも陽一も思っている。みんなで集まった時おまえがいないと、楽しくないんだよ。そんなの寂しいだろ」
困ったような顔で雄二は告げた。一瞬だけ水生の方をちらりと見る。何度か頷いて水生は口元だけの笑みで俯く。
「・・・・・・うん」
水生は膝の鞄に視線を落としたまま、涙の滴が布のトートに染み込んでいくのを人ごとのように見ていた。視界が歪んで瞬きする度に大粒の涙がスローモーションで落ちる。店員が水生の前にグラスを置く硬い音がする。後にジョッキの重い音と伝票の音、そして店員の遠くなる足音。雄二は水生の膝にきれいとは言い難いハンカチを乗せた。ベネトンのカラフルさがぼやけた目に眩しい。拝借して目にそっと押し当てると雄二の匂いがする。急に恥ずかしくなって、水生はそれを雄二に突き返した。と、またその手から引ったくって取り返す。手が触れるのを意識してしまう。
「あ・・・・・・ごめん!洗って返すね」
「そのままでいい」
「ううん・・・・・・ううん」
何も言えなくて、水生は曖昧に笑った。酎ハイに口を付ける。アルコールの熱がのどを通って胸に伝わる。レモンが空腹の胃に染みていく。
「おい、先に何か食えよ。酔っぱらうぞ」
「あー美味しい!」
秋の始めに毎晩のようにマキ社長と飲みに行っていたせいで、少しは飲めるようになってきた。アルコールの味にも抵抗がなくなる。
「大丈夫前程弱くないんだから。酒井も飲め飲めカンパーイ!」
ジョッキにグラスをぶつけてまた飲む。唇に氷が当って冷たい。雄二は目の前を流れる寿司に手を伸ばして、サーモンを取った。タレを付けて一口で食べる。それからビールを飲む。鼻の下についた泡を拭って、水生に玉子をとってやる。気が付くと店内はかなりの賑わいを見せている。本来なら雄二の横には高い皿の塔が出来上がっている筈なのだが、通りかかる度に店員が下げてしまうので何皿消化したか誰にも判らない。水生は面白がってどんどん皿を取る。見ていて気持ちいい位の食べっぷりだ。水生はエクレアを選んでそれを最後にした。二人で四千円弱。これならどの食べ放題でも元をとった気になれる。そのまま吉祥寺に移動して飲み直す。込み合った居酒屋の、またカウンター。間を開けたせいか、水生はもう飲む気分になれなかった。それでも雄二に気を遣ってカクテルを注文する。スクリュードライバーのオレンジ色が目に鮮やかだ。口あたりがいいのでいつものペースでつい飲んでしまって、気付いた時には本格的に酔っていた。唯一の救いはここが吉祥寺であるということだ。あとは歩いて部屋に帰るだけ。
「大丈夫か?」
「んー、もうやめとく。ちょっと気持ち悪いかも」
「前程じゃないにしろ、弱いことには変わらないぞ」
「そうかなぁ、いつももっと飲むんだよホントに」
グラスと皿を脇によけてカウンターにつっぷすと、雄二はお冷を頼んでくれる。赤く熱くなった頬に押し当てると鋭い冷たさが残る。でもそれが心地好い。氷が揺れて軽い音を立てるのを聞きながら水生は何げなく雄二を見た。追加を頼んだばかりだったので、ジョッキにはなみなみとビールが入っている。急いで飲んでくれてはいるものの、雄二も持て余している様子だ。枝豆をつまむ指が機械的に唇に向かう。薄い血色のいい唇。水生は思わず見とれてしまう。またジョッキを傾けて口をつける。水生が今それを飲めば間接キスになると考えていると、雄二が大きな溜め息を吐いた。
「あのなぁ、そんなにジロジロ見られると食べにくいんですが!」
「プレッシャー与えてるんだもーん」
思わず口から出任せが雄二の表情をコミカルなものに変える。ビールを一気に飲んでしまい、枝豆も恐るべき速さでガラだけになった。どうだと言いたげな子供のような顔は、水生にカワイイという印象を抱かせる。
「ゴチソウサマ」
「ゴクロウサマ」
「さぁ、帰るか」
伝票を掴んで立ち上がる。水生もそれに従おうとするが、思ったよりも酔っているらしい。足がふらつくが、そういう風に雄二に迷惑はかけたくないので無理してついていく。店内の半数はサラリーマンだった。割勘で半分を支払って店を出る。
「ふー、熱ぅ・・・・・・」
ゆっくりと歩きながら息を吐いた。雄二は水生の鞄を持ち上げてやる。
「ありがとー・・・・・・」
「さっきは悪かったな、俺の考え押しつけて。でもいつか笑って話せるように頑張れよ」
「うん、あのね、本当のこと言うとね」
水生はこのまま勢いで話してしまおうと考えていた。アルコールの力がある今が一番話し易いのだろう。それに優が悪い風に誤解されたままなのも嫌だ。とは言え、どんな切り出し方をすればいいのか二の足を踏んでいると、部屋の近くまで来てしまう。人通りも少ない。深呼吸して、水生は言うことにした。
「えっとね・・・・・・本当のこと言っちゃうと、優と別れる前にあたし他に好きな人できたの。仕方ないじゃない?そばにいてくれない優が悪いんだもん」
「・・・・・・はぁ?何だよそれ」
雄二は茫然として素っ頓狂な声を上げた。水生の顔を凝視して何度も早い瞬きを繰り返す。これは当然の反応−なのだろうか。
「だから友達に戻ろうって言われた時、同意したの。でもやっぱショックはショックで結構跡引いちゃったんだけど。まさかそんなこと言われるとは思わなかった。でも優も同罪というかこれはもう同類よね、あはは」
「・・・・・・」
「でもタチ悪いよね、酒井のこと好きになっちゃったんだもん。でもなんか今更どうしようもないよね?G党の仲間とはもうダメだよ、付き合えないよね。部外者のあたしがこれ以上和を乱してどーするのっ!って感じ。だからもういいの」
「・・・・・・」
雄二は相変わらず目を丸くして水生を見ている。少しずつ自分なりに理解はしているものの、ついていけないような様子だ。
「あたし陽一君のこと好きになったら良かった、もっともっとシンプルな幸せを得られたかもしれない。カオル君なら凄く凄くいいユメ見せてくれたかもしれない。なんかそう考えたらバッカみたーい。あたしも幸せになりたい。ねぇ、ひとつお願いきいて?あたしのことどーんて突き飛ばしてもー帰れって言って。そしたら多分一週間位で諦められるから。G党にも遊びに行けるよ。いいアイディアでしょ?ね?」
口調とは裏腹な水生の目が雄二をじっと見る。雄二はやっと思考が追い着いたのか真面目な顔で水生を見つめ返す。そしてそのままその唇を塞いだ。
短いキスの後、優しく抱き寄せられる。水生は息をするのも忘れたように口を開けて、されるがままになっていた。大きな手で髪をそっと撫でられる。
「いーよ、別に諦めたりしなくても。俺が何とかする。何とかするから・・・・・・」
水生は瞬間的に酔いが覚めて、両手を力一杯突っぱねた。驚く雄二の手から自分の鞄を引ったくって走り出す。以外に足が速いのか、もう見えなくなる。
「何だよ、あれ」
少し傷付いたような表情で、雄二は呟く。ここで待っていたって水生は戻ってこないだろう。ならいても仕方ない。ポケットに手を突っ込んで引き返す。吉祥寺の夜は賑やかだ。時刻表を見るとバスの出発までかなりある。缶コーヒーを買って、ロータリー横の花壇に腰掛けた。煙草を持っていたなら、何本かを立て続けに吸っている心境だ。手持ち無沙汰に缶コーヒーを煽る。酔いもすっかり覚めた。また缶コーヒーに口をつけた時、ふと水生の唇を思い出して、雄二は人には判らないように柄にもなく照れた。さぁ、面白くなってきた。子供のようにウキウキした気持ちで、雄二は足元に缶を置いた。
第一章 SOUL MAN
第二章 GOD BLESS YOU
第三章 今日が終わる前に
第四章 それでも恋はやってくる
1 夏祭ナツマツリ
2 なつのひと
3 夏の神
4 ナツノヒト
5 夏の男
6 夏の女
7 サマーピープル
8 サマーバケーション